1. シュウとショウの未知の理への道のり
  2. オフレコ雑談から#4~いい父親..
2023-10-31 43:48

オフレコ雑談から#4~いい父親で居たいっていう気持ち…

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皆が釈迦みたいな社会では情動が無くなるんだとしたら、お笑いも無くなる?

仮に社会善みたいなものがある状態があったとして、自分の息子にそれをさせたくないという話があり

べき論的な社会善の話が、言葉上はシュウの生き方と同じように聞こえる部分を感じて…


収録日:10月4日


#樋口塾

#シュウとショウの未知の理への道のり

#未知のり


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サマリー

このエピソードでは、シュウさんとショウさんが未知の理を探していく道のりを描きながら、お笑いや失敗について話し、人間の感情や自己意識が面白いと感じながら生きることの重要性について考えています。オフレコ雑談から#4~いい父親で居たいっていう気持ち…のエピソードでは、共同体意識や良い父親であることに関する話題が取り上げられました。シュウさんとの雑談を通じて、自分の気持ちに素直に向き合うことやバランスを考えることの重要性が示されました。子供たちの自由度を重視するいい父親で居たい気持ちについて、矛盾や悩みを話し合いながら、バランスを見つけることが重要であるという意見が述べられました。

未知の理への道のり
シュウとショウの未知の理への道のり
この番組は文字通り、シュウとショウの気が向いた時に、適当に好きなことを話しながら、未だ知らないことは言っています。
つまり、未知の理を探していく道のりを描く番組です。
下手をしたら、二人の持ち振りを探すだけの気のままな旅、ゆるーくお付き合い頂けたら嬉しいです。
前回からの続き
今日話してる中で、途中でどこで感じたかは忘れましたけど、
お笑いみたいなのが、なんか、うん、チラ、頭にチラッと浮かんだりしたことがあって、
うーん、しょうまさんがその、理想な状態になったら、愛とか恋とかがなくなるかもしれないみたいな話されたと思うんですけど、
あとはみんなが釈迦だったりみたいなところも、でも実際にはそれがなくって自我があって、自分のやりたいようにやりたいんだけど、
それがうまくいかないみたいなところ、そのギャップとか、人がうまくいかないけど、
けど、その中でもがいてるところとかがお笑いではめちゃくちゃ面白いなって僕思ったりするんで、
失敗してる様だったり、欲張って逆にうまくいってないとか、
そうですね。
そういうところにもともと人間がなんか面白みを感じて笑うっていうところが面白いなーって感じながら、
面白い話を聞いてたりしたんですよね。
自我と感情のバランス
そういう状態になったら笑いもなくなるんでしょうね。それはやっぱりつまらんですね。
それはつまらないですね。
つまらんのですよ、恋愛感情とかそういうのだったり、人間が自我があっていろんな感情が、だからあんまり揺さぶられない世界ですよね。
みんながしゃがっていうのもまさにそうですよね。みんな不動産みたいな感じだから。
やっぱり人間に生まれてきて、楽しく生きる、ただ生きる、心が動かずにただ生きててもしょうがないんで、
楽しく生きるっていうのはやっぱり感情を揺さぶりまくって楽しむことだと思うので、
そういう意味ではやっぱり自我があって感情が揺さぶられる人間の社会の中で、揺さぶられる中でうまくいいバランスができるといいですね。
じゃないと本当に意味がないというか、社会としても別に意味がない。
ただ社会全体として持続性が持つ方の合理的な社会でしかないから。
アドグラー心理学とかでも、共同体意識って言葉出てくるじゃないですか。
あれもまさにそれに似てるとこかなと思って、確かに社会的に全体的にはいいし合理性もある。
みんながそれを見れば確かにいい社会になるかもしれない。
だからそれも極めてありみたいな世界だし、今言ったようなみんなが社会というか、
人間の活動としてつまらない世界ではあるなと。
そうなりたいかというとそうではないという世界だなという違和感がありましたね、そういう意味でも。
やっぱり感情があって、自分の大切な人だったらエコヒーキーするし。
それが普通だよねみたいなふうに当時読んだ時も思った記憶がありますね。
アドグラーの本ですか?
