1. 【体験者の証言】戦争の記憶(Memories of War)
  2. 【記憶1】笹森恵子さん/Memori..
2013-09-30

【記憶1】笹森恵子さん/Memories1_Shigeko Sasamori

【記憶1】笹森恵子さん/Memories1_Shigeko Sasamori


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今日は笹森恵子さんにお話を伺います。笹森恵子さんは1932年6月16日広島市で生まれ、現在81歳でいらっしゃいます。
笹森さん、早速なんですけども、実はこの音声を録音する前から今もいろんなお話をさせていただいてたんですけども、
広島生まれということで、僕も今広島に住んでますけど、やっぱり8月6日、今これ撮っての2013年6月8日目でしたけど、
8月6日、いきなり核心に入っちゃいますけど、あの日どこで何をされていて、どんなことだったのかというのを教えていただけますか。
私は13歳でした、その時。女学1年生で、当時その頃は、焼夷爆弾っていう爆弾が東京とか大阪とか大きな都市に落ちてました。
焼夷爆弾っていうんですね。それがもう本当に東京なんかすごい、大阪ももちろんですけど、大火事になって人がたくさん亡くなって、爆弾の。
で、広島も当時やはり大きい都市のうちに入ってましたから、でも爆弾は一度も落ちなかったように私は思うんですけど、
もちろんB-29って言ってましたよね、爆弾飛んでくる飛行機のこと。B-29はしょっちゅう来てましたけど、慣れちゃって爆弾落とさずに行くから。
で、ちょうどその日は建物疎開、その爆弾が落ちた時にみんなが逃げる道が主張で、建物疎開っていうのは家が並んでるのを間引くっていうんですか、道を作るためにそういう家を壊して。
そのために壊す。
建物疎開って言ってましたよね。そこに住んでた人たちは別のところの土地もらって建てるとか、家が建てればそっち行くとか、市でそういう企画してたわけでしょ。
で、壊すのも若い男の人、元気の男の人みんな兵隊にとられちゃって、年寄りとか女の人たち、子供たちだけでしょ。
で、学生も軍のために学徒動員って言って働かされて、女学校1年生、中学1、2年、中学1、2年、男の子、建物疎開の柄ですね、壊れたものの跡片付けに動員されてたわけ。
で、その日は私たちの学校が初めての作業にあたってて、8時の集合でその場所に集まって、そしてこれから作業にあたるという時に、私は飛行機の音を聞いて空を見上げたんですよね。
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そしてあまりにも綺麗な空で、本当にその日は雲ひとつない真っ青い綺麗な空で、銀色の飛行機がキラキラして白い飛行機雲をしてたら、絵に描いたら綺麗じゃないですか。
まだ子供だから、その方を見とれて、綺麗だ飛行機だと思ったから、ちょっとクラスメイトがそばにいて、見てごらん、綺麗よって指さして私も空の方を向いて、その瞬間って言うでしょうね、ほとんど同時くらいに白いものが落ちるのが見えたんですよ。
後で聞いたらそれはパラシュートで爆弾を空中で爆発させるために落下傘をつけて落としたと後で聞いたんですけど、その時は白いものが落ちたまではっきり見えたんですよ。
それと同時くらいに強い爆風ですかね、倒れて。だから音も光もいろんな人の話を聞くと、場所によって光を見たとか音がしたとか雲を見たとかいろんな人の話があるけど、私は何も音も聞いてないし光も見てない。
ただその白いものを見てボーンと倒されて、8時15分だったね。私が作業していた時点は爆弾が落ちた中心地から約1.5キロない、だから1.4キロか1.4キロ半かは先は分からないけど、1.4キロないところで始爆したんですよ。
今でいうと場所はどのあたり?
