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2026-02-26 1:22:10

#135【和歌山&大和郡山】ザ・ネバーランド天正紀Part3【豊臣兄弟!】

梢は高く、根は深く ザ・ネバーランド天正紀3日目


今回のコースはスペシャル企画!

2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」ゆかりの地を巡る歴史コースです。

ドラマの主人公である豊臣秀長が治めた、和歌山そして大和郡山という2大都市に焦点を絞り、その風土や歴史を詳らかにします。ともに“難治”だった両国の特性を明らかにすると、秀長の手腕やその歴史的な役割も自ずと明らかになり、ドラマを視聴する楽しみもグッと増えるはず!

ドラマのネタバレも含んでいるのでご注意を!


【目次】

〜 最近聴き直しているバンドがあって……

〜 ★歴オタ話★ 秀長が相対した異形の国・大和

〜 秀長が築いた“近世の大和”の象徴 【郡山城跡】

〜 ★歴オタ話★ 秀長の大和統治 近世への力強い転換とその終焉

〜 秀長の位牌を守り伝える菩提寺 【春岳院】

〜 旨みを混ぜ合わせた古代米の絶品カレー 【tabi tabi】

〜 豊臣兄弟に由来する大和郡山の名産 【本家菊屋 本店】

〜 希少な木造3階建ての古建築 【町屋物語館】

〜 奈良絵のあしらわれた軽やかな器 【赤膚焼窯元 小川二楽】

〜 町人たちに偲ばれた秀長の供養塔 【大納言塚】

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ 秀長が生き尽くした“天正” 兄弟二人が夢見た未来

〜 ♪エンディングテーマ:Galileo Galilei 管制塔(acoustic)


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サマリー

このエピソードでは、2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」にちなみ、豊臣秀長の治世に焦点を当て、和歌山と大和郡山を巡る旅の3日目を詳述します。特に大和郡山では、秀長がどのようにして難攻不落と言われた大和の国を統治し、近世的な城下町を築き上げたのかが語られます。秀長は、宗教勢力が跋扈し守護大名が存在しないという特殊な大和の国において、寺社への支援と強権的な経済政策を駆使して統治を進めました。郡山城跡、秀長の菩提寺である春岳院、そして秀長と共に大和に入ってきた職人が始めたとされる本家菊屋本店などが紹介されます。また、秀長の功績は直接的な建物として多く残っていませんが、町屋物語館や赤膚焼、大納言塚といった形で、その影響や人々の記憶の中に息づいていることが語られます。最終的には、秀長の生涯と、彼が亡き後に豊臣家が辿った悲劇的な結末、そして彼らが夢見た平和な世の中が、後の時代にどのように繋がっていったのかが考察されます。