けらわれる勇気を読んだ時にその話があって。
ありましたっけ?
一応共同体意識の話はあって、一応そこからいろいろ自分の中で発想を展開した時に、
だから全ての人を自分の課題か相手の課題かをきっちり分けて、
あと全ての人を平等に扱うような、あくまで共同体意識として社会的に最善と思われる行動を取るべきみたいな感じのイメージで僕は捉えたんですよね。
アドグラー心理学を。
そうなった時に、社会的に良いから、社会的に一番良いと思われる活動が必ずしも例えば自分の子供にとって自分が良いと思えない行動だとすると、
それはしたくないって思うっていう。
それは原理ですよ。例えば自分の子供にとっては良くないけど、社会的にとってはそれが良いからそれをやるみたいな。
それはちょっと自分はできないなって思ったり。
コテンラジオでちょっとふと思い出したのだと、ガンジーが自分の息子じゃなくて優秀な交流学に行かせるみたいなのなかったですか?
そうでした。
お金を、家族にはあまり良い接し方じゃなかったというか。
特別扱いしなかった的に言われてたけど。
特別扱いしなかったっていうのもあるし、だから社会的っていうところまではちょっと広げすぎてると思いますけど、
子供を別に自分の息子じゃなくて、この子が行った方が絶対全体的に考えた時に良いっていうような感じで、
息子じゃなくてっていうような、そういう話があったような記憶があって。
そこも今ちょっとリンクしたんですけど、別に自分の息子とかをエコ引きすることなく、
自分が良いと思うことをやる、それがどこまでのスケールで見てるかですけど。
でも僕はそこは人間っぽくないというか、ある意味ちょっと悟ってるというか、そういう感じなので、
それは一種のそれも人間、人間ですし人間っぽさかもしれない、そういう人もいるし、
だからこそ人間が面白いっていうふうにも言えるかもしれないですけど、
なんかちょっと自分はそんな感じはなれないなみたいな、それをちょっと感じた記憶がある。
僕、ガンディの今のショマさんの話とはまたちょっとずれるのかもしれないですけど、
自分の子供とかには愛情を持って接しなかった的な言われ方だったり、
そのコテンラジオのエピソードを聞いた多くの人が、世界に対してはいい人だったけど、家族に対してはいい父親じゃなかったみたいな、
結構ざっくりした言い方で、割とそれをそういうふうに切り捨てるというか断じてしまうみたいな印象があって、
僕はどっちかっていうとそこ違和感の方が大きかったりしていて、
僕も本当にコテンラジオでしか聞いてないしちゃんと知らないんですけど、
僕は自分の生き方がちょっとそういうのに近いようなことをやっちゃってるせいかもしれないんですけど、
もう10歳過ぎたら一人立ちしたものとして捉えてボラかしてるみたいなところがあるからそう感じるのかもしれないんですけど、
なんか本当に興味なかったんじゃないかなって思ったりもしてるんですよ。
ガンディ自身がそこまで自分の子供とか絵の愛情とかよりも自分が面白いことをやることを、
僕がそれに近い感覚で今生きてるんですよね。
めっちゃ会えたら嬉しいし、そのXとかでのポストもリツイートするし息子のやつはとか、
めちゃくちゃ愛情はあるけど、日々自分の生き方を楽しむことの方が僕全然重要で、
いわゆるダメ親父って言われてしまうようなことを胸張って言っちゃってるのかもしれないけど、
でもなんかガンディもそうだったんじゃないかなって勝手に思っちゃってて。
あくまで家族目線からしたらそんな感じ、言われるような。
それは寂しかったりだとか、それも息子とか奥さんにもよると思いますし、
それは周りが決めることでもないので、
自分に置き換えた時にそれはちょっと自分的には嫌だなと思うかもしれないですけど、
ガンディがそうだったっていうのがそういうふうにざっくり言われるっていうのは、
合宿さんがそういうふうにガンディが言われるっていうのはわかりますね。
おっしゃりたいことはわかります。
ただ、何て言ったらいいんだろうな。
もちろん愛情とかあったりとか、それもそうだと思うし、僕も子供たちにそれがあって、
でも、言い方変えると、
周さんが面白いと思っていること、夢中になれることを仮にやった結果、
息子さんとか大切な方が傷つくっていうのが自明であったらやります?
シチュエーションがイメージできないとなかなか、
そうですね。
基本的には10歳を超えた時点で、それも含めてまかしちゃってるっていう。
僕がやる行動によって傷つくっていうのは、彼らの意識の中での、
