昭和の思い出とJAZZ
夕焼けひとりきり、始まりました。昭和、二桁生まれのパーソナリティ、ミッキーロンリーがご案内します。
昭和でと、今は懐かしい思い出、明日の心配もせず駆け抜けた昭和の時代、温かく優しい昭和の情景、心を思うままにお話しできればと思っています。
どうぞお聞きください。今日は、JAZZ BAR 昭和。
素敵なピアノが流れるこの店。女神アフロディーテが時として降臨する。
カウンターの奥に味わい深くお酒を出した、彼の名はジェイ。
また会いました。人は彼をそう呼ぶ。
今日は、ウィスキーコック。
私、ミッキーがそばにいてお話をお伺いしたいと思います。
どうぞお付き合いください。
ジェイさん、こんばんは。
そばにいてよいですか。
やあ、ミッキー。
また会えたね。どうぞ。
何を考えていたって。
キャパシティ。
そんな抽象的なキーワードについて考えていた。
人は現代社会に様々な信念で懸命に生きている。
時代は高速化。
そして多くの情報量を処理する。
個人の能力には、こんな処理能力が求められる。
人は誰しもキャパシティを持つ。
そして、高速化がデジタル時代。
図られてまた空いたスペースには、また新たな情報量が組み込まれる。
回しグループ。ハムスターフホイールをご存知だろうか。
そうだ。ネズミ滑車と思う。
運動するのに用いられる滑車、車のことだ。
そして向かう先は、どこへ行くのだろう。
個人の能力はスキルアップを図らないと同時に、キャパシティも同時にあるということ。
必ず何かを足し算ばかりではダメだということ。
人の能力にしてもそうだ。
何かを捨てて、空いたスペースに物を入れ、
必ず自分の退化する部分を消して、進化させたものを入れて、時代は流れてきた。
ただし、進化、それはある側面においてということ。
一方では、何かを失っているかもしれない。
例えば昭和の時代から平成・令和。
人は当時は時間をかけていたようなもの。
例えば家電のスペックにしてもそうだ。
気象エネも測られていなかった代わりに、
機能も充実して、省エネ化も測られる。
例えば液晶テレビでもそうだ。
昔は、画面を大きくして部屋のスペースもとったものだ。
ブランカン。
電力も多かったのが、液晶パネルによって姿が測られて、インチアップも測られる。
そしてリアルな臨場感を楽しめるようになった。
そして、まるで画面の中のニュースにしてもドキュメントにしても、
まるで自分の目の前で実際のもののように自分が感じることができる。
それはドラマチックで良い面とも言えるかもしれないが、
一方で間違ったものが、何かそこに訴えられるものがあったり、
それをまるで目の前に人がいるかのように自分も話しかけられているような錯覚をこうして、
信じてしまうこともあるかもしれない。
そして、コメディの話もそうかもしれない。
そしてデジタルは必ず多くの情報量、そしてスピードアップを伴うということだ。
そして人間本来のキャパシティにおいて必ず多くの課題を投げかけてくる。
人々はそれをこなすのに精一杯で、自分が気がついた時には、
そのストーリーを決めるのも自分だけれども、そのストーリーが残るということ。
おそらく5年先、10年先も同じような仕組みの中にいるのは、
自分の5年、10年前を遡れば同じ記憶を辿れることであろう。
より自分のストーリーは自分で決めるもの。
だからこそサイド。
それぞれの価値観があるのだけれども、
一度考えてみるのも良いかもしれない。そんな気がするんだ。
じいさん、ありがとうございます。
現代社会において多くの情報量、
高速化がデジタルの発展と同時に図られている。
そして人々は自分の生活を向き合いながら処理する能力を求められる。
一方、自分の生き方は自分自身で決めるもの。
そこにいかに浮かすか。
決して忘れてはいけないことは一つ。
例えばコンピューターもデジタルもあくまで人が管理するもの。
逆にコンピューター、スマートフォンによって管理されてはいけないということだけは気をつけなくてはいけないですね。
じいさん、乾杯しましょう。
ジャズマンショーマン
キャパシティ
人類の歴史の中で、近代社会、特にここ数年のデジタル社会はまだほんの一部のページにしか過ぎない。
そしてこれからも時代は続く。
その中で自分がいかに時を刻むか。
あくまでブルーオーシャン、それは自分で開いていくもの。
コンピューターはデジタルによって自分がついていくものではなく、自分が管理して活用していく。そのスタンスは忘れてはいけないよね。
そんなじいさんの言葉が印象的でした。
考えたいと思います。
ジャズマンショーマン
何気ない日常に深い話題があります。
選手の休息。皆さんもお立ち寄りください。
夕焼け一人きり。この辺りで本日終わりたいと思います。
お付き合いしていただき誠にありがとうございます。
次回の番組、お楽しみに!