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  2. ○ 5.2 石拾いの話(ピダハン編)
2023-08-14 14:06

○ 5.2 石拾いの話(ピダハン編)

石拾いから始まる、散歩のような雑談。

もの派、ピダハン、科学と信仰、アイヌ文化。3人が当て所なく喋った先で辿り着いたのは……?

出演者 : 藤野真司, のぞみるき, 塩田素也
収録日 : 2023年6月21日

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Narration by VOICEVOX:冥鳴ひまり
Produced by かもすハウス

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前回からの続きをどうぞ。
つい先日、僕が暮らしているエリアにはポロト湖という湖があるんですよ。
ポロトというのがアイヌ語で大きい湖という意味なんですけど、
そのポロトの湖の周辺に森があって、そこの森を案内してもらったんですよね。
その方は自然も詳しいし、アイヌ文化にも精通されている方で、
一個一個植物とかを紹介してもらいながら、ネイチャーツアー的に案内してもらったんですけど、
アイヌの方々はこの葉っぱをこういう風に使ってたよとか、東側の木の皮は硬くて取らなかったんだよとか、
いろんな生活の様式も含めて教えてもらったんですよね。
そうすると、僕ポロトの森自体は何回も行って、遊歩道みたいなのもあるんで、
散歩したりとか前までしてたはずなんだけど、ザーッて通り過ぎてたところが、
そうやって教えてもらうと、一歩一歩いろんなものがありすぎて、前に進めない、全然。
ここにもあれがある、ここにもあれがある、ちょっと待ってよく見るとここにこれあるじゃんとか、
もうすごすぎて前に進めないんですよ。
5メートルぐらいの道にいろんなドラマがあって、
それも世界の見え方の解像度が上がるじゃないですけど、
僕ら今自然の中でリアルに暮らしてないし、愛の民族のようにっていう森に入る、森の中で何かを探すという必要性に駆られてないので、
そうなると、すごく豊富な何百種類という植物が自生しているその森、
実際には何百種類の木々が並んでるんだけど、
全部一種類の木みたいな認識になるわけ。
一色みたいな、緑みたいな。
ザーッと通り過ぎちゃうみたいな。
っていうことが、なんて僕はもったいないことしてたんだみたいなふうに思ってきて、
それは石を拾うときもそうだし、アートで何かを表現するときにも、
そういう感覚が自分の場合は必要なんだなって、再確認するというか。
森に入り、石を拾いなさいと言いたいですね。
急に教訓になった。
でもすごい藤野さんらしくていいですね。
なんだっけな、怪しいとこ忘れちゃったな。
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なんかこないだ聞いた話で、類人猿と人間の結構大きな違いとして、
パターン認識ができるようになっていると人間のほうが。
それで、ある意味インプットの負荷をちょっと抑えている。
要するに今言ったみたいな、森を見て木がいっぱいあるみたいなふうに認識することで、
一本一本のテクスチャーみたいなものとか、細かいインプットをせずに概念として木がいっぱいあるみたいなのを受け取るっていうことで、
脳の負荷をちょっと落として、その代わりにそういう概念を扱えるみたいなふうに進化しているので、
実際実験すると類人猿のほうがそういう一瞬のうちに認識できるものの数とかは人間よりも多くて、
人間は見ているけど結局脳に入ってないというか、インプットされてないっていう状態になりやすいみたいな。
だから多分そこのそうなっちゃうっていうのがある意味宿命でもあり、
でもやっぱりそっちに傾きすぎると気持ち悪くなってくる部分も持っていてみたいな。
だからこの現代が古代機に比べてすごく情報が増えたので、やっぱり人間が処理しきれないレベルの情報なんですよね。
だからその負荷を下げるためにインプットの情報を下げてパターン化していろんな物事に対処するっていうのは当然なんだと思うんですけど、
それによっていろいろ幸せも感じづらくなってるのかなってすごい思って。
すごい最近僕今本を読んでてまだ全部読み終えてないんですけど、ピダハンっていう少数民族知ってます?ピダハン。
聞いたことない。
Amazonの奥地にいる400人ぐらいしかいない少数民族なんですけど、彼らの言語っていうのがめちゃくちゃ独特で、それすごく研究されてるんですけど、
未来を表す表現と過去を表す表現が存在しないんですよ。
そして右とか左とか色の概念もない。
本当独特なんですよね。
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少ない人数のコミュニティを回していて、すごく注目すべきはそのピダハンの精神状態っていうのがめちゃくちゃ幸福らしいんですよね。
怒りとか焦りみたいな感情がほとんど見られない。
そうなんだ。
これってめちゃくちゃ考えさせられるというか、結局さっきももとやさんが言ったみたいに、人間は未来のことをリスクを予見して、そして過去の失敗を振り返ってまた対策してみたいなことをやれたから死ななくなっていきましてね、発達として。