オープニングと旅の概要
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデル構想を紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅が嫌いな旅行ガイドブックの編集者、はるやです。 ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者、うちだです。
最近、聞き直しているバンドがありまして、本当ここ数日なんですけど。 エルレ・ガーデンがね。
最近ね、ノニオって歯ブラシとかあるじゃないですか。あれのCMでエルレの曲を使ってるんですよ。
そうなんだ。知らなかった。
結構前からCMあるんですけど、最近また流れるように見かけるようになって、久々に聞こうと思って聞いてたんですけど、この冬の青空にすごくいいんですよね。
分かりますよ。特徴がすごく分かりますね。
風の日とか、降下船とか、そういうのがすげえ抑制。この冬の空にいいなーと思って。
そういうのを狙ってその企業さんもライオンですか?
爽やかさみたいな感じで、歯磨きの講習の爽やかさみたいな、そういうのでやってんだと思う。
いいっすねー。
なんかそれXでつぶやいしてる。
めっちゃいいなーと思って。
やっぱハマるとね、あの旅と音楽じゃないけれどもね、曲とシーズナブルなところがいい。
改めて聞いててやっぱテンション上がるし、かっこいいっすね。ぜひこの冬の時期に聞いてもらいたいなと。
そうですね。春に迎えようという感じなんだからね。
ということで、今回は梢は高く根は深く、ザ・ネバーランド転生記の3日目ということで。
前日は和歌山の方から大和郡山の方に移動しまして、ホテルは奈良市でやっているということですね。
2日目から追っているこの豊臣秀永が晩年って言っていいんですかね。
この大和郡山をどのように攻略を収めていたのかというのをめぐっていく最終日という感じですね。
それでは3日目よろしくお願いします。
3日目についてはですね、宿自体は奈良市ですね。
中心部にとっているんですけれども、観光自体は大和郡山の中心部をめぐりたいというふうに思います。
なので2日目の夜に行った中谷酒造さんだったりとか、喫茶・喫酒と喫茶さんとはちょっとエリア被るんですけれども、
今回は昼間の間の観光で最後京都駅から帰るという感じにしますので、そんなイメージでいてください。
豊臣秀長と大和の国の特殊性
なのでですね、奈良市のことは、いずれ奈良市は奈良市だけど絶対ちゃんとやりたいと思っていますので、ちょっと1回飛ばしちゃいます。
朝ごはんを食べたというふうに想定をして、9時頃に宿をチェックアウトしましたら、今回関東から来る方のことも考えて京都駅に最後戻りたいので、京都駅は近鉄の方がいいんですね。
なので宿をチェックアウトしたら15分ほど歩いて近鉄奈良駅に行ってください。
近鉄奈良駅からは近鉄奈良線というのでだいたい6分ほど行くと大和西大寺という駅があります。
この大和西大寺が要は近鉄のハブになってるんですね。
なのでここで1回乗り換えていただいて、今度は近鉄柏原線というものに乗り換えていただいて、8分ほどで近鉄郡山の駅に着きます。
近鉄郡山が観光の拠点としては一番アクセスが良いのでここがいいかなというふうな感じですね。
近鉄郡山で再び郡山の中心部に戻ってきましたら、ここからいよいよ歴史の観光の方に入っていきたいというふうに思うわけです。
そしてここで秀永の話も復習しておければと思うんですけれども、豊臣秀永はそういうわけで秀吉から3歳か4歳か離れているあたりの弟。
お父さんは一緒だったかどうかわかんないけれども、お母さんは一緒だったわけですね。
すごく地味な役割だったんだけれども、兄の補佐役、裏方として常に温厚な特実な人柄でもってことを収めたりして、
一方で軍事指揮官としても兄がいないところの別胴体を率いていたりとか、彼の代理ということで確実に領籍を積んでいった。
奇襲攻めの時においても主力として活躍して、奇襲という非常に難しい地域においては和歌山城を築いて、
あとは刀刈りとかも実施したりとかっていうことで、確実に中世の社会から新しい日本へという転換点に立ち会った人物だったわけですね。
ちょっと昨日秀永の話最後の方で話したんですけど、おそらく教科書的に見た時に秀永の一番大きな活躍のシーンというのは四国攻めです。
四国攻めは秀吉がいない状況で秀永が総大将になってやったことで、それを成功させたというので、これが非常に大きな功績だったわけですね。
秀永が長足場を下して四国攻めを完遂した後に、その恩賞が与えられました。
その恩賞として与えられたのが大和の国だったんですね。
これ大和の国と今の奈良県です。
つまりこの時点で秀永は大和、紀伊、そして泉、これは今の堺のあたりですけど、泉のうちの大体実際半分ぐらいだったと言われてるんですけど、
とにかくこの3つの国を治めていて、もともと大和には辻石っていう人がいたんですけれども、
この辻石は大和を追い出されて、追い出されて移し替えみたいな感じで、隣の伊賀の国、伊賀忍者の伊賀ですね、今三重県です。
に移動になって、この伊賀の辻石も実際秀永の古文みたいな感じになって、要は近畿地方の南一帯が秀永の持ち物になったんですね。
そうなると、日本地図を思い描いて欲しいんですけど、兄の秀吉は大阪城を本都にしながら、京都にも本拠地をまた別途持って出したので、京都大阪の経済圏の生命線に政権を回していた。
それをバックで地形から見ても奈良、和歌山っていうところで下から支えて、何かあったらすぐに逮捕できるようにっていうところで、一番信頼ができる弟の秀永を置いたんです。
だからこの政学上に見ても、やっぱり秀永の存在っていうのは秀吉にとってどういうものだったかっていうのは、よくわかるんじゃないかと思います。
ところがですね、この大和の国というのが実はかなりの癖物でして、これは日本の歴史上、日本全国の中でも唯一の特別な国だったんです。
これ何かというと、一言で歴史用語的に言うと、守護大名がいない国だったんですね。
守護大名というのは鎌倉時代守護、室町時代守護大名ってなっていくんですけれども、要はその国を鎌倉幕府、室町幕府とかの制度上にとって認められて、
その国を軍事的に管轄する人もいれば、戦国時代とかになってきちゃうと、そこを実際自分の領土にしちゃって、支配の根拠にする人たちですよね。
これまで出てきた人たちで言うと、貝の武田家、武田信玄は貝の国の守護大名に生まれてるので、室町幕府的に見ても絶対的な正当な権利を持ってるんですよ、支配する。
越後の上杉は、もともと長尾って言ってた、あれは守護大名の代理を務める守護大っていうのがあったんですね。
守護は上杉だったんですけど、その長尾が上杉にとって変わったみたいな話。
で、後は出雲の天子っていうのも守護大でした。あれは守護峡谷っていうものだったんだけど、それを取って変わっちゃったみたいな。
守護大が守護を取って変わるみたいなことが結構頻発して、これが下告状だった。
でもその守護大ですらなかったのが斉藤道さんであり秀吉だったわけですけれども、そういった人たちがいた。
で、じゃあなんで大和の国にはこれが置かれなかったのかということなんですけれども、これは大和の国というか特殊な事情が関係してます。
今を本当に思い出してほしいんですけれども、今の奈良県っていうとどんなイメージを持ってるかっていうと、おそらく大体の人は東大寺の大仏さんだったり、歯科だったりとか、要はお寺を思い浮かべると思うんですよね。
で、鎌倉室町時代とかっていうのは、この宗教勢力であるお寺とかっていうのは、守護婦女と言いまして、要は守護大名であってもここには手出しできないっていうのが上等だったんですよ。
つまり、だから寄宿もめんどくさかったんですよ。あそこも寝頃寺だか高野山だか去り上りのね、一向寺もいるわで。
地域の中に宗教勢力の強いのがいると、そこには大名徳武士でも勝手に手出しちゃいけないっていうのはあったんです。
で、そうすると税金を徴収するのにも苦労するし、いざ徴収しようとすると触り始めるんですよ。それが三河の一向寺でイエスは痛い目を見たわけですけれども。
っていうのがあったと。
で、大和の国につまり守護を置いたとしても、幸福寺、東大寺、法隆寺、薬師寺みたいなもうキラ星のような寺がいっぱいありますから、六里支配ができないんですよここ正直。
治めたところでもう名ばかりの守護になっちゃって全然ダメなんですよ。
で、あればむしろどっかのお寺にそれぞれちゃんとお寺の領事を管轄させて、守護大名を置かない代わりに寺がちゃんとそれぞれ自分たちでちゃんと税金を納めなさいというふうな特殊なことを覚えたんですね。
つまり日本全国60何首の中で大和の国にだけは守護大名が置かれず、その代わりを務めていたのは幸福寺だったんです。
幸福寺今奈良にありますよね、世界遺産になっておりますけれども、あのお寺が藤原市のお寺なので強かったんですね。
幸福寺っていうただのお寺が守護を務めてたっていう異常な国だったんです。これが大和の国の中世なんですよ。
なるほど。
京都の山城の国ですら守護はいたのに、大和の国はいなかったんですよ。
うーん。
お寺が統治をしてるってなると、土地渡したからってなんかできないよね。取って変わるってことができないわけですよね。
そうそうそう。だからある意味平和ではあったと思うんですけど。
はいはい。
けど仏教は仏教同士で、いろいろと揉め事が多いんですよ。
はいはい。
生寺は共和国に近いような状態だったんです、そこもそこも。
そうすると、じゃあ幸福寺廟、東大寺廟の省園が揉め事になって、どっちが水が引く権利があるのかとかってしょっちゅう揉め事を起こしているんです。
だけど守護大名がいないから、それを武力で制圧するやつがいない。
ってなると、お寺同士揉め事が起こって、でも寺も武装してるんで、
怒った寺が双兵みたいなのを山から下ろし始めて、またそこで騒乱が起こるみたいな。
そんなことばっかりでしたね。
なるほどね。そこに手出しができないっていう。
けど中世の精神的とか社会的な常識として、お寺とかには基本的に手出しができないんです。
それを手出ししちゃったのが信長なわけですけど、だから革命的なんですよね。
比叡山遠徳寺を焼いちゃったとか、あるわけじゃないですか。
だから徐々に徐々に鎌倉、源頼朝の時代から、そういう特権的なものがあったものが崩れそうになっている。
信長とかの出現によって。それがこの秀永が生きた時代なんですね。
なるほどね。
ただしこの大和の国っていうのは、それであっても特別の特別なので、
要は宗教勢力がたくさん根付いていて、超強い力を持っているのが、
大名が治めて統治するっていうのは、まず不可能なんじゃないかっていうふうにもはや思われるようなところなんですよね。
これを統治しろってミッションを与えられたのがやっぱ秀永だった。
なるほどね。報酬でもらったのに、また難題を渡されてるわけ。
そういうことです。
はあ、苦労が多いね。
苦労が多いです。
ただ逆に言うと、やっぱりそれだけ信頼ができるっていうことだと思うんですよね。
だしその調整能力とか、あと紀伊である程度うまくいってるっていうのもあって、
かつ大阪に近いってのは秀氏が一番懸念したところ。
