江戸時代の時間感覚
こんにちは、ザ・ディープダイブへようこそ。
毎日カレンダーとか時計とか見てると、
もうこんな時間か?って焦る感覚ってありません?
ありますね。日常茶飯時というか。
ですよね。あなたもきっと身に覚えがあると思うんですけど、
この時間に追われる感覚って、僕らにとっては当たり前じゃないですか。
でも、もしそれが人類の歴史で見たら、ほんの最近生まれたちょっと特殊な感覚だとしたら。
今回はですね、ある1本のYouTube動画の情報をもとに、
江戸時代の日本人が持っていた、今とは全く違う時間感覚の世界を深く探っていこうと思います。
もし時間の流れが過去から未来へじゃなくて、
未来から現在へやってくると感じていたら、あなたの生き方はどう変わるでしょうか。
今回のテーマは単なる歴史の豆知識っていう話じゃないんですよね。
この情報源をじっくり見ていくと、江戸時代に使われていた不定時法という時間のルールが、
人々の生活リズムだけじゃなくて、その精神性とか世界観そのものを深く形作っていたことが見えてくるんです。
そして、その失われた感覚を知ることが、
時間に追われがちな現代の私たちにどんな新しい視点を与えてくれるのか、そこを一緒に考えていけたらなと。
変化する時間の概念
いやー楽しみです。
では早速ですが、その不定時法というものから、江戸時代はこれが当たり前だったそうですが、
なんと1時間の長さが季節によって変わっていたと。
正直これだけ聞くと、え、どういうこと?ってなりますよね。そんなこと可能なのかなって。
その感覚のズレこそが今回の話の面白いところなんです。
まず不定時法の基準というのが、僕らが今使っているような機械の時計じゃないんですよ。
時計じゃないんですね。
はい。基準は空に浮かぶおテントさん、つまり太陽の動きが全てでした。
太陽ですか。
日の時間として、それをざっくりと6等分するんです。
昼を6つに、はい。
そして日の入りから翌日の日の出までを夜として、それもまた6等分する。
あーなるほど。昼と夜をそれぞれ6つに分けるんですね。
ということは、あーそういうことか。
昼が長い夏はその昼の1ブロックが長くなる。
その通りです。
で、逆に日が短い冬は昼の1ブロックが短くなると。
だから1時間の長さが変わるっていうことなんですね。
まさにその1ブロックを一刻と呼びますが、
例えば下旬の頃だと昼の一刻が約2時間40分にもなる。
え、2時間40分。長いですね。
でも夜の一刻は1時間20分ほどしかない。
で、当時にはこれが完全に逆転するわけです。
あーなるほど。
ですから当時の人々にとって、時間っていうのは常に一定に進む絶対的なものじゃなくて、
季節と一緒に伸びたり縮んだりする、すごく有機的なものだったんです。
有機的な時間ですか。生き物みたいですね。
ええ、そんな感覚だったと思います。
でもそんな、ある意味曖昧なもので社会って成り立っていたんでしょうか。
例えばお店の開店時間とか。
もちろん目安はありました。
あけむつに城門が開いて、くれむつに閉まるとか。
あーはいはい。
ただそれは現代の午前9時ジャストみたいな、そういう厳密なものじゃないんです。
大事なのは無理に時間に人間が合わせるんじゃなくて、
自然のリズムに人間が寄り添っていたという点ですね。
自然のリズムに人間が寄り添う。
ええ、情報源の中にあった、時間に合わせて生きていたのではなく、
自然に合わせて生きてきたという言葉は、まさにこの感覚を言い表しています。
夏は日が長いからまあゆっくり働く。
冬は日が短いから早めに仕事を切り上げて家で過ごす。
それがごく自然なことだったわけです。
なんだかすごく理にかなっているように聞こえますね。
今の僕らって、真夏の暑い昼間も、真冬のまだ暗い朝も、
同じように9時始業だったりするじゃないですか。
そうですね。
それって本当はすごく不自然なことなのかもしれないですね。
体が一番よくわかっているというか。
そしてその不定時法を可能にするための、実はすごく精巧な道具もあったんです。
道具ですか。
和時計と呼ばれる機械式の時計です。
これは季節によって針の進む速さを変えられる、世界でもすごく珍しい時計で。
だから不定時法っていうのは決して単なるのんびりした感覚というだけじゃなくて、
高度な技術と知恵に支えられた文化だったということがわかります。
しかしその自然で有機的な時間感覚がある時点から大きく変わってしまう。
