1. プロジェクトの秘訣を探る Project Design Room
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2024-05-20 15:51

#11-2 屋久島の自給ライフは創意工夫の塊 | 環境再生医 田中俊三(aperuy 家主)

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起業家や科学者、クリエイター、新時代を導くプロフェッショナルの原動力に迫るインタビューシリーズ。「プロジェクトデザイン」の視点から5つの質問を投げかけ、プロジェクトを成功させる秘訣を探っていきます。

第11回目のゲストは、環境再生医の田中俊三さんです。

<ハイライト> #サステナブルは我慢ではなく工夫の宝庫 #多様性があるって整理整頓されていることではない #人口が多いほど都市の環境がよくなる逆転発想 #見聞きだけではなく行動して意見を持つことが原動力 #不足はみんながつながる理由になる

<5つの質問> #1 VISION・暮らしの指針 #2 CHALLENGE・集団で挑戦することの難しさ #3 RESOURCE・壁を乗り越えるための資源 #4 CORE・困難の中でも貫くコア #5 COLLABORATION・自然と都会の協働

■aperuy aperuy(あぺるい)とはアイヌ語で「火が灯(とも)る」という意味です。私たちは心に火をともしながら、夢や希望をつかむ旅をしてます。

aperuyは2008年に自然と調和したサステナブル(持続可能)な暮らしを実践するために、その地を屋久島と決め、探究し続けています。その過程で確信を得たさまざまな考えや暮らしの知恵を「実体験」を通してお伝えることを生業としています。

パーマカルチャーをベースに、薪暮らし、米づくり、無農薬の野菜作り、廃材と自杉を使った家づくり、塩づくり、廃油を利用した天ぷらカーの使用、養鶏、ヤギ放牧、ガイド、森のようちえん、フリースクール、ゲストハウスと多岐の分野を有機的にミックスさせて、多くの人の心にワクワクした火が灯るような場を創造中です。 ⁠https://aperuy.com/⁠