大和とかをつついをつついでいいんですけど、こんなに与えて裏切られてもしたら大変なんですよ。
だいぶ絶対に裏切られない人たち、かつ調整能力に長けて統治がうまく政治がうまい人ってだったらもう弟しかいなかった。
これが実情であり豊臣政権の限界だった。
今回だから最後の政権が周辺に向かっていくちょっと暗い話に最後になっていく。
ということで秀永は四国全面終わった後に和歌山城を築いて紀伊を治めるのも早々に、紀伊を治めるのを進めながら大和に入らなきゃいけなくなったりした。
そして和歌山城を築いたんだけど、信頼できる過労みたいなのをそこに置いといて、自分は大和の統治を本格的に開始します。
秀永が入ったのがこの大和氷山だったんですね。
郡山城跡と秀長の統治
そして今回の旅の目的地になるわけですけれども、金鉄氷山駅から徒歩10分ほど北の方に行っていただいたところにあるのが氷山城跡です。
なんかシンプルで綺麗だね。桜もたくさん咲いててね。
これ桜の名所として非常に有名なところですね。
日本桜名所100選にも入ってる。
ここはすごい綺麗です。この氷山城今ね、すごいシンプルでなんか綺麗だねって話あったと思うんですけど、今はね天守閣がもう残っていなくて、これ見えてるのは矢倉なんですね。
あーなるほどね。
かつ秀永の時代のものではもうなくて、秀永が死んで豊臣家が滅びた後に江戸時代になるとね、ここ柳沢家というものが治めます。
これあの中心蔵とかでよく出てくる柳沢義康っていう出世したね、徳賀綱吉の時代に活躍した老中ですね。
彼の子孫がここに入ってくるんですね。で明治維新まで治めました。
なので大和氷山は今もねやっぱり柳沢の城下町っていう性格の方が本来は強いんです。正直言って。
だけど今はやっぱり秀永にね、ドラマの関係でやっぱりやってますけど。
なのでこの今の柳沢とかもあくまでも江戸時代のものですから、秀永の時の面影がこのままかっていうと違うんだけれども、場所としてはね、秀永はここに間違いなく大きな城を築きました。
でそもそもはさっき言った筒池っていうのが大和を治めてたんですね。
治めてたというかこの氷山あたりを治めていて、一番大和のそのもうよくわかんない宗教勢力とか神宗侍とかいっぱいグチグチしてる中では一番筆頭角として見なされていた人。
ああそういうことか。
過労死で信長と秀吉に認められてた人なんですよ。ただこの筒池っていうのも名前が筒池純正とかっていうのはわかる通り、広福寺の坊さんなんですね、この人たちはもともと。
なるほどね。
だから筒池は筒池で結構がっつりいい政治をしてたって言うんですけれども、広福寺のしがらみとかが逃れらんないんですよ。だってそもそも広福寺なんだもん筒池は。
で彼が新しい拠点として少し奈良から離れて近世の城下町を整えようとしたのがこの郡山の始まりです。なので最初に郡山城を築いたのは筒池純正だったと言われています。
けど筒池は30そこそこで死んでしまって養子の貞継っていうのがいたんだけれども、こいつが要はまだ全然万弱じゃないと子供で。っていうんで大和から伊賀に国害になってそこに秀永が入ってきたっていうのが一応今の時系です。
なので秀永は当初は筒池純正が築いた郡山城に入ってきてこれを大拡張工事をしたんですね。これをやっぱり天下で言っても2番目か3番目に地位の高い代名になるわけなので、秀吉の弟ですからっていうんでそのちゃんとした城下町に整えましょうと。
そうかそうか。 いわば秀永が治める山と木、泉の首都としてこの郡山をやらなきゃいけないので大々的に拡張をしました。なので今の郡山の町の原型というのを作ったのはやっぱりこの秀永なわけです。
今郡山城に行っていただくとほとんど建物は残っていませんので実際は秀永時代のものもあるであろうただ江戸時代のものが多い石垣ですとかゴリとかただやっぱりすごく大規模な城郭なのでやっぱり秀永が相当な力を入れたっていうのはおのずと伺えると思います。
天守台っていうのも残っているんですがここからはね大和の奈良盆地の風景とかも一望できるのでやっぱりこの大和の国を治める上ではねここをまあそれこそやっぱりシンボル的に位置づけたんじゃないかなという感じはしますね。
この眺望のね夕焼けの写真もね綺麗ですね。 そうですね。これは以前やったね大宮神社の方をまさに見てるわけですね。
岩山の方を見てますね。であとはね柳沢文庫っていう城下もこのお城の中にあります。これは今言ったように江戸時代に柳沢家というのがまあ藩主になりましたから彼らの残したまあお宝物ですとか行跡というものをメインにやっています。
なので秀永の損してるところなんですけれども和歌山も郡山もね統治したのはすごく短期間だったんですよ。で和歌山なんて城を築いて江戸時代やろうって言ったところで郡山に移動になっちゃってる。
で郡山もせいぜいまあ10年もいないくらいなんですよね。のうち亡くなっちゃうんですね秀永はね。でその後の300年の歴史のがよっぽど長いので秀永の存在っていうのはねどうしてもそのね忘れ去られていってしまう。豊臣時代も滅びちゃうし。
いやそうだよね。それが切ないよな。 切ないところですね。だからいつも脇役なんですよ。それがだから今回ドラマはビックリなんですけど。なので柳沢文庫もここはすごい良い修行感なんですけれども秀永のことというよりは柳沢家のことなんですよ。ただもちろん秀永についても言及はされています。
という感じのことです。ここでねなので一般的な観光になるわけなんですけれどもこの2026年においてはですね大和郡山が要は大河ドラマの聖地になります。大河ドラマというのは毎年そのゆかりのあるところに大河ドラマ館っていう観光施設が1年限定でできるんですね。
で今回この秀永のは大和郡山っていうランディングページすごいこだわったページがね出てますけれどもこれがね2026年3月の2日から大和郡山城ホール1階においてこの大河ドラマ館が設けられるということになっています。
で大和郡山城ホールは郡山城からすぐ目の前市役所のすぐ近くなんですけれどもなのでこの郡山城を行っていただいておよそ城の様子を見てもらってからあるいはその前でもいいんですけど城と一緒に見てもらうというのがいいと思います。
大河ドラマファンの人はぜひねここもあの今回僕は未知の世界なので言えないんですけれどもここは絶対行ってもらった方がいいと思います。
こんなの毎回作ってんのね。 作ってます作ってます。
キャストの方のサインとかもちろんあるしあくまでもドラマ館なのでねドラマの登場人物の紹介だったりとかシアターだったりあとはもちろん郡山の歴史に関してもあるので今年1年のね2026年限定になりますからぜひねこのドラマと一緒に合わせてみてもらえるといいと思います。
秀長の統治戦略:飴と鞭
でここでまあね秀永のその後の後半戦についてちょっと話をしていかないといけないんですね。
秀永は大和の国に入ってこの郡山城に入りました。ただ言った通りこの大和の国っていうのはある意味では紀伊の国以上にね治めるのが難しい国だったわけですよ。
その宗教勢力がいっぱいいてかつ710年からの都ですから平城京だけでいってもねそれまでからも奈良ずっとあったでしょ。
その最下とかはねじ伏せればいいのもあったけどそれができないってことですね。
そういうことです。宗教勢力をねじ伏せると当然反発もすごいですし奈良の人たちの心は離れてしまいますよね。
それを引いては豊臣県全体に対する演算になりますから秀永としてはそれ絶対できない。だから波の代表者できないんですよこの大和の統治って。
でどうするかってことなんですけど秀永はねまあシンプルに言えば飴と鞭を結構使い分けたんですね。
まずじゃあ飴の話からすると当時は戦国時代の終わりですよ。でさっき松永久秀の話ちょっとしましたけれどもああいうの出てきちゃって東大寺の大仏殿さえ焼かれるような時代ですよ。
つまりもうそういう常識の通じない奴らが出てきちゃって戦乱が凝りないと。で田畑は荒らされるはもちろんだけれどもお寺とかもどんどん焼かれちゃうわけですよね。
ってなってどんどん貴重な遺産も失われてしまったわけですよ。でここでようやくただ豊臣家っていう統一政権が出来上がったわけですから。
かつ秀永とか秀吉っていうのは金の使い方も上手かった。秀永はね死んだ時に大和氷山城の中にとんでもない額のお金が貯まってるってみんなをびっくりさせたらしいんですけど。
要はバックオフィスの天才だったんですよ。だから金をめちゃくちゃ持ってたの。こいつは。ケチだというふうに批判もされたんですけど。
でもその金を何に使ったかというと、要は困ってる社事、春日大社の幸福寺もそうですけど。そういったいろんなところの神社とかお寺の復興費用とかに出してあげたんです。
要はようやく戦乱の夜が終わる。これでちゃんと整えることでお寺としても蘇ってくるとか。その復興手助けしちゃう。
というのを補償してあげた。あるいはこの寺を焼いちゃいけませんみたいな。すごく当たり前なんだけど。その当たり前がまかに通らないのが戦国時代だったわけで。
寺を焼いたら秀永に逆さがるので成敗しますとか。あとは当時は秀永の文書とか見てると大名の家臣の下っ端に悪いやつがいっぱいいて。
農民たちに秀永の名を語ってゆすりみたいなのをしてるやつがいっぱいいたそうなんですよ。 嫌なやつだな。 寺とかにも。そういうのは秀永の印鑑がないとそいつら偽物だからすぐに突き出せということを言って家中の統制も図った。
要はもう弱い者いじめが当たり前だった戦国時代っていうのを精神的な部分で終わらせようとしたっていうのがあったと思う。今から見れば当たり前なんですけどね。
当たり前を当たり前にしたっていう感じですね。 要は統一政権ができないと何が困るかって治安維持ができないんですよ。 ああそうだね。
降伏者降伏者の言い分がある。法隆者法隆者の言い分があるというとどっちもどっちって寺同士でバチバチやってると困る。誰かがそれを強力な権力で沈めないといけない。
けど絶対に争いが起こらないようにしなきゃいけないっていうのが今でいう金星社会における統一政権の意味なんですよ。大和も金もそれを持たなかった異常な国だった。そこに秀永ってのは初めて出現したんですよ。
なるほどね。それと同時に神社お寺に対するサポートもしてあげた。 そういうことで奈良の人たちにとってもようやくこの都が戻ってきたというふうになってくるわけですよね。
ただ秀永は本当に短期間で統一政権が終わってしまったので、奈良の今の神社とかお寺のほとんどは江戸時代にね、徳川家康の時代とかにやったものがほとんどです。
じゃあ一方でムチは何をしたのかということなんですけど、この彼に与えられたミッションっていうのは、要は奈良っていうものの既得権益を破壊するところも大事なところだったんですね。
つまり当時の奈良っていうのはヤマトってどういうことだったかっていうと、もう自社の勢力とか入り乱れちゃってるからまず土地とかもう揉めることが多すぎると。
あとは商売、もう結局自社とかでつるんだ商人たちが独占的にこうやっちゃってて、経済圏がブロック経済みたいなのが出来上がっちゃってるんですよ。
ヤマトの国というよりは奈良っていう街全体でそれが行われちゃってるから、こいつらがいると結局ヤマトの国全体が、あるいはヤマト、キイ、大阪とかっていうこの豊臣政権っていうものに全然間口を開かない状態になってる。
