絵を描いてる本人たちですら思ってるっていう。
基本的に不親切ですからね、ギャラリーとか看板すら出してないみたいなところいっぱいありますからね、現代アートギャラリーとか。
そう、ギャラリーとかってみなさん行ったことあるのかなっていうのを思ってて、なんかそのちょっと怖いじゃないですか。
きっと入ったらなんかかわされるんじゃないかと。
いいますよね、入場料いろいろとか。
高級料亭に入るのと同じぐらいの多分、敷居の高さを感じる。
それこそカフェギャラリーみたいな場所と違って、真っ白な壁のギャラリー、画廊とか。
それってホワイトキューブって、四角い箱、白い箱っていう意味でホワイトキューブって呼んでたりするんですけど、
それってやっぱり、僕らなりしたしんで足を運んだりしてましたけど、冷静に考えるとちょっと怖いですよね。
変な空間ですよね。
なんかちょっと謎の緊張感ありますし、
なんかアート全然知らないけど、あの空間に気さくに入っていける人ってあんまいない気がしちゃいますよね。
そうですね。
自分も多分るきさんと知り合ったことで、美術館とか純粋なアートギャラリーっていうようなものに行くこと、機会が増えたと思うんですよね。
でも多分その前は一人では行ってないですよね、そのアート展とかも。
ジャンルとしてそんなに自分も抵抗感は強い方ではなかったけど、展示の場に行くみたいな動機はあんまりなかったよね、もともと。
ちょっと今きっかけとして、敷居が高いアートっていうのが今出たと思うんですけど、
敷居が高いアートって何か、何ですかね、具体的にどんななんだろう?
なるほど。
敷居が高くなくて、何か分かるアートって多分ですけど、人物画とか風景画とか、何かこう、技術が分かりやすいものとか?
すごいこの人、人物画だったらこの絵写真みたいによく描けてるとか、何かその肌の柔らかさまで表現できてるわとか、
あとはこの花のみずみずしい、花の質感とか色っていうのが表現できている。
こういうアートって、たぶん慣れ親しんでいるというか、これだったら分かるわっていう人って多いと思うんですよね。
それがいわゆる分かるアートなんだとしたら、分からないアートは何が描いてるか分からない、何を表現したいのかも分からない、
自分が綺麗と感じる質感とかけ離れているにもかかわらずめちゃくちゃ高いとか、そのあたりなんじゃないですかね。
なんとなくね、ちょっと具体的にどんな作品っていうか、何となくそんな感じのアートが、私にはやっぱりアートはよく分からないわって言われてそうじゃないですか。
そうですね、美大に入ってまさにその課題に自分はぶつかったと思ってて、今まで母が子供の頃から日展とか連れてってくれてたんですよ。
それは何て言うんだろう、グループ展みたいな。
その日展って呼ばれる会員で構成されているグループの展覧会ですよね。
そうですね、ある程度理念を共有した作家たちが出しているものなんですけど、そういうものを見て育って、大学に入った時に急にそのインスタレーションだったり、
一番衝撃的だと思ったダイズムの映像を見せられて、なんていうか、今まで自分はアートには絶対美意識っていうものが伴うと思ってたんですよ。
その美しさ、何を美しいって感じるかは作家や見る人によってそれぞれ異なるけれど、でもそこに美意識が必ずあって作品ができているって思ってたんですけど、
必須条件だと思ってたんですね。
美大に入っていろんな現代アートを見た時に、どれだけ許容範囲を広げても、これは美しいっていう観点では作れないものだよな、みたいなものが出てきて、そこで私はバグが出たというか、
いまだに、え、うってなります。どうする?ってなります。そういうものを見た時に。
ちなみにそのダダイズムの映像っていうのはどういうもの?
えーと、とても説明しづらいけれど、真っ白。
ダダイズムっていうそのアートの一つの現象を説明するような動画だったんですが、映像がとても乱れていて字幕も出てるんですが、その字も何回もコピーして見づらくなったみたいなフォントで説明されてて、
それを教授たちが、いや、この読みづらい字がまたダダっぽいよねーって言ってるんですよ。えーってなって。
分からせるつもりないんだ、みたいな。
それは一つあるかもしれないですね。
こちらにあまり親切ではない、分からせるつもりもない、説明もかなり少ない。
そうですね、なんかその分からなさを突きつけられて、結構くらっちゃうというか、なんか体験ってありますよね。
そうですね。
それって全ての芸術が理解されるという全体のもとで、これが分からない、お前はダメだと言われた感じに近いのかなっていう、その拒絶感というか、なんかショックを受けるって、なんか僕もそういうやっぱり経験したことあって。
今、うきさんが言ってくれたダダイズムって、1910年ぐらいに出てきたアートの一つの潮流なんですけど、時代的にはね、ピカーソとかがガンガン絵描いてた頃のちょっと後ぐらいから出てきた人たちで、
人間の理性を否定した芸術運動って言われてたりするんですよね。美術史的な解説と。
で、なんかその、要はこれ時代背景も一緒に知る必要があって、要はその、このダダイズムの時代って、やっぱ戦争がすごいやってた時代なんですよね。
で、戦争ってこう科学の発展でどんどんどんどん兵器が発達してって、それでこういかに合理的に人を殺すかみたいなっていうのが、ものすごいスピードで進歩しちゃった時代でもあって、
で、その時に芸術家たちが抱いた思いっていうのは、人間のその理性を信用しすぎた結果こうなったというショックがあるんですよね。
理性は科学を発展させて我々を幸せにすると思ってたけど、そうじゃなかったじゃないかと。
で、そういうその不安感とか、ある種の傷から発信しているので、なので極力人間の無意識に依存する芸術っていうのを理性へのアンチ提示としてやってたっていうのがあるんですよね。