平塚町、ちょっと神谷町に近い中心地に斜めに真っすぎたくらい。だから私が飛行機を見た、聞いたのは後ろの方だったんだけど、飛行機の音はね。
だけどその人と喋っているうちに飛行機がこの辺に来たから、だからそれをもうちょっと、ちょうど落ちる中心地の上の辺で私が指さして彼女に知らせたんだと思う。
その瞬間というか、今さっきの笹森さんが言った光も音も、笹森さんとしてはそれも何も分からなかったという。
聞こえなかったですね。見なかったですね、光も。中には光を見たから、証言者の話を聞くと光がバーっとつい、ものすごい光が来たからうつ伏せになって、目と耳を押さえてうつ伏せになったって言われたんですよね。
えーと、私光見なかった。だったらその人爆発した瞬間の光でしょうかね。
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その瞬間は本当につまり、なんか爆弾型で落ちたとか、そういうことも分からずに、とにかく記憶を止めた。
そうそうそうそう。すごい光でひっくり返ったっていうかな。
例えばこの季節じゃないかもしれないですけど、痛いとか、そういうことも一切何も考えられることもなかった。
だから、これ余談だけど、私が思うのに、中心地にいた人はもう丸焦げで、絵でよく見られるでしょ。
あんなになっている人たちは、熱いも痒いもないうちにそうなったんじゃないかと思う。
本当に一瞬の。
一瞬のバーンと落ちて光が上がって、私の目は上に上がった跡を見て、太陽が地球に落ちたのかと思ったって。
大きな火の玉、丸いのが宇宙にあって、そして雲の跡かな、前かな。多分雲の前だと思う。
というのは、ちょっと郊外、海太って知ってるでしょ。海太に東洋工業というのがあって、
姉たちは上級生だから、軍部かなんか塗ってたんじゃないかね。軍の仕事をして行くので、そこに行ってて。
たまたま姉は早く広島駅から歩いて、電車かな、海太まで行ったんですって。
だから後から来た人はみんな火傷して、広島駅で火傷したとかいう人がどろどろ同じ学校の同級生が来たって。
姉は大きな音を聞いて、ガーッと建物が揺れたんですって。
だから何事が起きたかと思って建物から出てみたら、真っ赤な丘の上に建てたらしいのね、その工場が。
広島の方が真っ赤な火が沈んでたっていうか、太陽が沈んだと思ったというぐらい。
太陽落ちたじゃないですけど。
だから見る人によって火柱がずっと上がってた人もいるし、それが雲になって。
雲の形が一番最後だと思うの。
僕も含めて一般的に知らない人がすると、いわゆるきのこ雲のイメージがすごく鮮烈あるんですけど。
だけど雲っていうのはずいぶん上に上がってから煙が固まって、だからその前に真っ赤な火が破裂した瞬間、真っ赤な火かもしれない。
09:10
その間が何秒かぐらいあったらしいのね。
落ちて、飛ばされる、爆発して、火の玉になる前が爆発だから。
火の玉の前に私が飛ばされたんじゃないかと思う。
そして火の玉が出て、下に落ちて、今度は空気で灰がくらって上に上がっていった。
そして上がる時の赤い火柱を見た人もいるの。
あれの場合はすぐだったから、まだ地上に落ち、破裂したまんまの時だと思うの。
まあ素人考えでは。
そして火の玉がこう、火が上っていって雲になったって私は思うんだけど。
その方がちょっと理屈には合うよね。
でも専門的にはどうか知りませんよ。
人の見た話を聞いて、それからその雲がだんだんと広がっていって、
今度は雨になって黒い雨が降ったっていうのを聞かれたんでしょ。
濃いの方、あちら西の方にね。
私は東の方を見て逃げたから雨にかかってない。
西の方の濃いの方の人は南にかかったり。
だったら雨になることはもう雲が広がって、今度は雨になるんだから。
逃げた人がなっているんだからだいぶ後だと思うよ。
そのしげこさんはどこかで目を覚まされたわけですよね。
その場所もどこまで飛ばされたか知らないけど、
ずいぶん長い間、カンチャスというか気を失ってたんだと思うの。
何日間かぐらいですか。
時間的に、その瞬間に転んだから入って起きたわけじゃないと思う。
気がついて周りを見たら、本当に周りがこういう感じ。
真っ黒。
黒いの。黒いんじゃなくて黒いの。
黒いじゃなくて黒い。
よく電気消して暗くなったりしても何となく形が見えたり、何となく違うじゃないですか。
本当にこの色だった。
あいつのテレビの真っ黒の周りが。
