ライブ配信の試み
オスオス、おはようございます。 こんにちは、こんばんは、こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
5月6日、今日は緑の日の振り替え休日ってことでいいんでしょうかね。 ゴールデンウィーク最終日になるでしょうか。よろしくお願い致します。
今日はね、ライブ配信でお届けしているんですね。 ライブ配信って、
なんか僕、一周回って、これ挑戦してみようかなって思ってきたんですね。 毎日同じ時間に収録をします、ライブ配信をしますっていうのは、僕にはなかなかできかねることなんですけれど、
なんだか、 撮り直しが飽きかない。
一発勝負。 そして、そこに来てくださったお客さんと一緒に
会話をしながら進めていくなんていうのは、このライブ配信って素敵なものなんだなーっていうことを思ったんですね。
っていうのは、僕ね、ライブ配信結構苦手だったんですよ。 今でもちょっとうって思う時があります。
それどんな時なのかっていうと、コメントとかいただくとね、すごくありがたくて安心して嬉しい。
ただね、聴き線、ロム線っていうんですかね、そういう方々がいらっしゃるじゃないですか。
僕、嬉しいんですよ。聴きに来てくださっているの。 ロム線でも全然オッケーなんですけど。
1っていうこのね、人数。 聴いてくださっている方が1ってなると、なんか、
聴いてくださっているこの方が離れたいような放送にしなきゃっていう、言葉には出ないようなドキドキ感っていうのを
自分の体の中でめちゃくちゃ感じるんですよね。 昇進ものなんですよ。
なんで、どうしよう、どうしよう、どうしようってなっちゃうの。
それでさ、いいこと言わなきゃとかさ、そんな風になると、その人がわかるように説明しなきゃって言って、ついこう説明口調になっていくんですよね。
そしたらさ、ラジオつまんなくなるんですよ。
話している自分が、なんだかこう面白さがですね、なくなっていくというか、熱がこうスッと冷静になっていくというかですね。
そうするとさ、お客さん本当に位置がゼロになるんですよ。 退出されちゃうんですよね。
なんていうことをさ、結構僕ドキドキしながら、ああ、いなくなっちゃったみたいな風にね、なっていくんですけど、全然いいじゃないかと。
最近思ってきてですね、というか、このライブ配信っていうこの一発限りっていうのはさ、なんか良くて、一つなんか意味から解放された時間になるのかなって思ったりもするんですよね。
芸術としての表現
僕ね収録をする時って、意味のあることを話そうってすごく思うんですよ。
もちろんライブ配信だって意味のあることを話すことできますけれど、収録の時って一つのなんかこう芸術をアート作品を作るみたいなイメージを持っちゃうんですよ。
芸術って言葉って二通りの漢字の書き方があるってご存知でしょうか。
芸術ってさ、草冠に言うって書く、伝説の伝の人弁がないやつ、あの芸術の芸と、あともっと難しいごちゃっとした字を書く芸術のこの二文字があるんですよね。
で、これってね、え、このぐちゃってしてるやつって旧字体でしょって、昔はこういう感じ使ったんでしょみたいな風に、もうねそれで片付けられちゃうような気もするんですけど、実はそうじゃないんですよね。
この漢字の出来方っていうのは全然違って、このぐちゃってしたものは確かに昔使われていた芸術の芸なんですけどね。
この字っていうのは草がどんどん伸びていって、それで形成されていく森みたいなイメージなんですよね。
だからその生えたら生えっぱなしみたいなのが芸術の芸のあの難しい方の字なんですよ。
なんだけど、すっきりした草冠に言うって書くあの芸術の芸っていうのはね、あのちょっとコメントをやっときますね。芸術はこういう字と、それから芸術はこういう字、アーカイブの人はですね、番組の概要欄見てくださいね。書いてあります。
ぐちゃってしたのと簡単にした字っていうのがあって、この簡単にした方の芸術の芸って草切るって読むんですよ。そんな読み方があるんですよね。草切るです。草を切るって読むんですね。
