自然農の驚き
おすおす、おはようございます。
こんにちは、こんばんは、こだまこまちプロジェクトのもおちゃんでございます。
はい、5月の14日の夜でございます。
今日はですね、今僕は田んぼのお仕事ももう一段落したんですが、
一日通してですね、山椒というスパイスの原料になるね、あれのお仕事をさせていただいたりとか、
あと自分がやっている畑っていうものをね、ちょっとお世話させていただいていたんです。
びっくりしたことがあって、僕自然農っていうのを今やってるんですよ。
自然農っていう方法は、一般的に言うとね、野菜なんて育つわけないじゃん、そんな畑でって言われてしまうようなものなんですよ。
っていうのは、普段のさ、畑っていうのは雑草を全部抜くとかね、それから肥料や農薬を使わないといけないとか、
そんな感じなんですけど、今日驚いたことにね、ピーマンの赤ちゃんとか、あとトマトの赤ちゃんができているのを見つけたんですね。
しかも、今までですね、日当たりが良好な場所じゃないと育たないでしょ、そういう野菜は、なんていうふうに言われがちなものが、
実はちょっとひっかけの部分の方が成長が早かったとかですね、それから雑草ちゃんと抜かなきゃいけないでしょって言われているところなに、
雑草いっぱい周りに生えているところでですね、そういった野菜が育つなんていう光景を見ることができて、
いやー、これは不思議だなぁと思いました。本当に不思議だなと思って、野菜を作る一つとってみても、
なんていうか、自分が思いもよらなかったようなことが起こっているなぁっていうのをね、感じているんですね。
でね、だからみんな自然農やろうぜとか農業やろうぜとかね、家庭菜園やろうぜとか、そういう話をしたいわけでは今日はなくてね、
今日僕の中でちょっともやもやしていることがあったというか、なんていうか、本当に自分の伝えたいことってもやっていることなんだろうなと思うんですよ。
そんな中で、僕自身が今自分の言葉で語ることができる現在地なんだろうなっていうことも思うので、
今こうもやっとしていたりとか、今ですね、ちょっと分かっているなぁ、気づいたなぁっていう言葉をどんどん口に出して語っていった方がいいと思うんですね。
僕の一つの座右の銘というかですね、今1000以上の言葉を並べてもなお語り尽くせぬものがあって、その語り尽くせぬものが本当に伝えたいことなんだということです。
だから今日僕が話をさせていただいたことが全てではないんだっていうことを含んでいただきながら、なんかこうお話をね、ゆったりとこのラジオの音に身を包んでいただけたらなというか、身をたゆたえていただけたらなって思っております。
コラボレーションの告知
よろしくお願いいたします。
本題に入る前にお知らせです。
明日、明日ですね、お昼の12時から1時の間にソラニャンとコラボレーションをさせていただきます。
ソラニャンは猫作家さんなんですね。先日まで大阪でグループ展で開いていただいていて、何やらいい経験をしてくださったということでね、僕もソラニャンみたいに表現をワッとできるって素敵だなって僕思ったんですね。
これから先のことはちょっとソラニャンに明日思いを届けたらいいかなって思っているんですけども、本当に僕はアーティストの方とか、ソラニャンのように目の前にいる猫ちゃんが描いてと言ってくれるんだと、その猫ちゃんを描くんだというようなことを言葉で僕に送ってくれたような気がするんですけども、
なんて素敵な感性なのだろうと、その感性を表現をするにはソラニャンの場合絵だったのかなーなんて思ったりとかね、いろんなことに思いを馳せるわけですね。これがかっこいい生き方だなーって思ったんです。
明日のコラボレーションはソラニャンのチャンネルでいたしますので、ぜひソラさんのところチャンネル行っていただいて、忘れないうちにフォローとかしておいていただけたらと思います。ということで、今お話をしたね、ソラニャンとのコラボに寄せて話をさせていただいた言葉にも織り込んである僕の思いなんですね。
僕はですね、今日までというか人生を通してずっと人の生き方に寄り添ってきたんだろうなぁと思うんです。どんな形で寄り添ってきたのかというと、一番多くのキャリアっていうのは小学校教員を11年間させていただいてきたということです。
それでね、その小学校教員ってやっていた最中ね、僕は本当に何か結構稀な経験をさせていただいていると思うんですけれども、保護者の方々が僕に人生相談をしてくるんですね。