全部こう見て、何にも聞こえない。何にも感じない。
だから自分がこんなに大火傷しているとは思わなかった。
普通だったら指先ちょっと火傷してもチリチリ痛いじゃないですか。
12:00
これだけ大火傷していて痛さ感じなかったの。
というのは多分ね、強いショック。
人間ってショックを与えると感じないって言うじゃないですか。
多分そうじゃなかったかと思うの、私。
全然。
で、一瞬ね、思ったのは近くに焼夷弾、ファイアバウムってね、それが落ちたと思ったの。近くに。
それしか爆弾のことを知らないじゃないですか。
で、しばらく座っていたら、だんだんその黒さが、深い霧が自然に明るくなるように、
だんだんグレーになってもっと光が入り出しているような感覚で明るくなってきて。
で、明るく言っても、前のように光がカンカンと出るあの明るさはまだなってなかった。
薄暗い明るさだったけどね。人が通っているのが見えるくらいに。
びっくりしましたよね。え?と思って。
あ、近くにその焼夷弾が落ちたんだって、その時に思ったよね。
で、戦争中は子どもたちは、どこかでそういう爆弾に遭うかもしれないでしょ。
そういう時には大人について行けと。
だからそういうのが本能的に体が動いて、大人について行けばいいんだと思って。
歩いている人たちがみんな大人だったし、子どももいたかもしれないけど、
みんな歩けるぐらいの怪我でも血が出たり、家から這い出して頭でむいて顔が真っ赤になった人もいたし、
体がピンクに見えるのみんな。
ピンクっていうことは明るくなって、皮膚が焼けて剥げると、下がピンクなのかもと思ったの。
そして着ているものも後ろの方は残っているわ。
昨日もちょっとズボンのベルトの方は下がっている人もいる。ボロボロになった人もいる。
そして真っ赤だから全身焼けて、全身がピンクの人が歩いていたのも見たね。
誰一人としてまともな姿の人を一人見なかったね。周りを見たとき。
その人たちについて川がある。あなたが知っている七沢でしょ。
平塚の川、あそこは鶴見橋の川があって、その近くまでゾロゾロついて行って、
15:03
みんな橋のそばに降りるところがあるじゃないですか。そこを降りて行って、あそこまで行って、
そしてもう橋を渡って向こう岸に行けという声が聞こえたの。
その声が聞こえたのは、それまでは歩いている間は本当に何も聞けないし、
みんなの大変な姿を見てびっくりして、爆弾で何があったのかと思いながら頭の中で。
川辺まで行ったらすごい人がもういて、だから私はずいぶん長い間気絶していたんだと思うの。
その間にいろんな人が飛び込んじゃって、怪我人が。もうお水気に見えないの、一杯で。
真ん中の辺は流れているから、泳いでいるのか浮いて流されているのか分からないけど、
死んでいる人が流れているのかそこまでよく分からないけど、そういう人たちがゆっくり流れているのが見えるし、
この近くはもう死んだ人がいるかもしれない、怪我人が入っているのかな。
よくそこまではピンと分からないけど、いっぱい人がいたら赤ちゃんが、
イヤーと泣く赤ちゃんの声でポーンと耳が聞こえて、もっとざわめきも聞こえて、
もっと自覚して、それまではボーッと何も聞こえない人についていくという感覚というの。
それでもまだ自分が大火傷しているのに消えていっていないの。
体の4分の1、フラント全部焼けているのよ。
その橋渡ってダンバラ小学校でそこへみんな行って、私もついて行って、
行ったらまだ終戦でないから兵隊さんたちがみんなの家の看護しているわけです。
だからここへ来ればここが避難所だと思って。
そこの学校に大きな木が一本立ってたの、入ったすぐぐらい。
それで陰に座って、ポーンと後ろに自分が倒れるのまで分かって。
それまでは見えていたのよ、兵隊さんもそういう人たちも。
それでいつ行動に運ばれたか分からないんだけど、そこに4番5日いたわけ。
その間私が、もちろん目はもう開かないし、昼も夜も開かないんだけど、
ただ、お水ください。千玉ちっちゃめの新本重子です。
伝えてください。両親に伝えてください。
そこまでずっと言っていたのが、だんだん言うのがしんどくなって、
18:02
新本重子です。千玉ちっちゃめです。
だんだん言うのがつらいから、もう一回言ったら誰かが聞くだろうと思って、
そう思いながら言ったのを覚えているの。
でもお水もらえなかったし、結局もらえなかった方がいいんだって。
お水飲んだら死ぬんだって。
