鹿児島の懐かしい風景
お疲れ様です。
薩摩訛りの耳毒ラジオ。
この配信は、人言作の時代、地方の名も無きイラストレーター、私、みやけんの人となりを知ってもらうべく、日々の気づきやマインドを発信している、雑談ポジショントークチャンネルです。
はい、どうも。
土曜日のみやけん日記です。
そんなことは、今まで一言も言っていない。
今日ね、子供の次男のお遊戯会なんですよ。
でね、行ってきます。
まあ、どうでもいいですね。
昨日ですね、UberEatsの配達で、金曜日の夜、しかもね、深夜ですね、11時とか12時頃のですね、鹿児島の天文館という繁華街があるんですけど、
そこのね、特にですね、文化通りというところがですね、非常にあの、夜の雰囲気を、夜の繁華街の雰囲気を出している通りでですね、
立ちん坊とか、いろいろね、呼びかみとかね、いていい場所なんですよ。
んで、ね、まあ、なんだろうな、夜のお誘いの人とかね、いろいろいる場所があったんですけど、
あの、僕はね、まあ2年間UberEatsちょっと休んでて、その2年前ですね、ちょうどね、これコロナ禍の時だったんですけど、
その頃ですね、ここにはね、人が全然いなかったんです。
で、だからコロナ禍の頃、そこ人が全然いなくて、その前、さらにその昔は、もうそういう状態のね、非常に夜らしい、夜の繁華街らしい賑わいを見せている通りだったんです。
で、Uberをやってた2年前、コロナ禍の頃は人が全然いなくなっててっていうね、ところがですね、
昨日、久々に、その時間帯、そこに、そのね、金曜日の夜ということで行ったら、わあ、復活してるって感じでしたね。
いや、久々にね、うーんと、まあ、最近はそうだったんでしょうけどね、自分の目で見たのが、ほらもう、なんだろう、飲み会とかに行くこともないんで、僕はね、もはや。
めちゃくちゃ久々にこの雰囲気見たなーって感じでしたね。
さすがにね、あの、Uberのバッグをから、からって、からってはね、鹿児島弁ですね、これ。
背負ってのことですね。
Uberのバッグを背負って歩いてるね。歩いてると、さすがに誰も声はかけてきませんけどね。
いや、懐かしいなと。飲み会の後、あそこを歩くとね、次から次へとね、
あ、お兄さん、どうすか、この後、みたいなね。
この後、どうですか、みたいなね、よく声かけられてたもんですけどね。
懐かしいなと思いながら歩いて、なんか復活してんなーと思ったところでした。
子供の絵画についての考察
まあ、そんな話はどうでもいいと、どうでもいいんですけど、ということで、今日も耳どくラジオよろしくお願いします。
では、いくぜー。
というね、ちょっとね、鹿児島の懐かしい風景を、懐かしいというかね、懐かしい風景と現場の風景というのを話したのにはですね、
今日は引用配信をしようかなと思っているからなんですね。
引用元はですね、えびちゃんという配信、発信、配信者でございます。
えびちゃんはですね、んーと、鹿児島出身なんですね。現在は鹿児島を離れて、
まあ、居たのがね、10代の頃までっていうことなんで、もうほとんどそれ、その県外、
まあどこっていうのはあえて言わないでおいた方がいいのかな、まあわかんないですけど。
今はね、違うところに居るんですけど、そこでね、パラレルワーカーをしている、非常にこの、なんだろうなー、
なんか僕から見れば単純に、あ、すごく才能がいろいろある才女なんだなっていう気がしておりますけど、
えーと、まあそんな方ですね、えびちゃん。
えびちゃんの配信の引用なので概要欄に貼っておきます。
内容をざっくり言うと、子供の授業参観に行ったら、すごく違和感を感じるものを見たと。
それは子供が描いた絵、絵画が並んでたんだけども、それが全部同じ構図だったと。
それを見て気持ち悪いって思ったっていうお話でございました。
はい、えーと、さっき、えーとね、どうしようかな、先に言っときますが、
あのー、僕がそこにコメントにも書いたんですけどね、今から話そうっていう話も、これに対する反論みたいになります。
反論みたいになるんですが、これは僕の立場からのポジショントークであるということと、
えびちゃんが感じた気持ち悪いっていうこと、この感性、感覚っていうのは全然間違ってないです。
むしろ一般的な感覚だと思うし、多分共感する方はめちゃくちゃ多いと思います。
で、僕はポジショントークとして立場として、そこをもう一歩踏み込んで見てもらいたいっていう思いがあるので、
そんな内容で今日の配信をお話しさせていただきたいということで、
ですね、あくまでもこの個人というかその感覚そのものを否定するものではない、
その感覚になってしまうということ自体に、僕個人は問題があるなと思っているっていう話でございますので、
えびちゃんの反応は非常に真っ当な反応だと思ってはおります。
そんなこんなで、同じような子供の、小学1年生って言ったかな、子供の絵が同じようなのが並んでいる。
子供の絵ってやっぱり自由にね、いろんな発想でバーって描かれているのが当たり前だろうと、
同じ絵で並んでいるっていうのは怖っていう、わかります?すごくわかります?すごくわかるんですが、
一個ここでちょっと、こんな例えという、これはどう思いますかっていうのを一つあげますと、
教育観と自由な発想
じゃあ、子供の書道の書が並んでいるとしましょう。みんな同じ言葉を書いている。
挨拶とか、初日の出、違う、合唱とかね、これはどうですか?
