1. 耳で旅する「みみ三重ラジオ」
  2. #2「流通の空白地帯から“努力..
2024-10-18 55:37

#2「流通の空白地帯から“努力とセンス“で地域を盛り上げる、縄文から引き継ぐ先人の話」Guest:芝崎裕也さん(南紀グリーンハウス)【旅するラジオカー in 御浜町】

「みみ三重ラジオ」は、三重県の伊勢から熊野をみなさんといっしょに旅するように巡り、ゆく先々で出会う人や地域の声をお届けするポッドキャスト番組です。

毎月第一・第三金曜日に、Spotify、Apple Podcast、YoutubeMusicなどの音声配信プラットフォームで最新の番組を配信しています。

リスナーのみなさんからのお便りをお待ちしております。

▼お便りはこちらから

https://mimimie-radio.studio.site

サマリー

このエピソードでは、南紀グリーンハウスの柴崎博弥さんが三浜町の卸地区でエアープランツを栽培する経緯やその魅力について話します。特に、地域の気候や歴史がエアープランツの栽培にどのように寄与しているのか、そして最近発見された熊野桜の新種についても触れられます。 また、南紀グリーンハウスの芝崎裕也さんが地域振興や新種の植物の発見に関する取り組みについて話します。彼は、歴史的背景を踏まえた土地への愛着と、農業への信念がどのように地域を盛り上げるのかについても言及します。 芝崎裕也さんは、地域活性化や農業振興に取り組む中での経験を語ります。彼は、花火の仕事をしながら地域イベントの企画を通じて南紀の活性化に努めており、今後の地域振興のための新しいアイデアを模索していることが強調されます。 本エピソードでは、南紀グリーンハウスの芝崎裕也さんをゲストに迎え、地域活性化の重要性や縄文時代から受け継がれる知恵をもとに、環境の変化に対応しながら地域を盛り上げていく方法について語ります。特に、地元食材を用いた料理の魅力や、地域との結びつきの大切さが強調されています。

三浜町の卸地区の紹介
みなさん、おはみえ。みみ三重ラジオスタートしました。
この番組は毎月第1、第3金曜日に配信しています。
三重県の南部地域に焦点を当てて、人や場所、物を紹介して、
みなさんと一緒に三重県を旅するようにラジオをお送りしていきます。
今回のお相手をするのは、私パーソナリティの玉置侑里子です。
私は御浜町の地域おこし協力隊をしておりまして、
同時に名古屋のZIP-FMというラジオ局でレギュラー番組をやりながら、
熊野古道があまりにも好きすぎて、この熊野地域に移住してきました。
なので、2拠点生活で毎週4時間くらいかけて通勤しております。
そしてもう1人、南伊勢町のももちゃんというパーソナリティもいまして、
交代で番組を担当していて、今回は私たまゆりの担当会になっております。
さあ、私、玉置侑里子がお届けしているミミミエラジオなんですが、
三重県の南部地域に焦点を当ててお送りしています。
三重県南部って言うと、どの辺りのことを指すのかと思いになる方もいらっしゃると思うんですが、
三重県の形で見ると、かなり下の方、南部、
いわゆる和歌山寄りのエリアになります。
ここの伊勢志摩地域と東紀州地域、
この2つの地域を合わせて三重県南部というふうに呼んでいます。
なかなか三重県って言うと、伊勢辺りまでを想像してしまう方も多かったり、
普通に住んでいる方は、その先があるのって言われてしまうこともあったりする場所なんですが、
三重県って言うと、伊勢辺りまでを想像してしまう方も多かったり、
普通に住んでいる方は、その伊勢から下にもこんな素敵な場所があって、
こんなに楽しい人たちが住んでいるっていうのをお伝えできればと思っています。
このミミミエラジオ、毎回そんな三重県の南部のいろんな場所からお届けをしております。
今日来ているのは三重県御浜町の尾呂志という地区です。
御浜町と言うと七里御浜という日本一長い22キロにわたる
されき海岸が有名なスポットだと思うんですが、
この御浜町、山側もめちゃめちゃ素敵な場所たくさんあるんですよ。
私が地域おこし協力隊としてこれまで3年間活動してきた地域でもありまして、
尾呂志地区は昔鉱山の下町として栄えたというような歴史も持っていまして、
あと熊野古道も通っている場所です。
この今いる尾呂志エリアのもうちょっと山側に行ったところに風伝峠という熊野古道、伊勢路の峠がありまして、
そこには今でも美しい石畳があって、
その石畳と森が残っているような形です。
今日はそんな尾呂志地区に来ているんですけれども、
尾呂志地区を歩いていると見つけられるのが風伝おろしと呼ばれる現象です。
これはなんて言ったらいいのかな、
山に囲まれたエリアにたまった雲とか霧が
この風伝峠と言われる谷を通って尾呂志の集落の方に
エアープランツの栽培と特徴
バーッと動く雲みたいに流れ込んでくるという現象なんですよね。
そんな風伝おろしと呼ばれる現象もとっても美しいこの卸地区。
今日はこの街の魅力を思いっきり探っていきたいと思うので、
どうぞ最後までお付き合いください。
さあ今日は御浜町の尾呂志地区を旅しているわけなんですが、
私この尾呂志地区に来たらどうしても会いたい話が聞きたい方がいらっしゃるんです。
南紀グリーンハウスの芝崎裕也さんです。
芝崎さんよろしくお願いします。
芝崎さんはこの南紀グリーンハウスという農園をやっていらっしゃる方で、
エアープランツという非常に変わった植物を育てていらっしゃるんですよね。
そうですね。日本ではまだ5、6件しか専門的にやっている農場はないと思うんですけども、
今から約40年くらい前にヨーロッパでこの植物と出会って、
私がUターンしてきて28年になりますけども、
Uターンしてすぐこのエアープランツの栽培に手がけることになりました。
まずは芝崎さんのなぜそこに至ったのかという経歴をお聞きしたいと思ったんですけど、
お生まれがこの御浜町の尾呂志地区になるんですか?