■Yakushima Film ⁠https://yakushimafilm.com/

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それでは引き続き、屋久島のaperuyで自給の生活を送っている環境再生医の田中俊三さんにお話を伺っていきましょう。
引き続きよろしくお願いします。
風強いんで中入ってきましたけど、家の中はやっぱりそれで快適ですね。よろしくお願いします。
じゃあちょっと徐々に深い話に入っていきたいなと思うんですけれども、
そもそも俊三さんって何でこんな今の自然の環境に身を置くようになったのか、
何か育った環境とか、それこそ学生時代の話とか、少しどういう階段で来てるのかって、ちょっと教えてもらってもいいですか。
僕は先ほど言いましたけど、東京で生まれて東京で育ったんですけど、
小中はスポーツも好きだし、勉強も別に苦じゃなくやっている普通の小中学生だったんですけど、
高校が吉祥寺にある一貫の幼稚園からあるような高校に入って、
そこの気質が合わなくて高校2年ぐらいで辞めたんですよね。
それからはバイクが大好きで、バイクばっか乗ってる高校生だったんですよ。
やっぱバイクっていい値段するから、お金貯めるのに仕事して、仕事したら全部バイクの資金にするような暮らしをしてて、
バイク屋になるのが夢でした。
何乗ってたんですか。
その時はSRっていうバイク。
SRいいですね。
いいですよね。
ヤマハ。
ヤマハ。
それ乗って、旧車が好きな感じのタイプだったんで、最終的にハーレーに行って、スーパーローン組んで、
ハーレー買って乗ってました。
それで、やっぱりバイク屋やる、バイク屋やりたかったんで、バイク屋やるんだったらやっぱり東京だけじゃなくて、
日本一周とかして、その後バイクにどっぷりつかろうと思って、日本一周の旅したんですよ。
東京以外で走ることも初めてだったんで、ワクワクドキドキしながら寝袋持って積んでバイクに。
一人で。
一人で。
で、野宿しながら走ってて、バイク乗るのがほんと気持ちよかったんですけど、
四国ぐらいで、自然の美しさとか楽しさに圧倒されてる自分がいて、四国でもただバイクは乗り物で、
次はあそこの山に行ってみたいとか、あそこの海に行ってみたいとか、目的が変わっちゃってたんですよね。
昔、そういえばおじいちゃんとかに海に連れてってもらった時の思い出ってめちゃくちゃ楽しかったなとか、
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昔のことが戻ってきて、自分はバイクより自然のほうが好きだなって思っちゃった瞬間、
バイク屋になるっていうのはその時でなくなっちゃって、
で、日本一周もするのをやめて、
ばあちゃんの家が福岡なんで、九州までは行って、九州から東京に帰ってきて、
そこから自然に関わる仕事をしたくて、どうしたらその自然に関われる仕事できるかなって言ったら、
その時僕中卒だったんで、大学に入ったらそういうスペシャリストになれるだろうっていうので、
で、大検を取って、で、大学に入ったんですよね。
それからはもうずっと自然のことが大好きで、
同時に自然が好きで美しいなと思ってたけど、自然が壊れてるとかっていう話も結構聞いてたんで、
それだったら自然を壊すような暮らしはしたくないし、
自然を治すような仕事をしながら自然の中で暮らせたら最高だなっていうので、
環境問題を解決できるような、そういうのを養成する大学みたいなのがあって、
で、そこに入って勉強して、今に至るんですけど。
なるほど。じゃあ大学に入り直して、そっからいろいろ勉強されてっていうところなんですけど、
僕、奥さんのあゆみさんともすごく仲良くさせてもらってるんで、
ちょっとそこの出会いは聞かないといけないなと思ってたんですけど、
まだ出会ってないですよね、そこね。
でも大学で出会ったんで。
そうなんですね。
入って、僕が4年の時、3年で彼女が、で、付き合ったんですよね。
だから入ってすごい後のほうだったんですけど。
で、そっから今の仕事に至るまでの過程っていうのは、どっかで働かれたりとかもしてたんですか?
そうですね。卒業してすぐ、すぐ仕事はしないで、
僕その大学に行ってる間は海に結構潜っていて、海のガイドをしてたんですよ、学生中から。
で、その時に海は森の恋人、森は海の恋人、どっちだった?
畑山さんって知らないですか、東北に。
わかんないですね。
牡蠣の養殖の漁師さんが山に行って木を植えるっていう話があるんですよ。
森の恵みがないと海は豊かにならないっていう。
だから海と森はつながってんだよっていう話を聞いて、なんか山にちょっと興味湧いたんですよね。
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で、その前にヒマラヤのほうに行って、
ラダック人っていう人たちがすごい持続可能な暮らしを1000年以上続けてるっていうんで、
ヒマラヤトレッキングしたことがあるんですよ。
で、それでなんか山にちょっと興味持ち始めてたんで、ちょっと山のことも覚えてないなっていうので、
東北の栗駒っていうところで半年間山にこもって、山のこととか、
そこでね、廃材建築とか畑をやりながら暮らしてるところだったんで、そういうのも覚えたんですけど、
それを終えたあと、
葉山のオーシャンファミリーっていうところで、子どもたちに海洋教育するNPOに入ってました。
なるほど。いろいろ行って、葉山にその時点でたどり着いて。
で、そこで入籍して。
なるほど。
じゃあ、そっから屋久島に行くぞってなった、なんかそこのきっかけとかはあるんですか?
別に葉山でもよかったんじゃないかなとか、なんかその辺はあるんですか?
そう、僕は東京だったんで、東京の人に自然を味わってもらいたいとかっていう思いがすごかったから、
葉山、けっこういい場所だったんですよ。
でも妻が、なんだろう、広島の地元で、関西で、関東でやりたくないっていうのがけっこう強くあって、
だから関西より西っていう風になんかもう言われてたから、
葉山はあきらめてたんですよ。
で、結局屋久島になったときにふと思ったのが、