なんでしょうね。
彼らの話ですもんね。
勝手に思ってますね。
だから、そもそも傷つけるつもり自身は、周さんにはない。周さんはやりたいことをやるっていうだけで、
それで何か副産物が出てきて、それとどう向き合うかは彼ら次第だと思うから。
そうですね。
そうなんですけど、
どう言ったらいいかな。
事例が。
そうですね。傷つくっていうよりも、
周さんはやりたいことをやってるっていうだけだから、別に当てはまらないんですね。
変にガンディーの話を出しちゃったからあれかもしれないんですけど、
もともとのお話からすると、
社会のためとか、大きい大義名分のために自分の息子を犠牲にするみたいなのは僕はできないっていう感じですよね。
そこは分かりますね。
分かります分かります。
それとはちょっと違いじゃないですか。今のニュアンス。
違うと思います。
全然違うじゃないですか。
全然違うから、周さんが好きなように生きて、その結果として周りにどう影響を与えるかっていうのはまた別の話なんで、
僕が言いたかったのは、
そういうところでガンディーは大義名分みたいなところが自分の中で、
社会的なところがあって、
その中で息子さんが具体的に留学させてもらえなかったとか、
そういう事例があったので、ちょっと似てたからその例を挙げましたけど、
でも周さんの文脈からいけばガンディーもそんな感じだったと言えますね。
自分の好きに思うように生きてて、
その結果としてそういう風になったというだけなんで、
僕が言いたかったことと、周さんがおっしゃられているところっていうのはニュアンスとしてはちょっと違うと思うんですけど。
そうかもしれないですね。
一つその、しょうまさんの言われてる大義名分的な社会じゃないな。
理想とする社会の形があってそれに対する大義名分みたいなイメージですかね。
バープラッシュ入学としては、社会として最善の行動をみんなが取ればうまくいくよみたいな、ざっくり言うと、本当にざっくり言うと、
そんな感じで捉えたんですよね。
その時に自分の家族とかそういうのへこ引きせずに、本当にそこを目的としてみんなが動くみたいな感じで捉えたんで、
その時にある具体的な事柄が、社会として見た時に一番良いであろうと思われることが、
自分の息子に不利益であろうというふうに自分が認識をした時には、それは自分はしたくないと思っちゃうっていう話なんですね。
自分がやりたいことがあって、その結果息子にどう影響するかというのは知らない話なんですけど、
何かしらこの大きな社会禅みたいなところで、それこそ先ほど言ったべき論みたいな感じで、社会全体としてはこういうことをやるべきだみたいな、
そういうのがあった時に、そしたら社会はちゃんとうまく回るんだみたいなのがあった時に、それを社会的に一番良かろうと思われること、アクションが自分の息子に対して、
局所的に見ると悪い、悪影響というか良くないなっていうふうに自分で感じること柄はやりたくない、できないという話って感じですね。
分かりました。ただその社会禅みたいなのがあってみたいな社会の方があんまりイメージできてないかもしれないですね。
共同体意識と社会の良くなるための考え方
アドラーのもう一回読もうと思ったんですけど、嫌われる勇気本当に面白かったなと思ったけど、それが本当に思い出せないですね。共同体意識でした。
共同体意識。
共同体意識っていう話の中でそんな感じのことがあったみたいな感じですかね。
僕の中の印象ではなんかそういうところがちょっと強かったですね。やっぱり全体的に合理的に考えた時に、みんながそういう考えの下を動けば社会は良くなるみたいな書かれ方で、そう動くべきだろうみたいなメッセージ的にちょっと捉えて。
それは言わんとしていることはわかるけど、こちとら人間だと。息子が一番大事なんじゃいみたいな。
だからそういう仮に社会的に見た時にあるアクションがそれが一番良かろうとて、俺は息子を選んじゃうけどね、みたいな。
具体例がイメージできないってことですよね。
言葉上は僕がやってることと似てたりするんですよね。やったり思ったりしてることと。
社会全体としてはうまく回っていかないだろうなって思うから、その欲望を最低限に生きられるところで満足させようっていう風に僕が言ってるので、そういうアドラーの共同体意識とは違うのかもしれないけど、
僕個人、それこそ自我、自分のがだけを通すんじゃなくて、常に社会全体を意識しようって僕は思ってるし、そういうメッセージをしてるつもりでもいたりするから、言葉面でいくとそれが似てる感覚になるんですよね。