はい。
情報源が次に指摘するのが明治時代以降に西洋から導入された定時法ですね。
ええ。ここが大きな転換点です。
1日は24時間、1時間は60分。
この常に一定で、誰にとっても平等で、そして何より正確な時間の概念が社会の標準になったわけです。
ええ。
もちろんこれには計り知れないメリットがありました。
メリットですか。情報源だとどちらかというとネガティブな面が強調されていたような気もしますが。
そこが重要な点なんです。
物事には必ず2つの側面がある。
はい。
定時法の導入がなければ日本の近代化はありえませんでした。
全国に鉄道を敷いて地獄標通りに列車を走らせる。
ああ、確かに。
工場を動かして労働時間を管理して生産性を上げる。
そのためには誰がが共有できる絶対的な時間の物差しが必要だったんです。
なるほど。
いわば効率とか生産性を手に入れるためのトレードオフだったと言えるでしょうね。
トレードオフ。効率を手に入れる代わりに何かを失ったと。
未来への捉え方
情報源はその失ったものの正体を時間を管理し人を管理する道具になったと鋭い指摘していますね。
ええ。
この人を管理するって言葉ちょっとドキッとしませんか。
しますね。時間が絶対的な基準になったことで、それまでにはなかった新しい価値観が生まれるわけです。
新しい価値観。
時間に遅れるのは悪いとか、のんびりするのは怠慢だとか。
ああ、耳が痛いですね。
誰もが同じ時計の針の進み方に合わせて行動することを求められるようになって、人々は常に時間に追われるようになったと情報源は分析しています。
うーん、わかる気がします。僕も休日に目覚ましをかけずに寝てみると、最初はなんか不安なんですけど、体が本当に求めている時間に起きるってすごく贅沢で気持ちいい感覚で。
ええ。でも平日はそうはいかない。時計が鳴ったら眠くても無理やり起きなきゃいけない。
この小さなストレスの積み重ねが現代人の疲れの原因なのかもしれないですね。
まさに。そして、この時間の捉え方の違いっていうのは、単なる生活習慣の変化にとどまらなかったと情報源はさらに深く掘り下げていくんです。
ほう。
ここからがこの話の最も興味深い本質的な部分です。
と言いますと?
それは私たちの根本的な世界観、つまり未来をどう捉えるかという点にまでつながっていると言うんですね。
時間の区切り方が違うだけで、そこまで精神性に影響が出るものなんですね。
未来の捉え方まで変わってしまうというのは一体どういうことなんでしょう。
2つの世界観を対比させてみると分かりやすいかもしれません。
はい。
まず、現代の私たちに馴染み深い定時法を前提とした西洋的な時間の感覚。
これは時間は過去、現在、未来っていう1本の直線の上を進んでいくイメージです。
ええ、まあそうですね。学校でもそう習います。
この考え方だと未来はまだ存在しない白紙の状態なんです。
だからこそ、現在の努力を積み重ねることで、未来は自ら作るもの、あるいは獲得するものだと捉えられる。
未来のために今頑張るとか、寿命を掴むとか、僕らが当たり前に使っている言葉そのものですね。
そうです。自分の行動が未来を決めると。
でもその考え方っていうのは、同時に未来への不安を生みやすい構造も持ってるんです。
不安ですか?
はい。自分の努力次第で未来が変わるということは、裏を返せば、努力が足りなければ望む未来は手に入らないということになるからです。
ああ、なるほど。
常にもっと頑張らなければというプレッシャーがつきまとうわけです。
一方で、情報源が提示する不提示法に根差した本来の日本的な感覚は、全く逆の発想をします。
逆というと?
時間は未来から現在へと流れてくると捉えるんです。
えっと、未来から現在へ?すみません、正直ちょっとピンとこないです。
だって、未来のことって誰にもわからないじゃないですか。まだ起きていないものがどうやってやってくるっていう感覚に?
ええ、その戸惑いこそ、まさに私たちが現代的な時間感覚にどっぷり使っている証かもしれませんね。
はい。
情報源にすごくわかりやすい例え話があったんです。
春は私たちが努力して作るものではないですよね。
未来を受け入れる感覚
ああ、なるほど。確かに春は作るものじゃない。どんなに願っても冬の間に春を無理やり連れてくることはできない。
ええ。
でも、何もしなくても時がくれば必ずやってくる。そういうことですか?