広島から屋久島行くより、広島から東京っていうのが近いですよね。
そうそう。
だから、結局なんか実家に近いほうがいいとかっていう理由で言ってたのに、
全然、なんか実家、東京にいるときより遠くなっちゃってるじゃんみたいな。
で、彼女は屋久島に住むのが憧れだったみたいで、
実は住んでみたかったっていう。
後々知ったんですけどね。
でもいろんな選択肢がありながら、
一回屋久島に来てみて、それでちょっと住もうかどうか検討したみたいな感じなんですか?
そうです。一回新婚旅行でここに。
僕ジブリ大好きで、ここがモデルの地になってるじゃないですか。
だから、来たときは2人すごい印象がよくて、
でもそのとき屋久島に住もうなんていうのは話にも上がんなかったんですよ。
彼女は心で思ってたみたいですけどね。
で、葉山の仕事を辞めたときに、
辞めた理由が、経験は貯まるけどお金が全然貯まらないような職種だったんで、
一回ガッツリ東京行ってお金貯めて、
資金を得ても自分たちにやりたいことを実現するために移住しようっていう感じだったんですよね。
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ある程度資金が貯まって、
どうせならもう自分たちの本当に気に入った場所を探して、
旅しながら探してそこに住み着こうっていう、
日本を巡る旅をしようとしたんですけど、
出発する3日前に妊娠してることが分かって。
本当は北海道からずっと行く予定だったのが、
もう行けなくなっちゃって。
とにかく子供を産むから場所を決めないとねって言ったときに彼女が屋久島って。
へー、なるほど。
すごいドラマティックな展開があったわけですね、そこにね。
面白い。
いやー、なんかすごいこと起こりますよね、突然。
そうですね、自分たちの思いが実現したこともあるんですけど、
多分にその意見は違うからこっちの方がいいんじゃないって言われてるような出来事が結構来てて。
確かに屋久島に移住するって逆に大変な選択になってるような気もしますしね。
そうですね。
反対なかったですか、なんか周りから。
いやーもう、うちの父には、父は大手の企業をずっと新卒で勤め上げて定年退職したようなタイプの父で、
その父からは田舎で自分たちでお米作って家建てて、自然の素晴らしさを伝えるガイドをやるんだって言ったら、
そんな縄文時代みたいなことして食っていけるわけないだろうって、もう失敗する太鼓判押されましたよね。
身内に反対というか厳しいんじゃないって言われて、他にもいろんな人に言われましたけど。
それでもチャレンジしたってことだと思うんですけど、
実際、移住する前のイメージと、移住した後、結構ここ大変だったなみたいなことって、当初思い返すとどんなことがあります?
そうですね、大変だなって、実際言われたから、経済的にやっていけるのかなっていう心配の予想ぐらいだったんですけど、
それは幸いなくて、観光が結構ピークを迎えてるような時期に僕は移住したんで、
いろんな人にガイドをやるならお願いって言われたりして、結構それは予想外に収入にもなったんですよ、実は。
15年前ぐらいですかね。
そうですね、ちょうど観光がピークから、今右肩で観光客って少なくなってるんですけど、
そのピークちょっと過ぎたぐらいだったんで、
だから苦労、いろんな大変なこと苦労って予想ついてたんですけど、予想してたんですけど、
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それ以上に予想もしない良いこととか、仕事が紹介していただけたとか、
借家が見つかったりとか、ここの今の土地もすごい島の人のつながりで譲ってもらえたりとかで、
良いことの方が圧倒的に起きてるから、
パッと今大変だったことで自分っていうのは思い浮かばないぐらいですね。
すごいな。
ここのaperuyの家は、土地がうまく関係の中で譲り受けられて、自分たちで建てた感じなんですか?
そうですね。ただ一人じゃなくて、ウーフって言って、今のいる研修生とか、
あと地元の大工さんにも手伝ってもらって、かなり複数の人が、
区長の人が胸上げで来てくれたりとか、いろんな人が関わってくれてます。
ちゃんと地域ごとになって、その間ご長男もすくすくお腹で育ちつつみたいな、
そんな感じの受け入れですか?
長男が生まれたのは借家。
15年前に借家に移り住んで、そこに住みながらここの土地が譲ってもらえて、
この家が10年前ぐらい建て出したのが。
5年間は借家に暮らしながら、いい土地ないかなっていうので探して。
そんな焦らず、いろんなことが進んできたんですね。
ガイドと畑やるのでも手がいっぱいで、新しいところっていうのが。
資金がないと土地も買えないし、建物も建たないんで。
そっかそっか。でも移住って結構それだけで憧れはあるけど、
本当にその土地でやっていけるんだろうかみたいな不安がやっぱり大きいものだったりもすると思うんですよね。
そういう地域との難しさみたいなこととか、そういうのはなかったですか?
屋久島はね、特にここの集落は、鉱山ができて、外から来た人たちが多いんですよ。
だから移住者の人に対して寛容というか、村八部とかあるじゃないですか。
なんか入れてもらえないとか。そういうの全くなくて、大変だったこと。
人間関係もあんまないんですよね。逆に良くしてくれて。
じゃあ結構移住をいろんなところで検討されている方にも割と屋久島はおすすめできるような環境なんですね。
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北と南で風土が違うんで、北はちょっと閉鎖的だと聞きますけど、
ここは本当、集落によるかもしれないです。
そういうところも一つずつ面白いところですね。ありがとうございます。
なぜこの暮らしが始まったかっていうところにすごく興味があったので、
パート2ではそういったお話を聞かせていただきました。
次の回からですね、環境再整備っていう、なかなか聞き覚えのないような仕事を今されていると思うので、
ちょっとそこについてお話伺っていければと思います。
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