個人面談とかそういった時になると、私ちょっとパートナーと旦那とうまくいってないんです。主人とうまくいってないんですみたいな話があったりとか、あと親戚周りでちょっと私は板挟みにあっているんだとか、あとちょっとね、離婚を考えているんだとかですね。
まあそういうことをですね、結構ご相談してくださる方がいらっしゃったんですよね。そんな折に毛ちゃん自身は真摯にそれに耳を傾けました。
僕は学校教員という立場だったので、ああした方がいいですよ、こうした方がいいですよ、みたいなことは言うことができなかったんですね。そんなご主人だったらちょっと別れましょうよ、みたいなこととか言えないじゃないですか。
ただその目の前にいらっしゃる方の背中を押すというか、今本当にあなた頑張ってますよねって、今本当に思いは僕にも伝わってきますよって、頑張っていきましょうねって、それしか僕にはできないんだけども、だけどその言葉を聞くんですね。
一人10分かな、10分だったら15分ぐらいしかないそのですね、面談の時間なんかもう本当足りないくらい、もう本当に言葉をね、いただきながら受け取りながらの時間を過ごしていくんですね。
そうした最中にほろっとお相手が、お母様たちがね、涙を流す、頬を涙が伝っていくなんていう経験が何度もありました。
僕は受け持つ学年学年で必ずと言っていいほど、毎年のようにそういった夫婦仲の相談も受けてきました。
僕はその中で、なんかこう、お母さんたちこんな頑張っているのに、なんで幸せになれないんだろうって、そういうのをすごい感じたんですよね。
僕はそのお母さんたちの力になりたいと思ったが、その学校教員としてできることも限られてるなっていうことを思ったんですよね。
それで僕はコーチングというものを学んだように思います。
コーチングというのは、僕がやってたのは親子コーチングというものだったんですね。
つまり、保護者の方と子ども、この間でのコミュニケーションだったり、また夫婦仲とかね、家族の中でやっていくようなコーチングを僕はお伝えしていました。
このお伝えさせていただくときに、僕が一つ抜けたなって思ったことがあったんですね。
それは教育というものから一歩ちょっと外に出てきたなって思ったんです。
教育っていうのは、教え育てるって書くじゃないですか。
これね、教育の語源っていうのは全然そういう意味じゃないということもあるんですね。
どちらかというと引き出すっていう意味の方が強くて、教えるとかね、提供するっていうそういうものじゃなくて、その人がから引き出していくっていう意味がこの教育というものにはあるのですが。
僕はこの教育という言葉がだんだん苦しくなっていくんですね。
教えるということよりも、その人の中にやっぱり答えがあるよねって思っていて、それでその答えを引き出してあげるっていうことをずっとやってきました。
しかし、僕がその親子コーチングを志し、その多くのお母さんたちの力になってあげたいって思ったのって、一つはね、お母さんたちは幸せになるべきだ。
それからもっとこう、自由に生きるべきだっていうような、そのなんとかのべきっていうのが実は自分の中にあったんじゃないかなって思ってみたんですね。
僕はね、べきとか、ねばならないっていう言葉は使わないようにしているというか、自分の中には辞書としてはもうないんですね。
だからなんとかすべきだと思いますよみたいなことは、まあほとんど言わないと思っているんですけど、でも言わないだけであって自分の中にはきっとあったんですよね。
もうこんなに一生懸命毎日を生きているお母さんがなんでこんな目に合わなきゃいけないんだなんていうことをすごい心から思ってきた人なんだと思います。
だから力になりたいなって思ったんです。その中にやっぱりべきっていうものがあったんだと思うんですよね。
で、今ですよ。それからというものを僕はずっとこの人はこう生きるべきっていう何かそのこの道を進むべきだっていう道をね、教えとして解いていこうと思ってきたんだと思うんです。
で、僕自身も実験をずっとしてきました。自分の人生において本当になんか僕自身もですね、もう心の浮き沈みがめちゃくちゃ激しいし、その僕の取り巻く環境も本当にいろいろあって結構きついなあって。
モロにそれを受け止めちゃうときちいなあなんて思うこともいっぱいあって、だからそんな中自分自身も人生という大海原をもがいてどこか近くの島に行き着くための道はないだろうかっていうね、そんなところをずっと泳いできたんだと思うんですよね。