そうですね。ここで生まれ育って18歳までこの地域にいまして、
18から34歳まで農業の勉強をしたり、
あとアメリカの方でオレンジの会社で勤めたり、
それから愛知県の商社に入って、34歳でUターンして帰ってきたという経歴です。
その間はずっと農業というか植物に関することをお勉強をやられていたということなんですか?
そうですね。園芸商社だったので植物全般を扱って勉強していました。
いろいろキャリアの中でいろんな植物に出会って、いろんな植物を扱ってきたかと思うんですけど、
なぜこの御浜町の尾呂志で、しかもエアプランツという貴重な植物を育てるというふうになったんですか?
これはですね、たまゆりさんもこの御浜町に住んでいてわかると思うんですけど、
まず日本でもなかなかないぐらいちょっと距離感がある、あまり便利とは言い切れないような場所だということ。
陸の孤島って言われることもありますよね。
今はそれこそ交通インフラもだいぶ整備されて、昔なら名古屋に行ってた頃なんかは約5時間ぐらいかけて名古屋に行き帰りしてた。
そんな時代もありましたけど、今は3時間ぐらいで大体行けるというふうなところもあるんですけど、今でもやっぱり不便では不便で。
エアプランツをやった経緯に関しては、そういう日本の流通の空白地帯みたいな、特に植物を扱う上での空白地帯のようなものだったので、
宅急便で送れるエアプランツを選択したということになりますね。
そうだ、芝崎さんもしかして聞いてる方は、すいません、私と芝崎さんは結構お世話に普段からなってるのでわかるんですけど、
エアプランツがそもそも何か聞いてる方、わからない方もいると思うので、どういう植物か簡単に。
正確にエアプランツを言うと、パイナップル科、これブロメリアって言いますけどね。
パイナップル科のチランジア族って言います。
これが本当の正式な学名、族名で。
パイナップルの仲間なんですね。
そうです、食べるパイナップルの仲間ですね。
パイナップルの仲間ってものすごい種類があって、その中でもチランジア、このエアプランツと言われるチランジア族だけでも、
原種は種を合わせると3500種類くらいあるんじゃないかって。
さっきチラッと農園も見せていただいたんですけど、本当に確かに言われてみれば、
パイナップルの頭の部分、チクチクチクってしたところがその部分だけで生えていて、
しかも土を必要とせずに育つんですよね。
そうなんです。このパイナップルの中でも土を必要とするタンクブロメリアっていうものと、
エアブロメリアっていうふうに大きく2つに分かれるんですけど、
空気中の水分を吸って、木とか、現地、私の農場がグアテマラっていう国にあるんですけど、
その現地行けば、それこそ電線とか木の枝とか石にベタっとくっついてるような、
そういうくっつく、要するに着性って言うんですけど、
その種が飛んだところで発芽して、そこで着性根っていう根っこが出てくるんです。
その根っこで着地したところで育つ植物であるっていうことですね。
だから本当に多分、普通にいわゆる観葉植物って言ったら、
鉢植えがあって、そこから土に根を張って生えてるってイメージがあるんですけど、
エアプランツの場合は本当に空気の上にあるというか、上から吊り下げられてたりとか、
土がないのに流木の上で育ってたりとか、
日本人の感覚から見ると不思議な感じのする植物ですよね。
そうですね。だからこういう植物のことを、本当に専門的に言うと、
CAM型光合成植物って言うんです。
CAM型光合成植物。
そうです。要するに、地製植物、土に根っこを張って育つ植物っていうのは、
太陽が昇ると光合成をして、そしてエネルギーのもとにある澱粉を作って大きくなってくる。
土の水分を根っこから吸収して、どんどんどんどん成長していくものが地製植物とすると、
エアプランツ、要するにCAM型光合成植物っていうのは、
太陽が上がるとどんな植物にも葉っぱの中に穴があるんですね。
気孔っていうのがあります。その気孔が閉じるんですよ。
要するにイメージしていただくとわかると思うんですけども、電線にいっぱいエアプランツがくっついてますよね。
電線には土がありません。
太陽が上がって普通の地製植物と同じように気孔を開いてしまうと、
自分の体内の水分が全部蒸発してしまう。
貴重な水分が外に出ちゃう。
だから太陽が上がるとCAM型光合成植物っていうのが気孔っていう穴を閉じて日中はじっとしてるんですね。
太陽の光が弱くなると気孔の穴を開いて空気中の水分を吸収して、
自分の体内に取り組んで成長していくという、そういう植物なんです。
だから普通の植物と真逆なんですよ。成長のシステムが。
太陽の光はちょっと遮ってというか、ちょっと絶えて空気中に水分が出てきたらそれを捕まえるみたいな。
そうなんです。まさにそうなんです。
たくましい生き物ですね。
だから尾呂志は今紹介していただいたように風伝おろしっていう現象があって、
これが朝夕、私の農場も現地がグアテマラっていうところにあるんですけども、
やっぱり昼夜の寒暖の差で霧が発生するんですよ。卸と同じような感じ。
尾呂志も結構昼夜の寒暖差で、背後に紀伊山地があって、朝夕やっぱり霧が発生して、
水分を伴った風が尾呂志地区に入ってくるんで、こういう植物を育てるのが日本で一番最適な場所だと思います。
すごい、だから南米のグアテマラと似た気候がここにだけあるみたいな。
ここは日本でも結構珍しい、中南米ではレインフォレストって言うんですけどね。
要するに雲霧帯気候とか、その高温で多湿な気候帯とよく似た感じ。
屋久島に次ぐぐらい降水量も多いわけですし、この辺は。
そういう意味では植物を育てる最高の環境で、私は植物を育てさせていただいてるっていう感じですね。
本当ですね。でもそれは先ほどおっしゃったように、ここは配送に関しては空白地帯だったから、仕方なく最初はエアプランツを始めていただいたんですね。