っていう風に僕は考えるんですね。
あのね、前から僕言ってるんですけど、
学校教育の特に低学年の絵画というものに対して、自由であるべきだという発想が強すぎると。
僕的にはこれが逆、逆というか、子供が絵画に触れる機会を非常に減らしているんじゃないかという考えを持っております。
あのね、自由に描けって言って人気に自由に描けるもんじゃないんですよ。普通は。
普通は描けるもんじゃないんですよ。普通はね。時々ね、描けちゃう天才がいるんですよ。
で、子供にね、低学年の段階で自由に描きなさいって言ったら、ほぼほぼ描けないのは当たり前だと僕は思ってました。
で、時々描ける天才がいて、そういう人がおーすごいってなったら、逆にある意味当たり前である自由に描けと言われて描けない人たちが、
あの、わー、絵ってやっぱ才能なんだなと。私には才能はないから絵は無理なんだと。
絵心がないから無理だっていうのもその時点で植え付けることになるんじゃないかなという風に僕は仮説を立てております。
なぜかというと、僕は描ける側だったからです。自由に描いてって言われて、僕はね、描ける側だったんですね。
で、今なんやかんやあって、教える立場になってみて、この辺の構造をよくよく考えてみると、あの時点でおかしかったんじゃないかなという風に考えているわけですね。
普通描けないぞと。
いや、自分がすごい痛いな言い方になってるな今。
あのね、僕すごくないんですよ。じゃあ僕なぜその当時、自由に描いてねって言われて描けたかっていうと、
色々見てたからなんですよ。結局自由に描いてねって言われても、好きな絵本とか漫画とかアニメとかの絵を元に描いてたんです。
あるいは自分が何か外で見た風景、動物園で見た動物とかを思い出して描いてただけなんですよ。
別に脳から天才的な発想が生まれたわけじゃないんですよ。
それを、じゃあ自由に描いていいんだ、じゃあこの前家で飼ってる犬飼こうとか、それができただけなんですよね。
ただ、そういう子供だったんです。飼こうと思って描けるぐらい犬のことを観察しているような子供であったということは確かなんですね。
なので、宿題として、明日犬の絵を描きましょうと。
犬の絵を描きましょうということで、今日皆さん犬の特徴をよく調べてきてくださいね、明日描きますからねと言って、
次の日、じゃあ皆さん調べてきましたか、じゃあ犬描きましょうって言ったら結構描けると思うんですよね。
てな感じ。
てな感じですよ。そこを説明しないで自由に描きなさいは、難しいですよ。
で、僕は説明されなくても勝手に自分で、じゃあ昨日見た家の犬の絵描こうとか、動物園で見た動物描こうとか、
昨日見た車の風景描こうとかをやれてただけって話です。
なので、あと一歩ですね、自由に描こうじゃなくて、あと一歩ヒントを与えれば描けるはずなんですよ。
それをですね、最初に言ったように自由に描きなさい、で描けない、描けないから絵心ないんだーっていう風になってしまうって、
絵を描くということの方法も知らずに、描けたという楽しみ喜びも知らずに、離れていく人をたくさん作ってしまっているのが、
絵は自由だ子供の自由な発想を大事にしようみたいな考えだと僕は思っています だったら書道も自由に書かせましょうよ
ね書道はこの字を書きますつってお手本を見せてそれ通りに書いてくださいねー みたいなやらすじゃないですか
かけないじゃないですか かけないですいろんな個性のある字が出てくるじゃないですか
で一緒に関してはまあこれが正解なのがあるので まあ正解に寄せていこうというふうにしますよねところはですね
今大人の書道家っていうのはじゃあその方通りに書くんですかと 8ワープロで書いたような綺麗な中を書いた人が優れた書道家なんですかと
どうですか違いますよね 書というものに自分のやっぱり思いや創作とかを込めて表現や発想を込めて
子供の絵と型
さらに発展させてそして自由に書くアートとして成り立っているのが 大人のプロの書道家の書というものじゃないですか
そこをそれを見てその中身というか 込めた思いとか発想を感じとって大
なるわけじゃないですかそして 書道の書がすごいなかっこいいなって思えるのはみんなが書の
文字の漢字の基本はこれだよねっていうのを知ってるからですよね その基本に対してこういう発想を想像するんだっていうのを見る方もわかってるから