それでやってきたんだけど、現代人の僕たちを見てみたら、結局その今以外のその前後の出来事のことに対してめちゃくちゃストレスを抱いている。
未来への不安と過去への後悔みたいなもので、すごく苛まれてるんだが、それはやっぱり情報が多いからっていうのもあると思うんですよね、僕は。
僕すごくそのピダハンの生き方、自分自身のなんかこう、すごい参考にしたいなと思ってるのは、多分なんですけど、今っていう時間の幸せというか、今目の前にあることの美しさとか価値みたいなものに注目するのにスキルが必要な時代になってしまっていて、今以外の前後のことが気になりすぎて。
だからその今に意識を取り戻すというか、そこへの集中力を取り戻すことが割と精神的に穏やかでいられる、過ごせるためのヒントになるかなって思ってるんですよね。
で、今なんか話してたことが偶然つながったんですけど、僕にとって石拾ってるのって多分まさにそうだし、いい石を探してる時に、明日のプレゼントしようかなとか考えないんですよね。
だからそれが割と僕、アートでもやりたいことかもなって思ったりしてます、最近。
見ている人に届けたいものがそういうこと。
ちなみにそのピダハンの今僕が書いてる本を書いた人は、もともとクリスチャンで、アマゾンの奥地に行ってキリスト教を布教するために活動してた人なんですよ。
で、結局ピダハンの言語を研究して、彼の生き方に触れているうちに最終的に彼はクリスチャンを辞めて森で暮らすことを選択したんですよね、ピダハンたちと一緒に。
アマゾンで暮らすっていう、その反省を書いている本なんですけど、めちゃくちゃ面白いですよ。
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そうですね、そういう意味で言うと、さっきの今に集中する技術が必要みたいなところも、アートの作品の見方とかも、
そういうふうに見たほうがいい作品っていうのがあるなと思ったりするんですよね。
さっき言ってたモノハとかもそうなのかなと思うんですけど、
多分そういう概念である程度パターン化して、ジャンルだったり何か知識として認識するっていうのでわかる面白さもあるけど、
今目の前にある作品にただ集中している状態みたいなのが、結局一番干渉者として楽しいっていう意味では一番楽しいのではないかみたいな感じもしていて、
何て言うんですかね、そこに集中するためにこそ逆に入り口として情報があったりするのはいいんだけど、そこにずっと留まっているともったいないなって思ったりしますね。
確かに。
結局情報であらゆるものを情報発信で感覚を動かすみたいな、そういう回路がすごく増えすぎたことによる疲れみたいなものってあるんだと思うんですよね。
疲労がすごい加わっているというか、体という機関に。そこに対するこれじゃあ行き詰まり、行き詰まるよねみたいなところで出てきたのがマインドフルネスって言われているものだったりするのかなとアプローチとして、理性とか合理性だけで突き進んできた社会が、
これだけじゃやっぱりダメっぽいねって気づいて、仏教が何千年も前からずっと言っていたようなことを、その瞑想みたいなエッセンスだけを抽出して、そういうのが必要だよねって言ったのがマインドフルネスなのかなと僕は理解しているんですけど。
その流れってすごく計らずも、気づかされるというか、やっぱそうだよねってダメだよねこれじゃあって思うんですよね。
なんかそれが例えば料理をしていてその瞬間が訪れる人もいるし、読書をしていてとかいろんなあらゆるそういう存在、そういう時間って存在するんだと思うんですけど、なんかすごい集中しちゃう時って何かあります?もたやさん。
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集中しちゃう、結構集中しちゃいがちです。
集中しちゃいがち。
集中しちゃいがちなんですけど。
逆に今に注目しすぎてる人。
もしかしたらそうだ。
もうちょっと先のこと考えてくださいみたいな。
そうそうそうそう。
逆に。
そういうこともあるかも。
なんだろう、なんかその今ちょっと聞いてて思ったのは、そのさっきのピタハンみたいな過去とか未来にとらわれないっていう話って、なんかそれをまたその多分情報として受け取ってしまうと、精神論的なものになっていくなと思うんですけど、
多分なんかその藤野さんの意思拾いだったりとか、あと多分その仏教も結構教えの内容というよりも修行の方に重心が実際はある。
禅とか特に分かりやすいけど、これをやり続けるっていうことが大事っていう風になっていて、
それで多分やっぱりその精神論では結局限界があって、なんかその身体勢を伴ってその今に集中するみたいな、なんか準備ができてないとできないみたいなことがあるからなんだろうなと思うんですよね。
確かに実践的ですよね、心としての瞑想って。
だからその意思拾いもその瞑想の方法として結構。
僕は瞑想をやってたんですね。
そうじゃないですか。
なるほど。
仏教できるじゃないですか。
そうか。意思拾い教。
シンプルでいいですね。
まだまだお話は終わらないようです。
次回もお楽しみに。
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