その水自体は。
大火傷とかお怪我した人にね、お水あげちゃいけないって。
お水もらって、おいしいって死んだ人がいっぱいいるって。
だからね、お水もらえない方がよかったんだけど、
その5日の日に、もちろん母は毎日火が消えた後、
毎日焼き跡行ってとか道端の方に逃げてきた人たちに、
みんな道端に倒れたり、座ったりしてるでしょ、焼けた人。
その人たち見て、いられて死んだ人のあれもはぐってみたり、
しげこをしげこで毎日。
収容所に行くじゃない、焼けた人たちを。
二ノ島とか、いろんなところに送られるでしょ。
そういうところに収容所があるって聞けば、そこまで歩いて行くんですよ。
電車も何も通らないんだから。
二ノ島に行くときは船に乗って行って、
しげこをしげこで呼んで帰って、
今日もいなかったいって帰ってくるようなことをしてたわけ。
その日も帰ってきて疲れて、
座ったときに男の人が、
潜在証明書というのがあったら出るわけですよ。
それを持って、たとえばクレに親戚があれば、
汽車が出るところまで歩いて行って、
乗ってそれで行けるわけです。
潜在証明書だっていう。
だってお金も何もないんだもん。
命からがら逃げて行って、
潰れた家から出たような人たちはね。
親戚も行くとこもない人は、
壊れた家、トタンとか、
いわゆるニワトリ小屋みたいなのを建てて、
自分たちが死をしのぐ、
そういう周りに住んでたの。
私の家は2つあって、
日赤の裏に2階建ての家があったの。
南大寺って知ってるでしょ。
あのふもとに魚市場っていうのがあったの。
おろし屋さんが。
海に近いほうだから、川口だから。
入ってきて、そこで魚をおろして、
魚屋さんに買いに来る市場があって。
21:02
その横に川沿いで、
いわゆる涼しい部屋がこんなになって、
みんな1つずつ並んでるような、
真ん中が玄関で家があったの。
私たちは夏の家に出たけどね。
だから、たまたまその家が魚市の陰だったから、
爆風で倒れなかったの。
それで、ちょっと斜めになってたか何かでしょうよね。
そこがあったから、
私の元々の家はもうペターとなって、
母がこちらの家に来てて、朝。
座敷から台所まで、
玄関通って茶の間通って板の間通って、
台所まで飛ばされてたって。
それで、いろんなもの落ちてきたけど、
毛が生えて知れてるね。
うちキズぐらいで。
やっとそこから出て、外に出てみたら、
まだ燃えてない時だから、ペターと。
みんな潰れてるんだって。
大きい部だけがこっちに残ってただけなんだって。
自分の家の方を見たら、もうペタとなってて。
うちの家は2階建てで、
2階建ての部屋の窓を開けたら、
台所の上が茶の間通って板の間通って、
セメントのベランダになってたの。
それで見えたんですね。
ベランダがペターと落ちてるの。
ああ、すごく嫌だと思って、
河原の上を歩いて、そこまで行ったけど、
もうペターと何もどうすることもできなかった。
隣の人の声は聞こえるんだけど、
名前を呼んでもどこにいるかわからないの。
声だけはかすかに聞こえるのに、
どこにいるのだって、
河原をはぐってもはぐっても何もない。
火が向こうから燃えてくるのが見えるし、
いろんなところから煙が出だして、
朝のご飯を炊くしているから、
火が残っているんです、火種が。
それが少しずつ燃えだして、
中心地は爆弾でバーっと焼けたかもしれないけど、
壊れた家は少しずつ火事になっていた。
だからね、それが出だしたから、
探されないし、自分の女の手でできないし、
でも声を聞きながらね、
悪いね、どこにいるかわからないから、
母の気持ちとしたらね、
大変だったと思うんだけど、
こっちに戻ってきて、
父もね、ちょうど外にいて、
その前の晩に魚釣りに行ったか何かですよね、魚を。
近所の人に、おじいさんたち、
年で戦争に行けない人たちが、
24:02
夏だからみんな裸になって、
捨ててこいの男の人が、
あれだけでみんな裸でこう座って、
喋っていたんですって。
そしたら飛行機の音がした。
私と同じ、白いものを見た途端にね、
その人たちに、
爆弾が落ちたから、
自分で言いながら走って行った途端に、
魚釣りだから箱がいっぱいあって、
セメントの大きな冷蔵庫があるわけじゃない。
そこにシュッと滑り込んだらしいの。
だから箱がいっぱい落ちてきたって。
それで、すごい音なんかで、
ギーッとしてて、
止まったの、音が消えたから、
外に出てみたんだって。