ここは構造的にイメージしてるのとかも、社会全体を考えていらっしゃるんでそうだと思うんですけど、やっぱりそこは、しゅうさんはそうだったらいいなとか、それをやりたいって自分で思って自由にやられてるだけなのに対して、
本として、心理学として、学問として打ち出してて、こうやるべきだっていうべき論として受け取っちゃったような感じがする。だから別にそのアドラーの人が自分はこうしたいんだ、こうなったらいいと思うんだよねぐらいの感じの強さで、
僕はそう思うから自由にやります。自分はやりたいようにやりますって感じだったら、ああ、そうね、その考え方いいと思うみたいな。さあどうぞみたいな。
でも自分としてはちょっとここ、こういうところでは、まあこういうところは賛同できるんだけど、この部分としてはちょっとなかなかその社会全体のことが一番といえ、あなたのようにはなれないけどね、みたいなスタンスになれるけど、
そんな感じだからちょっとって感じです。 いやー面白い、そっかそっか。
そうですね、さっき話しててちょっと思ったのが、なんかこう、いい父親でありたいみたいな、なんかそういう変なとらわれみたいなのが、
その逆にこう、僕とかあるかもしれないなとか思ってて、結局その、例えばその、さっきしゅうさんの話聞いてて、しゅうさんは自分のやりたいことに素直というか、それであとはその、もうちゃんとねえねえというか、ちゃんと成長してるんだからあとは自由にやりなさいって言ってたんです。
で、自分は自分が一番やりたいと思うことにフルベッドするみたいな、いうスタンスっていうのは、清々しいというか、僕自身も多分いや自分がやりたいことっていうのは多分いっぱいあるし、それに多分素直にフルベッドして、そっちが大事なんだ、楽しんだみたいな思いで、
おればいいのかもしれないけども、もしかしたらそのどっかでその、いい父親であらねばならないとか、いたいとか、なんかそういうふうな、とらわれみたいなものがもしかしたらあるかもしれないなとも思ったり、
ただ、ただね、なんかそういう、なんだろうな、息子たちをこう第一に考えるみたいなところを、
自分はそういうふうに思っている人間だっていうところを、保持するために、なんかこう、装ってるじゃないですけど、
なんかこう、まあそれこそなんかって言ったらその、自分のやりたいことはいっぱいあって、でもその子どもたちの面倒だったりだとか、いろいろ今特に小さいからあるじゃないですか、
正直その、そういうことにこう時間を使って、たぶん一人見だったら全然違うことたぶんいっぱいやってるんですよね、そう考えたときにその自分勝手に自分の思うようにだけこう生きてれば、生きるっていうこともできるじゃないですか、
で、そういうふうに、なんて言ったらいいのかな、そういうふうに、なんか、自分に素直になりきれてるんだろうかって思うときがちょっとあったり、
でも別に子どもたちと過ごす時間が嫌っていうわけじゃないし、そもそも今小さいうちに全然関わらないみたいなところ、関わらないみたいな状態がいいと思ってはないんですけど、
なんか表現が難しいな、なんて言ったらいいんだろうな、さっきそのしゅうさんが自分が子どもほっぽら化して自分がやりたいことをやってるみたいな感じで表現されてたじゃないですか、
でもそれって自分もやりたいことにちゃんと向き合って、自分に素直になりきれてるんだなって感じたんですよね、果たして自分はそうなのかなっていう疑問を持ったっていうところがポイントなんですけど、
だからといって自分がやりたいことばっかりやりたいっていう、そもそもしゅうさんを全然指定してるわけではないんですけど、もちろんわかってると思うんですけどね、
僕自身がやりきれてないっていうのは現状としてはあるんですよね、生活としては、時間が限られるじゃないですか、時間っていうのが、
でも子どもと接する時間は楽しかったりあるけど、それを持たずに自分がやって楽しい、自分がやりたいって思うことをやる時間も楽しいじゃないですか、
で正直これどっちが楽しいかとか、比較することじゃないのかもしれないんですけど、なんかゴミって話になってきたな。
どっちが比較する話じゃないっていうのは何と何の比較の。
子どもたちと遊ぶのも楽しいけど、自分一人でやりたいことやってるのも楽しいっていう状態で、じゃあどういう生き方をすべきなんだっていうか、自分がやりたいことをこうやって、子どもたちと全く接さないみたいな形で今過ごしたほうがいいのか、
