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どうも、ブラックジャック精神科医のシムラでございます。
ブラックジャックというだけあって、持ってませんよ、医師免許。
医師免許は持ってないですが、ブラックジャック的精神論を伝えて参ります。
というわけで本日は、酸っぱいブドウについて。
酸っぱいブドウ?なんだそれ。ブドウは甘くないと美味しくないですよね。
酸っぱいブドウなんて食べたくないよ。そういうお話です。
酸っぱいブドウとは、認知的不協和の一つ。またよくわからない言葉です。
認知的不協和。不協和とは、協和していないということ。
つまりは、うまく混ざり合ってないということですよね。
その前に、認知的とあるように、自分の認知していることと、別の方が認知されていること。
これらが一致していないということなんですね。
自分が正しいと思っていることの他に、別の事実があったとしたら、もうそれは不快ですよね。
ここで酸っぱいブドウの話に戻りますね。
あるキツネが高い木の高いところになっているブドウを見つけたとします。
でもキツネは高いところには登っていけない。
もし、あの高いところになっているブドウが美味しかったとしたら、
そりゃまあ、キツネさんはもうやってられませんよね。
キツネはやってられないということ。
だってね、木登りできないんですもの。
このブドウですよね。高いところになっているブドウっていうのを絶対に口にはできないのです。
だからこのやるせなさですよね。この不快感ですよね。
吹き飛ばすためにこう考えるんです。
あの高いところになっているブドウっていうのは、酸っぱいブドウに違いない。
こう思うことで認知的不協和を吹き飛ばすんです。
酸っぱいブドウ…酸っぱいブドウ…いや口が回らないね。
酸っぱいブドウとは心理的な安心を得るために自らが作り出す巨像なんですね。
これは別の言葉で言うと合理化か合理化なんです。
皆さんも思い当たる節はありませんか?
酸っぱいブドウのように決めつけて挑戦していないこと。
酸っぱいブドウっていうのはさ、食べて味わってみると案外おいしいものかもしれませんよ。
まあキングコングの西野さんなんてこう言いますよね。
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やってみなくちゃわかんないじゃないですか。
という結論で今日はここまでここまで。
さようなり。
ナムアミターブーツ。ナムアミターブーツ。