そしたら、逃げろ、言った人たちは、
みんなこうして、そのまんまで、
ベローンと皮が下がって、裸とかも。
真っ赤に焼けてるんだって。
真っ赤いというか、皮膚がピンクだよね。
血が流れ出して、ほら焼けた後から、
こうして、そのまんまで3人くらい座ってるんだって。
だから、父はもう本当に一瞬ね、
見た瞬間に、ダーッと走って、
だから爆発するまで、
入った途端にバーンとなったらしいから。
何秒、1秒くらいあったんじゃないかね、
破裂するまで。
もう本当に、
その両親が元気だったおかげと、
それと家が残ったおかげ。
家の中にはほら、
かやとか布団とかあるじゃないですか。
それで、かやを釣って、
母と父が治療したんだから、
薬もお医者さんもね。
日赤あっても日赤自体がやられてて、
そこに人が集まってきて、
お医者さんたちも、
自分もやけどしてね、怪我してたけど、
自分は医師だから、やらなくちゃってね、
怪我にのせはしたという、
お医者さんの話も聞いたし、
だから私なんか本当にね、
生きてるの不思議。
治療もしない、薬もない、
いわゆる食用油で治したんだから。
そうなんですか。
それは僕も正直伺っても、
やっぱり想像がつかないんですけど。
できないでしょ。
もっと私いつもね、
私のその時の状態を話すのは、
私がどういうふうに見つかったか、
どうして見つかった時どうなかったかとか、
ずっと聞くわけよ、母にね。
母はね、また後でね、後でね、
ってなかなか言ってくれなかったのが、
もう年取って、
私もアメリカに来て大人になって、
年取ってから、
あんまり私が聞くもんだから、
27:02
もう言った方がいいと思ったんじゃないですか。
言ってくれたから、
今のような話ができるわけよ。
4日目に探したってね。
家に連れて帰った時もね、
探す時に、
ロウソク一本しかないので、
みんな電気はもちろんないから、
みんなロウソクの日ぐらいでしょ。
それでね、真っ暗の行動の中にね、
魚市の魚を並べるようにね、
ずっといて、
その間を通りながら、
しげこをしげこ言いながら通ったって。
そしたらね、
そう言った時に、
かが鳴くような声で、
ここよ、言ったって。
かが鳴くような声で言ったら、
本当にううううの手術でしょ。
小さな声で言うことよね。
それで今、
は?と思ったら、
全然顔の面影がないんだって。
あ、しげこさん。
うん。
で、あなたタドンってわかる?
わかんない。
わかんないでしょ。
昔、タドンって言ってね、
こんなぐらいの、
これちょっと小さいかな。
このぐらいの玉で、
火が燃えてる中に入れて、
赤くして、
おこたの四角な灰があって、
その灰の上に埋めて、
蓋して、
それでおふとの中に、
木で作った笹井があって、
その中に入れて、
おこたの、電気のない、
電気ごたつのない時代、
電気があってもね、
それがこういう感じなの。
丸くて小さくて、
これの半分ぐらいだけど、
卵ぐらいですかね。
うん。
それで、
タドンのようだったって母が言うの。
タドンを大きくね、
タドンを大きくしたようなかったっていうの。
というのは、
ほら、ツルツルじゃないでしょ。
同じ黒でも、
あの黒とガサガサでしょ。
タドンがそうなの。
ガサガサ。
これよりもっとガサガサなの。
ガリガリ。
聞いてる方に説明すると、
今手元にマイクのキャップがあって、
それのことをね、
しげこさんおっしゃってくださってるんですけど。
私をアメリカで話す時には、
タドンで誰も知らないから、
もちろん。
トーストした時に、
もちろん最初に、
私が言うことを想像してもらえますか。
トーストを作る時、
フォークを当てて、
スモークが出てきて、
ポップが出てきて、
それを持ち上げて、
どんな感じになるか。
黒くて、
食べられない。
食べられない。
食べられない。
食べられない。
言って、
私の顔が、
それがフットボールのように、
30:01
腫れてたから、
大きかった。
目も鼻も分からなかった、
という説明をする。
それが一番近いわけよ。
タドンのガサガサに。
トーストの真っ黒でガサガサなんです。
みんながね、
フォークのような顔をするよね。
それで、
もうその時の話、
原爆の話の時には、
何人いようと、
100人いようと、
50人いようと、
目がみんな一緒に見えるわけ。
バーッと。
一つになるわけ。
私の感覚で。
それだけみんな、
どんな話だっけ、