で、今もなお僕はまさにいろんな試練それから課題というものをいろんなところから導かれるようにしていただいてきて、でもまあなんとかかんとかやってこられるようになってきた。
僕がすごく抵抗感があるものがあって、それが何かのこの口座を開くっていうビジネスなんですね。
もうちゃんは小学校で教員を11年間してきたことがあり、そしてそれって1万時間です。1万時間ずっと授業をしてきたんですね。1万回やってきたんですよね。1万回以上ですね。
教育への考え方
やってきたんですよね。これくらいやってると話し方とかものの伝え方とかそれから何かこう人へのこのアプローチの仕方とか様々なものを僕自身あるんですね。
ノウハウとしてあって、それをお伝えするような口座だとかって僕は開こうと思えば開けるんですけど、なかなか開く気にならないっていうのがまずあります。
で、その口座って僕は教育関係にいたからすごくわかるんですけど、なんかこう授業を作る上に口座を作るという上で、まず1つあるのがこんな風になってほしいなっていう自分自身の願望みたいなものがあるんですよね。
それって人はこう生きるべきだっていうものとすごく近しいもののように思っています。なんか口座っていうのはきっかけにすぎないんだよね。本当は本当はそうなんだよね。
だからどんないろんな口座があってよくて、僕自身も本も読むし、口座受けに行くしみたいなこといっぱいするんだけど、それは全てがやっぱりあくまできっかけにすぎないと。
で、そのきっかけ作りではあるんだけど、じゃあ自分自身が口座を開こうと思うかというと、なかなかそれができないということなんですね。
僕自身も今までその学校以外の授業とは別のところでね、ビジネスとして様々に口座を開いてきたんですけど、今それをやってくださいと言われても、なかなかそれはうんとはなかなか言うことができない。話すことはできるし、講演みたいなものはできるんですけども、
僕自身講演っていうのは何かこう人に教えたいとかそういうことがもう一切なくなってしまったんですね。一切かなほとんどなくなっちゃったなーって思うんですよね。
これはビジネスの口座ビジネスとかを否定してるわけでは決してないんですよ。ただの僕の教育館みたいなものなんでね、そんな感じで思っています。
もうとにかく僕その人に何かこうすべきだよみたいなことでないなーなんて思ったんですね。だってね、自然栽培やっててよ。野菜の育て方とかってもうわけわかんなくなったんですよね。
今までこれが正しいよって言われているものが僕の中で解体されて解きほぐされてしまいました。そして今なおやっている自然栽培すらも本当にそれがいいことなのか悪いことなのかもわからないですね。
自分にとってはいいことだと僕は思ってやっているし、僕の住んでいる土地地域この庭家庭菜園この場所にとってはいいことをやっていると僕は信じているんだけれども、それがどれだけ他の人に当てはまるかっていうことももうわからんなって思いました。
でもそれだけやっぱり僕自身も様々な悩みとか問題とか抱えながら生きてきてよ。それでもがいていく中でやっぱりこれで良かったのかなーっていうことも思ってきたんですよね。大変なこともいっぱいあったけどさ。
講座とかっていうのはさ、人に何か教えを説くっていうのは人が書くあるべきみたいなことがやっぱりあってそれで書いていったりとか話していったりするもんじゃないですか。
僕このね、やっぱりこうあるべきとかこうなってほしいみたいなものがなくて、もうみんなそれぞれでいいんじゃねみたいな感じで思ったりもしてきました。
自然栽培の不確かさ
なんかあれだよね。人に何かを伝えるときってわかってさ、自分はすごくそれで納得しているんだみたいなことが前提としてあるような気がするんですよね。
こうやってスタンドFMで話をして何か価値のあることを提供しようと思う。その価値あることっていうのは何なのかっていうと、自分はすごくそれで得をしたよ。
自分はそれですごくこう人を救うことができたよみたいなことがあるのかなぁなんて思うんですよね。それをまあ人に伝えようと、押し付けとは言わないけどね、何とか手に取ってもらおうとするんだろうなぁと自分の正しさっていうものを人にお伝えするというようなことなのかなと思いました。
で、僕自身は自分が正しいのかどうかもわからなくなっちゃったんですね。これは自己肯定感が高いとか低いとかそういうことではもうない次元だと僕は思ってるんですが、まあ強いて言うならばそれでいいっていう感じですね。