子どもたちと接して、自分がやりたいというほうはやらないっていうふうなシスタンスがいいのか、どっちがいいっていう話ではないんですけど、
確かに、子どもたちと遊んで楽しかったり接したりする時間がかけがえはないんですよ。かけがえはないんですけど、自分が一人で活動して楽しいって思えることもあって、
自分が楽しい時間を過ごすっていうところだけ考えたときに、一人で楽しんでるみたいなところのほうが、より自分がもしかして欲してたりするんではなかろうかみたいな。
自分の気持ちに素直に向き合うこと
ちょっと難しかったですね。
自分が一人で楽しんでることのほうを欲してる。
良い父親でいないといけないとか、そういうふうな考えとかが変に入り込んでて、自分の気持ちに素直になりきれてないんじゃないかとか。
何か言いたいこと伝わりますかね。何か伝わんないですよね。
ごめんなさい。単純にまだお子さんが小さいことだったり、良い父親像をイメージすることで自分のやりたいことがやれてない感覚があるっていう単純な話ではないんですよね。
それはそういう単純な話でもあります。
でもある?
時間が取れないのであるんですけど、時間取ろうと思ったら今の段階で自分の時間だけ取って子どもたちと接さないという選択肢もあるじゃないですか。
でもそれは僕的にはしたくないんですけど、それは多分子どもたちと接したいという思いもあると思うし、楽しいという思いもあると思うんですけど、
それがどこか、もしかすると本当に自分と向き合った時に子どもたちと接したいという思いとかよりも、良い父親でないといけないとか、そういった思いから理屈付けしてるだけで、
本当に自分の思うようにっていう風なところで向き合った時に、子どもより優先して自分のやりたいことをやるみたいなところが、もしかして自分の中にあったりしないのかなみたいな問いを立てたという話です。
おー、なるほど。
わかんないですよ。
僕もごめんなさい、わかんないんですけど、それこそ僕はしょうまさんがおっしゃるバランスが常に意識にあるもんで、
僕もさっき、子どもたちが10歳超えたからっていうのも一つでかいけど、自分のやりたいことをやってるっていう、自分のやりたいことですら、世間とのバランスの中で、自分の本当にやりたいことは、他の人よりはやれてるかもしれないけど、結構一部で5割言ってるか言ってないかぐらいな気分なんですよね。
でも社会に対して、このぐらいじゃないと、みたいな意識をして、それもだから、混ざった上でのやりたいことになってるんですよね、僕の中では。
で、子どもが10歳になる前の時点では、子どもと接することとのバランスも僕もとっていたし、だからどっちのほうが、みたいな、パッキリ分かれる問いにさっきのが聞こえちゃったんですね、しょうまさんが。
そうですね。
全然ごちゃごちゃしてたし、混然一体としてたなーっていう、当時今ほど考えは整理されてなかったけど、まあそんぐらいのもんかなーって。
そういうぐらいの。
ありがとうございます。
いやいやいや。
今なんか、しゅうさんが自分のやりたいことっていうのに、お子さんおられる中向き合ってるっていう風な状況を見て、自分は子どもがいて、自分のやりたいことっていうのも僕もあるにはあって、
それで、しゅうさんほどそこに本当に向き合って行動できてるかなっていう疑問を持ったっていうような感じですかね。
なるほど。
やっと言語ができたかな。
なるほど。僕の場合は、ちょっと半分は、もう一緒に住んでないからっていうのもあるんですよね。
だからそれは僕的には不可抗力なので、選んだっていう感覚ですらないんですよね。
うん。
しゃあないみたいな。
うん。もちろん状況とかっていうのはあると思うんですけど、そういう状況を見たときに、僕がそこに自分の気持ちに素直に向き合ってるか、
その中で、自分の中で子どもたちと接することがいい父親であらねばならないとか、そういう風なべき論みたいなとこにとらわれてるのがあったりするんじゃないかとか、
単純に接したいっていうだけで自分は本当に行動できてるんだろうかとか、なんかちょっとそういういろんな問いを立ててみた結果、さっきみたいな感じになりました。
なるほど。そっかそっか。でも何かしらあるんでしょうね。その僕は意識すら、いい父親でありたいって思ったことがほぼ多分ない。
10歳超える前も僕、ひげぼうぼうの時期ですからね、その頃。それで三寒日に行ってたぐらいの父親だったんで、やばいですよね、今。
全然そもそもだから、いい父親とは何ぞやっていう話にもなってくるし。