これをどうにかしなきゃいけないと。経済流通の仕組みを破壊して立て直すことっていうのが結構大きな課題だったんですよ。
大変じゃない。
大変ですし、ものすごい反発も食らうわけですよ。
ただこれはその秀中のある意味怖いところでもあって、これやっぱり武士なんですよ。武士じゃないのに武士なんですけど、ある意味では力に物を寄せ、強権です、はっきり言って。
発動して、ヤマトの国における商売はヤマト、氷山、城下でしかやってはいけないっていうとんでもないことを言い始めたんです。
強権です本当に。今の奈良市でやってる商売は全部停止しろと。
今からは氷山がヤマトの国の首都になって、氷山でやることによって和歌山だとか大阪、京都っていう豊臣兄弟が治めているこの経済ブロックに組み込まれるんだと。
奈良だけでやってんじゃねえっていうことをいきなり言い始めて、今このある意味ベンチャーな街である氷山に集まってくれば、あなたたちの商売っていうのは一生保障されますと。
秀中がいる限り絶対保障されるんですってことを言い始めて、奈良の人たちは真っ青ですよ。
けどこれ奈良市の既得権益を苦々しく思っていた奴らは、ここぞとばかりに氷山に集め始めて、秀中におけるこの武家政権の保障された商売っていうのを急にやり始めた。
秀中はそれをもう約束していますから、独自の経済政策を行いました。
これはつまり落市落座みたいなことをやったんですね。
つまり氷山に来た人たちは、もう商売その分野に対しては独占していい、早い者勝ちだっていうふうに言い始めたんですよ。
だからお酒とか何でもいいんですよ、何でもいろんな商売ありますけれども、彼らは氷山に最初に秀中に認められた人が、もう実際大和のこの経済を流入れるみたいな保障になったんです。
っていうぐらいに新しいのをバックアップすることで、既得権益を実質に削いでいこうとした。
いやでもなんかちょっと再生産な気もしちゃったけどね。
それまで奈良市の方で独占されてて商売がなってたわけだよね。
それをなくすために氷山に移して、そこで最初にその商売をやった人だけに商売権を与えるわけでしょ。
そしたらまたここで独占になっちゃうんじゃないって思ったわけだけど今。
ある意味はそうなんですけど、大きく違うのは、奈良市における今までの商量っていうのは、バックにいたのは誰がそれを保障したかっていうと寺なんですよ。
そうじゃなくて豊臣政権に忠実なものが結局儲かるっていうその構造を変えたんです。
なるほど。
だから確かにこの経済政策の難しいところは、要は幸福児が氷山に変わっただけじゃねえかと一面では言えると思うんです。
けどそれが中世から近世の転換なんですよ。
特に大和の国においては舎児勢力っていうものが国を牛耳っていたのが中世の大和だったんです。
それが武士、豊臣っていう武器が入ってきて、彼らの下でもう一回再統合されるんです。
経済とかその仕組みが全部。
そうかそうか。
それが近世の大和の国なんです。
そうか。だから目的がそれだから、もう元々のそのお寺の勢力を削げればそれぞれOKなわけね。
そういうことです。
同時に刀狩りみたいのも当然やってますから、武装解除も進めるわけですよ。
だからあくまでも豊臣秀長を頂点とした大和の国っていうのに全部再編したんです。
なるほどなるほど。
それで統治しやすくしていく。
そういうことです。
それによって豊臣政権っていうのを万全化にしようとして、ある程度はそれは成功しているわけです。
結局だからそういう武装解除も進める、一方で経済の仕組みも変える。
文化事業としてはちゃんとお金を出して保証してあげるんだけど、余計な権力はもう出せなかった。
ということで大体その既得権利を解体していった。
なるほどね。
これがだから多分価値的なんですよ、すごくね。
そうかそうか。
そういうサポートももらってるから、社税側としては。
なんかどうなんだろうね、気持ちとしては複雑だろうけど、あんま強くは言えないっていう感じになってくるわけね。
だからね、その複雑なのは当時の日記もすごい現れていて。
多聞印日記ってこれ一時資料で筆豆の坊さんがいたんですけれどもね、彼がずっと日記を書き続けてるんですが、
秀永が偉いみたいなことも書いてる一方で、秀永が鬼畜だみたいなのも書いてるんですよ。
だから俺たちもなんだと思ってるんだと思う一方で、揉め事がなくなったのもまた事実だと。
それがリアルだったと思います、奈良の市民と。
なるほどね。やっぱり両面の気持ちが生まれてくるわけだね。
そうですそうです。だから秀永ってのは非常に批判的に描かれる時もあるんですよね。
気に食わなかった人たちもたぶんいっぱいいたんですよね。
それが時代が変わったっていうことだった。
それはキイの国においてはサイカ州っていう謎の武士たちの集団共和国だった。
大和の国は宗教王国だった。
この忠誠っていうこの時代何百年の間誰も手出しできなかったこれを解体して、
近世って他の国と一緒の国にしたのが秀永だった。
これが彼の日本史における一番大きな功績だと思うんです。
なるほどね。
だからすっげえ地味なんですよ。戦いとかじゃないんですよ。
そうだね。勝って領土を手に入れて統治したみたいなことじゃないからね。
ないんですないんです。社会派ドラマなんですよ。だから。
ガチでやろうとするとね、秀永をやろうとすると。
日曜ドラマみたいなことになるんじゃない?
そうですそうです。だからそのフックに僕は松永久秀が最初から出てくると思うんですよ。
大和の国がいかに難しいところだったかっていうのを最初から印象づけておくために松永久秀が出てくるんじゃないか。
なるほどね。
確かに地味なんだけど、必要な出来事というか。
そうですそうです。
地味に偉大っていう感じだね。
地味に偉大。それが全てですね。
秀長の最期と豊臣家のその後
ところが秀永というのは、1585年くらいから和歌山だったり大和郡山を治め始めるんですけれども、
もうその2、3年後からは早くも病の兆候が見えていました。
彼はまだ50に行かないくらいだったんですけれども、この頃から徐々に有馬温泉の中に通い始めたりして、
何かしらの病気を患っていたのは間違いない。
ただその一方で九州征伐、これ島津を懲らしめるためにやったわけですけど、これにも出陣して功績を挙げていて、
島津の人たちも島津を下したの秀永なのに、島津は秀永を頼ってまたトヨタミトのパイプを持ったりしてるんで、
その主に西日本の大名たちはみんなその秀永とのパイプで持って政権に参画してる。
秀氏はその頃なんで西日本をほったらかしたかと言うと、彼は最後の敵を倒しに行かなきゃいけなかったんです。
東に天下統一の最後の勝敵があったんですね。それが小田原です。小田原法上。
これが最後の敵なんですよ。つまり秀氏は東へ目が向かってるんです。
大阪、京都を担保しつつ、最後は法上のバックでうるうる蠢いてる徳川だとか伊達だとかっていうのを完全に屈服させなきゃいけない。
それが彼に残された最後のミッション。
けどそれをやるためには西日本の人たちをつなぎ止めておかなきゃいけないから、秀氏の背中を秀永が受け持ってたんです。
だからこの兄弟の奇跡なんですよ。それがただ農民の子供だったっていうのは信じられない日本史の奇跡なんですよ。
確かに。
だから戦乱が起こらなくなると秀永って補助するんですよね。
なるほどね。 後勝利なんですよ、彼がやったの。
ただ言ったようにそういった激無なわけですよ。
つまり大和氷山でその奈良の人たちとバチバチにいろいろやりながらも奇襲は最下がよくわかんないことやってるし、いつか起こってるんだよね熊野のほうでは実際この頃。
結局やっぱ反発する人がいて。
一方で自分は秀吉から九州成仏やるって言われるし、成仏したら成仏で島沢でなんかよくわかんないこと言って、なんとかなりませんかみたいなこと言ってくる。
毛利は毛利で手紙も送ってくるし、氷山にも来たいって言い始める。
っていうことをやってる。佐賀の鍋島だってそれですよ。
って言ってだんだんだんだん秀長は体調を崩していってしまった。
押してはかるべしってことか。
そういうことです。徐々に秀長が表舞台に立つことがだんだん減ってきた。
豊臣秀吉はついに1590年小田原攻めを行います。
天下統一の総仕上げですね。
しかし秀長はそこには出陣しなかった。
というかできなかった。
もうこの頃には病が相当重くなっていたと見えて、山戸氷山城に引きこもってここで療養してたんですね。
名目上一応近畿の留守役ということで留守番だったんですけれども、秀吉は本来であれば最後は秀長と出陣したかったんじゃないかって気もします。
だって彼らが夢見たその二人で農民の子供として兄弟として生まれた最後の仕上げ。
天下統一っていうのを二人で見ることができなかったんですね。
それだけ激無視してたらしょうがないなって気もするけどね。
そうですね。
ただちょっと惜しい部分ではある。
それで結局90年の7月に小田原は開城しました。
ほうじょうじまさが節迫して小田原ほうじょう社を滅んで、これで一般的には天下総武士、すべてのことがなくなった。
天下統一ですよね。
というものが成し遂げられた。
秀長はその時は元々まだ生きていましたから、もちろんその天下統一になったところは見られたんですけども。
しかしもう彼が本当それを見届けるようなタイミングだったんですが。
1590年7月に小田原攻めが終わった後、その半年後ですね。
1591年の1月に大和氷山城でね、51歳で亡くなったというふうに言われてます。
まあまあでも一応見れては良かったかなって感じだね。
そうなんです。
これで終わればハッピーエンドだったんですよ。
まだあんの?
要は秀吉の孤独なんですよね。
こっから先の豊臣政権。
なるほどね。
彼は天才でしたよ。
天才で革命家だったんですけど、結局秀吉というものは腹を割って本当に話せる相手って多分ほとんどいなかった。
奥さん、ねねさんというのは総工の妻ですから、お互い秀長とほぼ似たようなもんですよね。
ファミリーなんですけど、彼の一番の泣きどころは子供に恵まれなかった。
ああそうか。
実は秀吉には若い頃に一人子供がいたっていうのは最近の研究でわかってるんですけど、若くして死んでしまった。
武警だったら強力な一族っていうものが基本を支えるわけですよ。
けど農民野外の秀吉にはそれはいないんですよね。
そうか。
唯一いた一族が秀長だったんです。
秀長も実は子供にもほとんど恵まれなかった。
この兄弟の一番の福はそれだったんです。
なるほどね。
ただ秀吉にはもう60くらいになってから待望の息子が生まれたんだけど、それもすぐ死んじゃったんですね。
秀長とほぼ同じ時期に。
だから仕方なく自分のお姉ちゃん、これ秀長のお姉ちゃんにも当たるわけですけども、お姉ちゃんの息子の秀次っていうのを養子にして、
こいつにもう自分の乾白っていうすごい役職も授けて、こいつに後を継がせる老いっ子でなんとか妥協しようというふうに思っていた。
ところがこの秀次というのがあまり出来が良くなかった。
っていうので先行きが不安だった。
でもそれを秀長がいたから、まだ秀次も秀吉とバチバチなりそうな時も、親子喧嘩なりそうな時も秀長がおじいとして入って仲裁も出来たんですけど、
その秀長が先に死んだんですね。
ということから豊臣家には安穏が立ち込めていく。
ちょっとこの辺りの話はまた後でエンディングの時にしようかなと思うんですけれども、ただそれが一旦秀長の生涯というのでした。
