昭和のカーフェリーの思い出
夕焼けひとりきり、始まりました。昭和。二桁生まれのパーソナリティ。ミッキーロンリーがご案内します。昭和レトロ。
今は懐かしい思い出。明日の心配もせず駆け抜けた昭和の時代。温かく優しい昭和の情景。
心のままにお話しできればと思っています。どうぞお付き合いください。
今日は、昭和レトロのお話。昭和のりものシリーズ第4弾。
カーフェリーのテーマとなります。
フェリー。カーフェリー。
昭和平成の世代の皆様、現代に生きるリスナーの皆様、
幼い頃からの家族旅行や
また帰省、そして
大人になってからのクルージング。
人によっては様々な目的で利用された方もいるかもしれません。
私ミッキーがエピソードを交えてお話ししてまいります。
聞いてあげてください。カーフェリー。
現代ではインフラが充実して
全国各地に張り巡らされたハイウェイ、そして
エアライン、また
本州、四国、九州をつなぐ連絡橋。
昭和の高度経済成長期においてまだ
未整備だった時代にフェリーは
活躍していました。古くは大阪神戸から別歩を結ぶ
関西喫煎が非常に人気があり、瀬戸内海の島々の
眺望。昼間から綺麗な海を眺めながら巡航する。
その船旅は当時の
家族、人たちを楽しましたものだったかもしれません。
そして1960年代後半には
カーフェリーが
ニーズとして高まります。まだ新幹線も
今ほど延伸してない時代。車やバイクを運ぶのには
とても便利で、船旅も楽しめる。
阪急フェリー。そしてその後に
例えば有名な
サンフラワー5というのも当時は名古屋から
高知鹿児島にも巡航していました。
プールも衛設されて
快適な船旅。全国各地で新日本海フェリー
マイル、新潟、小樽。
そして太平洋フェリーは名古屋別浦間であったり
名古屋仙台とまこばい。サンフラワー5も
東京から
那智、勝浦、九州方面まで。
オイルショックで一時期フェリーから
車バイクをたくさん運べるということで
カーフェリーに時代は変わります。
その当時は、私ミッキーも経験あるのですけれども
大部屋の末席。今では考えられませんけれども
私ツーリングした時に
小さい枕で毛布が折り畳んであって
禁煙、喫煙も酷無もされていませんでしたね。
自分の靴を置いて中は
カーペットだったような気がします。ただ
そこで知り合いになる車座で語られた人生の
お話っていうのは、初めての利用は名古屋別浦間の
太平洋フェリーでの自転車旅行でした。
その旅では大人の人が応援してくれて
それぞれの身の上話、
自分たちのまだ夢や希望を語れる時代でもありましたね。
そして
オートバイツーリングで
手前味噌の話ですけれども
マイゼルから小樽へ北の大地に渡るのに
フェリーを使った新日本海フェリーの思い出
その頃でしょうかね
かの有名な吉田卓郎さんの歌
楽用とか仙台初友子舞雪
というのはフレーズでは強烈に残ってますね。
サイコロを振って
そんなおじさんもいたことでしょう。
船旅の中で
様々な人たちが
一瞬で
一期一会となるような出会い
誰かが仕向けたのでなく
偶然にあったその出会いというのは強烈な思い出です。
話は戻ります。
そして
フェリー、カーフェリーも
2009年10年
リマンショック
経済的にも危機的な状況となり
現代の船旅の変化
フェリーの
カーフェリーも
船旅として
新幹線も延伸され
ハイウェイも全国各地に巡らせていくということから
移動手段というよりも
船旅そのものを
利用者に楽しんでもらう流れになっていきます。
船の中で
例えば
以前は
なかったような
バーベキューとか
露天風呂
イベントも
盛りたくさん
船の中で
マジックショーが行われたり
船内だけで
あの頃
私ミッキーが高校時代の時に船を用意して
ただ時間の経過を
過ぎるのを待っていたような
あの頃からは考えられないような
今の時代には船は
カジュアルに
船旅を楽しめるような
回想がされて多くの人を
楽しましているようですね
海外での
合格客船もクルージングで日本
に寄港することもあり
そのクルージングを格安で楽しめたり
あり方が変化してきているようです
私ミッキーも
戦後生まれで
まだ半世紀余りの時代にも
一つとっても
フェリーカフェにもあり方が変わってきました
飛行機も格安エアラインで
沖縄や北海道にも気軽に
旅行ができる時代
鉄道の旅船旅飛行機旅空の旅ですね
それぞれに楽しみ方
同じ人であっても
様々な旅の形があります
それは一瞬タイトで同じものはないかと思います
夕焼け一人きり今日は
フェリーカフェのお話を昭和の乗り物シリーズとして語ってみました
このあたりで終わりたいと思います
お付き合いしていただき誠にありがとうございます
次回の番組お楽しみに