やったんだけども、どんどんどんどん自分の住んでるこの土地の栽培条件を調べていくと、本当にたまたまだと思うんですけども、
チランジアとかこういうCAM型光合成植物を作る上での最高な地だったっていうことが。
へーすごい不思議なご縁というか、びっくりですよ。南米って言ったらもう世界の裏側ぐらいの場所なのに、
この熊野にその場所と同じような気候条件が発生してエアプランスたちが健やかに育てる環境がここにあると。
熊野桜の新種発見
そういう意味ではこの歴史も結構物語ってて、この尾呂志地区っていうのは昔から、紀伊國屋文左衛門さん、まあ徳川吉宗さんの時代から、
この紀伊続風土記とかあるんですけどね。そういった流れでもこの尾呂志地区ってのは特別に農産物がおいしく育つところっていうふうに記載されてますから、
よっぽどこの地域っていうのはそういう環境に恵まれたところだったのかな。
たまたまだから植物をどんどんどんどん研究して、奥深く追求していくと、この地域の環境の素晴らしさとか、
どんどんどんどん分かってきたんです。
本当ですね。面白い。私も結構芝崎さんと、私は観光に関することを御浜町で地域おこし協力隊として活動してたんですけど、
その中でいろいろ協力していただくことがたくさんあって、その中でもう一つ熊野桜のお話も最近すごく盛り上がっていて、
100年ぶりに見つかった桜の新種がこのエリアで見つかったってことなんですよね。
そうなんです。だからこう、もともと早崎の桜、僕も植物をずっと勉強してきた中でね、
やはり3月の上旬ぐらいにこの小倉地区でも、普通の某吉野よりも早く桜があるなとは気づいてはいたんですけど、
まさかそれが新種の桜だったとは思いも寄らなくて。
熊野の桜は二度咲くって言われてたんですよね、もともと。それがなぜかはずっと分かっていなくて、最近になって。
ちゃんと専門の勝木敏夫先生っていう桜の本当の日本でも有名な専門家の先生が来て、ちゃんと立証してくれたということなんですね。
芝崎さんとしてはもともと、あの桜なんか早く咲くなっていうのはずっと見てらっしゃったんですね。
ずっと気にはなってたんですよ。何人かとこれは新種じゃないかななんて冗談混じりでね、話もしてたことがあったんです。今から15年ぐらい前に。
査識したら面白いかもわからないねとかね、そういうことまで話してたら、実際にそれが新種の桜だったってこと。
へー、だからその、あれですよね、この地域そのエアプランツが育つっていう環境にしても、その他にはない新種の桜が見つかったっていうことにしても、結構植物の専門家の観点から見ても、このエリアってすごい面白い場所だったりするんですよね。
ご存知だと思いますけど、この地域には日本で唯一その明治10年ぐらいにね、日本の親善の団体がインドへ行って、育った植物園でもらってきた紅茶の種が全国にね、ばら撒かれて、結局そのアッサム種っていうんですけど、紅茶の種類で、アッサム茶がこの卸地区にだけ残ってるんですよ。
あります。今でもね、あの紅茶の畑が残ってるけど、それはこう、インドの枯れ方から最初にやってきた種でできた紅茶だったってことなんですね。
そういう意味ではもうその文献にも載ってますけど、ここに全部あるわけなんですけどね。
農業と歴史のつながり
そう。
紀伊続風土記とかね、この辺にいっぱいありますけども。
すごいんですよ。
ちょっとリスナーさんに説明させていただくと、今、柴崎さんの農園の隣にあるご自宅の書斎でお話を聞いてるんですけど、もうね、本棚がすごいんですよ。
三重県史?
続風土記。
続風土記。もう分厚い本がいっぱい並んでて、これは芝崎さんの蔵書ですか?
これは父がですね、生前ずっと研究してた。父は郷土史家で熊野古土世界遺産の推進協議会の会長をやってたんですけども。
そうですか。
そういうその郷土史家の息子として生まれ育ってるんで、どうしても歴史にもやっぱり自然と興味があって。
父が亡くなってからも、この一部はね、本当に貴重なこれから研究していただきたいという資料は、今、熊野古道センターに寄贈してますけども。
で、たまたまここの今インタビューを受けてるこの場所で、父が20歳くらいの時に縄文時代の矢尻を見つけたんです。
ここが今、要するに埋蔵文化財の研究機関の中では遺跡として登録されている場所です。
そうなんですか。縄文時代に人が暮らしてた形跡がある?
ある場所です。
じゃあ、そんなに何万年も昔から人が自然の恵みを生かして住むのに適している土地なんじゃないかってことですよね。
たぶん、もともと日本、古来こういう民族というか、日本の土着民族、いろんな経緯で日本人はいろんな民族と交わって今に至っていると思うんです。
もともと日本にも当然、縄文時代前から人がたぶん暮らしてて、ここはやっぱり自然が豊かだったので、
狩猟とかそういった稲作文化が中国から伝わってくる前までは、そういった豊かな土地で人がちゃんと住めるだけの環境がすでに整ってたんじゃないかなと思うんですよね。
ほんとですね。畑をやって農作物を育てるのにもいいし、きっと狩りをしたりとか野生の果物を取ったりとかもできるような場所だった。
そういう場所だったんです。この紀伊半島っていうのは日本でも一番大きな半島で、日本のどっちかというと温暖な地域に位置していて、
そういう意味ではいろんな作物も、たぶん自然の作物も取れたと思うし、もちろん海も川も山もあるわけですから、山の恵み、海の恵み、川の恵みも当然あったはず。
そういう中で日本古来の、本当に日本の土着してる民族がここでちゃんと生活ができてたんじゃないかなと思うんですよ。
ほんとですね。芝崎さんはやっぱりアメリカの農場で研修を受けられたりとか、あとは愛知県で商社でバリバリ働いてた時もあったりとか、
現在でもエアプランツの販売の過程で、いろんな日本全国、世界も飛び回られてる方だと思うんですけど、一回地元を出られたわけじゃないですか。
ここに戻ってこようと思った理由っていうのはあったりするんですか?