正しいのか正しくないのかわからんけど、自分にとってはなんかまあ心地よいというか、今日これをやることが何か野菜も喜んでそうだなぁなんて思ったりもする。それだけかなぁなんて思ったりもしてます。すごくこう言葉にすじづらいところなんですけども、何か汲み取っていただけたらと思うんです。
でね、僕はそんな中で、そんな中で自分自身のことをやっぱり表現をしてお伝えしていきたいなっていう思いはあるんですね。
僕が生きた証をここに残すとか、そういう大それたことでもないんですけれども、今僕がこだまこまちプロジェクトでやっているのは、木育という分野なんですね。これは木で育つって書くんですね。木を使って心を育てる教育のことを木育というふうに呼びます。
でもこの木育というものが、もうちゃんにとってね、ピンと来る部分もありながら、そうじゃない部分もいっぱいあるんですね。木を使うべきだとか、木をもっと大切にすべきだっていうのは地球環境全体を見たら、そりゃそうなんだけど。
でもそれがその人にとって、その人の人生にとって第一優先になるものなのかどうかは、僕にはわからないわけですね。
でも僕はそのきっかけづくりはできるなって思っているので、木はね、こんな役割をしててね、みたいなことを大々的に言って、だからねとか言ってね、なんか押し付けるようなことはなかなかできんだなんて思っております。
ただもうちゃんはこの森が好き、そしてこの自然のことが好きというような、ただそれだけをもっともっと表現したくて、自分が好きなことをただただ表現をしたくて、このこだまこまちプロジェクトというものを今やっているんだなということになりました。
つまりですね、教育的な活動というふうに思われながらですね、実はただのエンターテイメントなんですね。僕自身は人に面白がらせたいという思いすらもなくて、ただ自分自身が面白いなって思うから、このエンターテイメントをしているっていうそれだけなんだろうなと思います。
これでね、わかってくれる人が集まってくれたらそれでいいや、みたいなことになったりとかするのかな。ここがちょっと微妙なところなんですよね。もっと人が楽しいな、面白いなって思ってもらえるようにパッケージし直せるっていうのがプロっていうことだよなんていうことをね、僕は言葉としていただくこともあるんですけども。
こだまこまちプロジェクトの紹介
わかりやすくお伝えするっていうことはお手のものではあるんですけれどもね。
でも、難しい言葉を使って話すとか、人にわかりづらく話すっていうことが、実はその自分にとってはわかりやすいことっていうことでも多分ないと思うんですね。
自分の中にあるこの大きな大きなですね、固まりですね。このこんにゃくがドーンとあるような感じ。そのこんにゃくをさ、ちょっとずつほぐしながらさ、切ったりとかさ、糸こんにゃくにしたりとかさ、それからすくったりとかスプーンですくったりとかしてさ、一口サイズにしていく。
成形をしていく。それによってようやく僕たちはそのこんにゃくを食べることができるんだろうなって思うんですよね。だから自分の中にあるドーンというこの塊は言葉にしたり書いたり何とかの表現をしていくによってほぐされていって自分も食べることができるし、自ずとそれは人にも伝わっていくものになっていく。
のかなーって思ったりもしています。そうだね。なんで表現をしたいって思うのかなーっていうことなんですよね。なんかどうなんでしょうね。この表現をしたいって思うこの欲求でどこから出てくるのかな。自分のことをわかってほしいという承認的な欲求というものも存分にあるような気はするんですけども。
なんか僕の場合、今ねちょっと変わってきていて人の役に立ちたいっていうただそれだけかな。これがありがた迷惑だって思われるかもしれないけど、その僕一緒にこの夢を叶えたいって言ってくれた仲間がいたんですね。いるんですね。今プロジェクトメンバーがいてさ、僕を含めて4人でやっています。
家族もね、理解をしてくれて、もっともっと理解者がいて、スタンドFAも聞いてくださっているあなたもきっとその理解者のお一人ですよね。本当にそれがありがたくてさ、僕はその方々と一緒になんかこうエンターテイメントな面白い世界を見たいんだろうなーって思うんです。
なんか僕のそのことに、言葉に共感をしてくださったっていうことは、なんかもうちゃんの言ってること面白いな楽しみだなってちょっと希望があるよって思ってくれたっていうことなんだろうなって思うんですよね。
だからできればその方々にもうちゃんが作る世界、思い描いている世界っていうものが面白いって言ってくださるんだったら、その方に喜んでいただきたいなって思うのがあるんだろうね。