つまり伸び放題になってしまったそれを草を切ることによって形を整えるっていう意味があるんですよね。
それが今の一般的に言われている芸術なんですよ。僕にとってこのスタンドFMの収録っていうのはこの草切る方の芸術になってたんですね。だからかなり整えて整えて形をこうギュッとして伸びた草をどんどん研ぎ澄ませて、それで伝えているっていうのが僕にとってのこのスタイフの収録だった。
ライブ配信で何かっていうとお客様とのこのやり取りだったか、あとこの収録中に自分自身も心の揺れ動きっていうのがあって、この揺れの動きもそれもまた含めてのなんかその芸術だよね。作品だよねっていうこと。こっちの形を僕は実は目指したいんだなっていうことを感じたので。
難しい方のぐちゃってした方の芸術なんていうことをね、ちょっと思っているんですよね。で、僕そんな風に思った時にですよ。ラジオの収録っていうことを思った時に形をカクッとね整えてしまうんですよ。だから意味っていうものにすごくこだわる。この放送は僕がこれを伝えたいんだっていうことをグーッと。
そうですよね。もう伝えていこうとするんですよ。もうさ、本当にもう僕、正真面目だからさ、今言っちゃったかもしれないと思ったらさ、それ消すんですよね。またもう一回撮り直してみたいなことを何度も何度もぐるぐるして、ようやくこのツギハギだらけで作られたのがいつもの収録なんですよ。
でもまあ、僕一発撮りっていうのを目指したいので、一回撮ってみて気に入らなかったらもう一回最初から撮り直すみたいなことをするんですけれども。まあちょっとね、これじゃあなんだろう、自分もやっている甲斐がないなみたいなことを思ったりもするんですね。
だからさ、やっぱりライブ配信でこの心の揺れの動き、この熱量と共に伝えていくっていうことが一つ大事なことかなって思ったりもしたのと、僕はそれを目指したいと少なくとも僕はそれを目指したいなと思ったのと、それこそこのごちゃっとした方の芸術だよなって思ったんです。
で、その時に意味っていうものにもこだわるけど、僕がこだわりたいことって最近わかってきた。それってもしかして音なんじゃないかなっていうことなんですよ。音ですね。
音の重要性
この音って僕のこの声の音色って言うんでしょうかね。このコワイロって言うんでしょうかね。これっていうことだけではなく、僕のその声の震えとか今の自分の気持ちの中にあるその感情の発露っていうものが声を通して出ているというものもある。
あとは語感って言うんでしょうかね。なんかこう方言とかさ出てくるとなんかリズムが良くなったりするじゃないですか。僕なんかさこうアナウンサーみたいな喋り方だよねってよく言ってくださってありがてえなーって思う一方で、なんかそれって画一的みたいな感じで受け取られちゃってるのかなーって思ったりもするんよね。
今そうするんよねーみたいな感じのこの口語って言うんでしょうかね。しゃべり言葉みたいなところでのさこの感情の表現というか音の表現っていうものもいいのかなーって思う。
あと短い言葉でリズム感よく伝えていくっていうことだったり、あと僕もこうやって抑揚をつけて話したりもするよね。でこの音っていうものが結構大事な要素なのかなーって思ったんですよ。
そうしたらさ、目の前にいるお客様を想定したりとか、今お二人聞いてくださって嬉しいみたいなこのお二人に向けてお伝えしていくっていうことが限りなく僕が目指していることになってくるんじゃないかなって思ったんですよね。
だからまあいいんですよ。整ってないかもしれないけれど、この温度感とかこの音っていうものがすごく大事かなーって思いましたね。
今僕いつもとちょっと違う環境で撮っているので反響しているなーっていうことが思われるかもしれませんけれど、実はその音っていうのは僕のこのラジオを聞いてくださってあなたに届いていることが音のすべてではないということなんですね。
ここで聞かれている聞こえている音ではなく、聞いてくださっている一人一人の中で思い起こされる音っていうのがあるような気がしています。
思い起こされる音ってわかります?