世界中いっぱいいろんないい場所もいっぱいあるし、当然愛知県が嫌いで戻ってきたわけじゃないんですよ。
ほっとします。愛知出身なので。
で、僕の場合一番大きなユーターの理由が、農家の長男だっていうこともあったのと、
で、一人息子だっていうこともあったね。姉と妹はいるんですけど、とついでしまってて。
そんな時に、父と母がほぼ同時にちょっと難しい病気になっちゃった。
母の場合は3年という期限を限られてたんで、それも難しい。何病中の何病だったんですよ。
で、結局介護が絶対必要な病気だったし、
とついだ兄弟をあてにしていくわけにもいかなかったので、
ちょうど会社の創業に関わった人間の一人だったので、
僕がアメリカから帰ってきた時に、とある会社を独立して一人で始めた組織の先輩だったんですよね、私の上司が。
で、帰ると同時にその会社、立ち上がったばっかりの会社に最初の社員として入って、
3人が今400人ぐらいの会社になっているんですけども、
その会社の創業に携わって、ある程度大きくなって、超大手、日本の一番トップ企業ともくっついてたりして、
自分の仕事ももうそろそろ役目を果たせたかなぐらいのタイミングで関東にいたんですね。
最後は熊谷にいたんですよ。
熊谷?
熊谷市。
あ、熊谷市。
日本で一番熱い地方、埼玉県。
あそこが最後の赴任地だったんですよ。
そんな矢先にそういう親が病気になっちゃったんで、絶対に寝たきりになって、最後は死を迎えるという、そういう期限も切られてたんで、
これはもう天気だなと思って。
家内も本当にありがたいことに、保育園からずっと一緒に同級生でした。
すごい!それは同じ地元も同じですか?
もうずっと小学校から高校までずっと一緒で、別に付き合ってたわけじゃないんだけど、
兄弟みたいに育てて、たまたま縁があって結婚して、親もこっちにいるんで、帰ってもいいかなっていうことで相談をして、
子どもが小学校に入る前だったんですよ。
胃を消して、部下ももう34歳にして、部下も何人もいたような状態だったんですけど。
例えば関東、埼玉とか愛知県に比べると、非常にビジネスをするにあたっては障害も多い場所ではあったと思うんですけど、
それでもその逆境を踏まえてもここで頑張ろうという気持ちがあったんですよね。
僕の中で、後でお話しすると思うんですけど、自分の中の座右の銘みたいなのがあった。
それ聞きたかったんです。
それで若い頃から信念で貫けば幸せが来るっていうのが私の座右の銘。
信念で貫けば幸せが来る。
こういう部分、この信念の一つには自信というものがなかったら、その信念で貫くことができないと思うんです。
たまたま農業をずっと主に勉強、自分で選択して農業の世界にずっと入って、柑橘から園芸の世界まですべて、
農業の中でも狭い分野ですけども、一通り勉強して自信もついて、ある程度知識も得て、
そんな中で帰ってきて自分で事業を起こしてもできるんではないかなという微かな自信みたいな。
それまでの経験に裏打ちされた自信があったからこそ、自分たちに帰ってできると。
前の商社時代から世界中回って、いろんな園芸の世界を勉強してきたのもあったんで、何とかなるかなと。
実はここへ来た時に最初、周りの人たちが、たくさんの業界の友達がいっぱいいたんで、
お前が独立して農業生産やるんだったら、いくらでも俺が売ってあげるよとかね、
荷物をいくらでも運んであげるよとかさ、いう話だったんだけども、
それで実は私、台湾の担当だったんですよ、7年間。台湾を担当してた。
その愛知県の商社の時にね。
台湾も大好きな国だったんですけど、その大好きな仲間たちが、
お前がそうやって会社を辞めて独立するんだから、いくらでもいい商品を送ってあげるよとかいうふうな感じで、
もうワクワクしかなかったので、すごかったんだけども。
それこそ、さっきの不便なこの地域の話。
蓋を開けてみたら。
電話一本で、お前どこの植物園芸も取りに行かないよって。
えー、みたいな。
えー、どうしたらいいのって。
いや、宅急便で送れるものしかできないよね、ランチって。
そういういろんな経緯を得て、今の事業につながっていくわけなんですよ。
本当ですね。だから今までずっと人生の中で積み上げられてきた農業についての知識とか思いみたいなものと、
この改めて地元に帰ってきた時、その逆境をチャンスに変えるみたいな。
その展開によって、今があるっていう感じですよね。
地域振興の思い
結局、物事を判断するためには覚悟はいるんですよね。
自分でフリーランスになるわけですから。
覚悟を決めて、自身だけでは貫けると思ってもなかなか貫けない。
やっぱり自分の周りの環境をしっかり理解していかないと。
そこで初めて、自分の置かれている立場がわかって、これからどうプランニングしようという風なところから始まったんです。
その中でいろんな問題がいっぱい出てきちゃったんです。最初から。
これはもうこうしないといけない、ああしないといけない。応用問題を紐解くようにパズルを…
どこか道がないか、何か方法がないか。
そういう流れでずっとやってきたんで。
でもそれができたのは、自分は今までやってきたんだから、ここでもやれるっていう自信があり、
決めたからにはもうここでやるぞっていう覚悟もあったから、何があっても解決を探してきたってことですよね。
そうですね。でもそれができないと、やっぱり暗所に乗り入れちゃうし、
やっぱりそれは経験値で持って、おそらくほとんどの解決策が出てくるんだろうなと。
あとはポジティブな考え方で一緒にいるということ。
まあなんとかなるやん、みたいな感じで。
だってもう本当にね、この土地の利を、もともと不利だったものを利っていうのに転換されてますから、
だからそういう発想の転換とタフさみたいなのがあれば、全然やっていけるよっていう。
ここに住んでるからこそできることがたくさんあるよってことですよね。