ただそんだけなんだなと思います。だから僕自身のことを認めてほしいっていうよりも、どうなんでしょうね、もっとなんか根本には人が笑っててほしいっていうことがあるのかなぁと、人がじんと心が動く瞬間があるのかなぁなんていうことを思っている次第でございます。
ということでね、もうちゃんは今、こだまこまちプロジェクトというのをやっていて、そしてこのこだまこまちプロジェクトでお話をしている、毎週毎週集まってね、会議をしているんですけど、その会議の内容を中心とした議事録、この議事録を中心としたメールマガジンをね、ぜひお届けしたいなと思っておりまして、
今こだまこまちプロジェクトでメールマガジン残り3日ですね。リリースまであと3日となりますので、もしよろしければこちら受け取っていただけたら嬉しいなと思っている次第でございます。
自己表現と役割
いやーなんか今日伝えられたかなぁどうなんだろうなぁ。でももうちゃんはもう書くあるべきみたいなことがなくって、なんかどちらかというと、この言葉はすごく強い言葉だけど、滅し暴行みたいな、そんな感じすらするんですよね。
滅しっていうのは自分を滅する、私を滅して放行する、なんか公に自分を捧げるみたいなね、そういう意味合いがありますけれども、なんかそこまで来たのかわからんけどね。
でもこの表現をすることによって喜んでくれる人がいるっていうのはすごく私服の喜びだなぁってなんかもうちゃんは思っています。
今僕はたった今仕事を終えてこの収録、このライブ配信をさせていただいているのですが、今ね、サンショウというスパイスのですね、出荷のするための受け入れ、収穫してきたものを受け入れるっていう仕事をしてきたんです。
倉庫にですね、並べるっていう仕事をしていて、ぶっちゃけこの仕事、僕じゃなくてもできるんですよ。
で、僕はね、ずっと思ってたんですよ。
人、その人にしかできない仕事がある、その人にしかできない役割があるみたいなことをずっと思っていて、で、僕はそれをずっとひたすら探してきているように思います。
まあ、その一つがこだまこまちなのかななんてことを思ってもいるんですけど、それから僕にとっての教育活動っていうのもそうだったんだろうなって思ってるんですけど。
なんか、その誰でも実はできてしまう。
その仕事でもなんか自分はいいんだって思えちゃってるんですよね。
なんかそれは成長意欲がないよとか、そんなね、誰でもできる仕事なんて誰かに任せないよとか、
もうちゃんはそれやってる場合じゃないよみたいなことを、もしかしたら言ってくださる方もいるような気もするんです。
というか、僕にそういう言葉を投げかけてくれた人たち結構いました。
けどね、その自分にしかできない仕事をやることが自分にとっていいことなのか、そうじゃないのかも実はわからないんですよね。
それから周りの人にとっていいことなのか、そうじゃないかもわからないんですよね。
答えはわからないですね。
それをさ、自分で答えは決めるんだみたいなことも言いますよね。
まさにそうかもしれないんだけど、常に納得感を持って、この仕事って誰でもできるかもしれないけども、今僕がやることなんだなーって。
僕はここに導かれたんだなーっていうこと。
きっとこれをやり続けていくことでとか、また自分なりのこだわりを見つけてもってやっていくことによって、何か次につながるというか、さらに導かれる道筋、光っていうものが見えてくるのかなーなんていうことも思っております。
感謝と成長
なんか今日はね、ちょっとぼやっとした話をさせていただきましたけれども、だからすごく今感謝をしていますね。
僕のことを必要だって言ってくださる方々がいるんですよ。だから僕はその仕事をしてるんですよ。僕じゃなくてもできるのに。
ということでございました。ありがとうございました。
明日お昼はソラニャンとコラボ配信をしますので、ぜひぜひ来ていただけたらと思います。
そしてメールマガジンリリースまであと3日となりました。こちらもぜひぜひお届けしたいと思っておりますので、リリースされましたらですね、あなたのメールアドレスぜひお伝えいただけたらと思います。
ということでお時間が来たので、今日はこの辺でお会いでは児玉小町プロジェクトのももちゃんでございました。
またお会いできることを楽しみにしております。
今日も素敵な1日をお過ごしくださいませ。
あなたとあなたの大切な人に森の精錬のご加護が訪れますように。