いやいや、まあまあそうなんですけどね。
でもなんか小さい、子供たち小さいし、自分が本当に純粋に接したいっていうふうに本当に思ってるのか、もちろんそれよりも自分がやりたいって思ってることはあるけども、
今小さいし、その時にいろいろ、接しとかないと後で後悔するとか、接するっていう姿、親の像が自分の親としての理想像としてあるから、
子供の自由度への意識
親がやってるみたいな感じになると、なんかちょっと違和感があって、本当に自分が心の底から子供たちと接したいと思って、接せれてるかなとかっていうところまでいろいろグルグル考えた結果、さっきみたいな感じになりましたね。
すごい素敵だと思います、僕は。
そうですか。
しょうもさん、お伺いしたじゃないですか、こないだも。その時もすごい感じたんですけど、本当にギリギリ限界のところまでその子供たちの自由度みたいなのに重きを置いて生活されてるなって思ったんですよ。
へえ。
僕はもうそこまで意識もしてなかったし、当時は。結構抑えつけて、僕たちが楽できるようにしてたんで、子供たちの自由度を奪ってやってて。
しょうもさんに限らずかな、今、多くのご家庭で本当に子供の自由度を、当時より、僕、そんなにお昔じゃないけど、10年以上昔かなに子供がちっちゃかった頃は、本当にそこまでの風潮になってなかったっていうのもあるし、あとは僕の性格、僕と上さんの性格がそこの辺で一致してたのかな。
ある程度もう抑えつけちゃってやんないとみたいに、その時は一致してたんですよ。
ちゃんと世間様にご迷惑かけないように教育してみたいな、そういう、本当抑えつけてましたね。恥ずかしいくらいの。
僕も抑えつけるっていうか、そういう風になる時とかする場面もありますし、それこそやっぱり本当にですね、世間様に迷惑かけないようにみたいな感じのところもありますし、そこもバランスだと思うし、逆にちょっと最近は自由度高すぎるかなっていう風なのもちょっと感じますしね。
なかなか本当にだから外に出た時に周りの人のことを考えて、もうちょっと静かにしてほしいっていう場面とかで結構ワンワンなっちゃいますし。
一つは周りの人に迷惑かけないようにだっていうよりも、迷惑をかけることがいけないことみたいに意識になるのもちょっと嫌なので、別に周りには迷惑かけたっていい、ただ周りの人のためになるようなことができるようにっていう風な感じの意識になってくれるといいなとは思ってて、
だからこそその周りが子供が迷惑かけても許容できる社会になってくれたら一番ありがたいんですけど、だからそうですね、そこら辺もだからバランスなんでしょうけど、いろいろ日々悩んでますね。
いやー本当ですね。予定変更オールオッケーではないけど、そういう子供の自由度に関しても、徐々に上がってきてる感じはしてるんですけど、僕が押さえつけてた頃ほど厳しくない世の中になってるっていうのはすごく感じるんで、
ゆるーく勝手に回っていく社会になったらいいなって思いますね。
途中で松本さんおっしゃってくれたみたいな、社会全体としての社会全みたいな状況っていうのはべき論じゃなくて、自然にそうなるんじゃないかなっていうイメージも、僕の中ではアウトプットが先っていう言葉に含ませちゃってるんで。
そうですね。やっぱりべきってことは強くて、押し付け的なものだったり、何かしら寄り所を固定化して、他を排除するというか、他との壁を作って、対比で見たときに善悪になっちゃう。
そんな感じになっちゃうから、自然とそうなるんじゃないかとか、だったらいいなぐらいのニュアンスがちょうどいいですよね。あくまでそれぞれの価値観なので。
いやー、すごい。レコーディング前の雑談のところから、結局そのまま流れとしては流れてきましたね。その話題にずっときたわけではないけど、途中であれかなと思って、いろいろ過去にメモしてたものとかがあるもんで、そういうのを見ながら話題をまたすることになるかなと思ったけど、
全然見る必要もなく流れてきてすごいなって思いました。
そうでした。意外といろんな話が発展しました。
うん、面白かったです。
うん、良かったです。面白かった。
じゃあ、収録としてはこんな感じで。
そうですね。今日はこの辺にしましょうね。
はい。今回もありがとうございました。
はい、こちらこそありがとうございました。
はーい、失礼します。
失礼します。
はい。
43:48

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