素晴らしい環境があって、あとは自分の努力と要するにセンスなんですよ。
これはどういうセンスかっていうと、もちろん経営センスっていうのもいるんですよね。
だからなかなか頭でっかちになりすぎて、書物だけで勉強ばっかりしてると、なかなか自然はそのように答えてくれなかったりする。
自分が作ったものをいかにうまくプロデュースするかとか、そういうちょっとした違った目線でね、
地元からちょっとでも出て、自分の商品を買ってくれるお客さんの目線を見に行ったり、
いろんなアイデアを外から地元を見たりすることによって、たぶん解決策はいっぱい出てくるんだろうなと思うんですよ。
僕はたまたまそういう営業という、商社マンの営業という部分にいましたので、
世界中回ってたし、日本国内中回ってたんで、そういう見方が自然と備わってたのが、ちょっとラッキーだったかなというふうに思うんですよね。
しばさきさんから見て、もし今一旦土地の外に出てしまったけれども、戻ってきて何かしたいなって考えてらっしゃる方とか、
この地域で今後、自分の事業をして生きていこうと思っている方に向けて考えてらっしゃることとか、もし伝えたいこととかあったらお聞きしたいなと思うんですけれど。
私の場合は、今もさっき言ったようにですね、一旦外に出ましょうと。
地域活性化の開始
僕自身がですね、ここに帰ってきてちょっとびっくりしたのは、来ていきなり地域活性化とか農業振興に携わってしまったんですよ。
平成7年に帰ってきて34歳で、10年間何をしたかというと、祭りイベントばっかりしてます。
今も今日も熊野大花火のTシャツ着てらっしゃいますよね。
これはね、なぜかというと、実は会社を辞めると当然失業するわけですよね。
で、1年間ね、やっぱりこのすぐさまこのような農場があるわけじゃないから、1年間かけて農場を作るわけですよ。
その間は私、失業中のみなんですね。
そうすると、この今地元にある和田インカテンっていう、この熊野花火の大仕掛け最後のフィナーレを担当している、この地域唯一の花火屋インカテンさんがあります。
そのインカテンさんの先代の奥さんがこの里出身だったんです。
そのお一子さんが私の花火の師匠で、たまたま先に家族、子供と連れて先に里に帰ってた家内が、その師匠のファミリーと友達になってて、
で、私がその後、会社を全てちゃんと残無処理をして、帰ってきた時に歓迎会してもらった4月のその席で、暇だったら家を手伝ってくれないと。
じゃあ農業を立ち上げるまでのブランクの間で花火師さんの仕事を。
10年間やね。
10年間!? えー、すごい。
じゃあ熊野の花火大会で打ち上げられる花火も作ってらっしゃったんですか?
作ってるっていうか、我々はどっちかというと、7月から8月の17日が結局熊野の花火。
8月17日って決まってるんですけども、この和田インカテンさんの守備範囲っていうのが、まさに南伊勢町から串本町の間なんですよ。
ちょうどこのラジオ番組と同じエリアなんですね、ほとんど。
そこのエリアっていうのは大体7月、大体南伊勢町から始まるんですけども、その辺からずっと南下してきて、
旧北町、昔で言う木永島の灯篭祭り、大和瀬、そして熊野、その間に串本があったり神宮があったりとか、大きな花火がいっぱいあるんですよね。
そのインカテンさんだけのスタッフって、そんなにメンバーがいないんですね。5,6人でやってるんですよ。
で、その花火の打ち上げ解除っていうのは、セッティングから打ち上げ当日前のセッティング。
特に熊野の花火なんかは、大体10日前から準備をしてやるわけですよ。
大変ですよね。めちゃめちゃ大変ですよね。
10日前からセッティングをして、花火終わってその10日間で準備したものを一晩のうちに片付けないといけない。
大体8月に入ったらね、ほとんど寝る時間がないんですよ。
寝ればもう死んで、花火の準備。
そう、結局その次の現場がいっぱい重なってたりするんで、もう灯篭の花火っていうのはこの辺の文化なんで、
どこの地域地域でも、お盆からお盆後にずっと花火打ち上げてツイッターするんですよね。
現場を掛け持ってやるんですよ。
そういう流れで8月17日を迎えるわけですから、とんでもないぐらい忙しくて。
本当ですね。
結局やめたかったんだけど、もっと早く。やめられなくなって。
じゃあその花火のお仕事をしながら農園もやられてる時期もあったんですね。
地域イベントの企画
おもしろすぎる。
だからどちらかというと流れで手伝ってたというか。
ただ僕も花火が大好きで、一時は、私は今花の世界をやってますけども、花火の世界に変わろうかなと思ったぐらい花火が好きになってしまった。
本当ですね。陸というか大地の花と空の花とみたいな。
だから花火はそういうきっかけで花火市の道を行ったんですけども。
その他に、この地域帰ってきたらいきなり東吉州活性化推進協議会っていうのがあって、そこの中に活性化大学っていうのが過去にあったんですよ。
今から28年前に。
その第2期生で、僕が入学を申し込んでないのに、帰ってきたら私の知り合いの方が、お前帰ってきたみたいやなって。
活性化大学っていうのはできたから、そこへ申し込んどいたよって言って。
勝手に応募されてたんだ。
勝手に応募されてたみたいな。
すごいなんか芸能界みたい。勝手に履歴書送られた。
結局そこでいろんなことが起きたわけなんだけども、その地域を盛り上げるための、地域に残っている若者たちで、
この熊野とはどういうとこや、熊野はこうあるべきや、こうしないと、もっと活性化しないとか言って、そういう寺小屋みたいな感じで集まって。
熱い熊野をこれからどうしていきたいっていう議論がその場で繰り広げられたんですね。
そういう議論が地域地域でいっぱい起きてたんですよ。このままいったら地域そのものが疲弊してしまう。
何年前くらいのお話でしたっけ?