次どんな話だっけ、
集中心が強いわけ。
で、
それを、
そうなかったって。
それで、
もちろん髪も、
ギッキリギリギリに焼けてるって。
でも、
髪のおかげで、
皮膚は助かったの。
焼けなかった。
だから、
今でも火が入ってくる。
それで私の、
額も半分焼けてないの。
上。
ここ上は焼けてない。
下は焼けてる。
というのを、
おかっぱにしてたから。
だからこの横も、
焼けてない。
耳も助かったわけ。
その髪のおかげで。
だから放射能で焼けたのは、
ほら、
燃える火事で焼けたわけじゃないんだから、
私は。
放射能で焼けたんだから、
それだけの、
幅のところが残ってるわけ。
それで、
父が、
まず最初にすると、
その髪の毛切って、
そうすると、
焼けてない皮膚、
焼けた皮膚になって、
だからその周り焼けたの、
黒こぎのところを切って、
それで皮を、
黒いのが入ったら、
中に、
マッキーなの、
パフ、
インフラクションが、
そこにあったんだって。
だから母は、
とにかく目、鼻、口を開けるために、
薬はもちろんないから、
クッキングオイルで、
何でも、
周りにある綺麗なシーツでも割いて、
つけて、
洗い落とす、
どんどん流れてくるでしょ、
耳の横の方も。
それをずっとやってたわけ。
それで、
母が小屋から出るときは、
もちろんかやつっているからね、
自分がトイレ、
バスルームに行くとき、
ご飯も一緒に、
私に食べさせながら一緒に、
とにかく、
海を撮るために、
時間がかかるわけよ。
すぐまた出るから、
それを早くしないと溜まるし、
33:00
だから父と母が交代でやったのかもしれないけど、
もう月切りで、
やったっていう話よね。
そういう話をするの。
そこまでだとみんなね、
シーッと鳴ってね、
中にいっぱい泣いている人もいるしね、
学生でも男の子でも。
いろんな話をするんだけど、
それで、
火爆事態は、
私見ていない自分がね、
本当にみんな、
爆弾が落ちた後はね、
逃げるときは、
大人の後ろをついて逃げて、
中心地から離れたところに逃げたから、
私が見たのはその周りで、
ゾロゾロと川へ入った人たちの、
悲惨な様子しかない。
家に帰っても、
外のことはよく分からない。
だけど、
ベッドの中で聞いたことを話す。
これから話すことは、
私が見たことじゃないけど、
聞いた話だって言ってね。
時間があるときは長く話すけど、
時間がほとんどあまりないから、
一つか二つ、
聞いたケースを話すんですけどね。
なんか、質問がごじょごじょになって、
私の正義みたいな話になった。
自由にお話いただいて、
僕もいろいろお聞きしながらと思っているので、
今、クッキングオイルという話がありましたけど、
それが私の当時の様子です。
その後、
どこをもってして、
それが治ったかというのは、
境目が分からないですけど、
ある程度、食用油で、
お母様、お父様が、
そうやられて、
しげこさん的にはっきり、
目を開けられるとか、
何かちゃんと食べられたことになるまで、
どのくらいの期間か。
治るまで。
よく私も覚えていないけど、
私、これを誰かに聞こうと思うんだけど、
深淵切り替え時期があったの。
お金がね。
あってもそれ封鎖されて、
いくらしか出せない時期。
そのお金で、
どうなったかね、
私もよくその時代のことは分からないんだけど、
封鎖する前だから、
お金が封鎖になるという時期が、
いつだったかと思えば、
その前に、
元気いうことはないけど、
傷も治って、
外を歩けるようになったので、
親子3人が、
父も、
いろんな人のお世話をしたり、
もちろん、
被爆したところに住んでいるじゃないですか。
放射能の被爆者ですよね、やっぱり。
やけども怪我もしていないでも、
家の下敷きになったんだからね。
36:03
家が残ったから、
戦争証明書を書いて渡してて、
被爆、私がいた学校で、
段原小学校で、
私のお名前、住所を聞いて、
名前は聞こえなかった、分からなかったって言ったんですよ。
でも、戦争証明書を聞いたから、
段原小学校はこっちでしょ。
戦争証明書はこっちじゃないですか。
それを開けた後よ、
5日目だから、
火は消えてるじゃないですか。
だから歩いて、
戦争証明書の看板を、
父が出してるわけでしょ。
その証明をもらう、
来る人のためにね。
だからそれを見て、
自分も証明をもらって、
その時に、
そこの一丁目だという子供がいたよって言うんで、