まさにその感覚です。未来っていうのはまだ存在しない未知のものではなくて、季節の巡りのように既にどこかに用意されていて、それが今この瞬間に向かって流れ込んでくる、と。
はあ。
だから、現在というのはやってくる未来をただ受け取る場所だ、という捉え方なんです。
未来を受け取る場所、かあ。
未来をコントロールしようとするんじゃなくて、やってくるものとして信頼して受け入れる。
そう言われると、日本語の中にその感覚の痕跡がたくさん残っていることに気づきますね。
と、言いますと?
上方言にもありましたけど、時が来たって言いますよね。時を作ったとは絶対に言わない。
確かに。
あと、流れに乗るとか、御縁があるとか、これって全部、自分から能動的に何かをつかみに行くというより、向こうからやってきた何かを受け入れているニュアンスが強いですよね。
その通りです。英語のseize the day、その日をつかめ、とかmake time、時間を作る、といったすごく能動的な表現とは対照的ですね。
このやってくるものを受け入れるという感覚が、かつての日本人の世界観の根底にあったのかもしれない。
でもそれって、少し無責任に聞こえたり、あるいは運命論的というか、どこかむけみな生き方につながりませんか?
はい。
春以来はやってくるって、ただ待ってるだけで本当に大丈夫なのかなって不安に思う人も多いと思うんです。
ええ、それは非常に重要な指摘です。これは決して何もしなくていいという話ではないんですね。
春がやってくると信頼している農家が、種もまかずに待っているわけではないのと同じで、
ああ、なるほど。
むしろ逆で、必ずやってくる豊かな実りの時を信じているからこそ、
今、目の前の畑を耕して、種をまいて、水をやる、という成すべきことに集中できるんです。
なるほど。
結果を無理にコントロールしようとせず、今この瞬間のプロセスそのものを丁寧に行う。
そうすれば、最適な未来がおのずとやってくる、という考え方なんですね。
未来への過剰な不安とか期待を手放して、今ここに集中するということですね。
ええ。
上方言の方がご自身の生活について、目覚ましをかけずに目が覚めたら起きる、とか話してましたけど、
それは単に自由気ままというだけじゃなくて、やってくる体のリズムとか自然の流れを信頼して受け入れるっていう、
まさにこの思想の実践なのかもしれないですね。
そう捉えることができますね。
現代人が苦しくなるのは、この日本的な大らかな感覚から外れて、
西洋的な時間管理のシステムに自分を無理やり合わせようとしているからではないか、と上方言は問いかけています。
時間の見直し
うーん。
無理に未来をコントロールしようとすることで、かえって自然な流れに逆らってしまって心身が疲弊していく、と。
うーん。未来は掴みに行くんじゃなくて、呼ばれるのを待つというか、呼ばれるにふさわしい準備をしておくという感覚でしょうか。
ええ、近いと思います。
これはキャリアプランとか人生設計とか、常に数年先を考えて行動しがてな私たちにとって大きな視点の転換になりそうです。
ええ。全てを計画してコントロールできるという考え方自体がある種の思い上がりなのかもしれない、と。
そういう問いを、この江戸時代の時間感覚は私たちに投げかけているように思います。
というわけで今回は江戸時代の不定時報を入り口に、かつての日本人が持っていた自然と共生する時間感覚、そして未来はやってくるもの、というどこか大らかでしなやかな世界観を巡ってきました。
今回の深掘りを通じて見えてきたのは、私たちが当たり前だと思っている時間に追われる感覚とか、未来は自分で作るものっていう価値観は絶対的な真理ではないということですね。
ええ。
数ある考え方の中のたった一つの選択肢に過ぎないのかもしれない。
なるほど。
そして、もしその考え方が合わずに苦しんでいるなら、別のOSをインストールしてみるという発想も可能だということ。
この事実は時間との付き合い方を私たち一人一人が改めて見直すすごく重要なきっかけを与えてくれますね。
本当にそうですね。最後にこの話を聞いてくださったあなたに二つほど考えてみてほしいことがあります。
はい。
情報源は、現代の時計を管理の道具と表現しました。
では、私たちの周りには、時計以外にも、無意識のうちに私たちの行動や感情を方向付けて、こうあるべきだと縛り付けている見えないルールが一体どれだけあるんでしょうか。
そしてもう一つ。もし明日、たった一日だけでいいんですけど、時計を一切見ずに、ただ太陽の光とか、自分のお腹のすき具合、体の疲れ具合だけを頼りに生活してみたら、あなたは一体何を発見すると思いますか。