秀長の菩提寺と遺品
この大和郡山城は秀長にとって終焉の地でもあるんですね。
ということで秀長が亡くなってしまったわけですが、大和大名言と言われたほどの巨大な大名でしたので、当然ちゃんとお墓も作られたわけです。
郡山城跡から徒歩5分ほど町の方に戻って行ったられたところにあるのが春学院というところです。
春の何々竹とかっていう山の額というやつですね。
の院と書いて春学院。
これは秀長の皆名から取っている名前ですね。
つまりここが豊臣秀長の遺廃を今収めているところで。
これは秀長が死んだ後、弟に先立たれた秀吉の職というのは目を覆うばかりなんですけれども。
秀吉もさすがにすごいちゃんとしたお寺を作ったんですよ。
ところが歴史の結末として皆さんご存知の通り豊臣家は間もなく滅びてしまって、徳川家の天下になりますよね。
大和郡山も徳川の大名が収めるわけなんですけれども。
その中に東道高虎という人がいて。
これ有名な戦国武将なんですけど。
後々伊勢と伊賀の2カ国を治める巨大大名になって明治維新を迎える大名なんですが。
彼はもともと秀長に仕えていたんですね。
秀長が死んだ後に徳川の方に近づいていったっていう武将で最後生き残ったんですけど。
やっぱり秀長に対しては非常に恩義を感じていたと。
でも徳川のようになると豊臣っていうのは前の政権ですから。
だんだん扱いが雑になるのは目に見えていたから。
秀長のお墓っていうものを自分が管理目の届きやすい京都に移したんですね。
京都の大徳寺の方にそのお墓を移しちゃったんですよ。
でも郡山にも何かしら残しておかなきゃってことで。
遺廃だけはこの春学院に残しておいたんです。
なので今も春学院には秀長の遺廃というものがあります。
武将自体は京都の大徳寺の大公院というところで今治められてます。
なので春学院さんに行っていただくと。
小さなお寺ではあるんですけれども秀長の遺廃。
あと秀長の木造と肖像画というものもここに安置されています。
肖像画だと江戸時代に描かれたものなのであくまでイメージかもしれないんですが。
やっぱり大和郡山の人々の中でも秀長の足跡っていうのは確実に根付いてはいて。
そういった人の心は思いやられるのかなという気がします。
まあやっぱ見てる人は見てるって感じだね。
そういうことですね。
ただちなみにこの春学院さんね。
僕も7年前行った時に行ったんですけど。
今回久々に訪れようと思いましたら大河ドラマがこういうわけで決まったわけですよ。
っていうんでめっちゃ大工事中でした。
本土とかが募集とかが必要だそうで。
クラウドファンディングでもう急ピッチで詰めて何とか年末までに間に合わせるとおっしゃってました。
1月を修理完了した状態に迎えるというんでどうなったのかちょっと気になるところなんですけれども。
間に合ってほしいんですけど。
まあ位配があるってなるとね。
万全の状態でお迎えしたいんだね。
そうだと思います。
通常はこれね事前予約とか。
あといえば何かそういうオープンする日にしか見られなかったと思うんですよ。
7年前は。
だけどたぶんさすがにこの豊臣兄弟がやってる間は公開するんじゃないかと思いますね。
なので詳しくはね山本郡山氏さんのホームページとか春学院さんのちょっといろいろ見てほしいんですけれども。
おそらくこのポッドキャストが配信されている時点では公開が間に合っているはずなので。
そうすると秀永さんの位配だったりとか。
秀永残した資料みたいなのがあるんですけど。
そういうところも暗示されてますので。
おそらく秀永その人の足跡を知る上でここはマストのスポットになるんじゃないかというふうに思いますね。
前半で秀永の話終わっちゃったんですけれども。
昼食:たびたびのスパイスカレー
ちょっとお昼ご飯を食べたいと思います。
春学院さんから徒歩7分ほどのところにあるのが。
たびたびさんです。
かわいい。
カエルのキャラクターがいますけど。
これはカフェって感じですかね。
スパイスカレーの専門店です。
すごい本格的なカレーですね。
このたびたびさんなんですけど。
僕もね最終日日常の昼に食べてきたんですけど。
すっごく美味しいですここ。
僕スパイスカレーってこんなに感動したの初めてかもってくらい美味かった。
めちゃくちゃ美味しいですこのカレー。
すっごい美味しかったここ。
なんで美味しいかっていうのはもちろんあるんですけど。
いろいろあるんですけど。
僕5種類の混ぜ合わせカレーってのを頼んだんですね。
これ確か1種類か2種類から2,3,4,5って料金に応じて増やせるんですよ。
5種類になるとキーマカレーとかもついてね。
それを混ぜ合わせながら食べるっていうのがオススメの食べ方なんですけれども。
実はね辛くないんですそんなに。
スパイスカレーっていうとね結構下に残るね。
辛みとかが強いのかなっていうイメージはありますけどね。
なんですけどここはね辛さも感じるのはもちろんあるんだけれども。
全体的にはすごくまろやかで。
スパイスカレーちょっと苦手というか自分にはエスニックすぎて合わないかと思っている人もここなら安心です。
とはいえ市販のカレーと全然やっぱり違くなって。
香辛料とかのその旨味と深みっていうのはすごくまろやかに溶け合っているんだけれども。
全然負担を感じない。
お腹とか汗というか感じない。
だからカレーが超好きって人にもしかしたら物足りないって思うかもしれないけど。
僕はすごくこのカレーは好きでした。
すごいね種類も豊富そうですしね。
そうなんですよ。
あともう一つ美味しさのポイントっていうのが大きいのがあってお米なんですね。
ちょっとお米見えますかねこれね。
雑穀米ですね。
そうです。これいわゆる玄米とか古代米とかってものをブレンドしたオリジナルのお米になっているんですけども。
これがねめちゃくちゃ美味しい。
なぜかというと味がどうこうというよりも食感がいいんですよ。
カレーのルーのこう滑らかな感じの中に時々現れるこの玄米のプチプチっていう食感とかがすごくいいアクセントになって。
食べるテンポが本当によくつくんですよ。
おまけにそういうわけで辛くないからさ。
すごいもうね進んじゃってもう止まらなくなっちゃうんですよこのカレー美味しすぎて。
なのにしかもボリュームも結構あってめちゃくちゃ美味しいと思いましたこのカレー。
いや気になるなあ。
この古代米があまりにも美味しいんでどういったお米なんですかって話を聞いてみたら
実はこのお店の向かいにもう300年くらい前からやってる米丼屋さんがあると。
氷山のもう列島時代からやってる城戸町の。
古い町並みなんで多いんですよそういうところが。
そっから仕入れてるんですと。
さらにそれを作っているのは奈良県内のやつなんですね。
アスカとかの方ってね古代米よく作られてるんですよ今でも。
要は古代ですから。
当時の奈良時代とかわかんないけれどもそういった時代からおそらく受け継がれていたであろうお米っていうものをブレンドして作ってる奈良ではのカレーなんですよね。
食べてみたいなあ。
奈良ってね昨日も話したんですけどこれスパイス系の料理本当多いんですよ店。
奈良市内にもね僕めっちゃ好きな居酒屋があってそこもスパイス料理の居酒屋なんですけど。
これいずれ奈良市の時にやりたいんですけど。
あとカレー屋さんも多いんですよね奈良って。
だからなんかこのやっぱねスパイスの系譜ってあるんだと思うんですよ。
そうなんだ。
なんか勝手にその薬草ともつながりがあるのかなとか想像しちゃうよね。
あると思いますし、あるいはやっぱりシルクロードって言ったってね。
そういう外来のスパイス香辛料って奈良早く取り入れたの間違いない。
なんかそういった文化的背景はね関係してるんじゃないかなという気がします。
そこを生きてこの古代米ですからね。
ある意味奈良のなんか文化の側面をいろいろ積み合わせたね。
とっておきのワンプレートだと思うわけで。
ただ理屈抜きにうまいです。
これマジでうまかったこのカレー。
いやいいなあ。
そしてね今回ね公共交通機関だけなわけであって。
ここねクラフトビールもあるんですね。
クラフトビールとカレーを合わせながらね。
っていうんでまたこれもうまいし。
万が一酒ダメな人がいても奈良のスパイスを使ったクラフトコーラもありましたから。
でこれも築100年くらいの古民家をリノベーションしていまして。
当然こちらのね大和これ後日の出店店舗にも入っています。
いやなんか面白いなあ。
デザインもねすごい可愛らしいですね。
可愛らしいですね。
すごい遊び心と穏やかな古民家の温かみがねすごくいい感じです。
ということでここでねお披露いただきました。
秀長の痕跡を辿る:本家菊屋本店
その後ね午後はじゃあ何をするんだということなんですけれども。
秀永の足跡というのは本当にか細いものだということは今までお話した通りです。
和歌山の方は奇襲徳川っていう超強いカラーがその後塗られましたから。
ほぼ秀永の話は残っていません。
で一方で大和郡山は柳沢、奇襲徳川ほどではないにせよ。
高川が10年くらいしかいなかった秀永と100何十年もいた柳沢っていうのは当然柳沢の方が強いわけですよ。
しかも時代もあったらしいし。
だから秀永の足跡ってのは驚くほどないです。
なんか聞いてる感じもうなさそうだもんね。
なさそうです。
だけどそれは秀永がさっき集めた町衆たち。
つまり強権発動して新しい商人たちを大和郡山に呼び込みましたよね。
彼らその市民の間にむしろ残ったんですね。
お城としてはもう秀永の城なくなっちゃったんですけど。
それをちょっとねそのか細い痕跡をたどっていきたいというふうに思います。
たびたびさんからどう5分ほどちょっとお城に戻るんですけれども。
本家菊谷本店さんに行きたいと思います。
もうこれはね奈良県というか関西でも相当有名なお菓子屋さんなので。
関西の人はなんでそんな王道のところにいますかって思うかもしれません。
っていうくらい有名なところです。
大阪とかにも支店もあるし。
これの本店が郡山なんですね。
これは前日の中谷修造さんのマップにも載ってましたよね。
はいはいはい。
やっぱり大和光泳のもう名産といって多分真っ先に名が上がる。
これ江戸時代のね名所番付けみたいなのにもね大和光泳のおすすめグルメで載ってるんです。
っていうくらいの名物なんですよ。
でこれがですねいつできたのかこれがね実は秀永と共に入ってきた人たちなんですね。
なんとこの菊谷さん総領は天守13年1585年。
豊臣秀吉公の弟組豊臣秀長公に連れられ大和の国に参りましたのが僧侶
僧は菊谷治平という人だったと
いので、秀長のことを知っている数少ない商人なんですね
それからだから440年ですかにわたってこの大和小売山で刑業されてるんですね
すごいな
ちなみに言うとこの菊谷といえば大名詞になるのが
お城の口餅っていうね、わらび餅みたいなもんなんですけれども
これができたのはなぜかというと
秀吉公をもてなすお茶会に何か珍貨珍しいお菓子ですね
を作るように命ずられ、これ秀長が命ずられたんですね
兄弟間の無茶振りですよ、はっきり言って
それで秀長が困ってるから無茶振りされて、っていうので待ち中ですよね
秀長に特許を認められた秀長審判のお菓子屋さんだったわけですけど
彼が作ったのがうぐいす餅だったと