28年前。
28年前。
で、ここの地域も実はそういう話があって、帰ってきたその年に卸米祭りっていうのをやったんですよ。
今もういないんですけど、旧卸中学校っていうところがあって、もう本当に生徒数もどんどん減っていってる。
そういう中で卸地域っていうのは、この風伝卸の恩恵を受けて、米がものすごくおいしいんで、
米をやっぱり主としたPRイベントをしようということで、米祭りってなったんですよね。
グランドが人の頭で埋まるくらい、キーハント最大の大餅巻き大会とか。
大餅巻き大会すごそう。餅巻き大好きですもんね。
100票の餅米をついて、みんなでバーッと巻いたりとか。
あとその活性化大学時代に、やっぱり七里見浜海岸をなんとか全国に発信しようということで、
七里見浜の砂利浜を使った日本唯一のそういうイベントをやるっていう、七里見浜ジャリンピックっていう。
ジャリンピック?なんですかそれ。
九州には日形があるでしょ。熊本とかあの辺。ガタリンピックとかあるんですけど。
なんとかピックってオリンピックにかまけてあるような。
あえて足場の悪いところでスポーツ競技をやるって。面白そうそれ。
七里見浜を舞台にマラソンと駅伝やったり。本当にいろんなイベントやったんですよ。
結構両方とも卸込祭で7000人くらい来ましたし。
七里見浜ジャリンピックの一番に近くに来た著名な人をスターターに呼んだりね。
プロレスラーとかね。それこそソフトボールの世界チャンピオンのピッチャーとかね。
いろんな人が来てね。いろんな風に盛り上げたんです。
そういう盛り上がりが30年前ぐらいにちょうどあったって。
僕らは今63なんですけど、ちょうど30代40代ぐらいのその連中らが主になって。
地元の行政の若手職員。今はちょうど課長クラスとか。
ちょうど玉置さんがお世話になっているような課長クラスが。
一生懸命、行政と民間のコラボレーションっていう言葉がその頃流行ってたんですけど。
まさにコラボして、その大きなイベントを立ち上げていったっていう。
なるほどな。
未来の地域振興
忙しかったですよ。勝者時代も忙しかったけど、熊野へ帰ってきて、やっぱりここ忙しいなみたいな感じだぐらい。
花火しもやりの、そういうイベントもやりの。
本当ですね。
30年前ぐらいにそういう動きがあった、原動力みたいなのってどこにあるのかなと思って。
私たちも今、地域を盛り上げたいなっていう気持ちを持って活動してるんですけど、
どんな科学反応でそういうムーブメントになっていったのかっていうのが気になるなと思って。
まず、リーダーがお祭り男だったりすると、一気に広がるんですよ。
そこの当時の知事さんとか、その知事の下にいているこの地域の出先家のトップとかが、
何とか盛り上げようよ、何とか頑張って何か元気なことしようよっていう風な積極的に地域のみんなを煽り立てるような人物であったら、
一緒に飲みながら考えようとかね。
そういうノリの人たちがいてたから、僕らも若かったし、それに反応してたんだって。
みんな自分の仕事をしながら、自分の中でしかやってない人間が周りにいてる人たちと繋がっていくことによって、
いろんな刺激を与えられたっていうことは、やっぱり非常に良かったと思うんですよね。
本当ですね。
それがその約30年前、28年前ぐらいにそういうことが起きたんです。
一気に起きたんですよ。
一気にそこをきっかけにいろんな、例えばその当時、
避難・健康長寿推進教育会って、今どこにでも50%以上の高齢化率のところいくらでもあるんですけど、
その当時、この隣のキワ町、熊本市キワ町さんが、キワ町さんの時に全国2位の高齢化率だったんですよ。
それでこの地域、そこで、避難地域で健康長寿推進教育会になるものを、
厚生労働省も多分いろんなシステムの中で出来上がったんだと思うんですけど、
そこで僕が関わってたり、プロフィール見ていただければね、もう本当にいろんなことやってたなって。
本当にね、やってらっしゃることは一個一個聞いてるから。
だからそれぐらいみんな、若い連中が自分の仕事もそっちのけでね、いろんな地域の活性化に向けて動いた時期があった。
それが今でも熊野のスポーツイベントやってたり、ベースボールフェスタとかね、
それと大谷翔平くんがこっちでキャンプ張ったり、
要するに地域の高校と教育学校が一緒になって野球のイベントをやったりとか、
スポーツイベント、スポーツ交流とか、今でもソフトボールなんかそうなんですけどね、
ソフトボールなんかこの聖地になってますからね。
だからそういういろんなことをみんなで考えてきた結果が今につながってる。
本当ですね。
そういうことなんですよ。
これね、その中の一つなんですよ。
これ誰かわかります?
わかります?
写真なんか4人ぐらい、女性3人と男性1人が写ってますけど。
この人わかります?
なんか見たことあるような気がするけど。
この人わかります?
あー、誰だっけ?
岸部一徳さん。
はいはいはいはい、見たことある、テレビで。
ごめんなさい、この人は伊藤蘭さん。
伊藤蘭さん、はいはいはい。
この人は塩見三世さん。
あーはいはい、これどこですか、この写真。
これは少年自然の家なんですけど、これが全ての写真です。
何が起きたかっていうと、こういう形で活動していくと、
フィルムコミッションっていう組織ができたんですね。
で、もちろん今将軍がすごく有名になってるけど、アメリカでできた。
前の将軍のロケ地だったりするんです、ここ。
このキー半島って電線がないところっていっぱいあったりするんだけど、
そのロケ地に非常によくて、ロケーションもよくて。
例えば、キーの松原ってあるでしょ、島がいっぱい。
あそこも将軍のロケ地だったり、この熊野川の河原がロケ地になったり。
やっぱり魅力的なところいっぱいあるんですよ。
だからみんな来て、これもたまたま熊野行動が世界遺産になったっていうことで、
私の尊敬する内川慎一先生っていう、昔テレフォン人生相談っていうパーソナリティーやってましたけども、
その方が見えて、もともと脚本家の方なんだよね。
太陽に吠えるとか、傷だらけの天使っていう番組の脚本に立て去ったような方なんですけども。
やっぱりこの地域が大好きで、何か熊野行動が世界遺産になったから何かドラマ作ろうって。
だからテレビ関係の方々とかも来るぐらいムーブメントが起きてたってことですね。
お聞きしたいのは、これからいまいちどそんな盛り上がりを作っていくには、何をしたらいいと思われますか?