だからその作品のその出来上がり、完成品だけ見るとマジで何やってるかよくわかんないんですけど、でもなんかそれをこう、美しいものっていうね、完成の受け皿で受け止めようとすると、ちょっと全然この前提が違うので、
彼らは美しいものを作ろうとしてたんじゃなくて、明確にこうアンチ提示を唱えたい対象があって、それに向けて表現、命の抵抗として表現をしていたっていうのがあるので。
でも僕もこれ調べるまでわかんなかったんですよね。ダダイズムわかんねえみたいな。ダダイズムはいいかなみたいな。ちょっと潰しちゃうみたいな。この料理私好みじゃないわって感じでお皿を向こうに避けてたんですけど、よくよく知るとそういうことだったのねーがあるんですよね。
理性では結局解釈できないものを作ろうとしているから、当然わけのわからないものになっていたっていう。
破壊的に見えますよね。
なんかその、ダダはその背景、時代背景を聞いたら、なるほどなって納得感があって、その時には必要だったんだと思うし、その現象自体は面白いと思うんですよね。
でもそのダダが生まれてから、それ以降っていうのは、その各々の作家がやっぱりそういう何かの反骨精神みたいなものを示すために作品を作ってる人とかもいて、ダダでそういう、なんていうんだろう、そういう作り方が生まれたから、今の人たちの中にも少しずつそういう表現方法っていうのは分散されてて、
今ある作品の中で、そういう何かの反骨精神で作品を作っていて、それがやっぱりその美しいっていう器には入らないみたいな時に、でもその作家さん個人の背景まで知らずに見るから、やっぱりえ、何これってなってしまう?
ってことは、なんかその、例えば芸術祭だったりとか、都心にあるモニュメントとかで、一人の人が作品を見た時に怒っている気はしますね。
その作家さんの背景聞けば、あ、そういうことねって受け止められるんだけど、やっぱり私のように美しさがある程度あるんじゃないかなと思って見たら、は?みたいな、ブルーシートやん?みたいな、ただの絵みたいな。
そうっすよね。いや、それすごく気持ちわかるんすよね。なんかその、なんか僕がこう思うのは、やっぱその前提として、アートは自分たちの生きている社会を映す鏡だと思っていて、それいろんなところで言われてるんですけど、
今現代に存在するアートがものすごく複雑難解になってるのって、イコール僕たちの社会が複雑難解であることを表してるんですよね。
で、お花をこう綺麗に描いて美しいと感じるっていうので成立していた時代のアートもあるし、それはまあ現代にもその感性は残っているんですけど、なんかその受動的に鑑賞できるアートと能動的に鑑賞しなければならないアートっていうのが、やっぱ今二つ混在してるんですよね。
それによるなんかちょっと、冒頭でちょっと話に出たどれがアートってどれのことっていう風に見えてる状態なんだと思うんですけど、
そのさっきいるきさんが言ってたみたいな、時代に対する批判性とか、そういったものをこう払んだものが割とその、なんだろう、現代アートっていう風に呼ばれてたりするものが多くて、
現代アートってその現代に作られたアート全てを指しているかって言ったら、実は使われ方としてはアート業界の中ではそうでもなくて、現代アートと呼ばれるものは大体そういう何かの批判性を含んでいたり、何かに対するアンチテーゼとか主張、社会的なメッセージを含んだものがよく現代アートと呼ばれたりしますよね。
その能動的に見なければいけない方の作品ってことですね、現代アート。
じゃあいつからそれ能動的になったのって思うと、美術史とかを見てると近代ぐらいから、ざっくり近代からちょっとこう作られるアートの性質が変わってきたなっていう時代の境目みたいなものがあることはあって、
それは近代までの時代だと、いわゆるアートがもてがえさんが言ってたみたいな、芸術っていうよりも職人工芸に近い性質を持っていたので、もっと言うと絵画とかっていうのは写真とか、写真と同じメディアだったわけなんですよね。写真の役割を持ってた。
この時代にこんな人がいましたよとか、こんな出来事がありましたよっていうのを記録する役割だったり、あとは西洋美術の中では神話の1シーンを描いて、それを人に伝えるための役割だったり、本当にいわゆるメディアの役割を担っていた時代がありまして、
その写真って言ったんですけど、それまで写真の役割で絵が描かれていたんだけども、そこから写真機が実際に登場してからは、ガラッとやっぱり絵画の役割っていうのが変わった瞬間があって、
これまではここにこんなものがありましたよっていうのを正確に記録するっていうので、それを描かれている絵を見た人は、ここにこんなものがあったんだねって割と自動的な態度で鑑賞してたんですけど、
それが写真機の役割を言ったら捨てた芸術っていうのは、絵画の方から作品の方から見てる側に問いかけをするようになっていくんですよね。
これどう思う?とか、これあなたはどう捉えますか?とかっていう捉え方が一通りではない、一つではないような表現の仕方に変わっていったために、見てる側が濃度的にああかもしれない、こうかもしれないっていう感じで態度で鑑賞するっていう風なのが変わってきたっていうのはあります。
その受動的に受け取れる昔ながらのアートっていうのと、濃度的に見ないと理解しづらい現代アートっていうのの、まずその2つが結構混在しているからややこしいっていうのがあるんですね。
しかもそれって多分両方その美術館でそのアート展として企画されてたりするから。
両方ありますね。
余計なんかね、ややこしくなってるっていうか。
そこの難しさがアートの敷居の高さの一つになってるんですかね、貢献しちゃってるんですかね。