粒あんをさらに餅で包んできな粉でまぶした緑色のわらび餅みたいのを作ったそうなんですね
砂糖がすごく貴重な時代だったからこれは素晴らしいものだと
さすが秀長が認めただけの菓子屋じゃないか、大和小売山だって言うんで
秀吉公のお褒めに預かったと言うんですね
これがめちゃくちゃフィーバーしたんですよ
大阪とかみんな秀吉って言ってたから
あの秀吉公が褒めた名家が大和小売山にあるっていうので有名になって
この餅がもはやこの菓子屋の代名詞みたいになっちゃったと言うんですね
場所的にこの菊谷さんがやってるの今でもそうなんですけど
大和小売山城の門から出て市役所に行く途中なんですよ
つまりもう当時の一等地ですよね
小売山城の城下の門の目の前にやってるので
もううぐいす餅のこの菊谷っていうのはあだ名でお城の口餅
あの御城の口
お城の目の前でやってる有名な菓子屋って言うんで
それが人口に感謝して
この餅自体もお城の口餅っていうふうに名前が変わっちゃったそうなんですよ
それだけ名物になったってことだよね
あの秀吉秀長のお褒めに預かった
江戸時代になると関西ってやっぱり秀吉ピーキーなんですよ基本的には
徳川の世の中に行っちゃったってのはあまり気に食わなかった人も
なんか心臓疾患に多分あったと思うんですよ
だから大公様お好みとかってなるとみんな大阪の人が好きなんですよ
ってなってくると当然秀吉のこともみんな好きなんですよ
ってなってきてこのお城の口餅は関西では江戸時代も大人気だったと
これが400何十年経ってまだあるんですね
なあいやなんか残ってるものがあってよかったよ
そうそうそうなんですよ
でちょっと菊谷さんね外貌もぜひ見てほしいんですけれども
はあ
いやもうなんか本当時代劇に出てきそうだね
お茶屋さんって感じだね
そう時代劇のお茶屋さんです
本当にこういう佇まいだったと
で左側に商品ケースがあって
そこで当然お土産を買って帰ることもできます
で今回最終日ですからぜひお土産買ってほしいんですけれども
実はですね右肩には座敷がありまして
ここでねお城の口餅とお茶セットで500円でいただけるんですね
なので味見程度でもいいかもしれませんが
お土産買えないよ日持ちしないよって人でもここで実際に味わえることもできます
でね同時にこの縁側みたいなところ
これ昔の城下町の実際よく時代劇で
よくここに腰掛けてる武士とかいるじゃないですか
当時から多分本当にそういう使われ方をしていたの残ってるんですね
すごいね
だから昔の旅人気分で縁に腰掛けて
山と郡山の街を見ながらお茶とお城の口餅をいただくなんていうね
そんな体験もできたりします
もう本当軽い時代劇体験みたいな感じだよね
そうそうそうそうだからインバウンドの方とかにもいいんじゃないでしょうか
確かにね
でもこの建物見るだけでもね
すごいですよ
もう縁を代表する名家ですのでね
ぜひ見ていただけるといいんじゃないかなと思いますね
これは秀永ゆかりのものなんですね
町屋物語館と赤膚焼
であとはちょっとまた秀永と話がやや違うんですけれども
ぜひ郡山に来たら見ていただきたいものとして
この菊谷本店さんからまた7分ほど南へ戻っていただいたところにあるのが
街や物語館です
これ結構すごくてね
異様なことだということに気づけますかねこれ
なんか三階建て?
なんかこういう街並みにしては珍しい構想会って感じがするね
おっしゃる通りです
街や木造の古民家で三階建てってめっちゃ珍しいんですよ
これ残ってるんですね
これはまあねただ江戸時代とかではなくて
大正時代に建てられたものなんですけど
それでも100年前です
のものでこの三階建てって超珍しいんですよ
このね街や物語館は
秀永とは直接関係ないんですが
もともとこれはね川本廊って裕閣でした
裕閣の建物が残ってるんですね
なので裕閣特有のちょっといろんな仕掛けもあったりして
そういうのも面白いんですけども
中へ入るとねボランティアスタッフの人が必ずついてくれて
そのボランティアガイドの方が見学をね案内してくださるんです
で2階3階とかにはその女の人たちがね
裕閣の女の人たちがいた小部屋みたいのもあって
そういったところからこうね街を覗く
そのちょっとね今で言うベラ坊にね結構近いんですよ
あれは吉原ですけれど
なので大河ドラマつながりでねちょっとね
歳も当たりますけど
大河ドラマファンはここを訪れてぜひいただきたい
ああなるほど
あのベラ坊の世界観っていうのを
ここまでちゃんと体感できる建物って
もうほとんど残ってないと思うんですよね
裕閣の建物ってそれがね体感できるんですよ
なのでまあね豊臣兄弟もベラ坊も見たよっていう方はね
ぜひねここでベラ坊の世界観に浸っていただいて
当時の裕閣のまあ暮らしだったり
営み歴史っていうものをね
ボランティアスタッフの方から聞いていくのもいいと思うんですよ
いやよく残ってるねこれ
で3階までありますからすごい見どころもあるんですけれども
2階と3階の間にはね大階段みたいのがあって
2メートルくらいだったかな幅の大階段があるんですよ
でそこにはねまあ昔は当然それは使われてたわけですけど
今はそれをお雛様に見立ててね
雛人形のこの飾り棚に見立ててやったりしたり
あと最近ではね
アート現代アートを展示するみたいなのも結構催し物であるそうで
そういう意味でもやっぱりこの古いものを生かそうっていう
ちょっと昨日の夜話した氷山の新しいね
ジェネレーションっていうのをね一つ体現してるように思うんですね
いやなんかどんどん新しいものが生まれるんだね
そうそうそうそう すごいな
古いものはもう新しく生まれないんだけど
古いものから新しい価値を生むことは多分できるんですよね
それがやっぱりこの氷山に今起きてることだと思うんですよね
なのでちょっとその時々に言って特に大学でも一番にぎわってる時とかは
もしかしたら特別な展覧会みたいなのやってるかもしれないので
ぜひ街を見に行くっていうこともいいですし
そういうのアート展とかももしかしたら同時に見られるかもしれないので
いずれにせよ氷山来たからにはぜひねここはちょっと見ていただきたいなというふうに
思う建築になります
そしてねまたちょっと秀永のパートに戻ります
町の物語館から徒歩12分ほど
これね近鉄氷山の駅を西側に踏切を渡っていくんですね
の方にあるのが赤肌焼きかまもと小川二楽さんです
かまもとですか
はいこれもね数少ない秀永の痕跡なんですね
まず赤肌焼きというのが何なのかということなんですけれども
これなんですね
この赤肌焼きっていうのはね色の赤に皮膚の布
そう布なんですよ
で焼き
これが赤肌焼きなんですね
結構色彩豊かですね
へえなんか人形とかもあるんですね
でまぁ当然器もあって
へえいやなんかちょっとなんだろう古い感じがするな
絵の感じとかがね
これが秀永の残したものなんですか
これはですねもちろん諸説ありではあるんですけれども
赤肌焼きってこの不思議な名前がそもそもなんですが
これはね赤肌山っていう山の通称
これは奈良市と大和郡山市の間くらいに今もある御城山っていうことの通称なんですね
そのあたりで良質な土が取れるっていうんで
この赤肌焼きっていうのは古くから奈良に伝わっていたものでした
ところがこれが実際生産が本格化したのは秀永の頃だと言われてるんです
なぜそれが可能になったかというと
もともとその祖父があった赤肌焼きに対して
秀永のふるさとである尾張の国の床舐っていうところがあるんですけれども
床舐って今もすごい有名な焼き物の町ですけれども
そっから職人たちを連れてきたのが秀永だって言うんですね
まあふるさとですからね
でその尾張の国の床舐の職人たちがやってきて
この赤肌焼きに改良を加えたことで
より生産が本格化したというふうに伝わっているんです
それはやっぱ経済的な理由で
だと思いますね
あとはこの赤肌焼きの特徴として色彩豊かな話ありましたけど
これ奈良絵っていう絵なんですよ
つまり焼き物の上に奈良絵っていう絵を重ねるっていう
奈良県全体の産業みたいになっていったんですね
なんかねこう太い筆で描いたようなね
松の絵が入ってたりとかね
ちょっと見るとやっぱり古い絵だなっていう感じですよね
ちょっとぼくとっとした感じのね
ただこの赤肌焼きというのも全然全国的には多分知名度はなくて
今でも奈良県内に本当にいくつかの窯戸でしかもう作られていません
そのうちの一つがこの小川二楽さん
小川は普通の小川さんで漢数字の二で楽というところですね
はこの大和氷山の城下町において作っていらっしゃって
実際こちらの直売所というかねギャラリーに行かせていただくと
実際に購入することもできるし
ちょっと窯のスタッフの方とね
この赤肌焼きについて話もできたりもしました
なので結局ただこれが秀永がどれだけ具体的に関わったかってのは定かじゃないんだけれど
やっぱりこの秀永が生きた時代って
千利休とかも同時にいた時代ですから
彼も豊臣政権の重鎮なんですね
なので茶の湯っていうものが大流行した
だからその敏感なみんなが新しい焼き物
新しい文化的価値っていうのを
武士だろうが長人だろうがみんな持っていた時期なので
そこに奈良っていう大和の国でせっかく手に入れたところで
産業として新しい絵付けをね
床舐めの人たちとも組み合わせて
新しい焼き物を創出しようとして
それを大和の産業にしようとしたっていうのは
全然成り立つストーリーなんじゃないかというふうな話はおっしゃってましたね
ちなみにこの赤肌焼き見ていただくとね
やっぱり一度見たらこれ忘れられないなっていう感じになると思うんですよ
この絵が描いてあるのがすごい特徴的だからね
っていうところでそういえばってなるのが
さっき菊谷さんでお城の口持ちをいただいた時に
一緒に出てきたお茶碗
さっき町屋物語館の中で飾られていたお茶碗
全部これじゃんっていうふうになっていくんですよ
だから町屋物語館とかも
もう一見秀永の関係なんてないように見えるんだけど
秀永のいくらかの遺伝子がね
まだそこには残ってるのかもしれませんね
へえ
そうかじゃあ今でも菊谷さんとかでは使われてたりするか
そういうことです
菊谷さん出てくるとこの赤肌焼きが
当然今の赤肌焼きが出てきて
それでお茶をいただいて
お城の口持ちもいただけるので
ある意味もう本当に数少ない数少ない秀永のエッセンスの結晶がね
宅に並ぶんですね
わあ
なんかそれストーリー聞いてるとすごい感動するね
そうなんですよ
だからやっぱり大河ドラマで今回注目集まったの良いことなんですけど
秀永の痕跡がないことにみんな驚かれると思います正直現地行くとね
けど探せばまだカラオケに残ってはいるんですよね
いやなんかちょっと最後に報われてる感じが勝手にしてるわ
秀長の供養塔:大納言塚
なのでここもちょっと焼き物なので
荷物にはなるんですけど
最終日でもう夕方なのでね
お土産に買っていただくのもいいんじゃないでしょうか
そしてね最後に報われたかどうかっていう話になるんですけれども
赤肌焼き鎌本小川二楽さんから
さらに7分ほどここかっていうような住宅街の中を分け入っていくとですね
急に白い兵が現れて謎の森みたいなのが出現するんですね
これがダイナゴン塚です
これがまあねお察しの通り大和ダイナゴンと言われた
ダイナゴン豊臣秀長のお墓になります
っていうか供養塔ですね
そうかお墓は京都の方にある
そうそうそう