だから今の時代にあったことをやればいいと思うんですけども、
僕の中ではいまそういう活性化に関わること、いまちょっと整理が完全にできてるわけじゃないんだけど、
いまSNSであったり、いろんなチャットGDPだったり、生成アイディアだったり。
地域の活性化とその重要性
それをベースにした、いまこのインターネットラジオもそうだと思うんですけども、
人の記憶って意外にすぐ消えちゃうんですよ。たぶんこういうことを今までやってきたことをそのものをみなさん知らないんですよね。
時系列的に時間の流れとともに、記憶っていうのは新しいものにすごくパッと反応するんだけど、すぐパッと消えてしまう。
だからやり続けないといけないんですよ。それを時代にあった形でやっていく。
まさにこのインターネットラジオなんていうのは、ウェブラジオなんていうのは、まさに今の時代にあったような情報発信の仕方だと思うので、
それに関わる人たち、そこに絡み合う人たち、若い世代と絡んで絡んで絡みまくっていって、
そこにまた自分たちでプロモーションしていく、そういう著名な人を公園に呼んだりして、行政と一緒になってるんですね。
最終的にはフィルムコミッション的なものがちゃんとこちらに来て、地域の中でそういう専門的な分野ができて、
情報発信がもっといい形でできれば、もっと知名度ももっと上がるだろうし、
とにかくこういう活動はやり続けないことには、やらないとすぐ忘れられちゃうんです。
そうですね。続けるってことが大事なんだよね。
それに新しく始めるっていうのもそうですけど、こうして先人たちがいらっしゃるわけじゃないですか、
そういう方にお話を聞きに行って、こうやっていろいろ聞きながらまたやっていくといいのかもしれないですね。
だから持ちは持ち合いで、みんなそれぞれの専門分野があるわけです。
だからその専門分野の人たちといろんな形で結び合っていく。
そこで結び合ってまた違った分野の人と繋がっていくと、また科学反応が起きるという。
今の時代にあった科学反応を起こさないと、やっぱり昔ながらのやり方ではダメなんだ。
昔はこうだったというのは、それは過去の話になる。
全然やり方が変わってますから。
過去は過去として、それこそやったことはすごく意味があるんだけど、
過去に起きたことを今の形に時代の流れのやり方と希釈して、新しいものをまた生み出しくみたいな形をやっていくことが大事なのかなと思う。
そうですね。
そうか、ありがとうございます。
だからやり続けないことには意味がないし、立ち止まっても絶対ダメだと思う。
続けていくっていうことね。
僕なんかよく言われてるの、あなたが止まったら死んじゃうよって。
マグロみたいな感じですね。
僕はだから南海のトドと言われてる。
いやいやいや、マグロでしょ、黒マグロでしょ。
そういうふうなことが、みんなで今新しいものをやろうとしているのであれば、その新しいやり方をタイムリーに土地土地のキーマンと一緒に繋げていく。
それをやるのが多分、珠百合さんたちの仕事なのかな。
私だけじゃなくて、この一緒にラジオを作っている仲間たちもそうですし、やっぱりこの地域が大好きで、よくしていこうっていう思いをみんな持っていて。
専門分野の結びつき
それが本当にこういういろんな方の力を借りて、成し遂げたいなって改めて私も思いました。
だからベースになるものっていうのはある。ただ教科書が時代と特に変わっていくんですよ。
気象条件も世界状況、情勢も全部昔と違って変わってきている。
だからそこの変わってきていることをちゃんと理解した上で、新しいことにチャレンジしていくっていうことが大事。
今日はあれですよ、ここに書いている僕の中にね、気象条件の変化なんていって、今そのうちこの規範とでバナナとかマンゴーとかが路地でできるようになる。
今みかんの産地なんだけど、この宮の町。このまま温暖化が進んでいくと、本当に熱帯地方の果物を作らなければならなくなってきている。
そういう時代になってきているってこと?
本当ですね。気候も変わっていくし、環境も変わっていくし、時代の流れも変わっていくから、そこに合わせてどんどん止まらずにやり続けるみたいな。
そういうのを無視してたら、後で大変な目に遭っちゃう。これはみんな全ての分野がそうだ。
自然に近い場所だからこそ、その流れを読み取って、そこで強く生きていく。
そういうことです。
それがしわさきさんの哲学というか、生存戦略って感じですね。
本当にそうだよね。やっぱりこう、次の世代に残していかないといけない。
だからその残し方も考えないといけないし、残して次の世代がちゃんと後継してくれたら、後はその背中を後ろでニコニコをしながら笑って生きていきたいと。
本当に。
だから、私たちの頑張りを本当に応援するし、応援できるだけの一応経験も積んできているので、
何かあったら、いろんな分野の人たちとのつながりもいっぱい、我々の世代は持っているので、遠慮なく気軽に相談していただくと、何らかの役に立つかも。
だから、とにかく今日はいい機会だったと思うけど、とにかく何でも気軽に行ってきてもらえれば、それなりのアドバイスができると。
うれしい。ぜひいろいろ今後とも教えてください。
おかえり食堂。
しわさきさん、最後の質問になるんですけれども、おかえり食堂というコーナーをやっておりまして、
しわさきさんがいろいろ日本全国世界飛び山を回っていらっしゃる中で、三浜に帰ってきた時にこのお店に行くと、帰ってきたなという気持ちになれるお店はありますか?