すごいなっていうのが伝わるかっこいいなっていうのが伝わる 書道家ってすごいなっていうのが伝わるんだと思うんですよ結局これって基本に型がある
で方をどう崩しているかというところに凄みが出てくるっていうのを書 書道の書っていうのはわかると思うんですけどね
って感じですだから僕はその小学校で方を教えるっていうのは正解で その方を超えた先にえっと個性っていうのがあるんじゃないんでしょうか
っていうのは今個性を求める教育の中に言われますよ 言われてますよね情報リテラシーが高い方はよく聞くと思いますけど
方破りはまず方があってこそって言うね
それをですね方も知らない人に自由に書きなさい無茶ですよ ということでエビちゃんがですねそのコメントで僕はそういうことをちょっと書いたらですね
実際また子供に改めてねお子さんに聞いたようですね 何であれみんな同じなのを見た
そしたら自由に書きましょうって言った時にほとんどの子がやっぱわからないと答えたので じゃあということで先生がお手本というか例を提示してあげたそうです
でそれを見れみんながああこう書くのかというふうにして書いたっていうのがその 同じような構図が並んでいる
イラストでラスイラストというか絵だったそうです
だから皆さん絵は自由なもんだ特に子供の絵は自由にさせなきゃ自由な発想が阻害される っていうのがある意味皆さん常識化として染み込んでいるので
それを見た時その常識自分が思っている常識と外れていると思ったから なんか気持ち悪いなって思うっていうのも非常にわかります
わかりますが 僕は自分が自由な発想と言われてある意味僕の中では別に自由な発想ではないんです
けども 回かけた立場だったとそこからいろんな絵を
絵にチャレンジして挫折してここは結構ポイントなんですよね 結局僕挫折してますからね
でまた大人になって復活というかやっぱり思考でいろいろ考えて絵というものを捉える ようなものになってからまた絵が楽しくなって復活してさらにもこれを本職にしようというふうに
なっていってさらに教えるということにやっていこうと なった時にですね
うん
方でいいじゃないって低学年は高学年ぐらいから方を破りたくなってくるんですよ多分 いや絶対
そういう子が出てくるんですよ大量に いつかですね半分以上がですね方を習って面白くないなぁ方を破りたくなってくるんです
こっからですその方を破ろうとした時に方からはみ出るなよというふうにやるのは 自由な発想を阻害することだと思いますが
まず方を僕らイラスト多分音楽やる人もわかると思うんですけど えっと
まず音楽もリフとかコピーとかをいっぱいしてそのコピーの中から自分のアレンジを 加えて
自分の曲っていうものを作っていくと イラストも絵も一緒ですねいろんなコピーとかいろんなこれがいい構図だよと思われて
いうのはものとにかく模倣してやってみてなんとなく人の心に刺さる人が共感できる 基本の方ってこんな感じなんだっていうのを覚えてそっからもっと共感力を高めるためには
という自分の自由な発想 加えて言ってっていうのが
まあほとんどの人が それで伸びていくと思うんです
一部これでも伸びたい人はいます 逆にこんなの関係なく最初からぶっ飛んでる人がいます
でこんなの関係なくぶっ飛んでる人は心配しなくてもぶっ飛んでますどうやったって 方を教えようが教えまいが
でも方を教えればほとんどの人はほとんどの人から6割の人はそれなりにできるよう になって
で自由な発想というところで限界を感じてやめる まあ僕の挫折した自分自身がまさにそうでしたけどね
そこから先はそれこそ自由だと思います でも今はほんとごく一部のぶっ飛んだ天才とか僕みたいにちょっと容量よくできたっていう
人だけが絵の世界に残るという現状になっているので非常にこれはもったいないなと思っ ているというのが私のポジションからのポジショントークでございます
なるほどと思ってもらえたらちょっといいかなと思ってこういう発信はやっぱり 時折していきたいとおもいます
あの子供の自由な発想阻害してるんじゃないかと感じて違和感を感じる気持ち悪いなと思う という心の動きは全く改めて言いますけど間違ってないと思います
それはそうだと思いますそれが現状だと思います ただこの現状ができた背景というのを僕が僕は疑いを持っているよというお話でございました
自由な発想の追求
はいっ ということで今日も誰男へずる聞いてくれ
生まあコテアエガティックを壊した 宮剣でした
山田