例えばさ、その小説を読んでいて、例えばですよ、台所からいつもの安心する音が聞こえてきたなっていうことが一文としてあったとすると、
さきさんこんにちはー。ご挨拶いただきありがとうございます。ゆっくりしていってください。
はい、今音について話してるんですけどね。
音っていうのは僕たちがラジオを通して聞いている音だけじゃないその人の中で思い起こされる音がある。
例えば台所から聞こえてきたあなんていうことがポンと一文があったときに自分たちの中で思い起こされる音って多分あると思うんですよね。
トントントントントンってまな板を包丁が叩く音かもしれないし、換気扇のゴーという音かもしれないし、お鍋が沸いた、夜間が沸いたカタカタカタカタカタっていう音かもしれないしね、なんかこうグツグツグツグツ言って煮え立っている音かもしれないし、
なんかそういう音が僕たちの中で思い起こされるような気がするんですよね。
ここにはさ僕がどんなにも意味のあることを伝えたとしても一人一人に思い起こされる音って委ねられているような気がしません。
僕もいい音を伝えられるようにすごく意識的になる部分もあれば無意識的に伝える部分もあると思うんですけど、一人一人の中ですごく音が巡るっていうことはあるように思うんですよね。
何の話してんのって感じですかね。
僕この音っていうのにこだわった時に、この音っていうのは間違っても音質がいいとかそういうことだけじゃないんですよね。
僕かつて、こうやって話が飛ぶね、音っていうのは何も聞こえないはずなのに聞こえてくるような音があるでしょっていうことなんですよ。
僕すごく嬉しかったことがあって、かつてコラボ配信をした時にもうちゃんと話をするんだったら、ちょっとそのロケ地っていうのにこだわりたいなって思って、今日はこんな場所に来てますとかって言ってくださったんですよ。
室内とか無音の場所とかを選ぶのかなと思ったんですが、そうじゃなくて確かに静かなんですけど、実は今神社の中に、神社の境内にいるんですよとか、木の下にいるんですよとか、そうやって話をしてくれた方がいらっしゃったんですね。
そうやって言ってくださっただけで、たとえそこが無音だったとしても、僕の心の中で駆け巡る森の囁きというかですね、風の記憶というかですね、そんなものに思いを馳せることができたんですよね。
僕ここってすごく面白くて大事なものだなぁと思いました。
あとはやっぱりその人が送ってきた人生経験とかさ、なんか今感じているその感情とかさ、そういうことが積もりに積もって、このコワイロっていうところにも色っていうところに現れてるんだろうなぁなんて思ったんですよね。
そう思った時によ、なんだかこの放送って何聞かされたんだかわかんないんだけど、すげー心地よかったみたいな、そういう放送って今まで経験したことありません?
音楽とかじゃないんですよ。音楽じゃないんだけど、それから漫才とかお笑いとかそんなんじゃないんだけど、なんか何言ってるかわかんないんだけど、すごい音としてよかったみたいなこと?ないですか?
僕さ、英語とかを聞いた時に何喋ってるのかはっきり言ってわかんねーっていう時いっぱいあるんですけど、でもこの人がの英語ってなんか心地よかったなぁって思うタイミングがあるんですよね。
韓国語がさ、僕は全然わかんないんだけど、全然わかんないとか勉強しろよって感じですけどね。なんですが、その韓国語のなんかハングルを聞いてた時に、なんか可愛いなって思う時とかってあるんですよね。
音の意味と感情
あれって何なんですかね。それって意味も何も捉えてないけど、すごい心地よかったなーって思う時があるんですよね。もちろんこのねラジオ配信をさせていただいていて、皆様からお時間をいただいているので、価値ある話をしていきたいなーって思うんですけど、
それよりも、それに加えてというか、その奥底には、実は聞いていてこの人の放送を最後まで聞けるなーっていうね、そのなんか穏やかさというか、自分の発調に合うというか、なんかそういうのがあるんじゃないかなーって思ったんですよ。
僕もともとミュージシャンでね、実は大学時代とか社会人になってからもちょっとねライブバンド活動っていうのをさせていただいていて、作詞とか作曲もしていたことがあったんですけど、作詞をしている時ってさ、すごいリズム感とかを大事にするんだけど、
その言葉のなんか歌詞全体の意味っていうよりも、歌詞全体の意味を込めるよ、込めるんだけどさ、詩的な表現になりすぎちゃって、もう何言ってるのかわかんないんですよ。
僕が言葉にした、初めて作った歌詞って、2つ目かな、2つ目に作った歌詞がすごく僕自分では好きなんですけど、だから僕らあの星に名前をつけたんだっていう曲なんですよ。
そのさ、だから僕らあの星に名前をつけたんだっていう曲って、もう中身が星の名前がいっぱい出てくるんですよね。例えばさ、アルクトゥルスを歩くようにとか、アルクトゥルスを歩くようにとか、レグルスのひずめとかさ、そんなもう中二病かよみたいな、そんなキザな歌詞がめちゃくちゃ出てくるんですけど、