これもお墓って言ってもいいと思うんですけどね
ただこれは後から作られたものなんです
このダイナゴン塚行っていただくとね
何事だって思うような兵があって
その中に祠みたいなのが建ってるんですね
で五輪の塔が建ってます
これね高さ2メートルに及ぶそうなんですけれども
結構でかいね
巨大な五輪の塔が建ってるんです
これが秀長のお墓です
いや疾走だね
疾走です
でこれができたのはね18世紀だっていうんですね
つまり柳沢がもう大和郡山を治めている
その中で作られたものなんですよ
だから秀長っていうのはもはや郡山の上主ではあったんだけれども
そもそも今徳川の世の中ですから当時の徳川では
あんまり大ピラミッド秀長とか秀吉とかって祀ると
あんまりよろしくないんですね
でもその中でもやっぱりね
これ例の春学院ってさっき依拝がありましたよねお寺
当時江戸時代の春学院の僧侶たちが発起人となって
大和郡山の町衆たち
つまりその秀長の恩恵を受けて郡山に集まってきたである商人たち
または町人たちに呼びかけて
勇士で寄付とかを募って
このダイナゴン図家っていうものを整備したって言うんですね
いやーその
血飲んでくれる人がいてよかったね
そうですね
だから大名とかが大ピラにこういうのできなかったんだけど
やっぱりその大和郡山の歴史とかを考えていった時に
そもそも秀長が強権を発動してまでこの郡山のことを築かなかったら
自分たちの生まれっていうのは全然うまくいってなかったはずだし
そもそも生まれてなかった
で郡山の繁栄もなかったということで
むしろ市民たちの間で秀長っていうのが生き続けていた
っていうのがこのダイナゴン図家の結末だと思うんです
いやーなんか
今の予感するとそれこそ名君だなっていう感じはあるよね
そうですね
ただあくまでも本当に失踪なもので
とりあえず整備はだけはちゃんとしたっていうところが実情なので
なんか金ぴかのお堂が建ってるとかそういうのも全くありません
もうむしろその鬱草とした林の中に
この五輪の塔と整備されたね
祠だけが建ってるというのがね実情ですね
うーん
まあでもなんかこれが秀長なのかなっていう気もちょっとするよね
そうかもしれません
そうかもしれないですね
はーなるほどね
いやーちょっとホッとしたね
そうですね
はい
なのでここぜひ最後に
これが最後のスポットになるんですけれども
お墓参りということで参っていただいて
たぶんまあこれ大河ドラマ始まったらやっぱりここもすごい人気になると思いますから
ちなみに言うと秀長さんっていうのはやっぱり
郡山の市民には非常な人気がやっぱりありますから
この祠の入り口のところにはね
お願い砂みたいなものがありまして
これをなんかこう3回確かこうなんか通すか幕かすると
その秀長のような優しくて頭の良い人になれるみたいなね
そんな言い伝えもあるそうで
こんなのもう子供にやらしたよね
うん
ということでねこれがまあ
豊臣秀長の今もう出られる一番の墓だということになっています
のでここでぜひね秀長のことを生涯
そしてはこの旅自体をねいろいろ振り返っていただいて
改めて彼の役割というものをね
感じてもらえればいいんじゃないかなというふうに思うんですね
3日目の振り返りと旅の終わり
そしてダイナゴン図鑑でお墓参りが済みましたら
木戸に着きたいというふうに思います
ダイナゴン図鑑から徒歩10分ほど住宅街の中を戻って
近鉄郡山まで行ってください
近鉄郡山駅で荷物をピックアップして16時59分
これ土日ダイヤで一応今調べてます
16時59分に近鉄郡山駅を出る近鉄橿原線
これ京都まで直通します
そう近鉄はね京都までは行きやすいんですよ
なので最後は近鉄の方がいいです
近鉄橿原線で大和西大寺を経てですね
直通でずっと降りずに済みますので
約50分行っていただくと
17時50分に京都駅に着きます
なので関東からいらっしゃった方は
ここから新幹線に乗るのが一番近道です
もちろん大阪とか福岡の方は
それぞれまた関区に戻っていただくとかでもいいので
その場合はこのキロはそれぞれルートに応じて
調整をしてほしいなというふうに思います
はい
それでは3日目を振り返っていきましょう
前日はJRの奈良駅と近鉄の奈良駅の間ぐらいの
ホテルに泊まっている想定ですね
そのホテルを9時頃チェックアウトします
そこから徒歩15分ほど近鉄奈良駅に向かいます
そこから近鉄奈良線で大和西大寺駅に至りまして
そこから近鉄橿原線に乗り換えて
8分近鉄郡山駅でおります
またこの郡山に戻ってくる形ですね
そこから徒歩10分ほど郡山城後
この郡山に入ってきた秀永が入ったお城ということですね
今あるお城は江戸時代のものを復旧したものとなってますが
こちらに秀永が入ったと
そしてこの2026年は大河ドラマ館がこちらに開館すると
そうですお城のちょっと目の前ホールって感じですね
開館しますので
この豊臣兄弟を見てる方はこちらも注目という感じですね
そこから徒歩5分ほど春学院ですね
こちらが豊臣秀永の母大寺となっていて
位配が安置されていると
こちらもこの2026年に向けて
改修をして終わってるんじゃないかということなので
郡山城と合わせて秀永を偲んで
この春学院にも訪れていただければと思います
そこから徒歩7分ほどたびたびさんですね
こちらはスパイスカレー専門店ですので
スパイスカレーをお昼にいただきます
辛さは控えめだけど
しっかりこのスパイスの旨味っていうのを感じられるカレーということなので
いろいろ種類がたくさんありますので
合いがけみたいなもので楽しめるといいですかね
そこから徒歩5分ほど本家菊谷本店さんですね
こちらが豊臣秀永の残したものの一つということで
秀永と一緒にこの大和郡山に入って
そこから現在まで営業されているお菓子屋さんと
名物はお城のくち餅ですので
昔の雰囲気を想像できるような建物ですので
ぜひこの縁側でこのお城のくち餅を食べて
当時にタイムスリップしたかのような感覚で
召し上がっていただければと思います
そこから徒歩7分ほど町屋物語館
こちらは大正時代の建物ということですけれども
もう非常に珍しい木造の3階建ての建物
有格として使われておりましたので
中の仕掛けも面白いものがたくさんあるということなので
ボランティアのガイドの方に説明を受けながら
この建物を楽しむと
この中にあるこの跡を言いますけれども
赤肌焼きの焼き物があったりしますので
ぜひ見つけていただいて楽しんでいただければと思います
そこから徒歩12分ほど赤肌焼き鎌本小川二楽さんですね
こちらも秀永の残したものの一つと言えるかもしれませんね
もともとあった赤肌焼きを秀永の地元の尾張から
焼き物の職人を招いてそれを進化させていったという赤肌焼きですね
そちらの数少ない鎌本がこちらにありますので
赤肌焼きをギャラリーとして見たり
もしよければお土産に買っていったりとかしていただければと思います
そこから徒歩7分ほど大名言塚
こちらが秀永の供養塔ということで
まあ本当に町人たちにね慕われていた秀永の
まあその証という感じがしますね
まあお墓とも言えるかと思いますので
こちらで秀永を忍びまして
そこから徒歩10分ほど金鉄郡山駅に戻りまして
金鉄橿原線で51分京都駅でこちらのコースが終了ということですね
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いやーなんかこの3日目にその秀永の苦労とその
なんだろうなぁ
欠日が見えたなっていう感じがしますかね
ちょっとね
まあずっと報われないなぁと思いながら僕は聞いてたわけなんですけど
まあでもやっぱ見てる人は見てるし
それがね長人であって
長人から慕われるってやっぱすごいことだなってやっぱ思うし
まあずっと言ってるけどホッとした良かったなという感じですかね
まあねこの秀永の生涯というのはもちろんね
ドラマでどういうふうに描かれるかわからないですけど
確かになかなかこう報われない
押し付けられてばかりだと
損の役割ばかりさせられて
私もうその兄貴のためにずっと動き続けてるからね
そうなんですよ
だからそれがある意味補佐役っていうんでね
非常に大名詞みたいになって
最近結構実はドラマになる前でこれが話題になったのは
安倍総理大臣の時に官房長官菅さんがずっとやってたと思うんですよ
秀長と豊臣家の終焉、そして時代
菅さんって実は歴史上尊敬する人物としてこの秀永を挙げるんですよね
これ結構いろんなインタビューでおっしゃってて
特に坂井家太一さんっていうとある作家さんがね
書いた豊臣秀永ある補佐役の生涯っていうもうベストセラーがあって
おそらく豊臣兄弟編が出るまでは一番それが有名な秀永の物語なんですけど
それが愛読書だと言うんでね
今回秀永がドラマになるっていうに関しても
結構菅さんいろいろなところに寄稿してましたね
だからやっぱり官房長官っていう要は秀吉が首相なわけですけれども
それを従いするあるいはいろいろ対応しなきゃいけないとか
補佐役としての生涯っていうのは
この秀永がお手本だというふうに菅さんよくおっしゃってましたね
いやなんかずっと補佐を押し続けてる印象あるからね
菅さんもね
ただ報われる報われないっていうのは
もちろん本人がどう思ったかわからないですけど
秀永の死後っていうのは結局この豊臣家どうなっていったかっていうのを
ちょっと最後にいろいろ話はしておきたいと思うんですが
秀永が亡くなったのは1591年の1月22日でした
それから間もなくして一つの時代が終わります
それが天章という時代だったんですね
天章というのは1573年天章元年がこれ武田信玄が死んだ当時です
から1592年までの天章20年までのこの20年間のことを天章って言うんですね
天を正すと書いて天章
これが要は信玄が死んで信長が台頭してきて
信長が撃たれて秀吉が台頭して
そして1590年に秀吉が天下統一するっていう
日本が中世から近世大きく移り変わっていった
その激動の20年が天章という一つの元号だったんです
それをまるで見届けたかのように秀永は天章終わる直前に彼自身を死んだ
これはもうまるで秀永の人生の足跡そのものなんですね
天章の20年っていうのは
なるほど
そして時代は文禄に入っていきました
文禄というものは1592年から始まるわけですけど
日本の教科書で文禄っていうのは多分出来事として一つしか出ません
文禄亭長の役ですね
これは何か覚えてますか
役は覚えてないな
はい
いわゆる朝鮮出兵です
ああはい
まあ先ほどね1日目さやかの話がありましたけれど
秀永を失った秀吉というのはどうなっていったかというと
結局この朝鮮出兵をなぜしたかっていうのは
もういろんな学説があるので一概には言えないんですが
結果的に見ればね
初代名を集めて無理な外政をした結果
朝鮮でもいろんな犠牲を払ってかつ国際関係も悪化させてしまって
ろくな成果を得られないまま結局秀吉は2回もその出兵を無理にやって
結局その2回目の出兵中に
自らは京都の市民で生涯を閉じた
その生涯を閉じるにあたっても
何より彼が心配したのは後継者のことだったんですね
それはさっきも言った通り秀吉にも秀永にも子供が恵まれなかったということです
秀吉は秀永が死ぬあたりまでは
自分の老いっ子である秀次っていうのを養子にして
それを乾白にして後継になぞられていました
しかし秀次もあまり出来が良くなかった
