大丈夫ですって便利な言葉ですよね。 例えば、コンビニで、
袋ご利用ですか?って聞かれて、 あ、大丈夫です。
美容室で、お湯加減暑くないですか?って聞かれて、大丈夫です。
本間は若干暑かったりするのに、頭皮は若干の火災現場みたいになってんのに。 そういう時でも、社会性って勝つんですよね。
この、「大丈夫です。」って、たまに人生においても出現することがあると思うんです。
僕、1人でも大丈夫です。 もちろん、それは大事な、
ね、生きていく力なんだと思うんです。 1人でもご飯を食べる、1人でも生活を回す、
1人でも明日を迎える。 それは、ちゃんと自分を明日につなげる、支える力やと思います。
でも、一方で、本間は寂しいのに、 本間は誰かに気づいてほしいって思ってるのに、
大丈夫ですって言ってしまうこともある。 大丈夫ですって言いながら、心のシャッターをガラガラガラって降ろしてる。
本日の感情の受け付けは終了しました。 みたいなね。
いやいやいや、まだ早いよ。 平日の朝7時やっちゅうねん。
今日は、1人でも大丈夫と、誰もいらないは、似ているようで多分違う。 そんな話をしてみたいと思います。
ハオー!
あなただけのゲイ友、豆腐手ウルフです。 この番組は中途半端なままが苦手で、なんでも白黒つけては完璧を求めすぎて、自分を追い込んできた僕が、
恋愛、家族、孤独、将来などなど、生きていく中でまだ答えの出ていないこととか、名前のないモヤモヤを、
皆さんからのお便りや反応と一緒に考えたり、少しずつ言葉にしていくポッドキャスト。 未定で結構。
うまくまとまってなくて大丈夫。 結論が出てなくても大丈夫。
未定のままで結構です。 今日は、1人でも大丈夫って、
本間は少し寂しい。 そんなお話をしてみたいと思っています。
先に今日の仮の答えを申し上げますと、 1人でも大丈夫でいたいっていうのは、誰かを拒むための言葉ではなくて、
誰かがいない日にも自分を見捨てないための 何か?力?みたいなものであってほしい。そんなお話です。
第2話では、1人かもしれない未来を考えることは、悲観ではなく準備なのかもしれないというお話を僕はしました。
誰かと生きていくであろうみたいな、そういう未来に対する希望は持っていたい。
でも、誰かと生きるであろうっていう、希望だけに生活設計を全て任せてしまうのは少し怖い。
これは今でもそう思っております。 ただ、今回はさらにその先の話をします。
1人でも生きていける、大丈夫なように準備をしておく。 これはものすごく大事。
でも、1人でも大丈夫な状態を作っておかなきゃみたいなのが強くなりすぎると、
いつの間にか誰かを自分の心の中に招き入れるような余白までも潰してしまうことがある。
強くなろうとしていたはずやのに、気づいたらいつの間にか誰にも頼れない自分になっていた。
こういうこと皆さんないでしょうか。
1人でも大丈夫ですっていう、この言葉には多分2種類の意味があるんじゃないかなと僕は思ってるんですよ。
1つ目の意味というのは、自分を支えるため、自分を支えている。 大丈夫っていう言葉ですね。
例えば、1人でも健康的な食事をとる。 体調が悪いときには病院を調べる。
部屋が荒れてきたら完璧じゃないけど、ちょっとは片付ける。
誰からも連絡が来ない日も自分の価値をゼロにしない。 自分を必要以上に下げないみたいな。
こういう大丈夫っていう気持ちはかなり大事だと思うんです。
これは強がりとかじゃなくて、自分自身を明日につなげる。 明日も強く生きていくみたいな力だと思うんですね。
もう1つ大丈夫の意味があると思っていて、それはほんまは寂しいのに大丈夫です。
ほんまは助けてほしいのに大丈夫です。 ほんまは誰かに話を聞いてほしいのに、いや別に大丈夫です。
こっちの大丈夫はちょっと危ないんですよね。
大丈夫ですって言うけど、たまにこれって助けての類義語になってることがあるんですよ。
しかもだいぶ遠回しな助けてっていう表現なんですよね。
すごいすごーく遠回しに恐れ入りますが、私の心が限界に近づいておりますので助けてはいただけませんでしょうか。
くらい遠い感じのやつ。回りくどいやつ。
でももちろんそんな風に言うことはできへんから、とりあえず大丈夫ですって一言で言っちゃう。
我々大人なので、社会性もあるので。
あと急に本音を語り出すと自分でもちょっと思わぬことを言ったりとかしてびっくりすることもあるんで。
誰かそばにいてほしいって思うことは、全然両立していいんじゃないかと。
1人でも大丈夫っていうのは、営業受付終了しましたみたいなことではない。
どっちかというと、店主は店の奥で仕込み中ですくらいの感じ?
ご用の方はインターホンでお知らせくださいみたいな感じですかね。
もちろんね、たまに臨時休業はします。
人間関係棚下ろししてくなる日もあります。
でも、店を畳んだわけではないんですよ。
これがね、今日かなり大事なところなんじゃないかなと思うんです。
ここからは、僕個人の話としては、ゲイとしての話にもなるんですけれど、
マイノリティとして生きていると、どうしても1人でも生きていけるようにならなきゃという風に思わされる場面が結構ある気がするんですね。
というのは、家族に話してても全部は分かってもらわれへんかもしれへん。
あるいは、結婚とかそういう制度の中で、そういう制度が自分たちにはないから、
相手、パートナーと自分たちの関係っていうのは見えにくくなることもある。
将来のロールモデルっていうのが身近にほとんどいない。
そもそも自分の人生、生きてきた人生、道のりを説明する言葉を自分で探さないといけない。
そういう当たり前みたいになってしまっている事柄の中で、
まあ、1人でもなんとか生きていけるようにしておこうって考えるのは、ものすごく自然なことだと思うんですね。
それは弱さじゃなくて、僕にとっては必要な準備やったんかなと思うんです。
でも、同時にですよ。
その1人で生きていけるようにしておこうっていう姿勢が当たり前になりすぎると、
今度は誰かに頼ることまで下手くそになっていってしまうんですね。
これ怖いところですよ。
どうせわかってもらわれへん。
どうせ自分でやるしかない。
どうせ期待しても傷つくから、期待せんほうが楽。
そうやってね、僕を守ってきた言葉が、いつの間にか僕自身を閉じ込める要塞のようになってるんですよ。
自分を守るために着込んだはずの鎧が、気づいたらその鎧の脱ぎ方がわからなくなってるんです。
しかもね、その鎧ってね、大体デザインがあまり可愛くないんですよ。
可愛げのないデザインをしてるんです。
どうせ着るならもう少し僕に似合うやつがいい。
なんなら着心地もいいほうがいい。
でもね、僕がこれまで身につけてきた強さとか器用さみたいなものって、マイノリティとして、ゲイとして生きていくために必要やったから身についてった、身につけてきたんやと思います。