父が、どこの子でもいいからね、
ここへ連れてきておけば、
親戚親、知り合いが訪ねてくるかもしれないから、
連れに行こうって言って、
母はもう疲れて帰ってきて、
座ったばかりなのに、
行こうって言ったら、
父が止めたんですって、
もういいから自分たち行きたい、
元気な人たちと一緒に、
といた思って言ったら、
母親よね、やっぱり、
もしかして、
誰でも子供姿を見ると、
もしかして、もしかしてって、
いう気持ちがあるのよね。
しげこ、しげこで、
で、ついてきたんですって。
だからそのロウソク持ってね、
しげこ、しげこ言うときに聞こえたいのも、
母が言ったからね、
私の声も、
母が聞こえなくても、
父が聞いたかも、
それは分からないけど、
言ったって言うわけですよね。
そういう話とか、
寝てるときに、
私の学友のお母さんとか、
学友って近所だったから、
その人たちが訪ねてくるようになった。
しげちゃん、見つかった。
よかったね。
とか言うように、
できるでしょ。
母とお母さんがね、
泣きながら、
私、聞こえるんだけど、
言ってたわね。
よかったね。
あなた、見つかって、
やけどしてても、
命があってよかったね。
うちの娘はね、
家が人敷になってね、
体が半分詰まって、
自分は一生懸命、
掘り出そうとしても、
どうもできないわけでしょ。
女で大きなビームで、
引っ張っても出てこらない。
だんだん煙が出て、
39:00
悲劇が出たら、
娘がね、
お母さん早く逃げなさい。
お母さんまでここにいることない。
死ぬことない。
って言うんですって。
でも、本人が死んでるなら、
拝んでね、いけるけど、
生きて、
やけどもしてない。
ただ、底がはまってるだけで、
引っ張り出せない。
もう本当に一緒にいてやりたい。
思う気ばっかりでしょ。
で、言ったら、まだ2人ね、
小さな子供がいるわけでしょ。
だから、長女がね、
お母さんがそこにいたら、
あの2人どうなるの?
あの2人もどこに行く?
そう思って、
それでも気持ちが裂ける。
辛いって。
それは辛いでしょうよね。
生きてるんだから。
だから、生きてさえならじゃないけど、
置いといていくのは、
どんなに辛いかっていう話してたよね。
それとか、
広島の町が、
火が消えた後に、
いろんな人が、
親戚とか、探しに来るじゃない。
広島の町は地獄だって。
けが人も、
おやけどした人も、
みんなそこらでバタバタ死んだり、
死体を、
元気な人たちとか兵隊さんたちが、
ゴミを拾うように、
パッと掴んで、
ポンと掘り込んで、
焼売持って行くって。
そういうところでなかったら、
死体をみんな寄せ集めて、
そこで焼いてるとか。
もう匂いは臭いし、
それに灰がたかって、
だんだん蚊がわいて、
やけどした人が道端に、
そのまま死んでたり、
生きてても座ってたりしてるでしょ。
そういう人たちに。
広島の町が真っ黒になるほど、
灰がいて、
前はこうやって、
ハンカチで鼻を押さえて、
こうしないと、
町は歩けないとか、
後ろの、
あの人の後ろ姿が、
もう黒いんだって、
灰がたまって、
それほど灰がいたっていう話を
聞いたりして、
えーと思って、
ほら、目に、私見てないから、
途中で逃げてる途中にね、
あの、
オフイスの人たちが、
セメントのビルじゃないですか。
セメントのビルの中に、
ワイヤーがあるでしょ。
だから、見えるわけよ。
壊れてって、
みんながそのワイヤーのとこ行って、
助けて助けて、
言ってるのに、
ビルは建ってるからね、まだ。
火がどんどん来るし、
自分も大火傷してるし、
42:00
助けられないわけでしょ。
みんなの気持ちが、
ギルティーやね、
それが、
悲しい。
それを思い出すたびに、
あの人たち放っておいて、
逃げて悪かった、
って言うような人がいたり、
いろんな人が
そういう話をしてるのを
横になって聞くわけじゃないですか。
はぁー、怖いなぁと思って。
実際そういう風に、
慎吾さんご自身、
横になってというか、
動けない状況があった中で、
いわゆるその本当の、
広島の地獄じゃないですけど、
本当のリアルタイムで見てるというのは、
ちょっと厳密に言うと、
自分で歩いてみたとか、
っていうわけじゃないじゃないですか。
改めて、
横になって聞いてる中で、
あともう少し回復されて、
動けるようになった時、
一言で改めて難しいかもしれないですけど、
その時の、
心境?
