ストレスの理解と解釈
前回からの続きをどうぞ。
うん、確かにね、なんか、その藤野さんが言うように、
ストレスって、一つ起きたストレスに対して、
ネガティブに解釈してしまう人ほど、ストレスが大きくなっちゃって、
でも、それが、その解釈の仕方は一つじゃない。
何だろうな、おじいちゃんみたいかもしれないとか、
自分には、これが今必要だったんだ、みたいなことだと思うんですけど、
その、どれを信じるか。
いろんなある解釈の中で、どれを信じると、
自分が今を生きれるかみたいなことなのかなって、聞いてて思いました。
なんか、私も結構、スピリチャルっていいなと思ってて、
都合がいいなと思ってて、
結構、虫とかでも、メッセージを持ってるとか、
スピリチャル界では言うんですよね。
神社に行った時に、蝶々がふわふわ待ってたら、
あなたは神様から招かれているメッセージだよとか、
ネットで調べると、なんか出てくるんですよ。
虫の知らせじゃないけど。
虫の知らせね。
実際、それって何でもいいんだろうなと思ってて、
その人がどれを信じるかで、ちょっと今を頑張って生きれるか、
っていうその都合の良さが、やっぱり科学にはない良いところだと思うから、
非合理なところが合理的みたいな。
非合理だけど機能的みたいなことなんですかね。
そういうことかも。
案外機能性があるなと思って。
非合理だけど機能的は、なんかたくさん見つけていきたいですね。
アートなんか最たるものでしょうね。
確かに。
アイヌ文化のカムイ
非合理だけど機能的で思い出したのは、やっぱりアイヌ文化のことなんですけど、
アイヌ民族の特徴的な信仰の形として、
カムイっていうもの、自然界のすべてのものに宿ってると考える、
精霊みたいなものの存在をカムイって言うんですけど、
カムイに感謝するっていう一連の儀式、カムイのみと呼ばれる儀式だったりとか、
白樺から、例えば白樺という木から樹液をもらうときって、
木の先の限られたタイミングでしか樹液が出ないんですよね。
キシリトールの原材料だから、ちょっと甘い水みたいな、サラサラした水みたいなのが取れるんですけど、
それをもらうときにカムイへの感謝の儀式みたいなことをやったりするんですけど、
現代人の見方だと、木から樹液が取れるっていうことに対して感謝するなんて、
心の優しい民族だったのねってちょっとロマンチックな見方しちゃう、
神秘化しちゃった見方をしちゃうんだけども、
彼らにとって感謝するっていうことが合理的だったんだと思うんですよね。
なるほどね。
人口として、厳しい北海道の自然を生き抜かないといけないってなったときに、
周りの環境全てのものがカムイであって、その影響の中で我々はやっと存在できている。
そしてカムイの世界と、アイヌっていうのが人間っていう意味らしいんですけど、
アイヌの世界はパラレルワールド的に2つ存在していて、
カムイの世界からこちら側にアクセスしてくる、
カムイが自分たちの世界にアクセスしてくるときには、
鮭だったりクマだったり葉っぱだったり水だったり、
いろんな形の着物を着てこちらに来るという認識なんですよね。
だから鮭だったら皮とか肉とか捨てるところがほとんどないんで、
カムイチェプっていう名前、神の魚みたいな風に呼ばれてたんですけど、
着物だけをいただくんですよ。肉とか皮とか。
で、中の魂はあちらにお帰りいただくと。
で、こんな送り物を着物を着てくださったんだから、
定調に送り出すあるいは感謝のメッセージをあちらの世界に送るということで、
もう1回また来てもらおうと。
っていうその循環こそが彼らの生きてたリアリティだったので、
当たり前にやるというか、やんないと自分たちが困っちゃうっていうリアリティの中でやってたんで、
その心が優しいとか、SDGsですねなんていう風にあのゲームタイトルが、
ちょっと愛の文化のことを言ってると僕がイラーッとしたんですけど、
SDGsって。
貴様は何もわかってないっつって石を拾ってこいみたいな。
とりあえず石を。
とりあえず石を拾ってくださいみたいな。
みたいな話になるんですけど、
なんかそれさっきるきさんの話聞きながら何か思い出しました。
いいですね。それがリアリティっていうのがすごいいいなと思いました。
本当にそうだなと思います。
ちょっと前の僕ノートにも書いたんですけど、
雨とアイヌの信仰
水野神威の話。
輪っか牛神威っていう水野神様の話ってしましたっけ?僕。
いや、聞いてない。
それも愛の文化の研究をされてる教授というか、
地元の愛の教会にも所属されてる方なんですけど、
その人の雨の話がめっちゃ面白くて、
雨っていろいろ自然界にいる神威の中でも、
かなり上位の神威というか、
火の神威と水の神威が一番尊いというか、
定調に扱われている神威なんですけど、
水を司る神威は輪っか牛神威という女性の神様なんですよね。
で、その雨って、
僕らは雨降ると観光客だったりすると自分が、
雨かよってやっぱ思っちゃうんだけども、
愛の民族にとっては雨は割と喜ばしいものだったという。
それは何かというと、
単純に水が空から落ちてくることで植物が育つっていうことと、
あとは、窒素と酸素が空気中で含まれて水に落ちることで、
魚が活発化するっていう現象が見られるらしいんですよね。
それは愛の民族にとっては、雨の後に寮に行くと魚が捕れるという兆しだったわけなんですよね。
でもその窒素とか酸素の話って、僕らが現代的な科学っていう目線で、
そういう現象を発見したから理解できてるんだけど、
彼ら、愛の民族が森の中でそれをそういうふうに理解してたわけではないじゃないですか。
単純な経験則とかでそれを知っていたっていうことがすごく面白いなと思って。
だからこの雨っていうのが割とその和歌うしかむいがもたらす贈り物的な、
実際に自分たちの生活にも直結する喜ばしいものみたいな。
だから僕はその雨の日にうちの宿にチェックインしたお客様にはこういう話をしたりするんですけど。
いいですね。
そうするとね、やっぱポロトコが雨でザーって水門が広がっていく様子とかがすごく美しく見えてきたりするんですよね。
だからこういうのって割と僕たちの現代で、
科学とかいろんなものであらゆる現象を理解している僕たちにはちょっと至れない感覚というか、
っていうのがたくさんあるんだなっていうのをすごい感じますよね。
ちょっと話があれですね。
おじいちゃんから遠いところに来たなって今思ってました。
確かに。
でも僕にとってはこうやって2人と話す時間も、
日々の中で生まれた、パラパラと生まれた思考の回路がつながるというか、
こうやって喋ることでまとまったりする部分もあるんで、
こういう時間もね、わりと石拾いに近い部分もありますけどね。
藤野さんの語りって、ちょっと落語みたいだなと思って聞いてて、
落語ってちょっと歌っぽいじゃないですか。
心地いいというか耳障りが。
でも内容もある。
聞いてる側もだから、何ですかね、石拾い的な気分の良さありますね。
テンポが。
落語を書いてるのに憧れはあるもののね。
いや、向いてると。
落語をやられてる方に怒られちゃいます。
まあ、なんかこういうまとめでいいんじゃないですか。
今日はそういう感じで。
石拾いの話でしたみたいな。
最後、急に雑みたいな。
とりあえず石拾いをしましょうということですね。
今、石拾いが難しい人は、このポッドキャストを聞きましょうという話ですね。
思考のね、思考の石拾い的な。
確かに。確かにそうですね。石拾いっぽかったね。
いい石見つかったかな。
まとまった。まとまったぞ。
じゃあ、まとまったところで。
ありがとうございました。ありがとうございました。