そして秀永が死んだ直後なんですけれども
淀君と秀吉との間に待望の男子が生まれたんですね
それが後の豊臣秀織です
そうなると親の心理としてどうなるかっていうことなんですよ
つまり豊臣っていうのはもうみんな家族でどうにかなり立ってきた
その兄弟を中心とした家族で成り立ってきたんだけれども
そこに新しい家族とかが踏まえてでもそれが権力者としての家族になっている
つまり秀次っていう老いっ子も要はただの農民の息子だったわけなんですよ
けど秀吉とか秀永に巻き込まれてある意味なぜか乾白になっちゃってる
けどその乾白で後継になぞられてたんだけど
秀吉に実の子供が生まれてしまったとなると秀吉はどう思うかってことなんですよね
はいそして秀次事件が起こります
秀次事件というのは秀次が秀吉に対して無謀を起こした
企んだって疑いをかけられて秀次は高野さんで切腹させられました
つまり豊臣秀吉は自分の老いっ子を切腹させちゃったんですね
そして無理に後継者を秀吉にさせたんです
自分の息子に
そしてそれを秀吉を唯一止められたかもしれないその存在はもう今秀永はそこになかったんです
そして秀次が死んだ
で秀永は秀永で秀次の弟を養子にしてたんですね
つまり秀永にとってまたやっぱり老いっ子
秀吉と秀永のお姉ちゃんは小田区さんだったので
そのお姉ちゃんの息子を立て続けに養子にしたんですよ
ところがその秀永の後を継いだ秀安っていう養子も
間もなくしてなんかねあんまりこの人出来が悪かったとも言われてるんだけど
よくわかんない感じでなんか若くして死んでしまってるんですね
そして大和大仁根家はこれで滅亡しちゃったんです
後継者がいなくなった
そして秀永が
強権を発動して治めた大和木居泉っていうのは
もともと誰も治めたがらないような場所ですから
やむなく秀吉が暫定的に秀永の家臣たちに大冠みたいのを置いて
ろくな代名を置かないまま秀吉は死を迎えた
そして秀吉はそういうわけで秀次も殺してしまっていて秀安はもう死んじゃっていて
家族でどうにか家族の結束力だけで押し上がっていったはずの豊臣家っていうのは
いつしか秀吉以外もその家族はほとんどいなくなってしまってた
そして唯一残った秀吉はまだ5歳だか何歳だかで
その周りには徳川家康、前田敏恵、毛利、寺本、上杉、柿勝なんていうおっかない連中がいっぱいいるわけですよ
それをまとめられる秀永はもういないんですよ
それが豊臣秀吉のすごい悲しい最後なんです
なるほどね
このあたりの孤独っていうのはすごいいろんなドラマで描かれますけど
個人的には2016年の真田丸で
小比奈田文雄さんが演じた秀吉の最後っていうのがすごくリアルだなと思って
最後は認知症になっちゃう設定でね
誰にも見とられずに死んでしまうんです
うーんきついな
そして98年8月に秀吉が死んだその直後
もうここからは是非岐阜の回に移ってほしいんですけれども
やがて関ヶ原の戦いが起こって
豊臣家はその後15年後の大阪夏の陣で完全に滅亡してしまって
江戸時代というもので天下一統になった
これが要は秀吉と秀永の
彼らだからできたことがあったんだけど
彼らだからの限界もやっぱりあった
まあそんな単純なもんじゃないのはわかってるけど
子供がいてしっかりとその
現役時代の姿を見せられてるが
もしかしたら続いてたかもしれないよね豊臣家はね
そうですねそれはいろんな人が言うところで
子供がまずいたらっていうのもあるだろうし
同時に秀永っていうのがもしそこで死んでなかったらどうなってたのか
大和木泉っていう超大国を治めているバックがいて
要はそれが秀吉を盛り立っていたとしたら
徳川家康は天下を取れたんだろうかと
いうふうな話も当然になってくるわけですよ
秀永がいたらもしかしたら
朝鮮出兵もなかったかもしれないし
まあそれはわかんないけど
ただ歴史の何かしらのパーツは変わっていたのは間違いない
その小さなパーツの掛け違いが大きな時代のうねりを変えていたかもしれない
それはもうわからないです
そういう意識をねいろんな人が言ってしまいたくなるぐらい
秀永の死っていうのは非常に大きなものだった
そして天章という時代の終わりとともに
豊臣家はだんだん暗い方向へ行ってしまうんです
だからまあそれを転じて
秀永の生前がどれだけすごいことをしていたかということになるわけです
誰にも気づかれなかったかもしれないけど
実はめちゃくちゃ大事だったの秀永が言ったことというのもね
というのがね今回どういう土俵を選ばれるかわかんないんですけど
という豊臣秀永の生涯だったわけです
でまあ実はエンディングテーマを用意しているんですけれども
今回ねエンディングテーマに選んだのは
ガリレオガリレさんの歓声とアコースティックバージョンです
はい
いやーなんかこれ聞きながら俺は今その豊臣兄弟のあのビジュアル
あの土のついた中野太賀さんと木松曽介さんが
こう固くんで笑ってるあのビジュアルあるじゃないですか
あれを想像するとなんか
なんかね全然ドラマを俺ら見てないの
なんか勝手にグッとくるもんがね
ありますね
まあ僕も本当に割とそっから着想した部分も正直ありますね
あのまあこのねガリレオガリレさんの歓声と
これを題材に映画家になったぐらいのね名曲ですけれども
山崎健太さんと橋本愛さんがやったのかな
あのまあまあ映画とかでは恋人同士のね二人の青春の話ではありましたけど
まあ僕もやっぱりこれを兄弟のね今回の話にちょっと置き換えてみたときにどうなのかなと
いう中で結局あの二人の兄弟が目指したものっていうのが何だったのかっていうのは非常に
難しいところではあると思うんですよね
あの日清出世が彼らのゴールだったのか
それか農民たちでも幸せに暮らしていける食べ物に困らない時代だったのか
それかなんだろうねわからないけれども誰もがご自由にね
発想とか身分とかにとらわれずできることだったのかまあわからないですけど
彼らがやっぱり目指したものまあそれは大より変わっていったのかもしれないんだけど
ただの農民の子だったっていうことから
いつの間にか天下の支配者になってしまったっていう
その二人の兄弟の数奇な運命と激動のね
時代っていうものを彼らは二人だからこうお互いに
意見を交わしてお互いを修正しながら
たぶん正していって夢見た未来というのを見ろうとしたと思うんですね
しかしその片方弟の方が先に死んでしまったっていうのが秀吉の悲劇だった
僕はこの完成党っていうのが
さながら秀長の役割とすごく合うような気がしてるんですよね
いろんな大名が要は飛行機で降りてくるときの完成要は
いろんな取り付けとかもしなきゃいけない
それを着陸して空港で陸地をスムーズに運ぶたてのコントロールっていうのを秀長はしてたんですよ
その間に秀吉は法上責めの方をやっていたわけで
その完成党が消えたときにいろんな飛行機が入り乱れてしまって
結局未来は思わぬ方向へ行ってしまったっていうのが悲劇なわけなんですよ
なるほど
ただ一方でポジティブな話をすれば
結局これは本人たちしかもはやわからないですけど
彼らが描いたのがその戦のない平和の世の中とかだったのだとしたら
結局秀吉秀長の兄弟はそれを成し得なかった
一回は成し得たんだけどまた継いでしまったわけなんですけど
それに代わった徳川家康が結局江戸時代というものをね
築いて260年にわたる平和の世の中を築いたわけですよね
それっていうのはじゃあなんでそれを成し得たかっていうと
確実にそこには秀吉秀長兄弟がやった
天下統一事業もあるし
かつ忠誠的なその刀を持って権力を弾いてとかってやってる
そういったものから近世っていうもの
落ち着いた近世というものに転換するっていうその
親しがあったからなんですよね
それをやっていたのが秀吉であって
やった場所というのが紀伊であり大和であった
そういうところで言えば結局彼らの目指した未来というのも
彼ら自身は成し得なかったが時代としてはそれが
いずれ達成されたというふうにポジティブに見えるかもしれない
確かにね
だからこの秀吉も2人でやったことがなかったとしたら
一体家康がどこまでできたのかっていうところもあるし
そういうことですね
なるほどね
だから途中でも言ったけど地味に偉大
そういうことです
それが大和ドラマに題材になるわけですよね
実は最後の方はこのドラマは結構暗い話になるかもしれないなとも思うんですけど
ちょっと楽しみですね
エンディングテーマとタイトルの意味
あとは一応タイトルの開始を最後にしておくと
小杖は高く根は深く
ザ・ネバーランド転生記っていうふうにしたんですけれども
この小杖は高く根は深くというのは
さっき菅総理大臣の話で出しましたけど
坂井家太一さんという作家が書いたヒゲ中の小説があるんですが
その中の章の名前なんですよ
でこれ僕ねこの言葉が本当にその通りだなって思ってて
小杖というのはつまり木のほう幹のほうですけど目立つほうこれは高くいく
これは秀吉のことなんですね
その一方で支えている前に見えないほう根は深くいくっていうのを秀長のことに
なぞらえてるんですけれども
すごくまとめた表現だなと思ってもうそのまま
何の細工もせずに流用させてもらっている
っていうのとネバーランドの話についてはね
そのネバーランド要は子供のままでみたいな話
要は我々が到達できない世界という話なんですけれども
それが要は
それぞれのこの2泊3日を通しての登場人物のネバーランドが多分あったと思っていて
要は中世っていうものに確実に居心地の良かった人たちもいたはずなんですよね
統制がなくて自由な共和国だったそれが最下の孫一たちだったわけですけれども
あとは元々大和にいた社人の商人たち
そういうことですそういうことです
で種ヶ島からひなわじを持ってきてみたアクティブな活動っていうのは
多分豊臣とか徳川の時代の政権下においてはできなかったことだと思うんですよ
彼らのアクティブな黒潮に乗って躍動するっていうエネルギーが
翻流するエネルギーがあったからそれは多分成し得たことであって
それがやっぱり統制されていってしまうっていう時代が一方であった
だから最下の人たちにとってはそっちの方がネバーランドだったかもしれないし
秀吉秀長にとっては自分たちが夢見たその豊臣政権とファミリーで築いたこの政権が
永遠に続いていくっていうことがネバーランド
でもそれも結局ネバーランドだったっていうのがオチなんですよ
だからそのネバーランド
いろんな人たちのネバーランドが結局積み重なっていって
中世から近世ってものが変わっていく
それが一つ転生っていうこの20年の時代であって
秀吉がこの転生の象徴だと思うんですよね
そんな意味合いを見てねちょっと今回タイトルにさせてもらいました
いやもう全然最初ピンとこなかったけど
なるほどいや納得感がすごくあるね
良かったですね
なんか不思議な気持ち
そうですね
切なさもあるけどでもなんかまあ威風もあるし
まあやっぱりね歴史の人物扱うと結構実は最後ね
こういう切ないタイミングになっちゃったりするんですよね
まあね
でもそれがやっぱり人生のリアルなのかなっていう気もするし
うん
はい
ということで
はい次回は雑談回答
はい
ということで今回はこの辺でありがとうございました
ありがとうございました
01:22:10

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