読んでいる人がさ、もう抽象的すぎて、どんなことを思いを馳せてくれてるのかもさすがに僕にはわからない。でも僕はね、すごいそこに意味を込めてるんですよ。
当時すごくこう思いを寄せていた、片思いをしていた彼女がいて、僕その彼女をね、僕すごくこう守りたいというか、価値観になりたいとかすごい思ってたんですよね。
でもその彼女は他にも好きな人がいた。でも僕はその彼女と一緒に見た星空がすごく忘れられなくて、でもその星空ってさ、全然都会だから輝いてないんですよ。
本当に明るくてさ、あの星もあんまり見えなかったんですけど、でも都会ながらにしてなんかポツポツと見えていたんですよね。その星にどうしても名前をつけたくてさ、あの星の名前ってわかんないけど、でも僕と君が見たあの星、きっと名前はついてんだけど、でもわかんない。
だけどそれを記憶を忘れないようにしたくて、僕はその星に名前をつけたんだっていうようなことなんですけど、それを歌詞にしたんですよ。もう意味わかんないよね。なんですけど、それの歌詞を書いているときにですよ、星の名前ってすごくなんかきらっぴやかでね、
真っ暗な闇の中になんかこう一粒でもなんかポツッと明かりがあるだけで、なんだか安心感を寄せてくれるような気がして、僕はその歌詞を読むといつもいつでもなんだかその時の記憶を思い出したし、なんかそのことをね、結局離れ離れになっちゃったけど、
なんかその人の幸せを願ったりとか、あの時確かに僕の気持ちはそこにあったよなっていう、なんかそんなことを思い出せたりとかする。その時の風の音っていうのを思い出すんですよ。
思い出す時ってさ、例えばお味噌汁をすすった時に実家の母が作ってくれたお料理の味を思い出すみたいなことって多分あると思うんですけども、なんかそうやって記憶を思い出すことがあると思うんですけど、反対もあってさ、言葉とかなんかそういうのをプッと自分の中に入ってきた時にですよ。
香りがしたりとか音が思い起こされたりとかするよねって思うんですよ。だからさ、この配信もなんかそのこれは僕が作った表現じゃない、誰かが作った表現だけど、心のドアをノックするっていうこの音はさ、
言葉の意味にあらず、実はその言葉の意味とかから始まるかもしれないけど、受け取ってくださった方が自分の中で再生した、思い起こされた、そんな音なんじゃないかなと思うんですよね。
だからそこまで思いを馳せたいなって思ったらさ、意味っていうものはもしかしたら副次的なものなのかもしれない。大事なことはその人の中でこだまする音なのかなと思ったんですよね。
だから一つ一つの言葉の持つ意味もそうだけど、あまり難しく頭で考えることなく気軽に発信をして音っていうのにこだわっていきたい。音質にこだわる、マイクにこだわるっていうことじゃない、そのなんかこだわれる音ってあるかなって思いました。
ということでいかくなったりしょうか。最後まで聞いてくださった方はぜひ、いいねやフォローで足跡を残していってくださいね。どうかな。
方言と地域とのつながり
今日はね、音っていうことをテーマにしながら音がラジオを作る気がしててっていう放送をしてみました。僕たちなんかタイトルをさ、見てこの放送自分にとって有益そうだなっていう、もしかしたらそういう思いでポチって押して聞いたりもすると思うんですよね。
僕なんかはそうなんだけど、最初はそうだったかもしれないんだけど、だんだん聞く人が固定されていっている自分にも気がつくんですよね。タイトルが何であれこの人の放送をずっと聞いてたいなって思うんですよね。
で、その人の放送ってなんか心地よいんですよね。どんなことを話してたとしてもです。どんな話であってもその人の声っていうものの音が僕の中にスッて入ってきて、自分の中になんかこうもたらしてくれる、何でしょうかね、このそよ風のような春風のような旗がはためくような、そんな音をですね、僕にもたらせてくれるような気がしていて。
この音っていうものがすごく大事だなって、大切にしていきたいなって僕は思い優雅ですよ。
時に方言をちょっと混ぜていこうかな。僕、エセトサ人なんですけど、高知県に住んでいて、最近ですね、ようやく方言っていうものを聞き取ることができるようになり優雅です。
で、僕自身も地域の方々とお話をしていた時にちょっと方言が出るんですね。
まあそれくらいなんかいいなと思ってさ、この方言が持つ穏やかさ豊かさってあるよね、なんて思ったりもするのでね。
そしたらちょっと田舎っぽさがさ、その人の中で思い起こされて、さらにこのラジオで聞いているだけじゃない何かの音っていうものが再生されていく。
それでいいんじゃないかなって思ったんです。
はい、ということでちょっとこれから買い物に行ってきますね。
はい、ということでね、お時間いただきありがとうございました。
お相手はこだまこまちプロジェクトのももちゃんでございました。
さきさん、最後まで聞いてくださってありがとうございました。
他2名の方が聞いてくださいましたね。
ありがとうございました。
あなたとあなたの大切な人に森の精霊のご加護が訪れますように。
はい、さきさんありがとうございました。