そうですね。熊野に帰ってきて無償に食べたくなるものっていうと、
この卸地区に何軒かの食べる場所があるんですけどね。食事どころはあるんですけど、その中でも、
さぎりの里っていう直売所の上にある、さぎり茶屋って言うんですね。
こことそのすぐ近くにある茶話さんっていう。
お茶に話す。
和歌山の和歌。茶話さんっていう喫茶があるんですね。
そこで取り扱ってる、この私の友人でもあるんですけども、この卸地区の中で片川地区、桃太郎岩っていう。
川が綺麗なところですね。
水が綺麗なところで、その綺麗な水で育っているイワシミズ豚っていう。
イワシミズ豚。
一種イワシミズ豚っていう、その豚の料理を食べさせてくれる。
あれでしたっけ?湧き水だけを飲んで育った豚でしたっけ?
そうなんです。それと厚生物質とかね、そういうやたらややこしい薬なんかを使っていないんで。
それと餌がね、やっぱり普通の養豚場で食べさせてる餌と違って、自分でオリジナルの配合して作ってる餌なんで。
脂身が甘いんですよ。
そうですよね。脂って普通、とんかつとかだと脂っこいなって、ちょっと豚の臭みを感じたりするんですけど、イワシミズ豚って本当に一切ないですよね。
ないんです。それがそのイワシミズ豚の特徴で。
過去にはね、ミンポーさんのどっちの料理所とか、そういういろんなミンポーさんの食材で使われてたり、結構有名な食材の一つなんですけど、
新しい挑戦と次世代へのバトン
その豚を食べさせてくれるのが、サギリジャヤのイワシミズ豚の料理の中でも、私はカツカレー。
カツカレー。
イワシミズ豚のカツカレーはね、無償に食べられたから。
そうなんですね。
もう今でも食べたくなってきた。
結構ね、ここから近いですけど、近いからよく通われてたりするんですね。
だからお客さんとか見えてたらね、普段は家食べが多いんですけどね、お客さんとか見えたらよく連れてきます。
それと茶碗さんね。茶碗さんの生姜焼き定食。
生姜焼き定食。それもイワシミズ豚の生姜焼き定食なんですか。
これがまたうまいんだ。
今日のランチどっちにしよう。
いやもう多分ね、この二択なんですよ。
本当ですね。わかりました。
じゃあもし三浜に来ることがあったら、サギリジャヤさんのカツカレーか、茶碗さんのイワシミズ豚の生姜焼きか、二択。
わかりました。ちょっと行ってきます。
行ってください。
この後の食事の様子もきっと番組SNSなんかにも上がると思うので、チェックしてみてください。
というわけで今日は南紀グリーンハウスを経営されている芝崎裕也さんにお話を伺いました。
芝崎さんどうもありがとうございました。
さあというわけで玉置侑里子がお届けしてきましたミミミエラジオ。
今回は御浜町の尾呂志からお届けしてきましたが、柴崎さんのお話もいろんな滝のジャンルにお話が渡っていて、
いろんなお話から伝わってくるのはやっぱりこの御浜とか東紀州地域の土地の特性っていうのがあって、
それが刻々と変化していくっていう環境もあって、
でもその中でできることを何でもやって止まらずに前に進んでいこうっていう、そういうエネルギッシュさがものすごく感じられました。
私もこの土地に移住してきて、やっぱり都会、愛知県とかで暮らすのとは少し勝手が違ったりとか、
もちろん不便な点もあったりとかするんですけど、でも視点を変えればそれが逆にものすごい強みになりますし、
それがあって、その外からの視点で見た時にここにしかないものっていうのがすごくあって、
それをどうにかやっぱりこのラジオも通じてですけど、より伝えていきたいなと思いました。
またこの土地にはいろんな先人たち、芝崎さんのように、ずっとこの土地を良くしようと活動してきてくださった方々がいらっしゃるんで、
私たちもそういう人の力を借りながら、どうにかそのバトンをまた次世代に渡したいっていう気持ちにもなりましたね。
さあ、ということで、次回もこんな感じでゲストをお呼びしてお届けしていきます。
次回はももちゃんが担当してくれます。
収録をしてきたおすすめのスポットですとか、あと三重県の面白情報、
あと番組の裏側なんかは公式のSNS、インスタグラムとTikTokやってますので、ぜひチェックしてみてください。
この番組みみ三重ラジオはSpotify、Apple Podcast、YouTube Musicなど主要な音声配信プラットフォームで、
毎月第1、第3金曜日に最新エピソードを配信しています。
他にもですね、リスナーのみんなからのお便りもお待ちしています。
番組の感想だったり、あなたにとってのお帰り食堂だったり、
あと自分の地域にしかない方言の話題もあったら、ぜひ送ってほしいです。
ちなみに御浜町は、これ収録しているのが9月の、今日は18日なんですが、
17日、昨日が中秋の明月で、中秋の明月の日にたばらしてっていうイベントがあります。
これはハロウィンみたいなもので、子供たちがみなさんが軒先に置いてあるお菓子をいろいろ貰いに来るっていう、
たばらしてって、たまわるっていう意味の古語が、なまってたばらしてになったって聞いてるんですけど、
それもね、私は知らない言葉だったので、またぜひね、うちにしかない風習とか方言とかそういうのもあったら、
ぜひともどしどし送ってください。
番組へのお便り・感想は、番組の概要欄からジャンプできる番組ホームページにメッセージフォームがあるので、そこから送ってください。
はい、では桃ちゃん、次回はよろしくお願いします。
ちなみに私、たまゆりとは次の次の回でお会いできる予定なので、また楽しみにしていてください。
ここまでのお相手は、ミミミエラジオパーソナリティの玉置侑里子でした。
この番組は、trio事務局がお送りしました。
55:37

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