その聞いてる時は、
戦争はもう兵隊さんが
たくさん死ぬのとか、
戦争はいろんな爆弾でいっぱい、
死んだニュースも聞いてるから、
初めて聞いたようにショック、
ショックはあったよ。
もちろんだけど、
戦争って広島も
爆弾が落ちたんだ。
そんなにみんな、
そんなに大きな爆弾、
たくさん!
大きなんじゃないよ、たくさん!
えー、そんなに広島はたくさん
爆弾が落ちたのかなーとか、
ピカードン!
ピカって光ったから、
ドーンって音がしたから、
ピカドンってみんな言ってたよね。
だんだんと、
私が言った灰の話とかは、
初めの方だからまだ。
まだピカドンも、
何もあまり言ってない頃だったの。
それから後に、
そんなに大きな爆弾だったらしいよ、
ピカドン、ピカって光ったから、
あれはピカドンだ!
というのをだんだんと聞くようになって、
えー、そんなに大きな爆弾が
あったのか?
まだ終戦前の話だから、
今話していくとはね。
そして今度は終戦のあれを、
私はまだベッドにいて、
もちろん動ける状態じゃないから、
それまではほとんど
生きてるか死んでるか
ような状態だったらしいから、
私が。
で、
終戦の天皇陛下の
話があるそうな、
聞いたのも覚えてるし、
ラジオは聞かなかったよ、
家にあったかどうか知らないけど、
ラジオで聞いた
人たちが話してるわけよ。
家が残ってるからみんな
集まってくるわけじゃないですか。
廃棄物も、
すぐに、
田舎から
おにぎり棚、
来るの、
父やら元気な人たちが
配ったりとか、いろんなことしてたらしいから。
45:00
だから人が集まるから
いろんなことが
話していくわけじゃないですか。
その時に、
まだ戦争が終わったのか
死ぬ前は、
また大きな爆弾が
落ちるかなと思ったり、
で、
終戦後になって、
ああ、日本が負けた。
それはもう、
爆弾が落ちる前から
みんな陰でよ、
この戦争は
負けるかもとか、
食べるものもほとんどない。
もう、家にあるもの、
最初頃は指輪でも、
何でもみんな、母なんかみんな、
女の人はそういうもの、
あるものみんな、
軍に渡す、
軍に。お金もらうんじゃないのよ。
国民だから。
で、もう終わり頃にはね、
金のもの、お鍋、
鉄のお鍋も、
アルミのお鍋も、
もうほとんどのものが
なくなるぐらい出す。
で、大人の話聞いてたら、
こんなものまで
出さして、
武器を作るよって、
この戦争は、
負けるで、
そういうようなことを、
そーっと言うわけよ。
大型に言うと、
刑務所入れられるからね。
そーっと言うの、
何回か聞いたことある。
うちの父なんか、
いつもそう言ってたような気がする。
これはダメだい、
これはダメだい、
てかもう。
これをお聞きしたいなと、
僕も思って、
最近あの映画で、
複雑にいろんな人が、
いろんな意見を考えると思うんですけど、
閑也子さんが、
当時思ってた感情と、
今ってひょっとしたら違うかもしれないですけど、
つっこんでおきますと、
天皇陛下に対する、
天皇に対する思いとか、
僕的にやっぱり、
それが今の政治とか、
今の政府に対して、
いろんな思いがありますけど、
国が例えば軍部が狂ってたとか、
見るとありますけどその時ってみんな 気づいてるのか見て見ぬふりをして
いるどういう感じだったらいい みんなのことはまだ私も子供
だしよくわかんないし 戦争が終わったのが一番嬉しかった
しね そして天皇は神様じゃない人間
ということも本当に私たちはね 天皇が通られるから顔上げちゃ
いけないの もう神様だから見ちゃいけない
って言われるくらいだったの そういうふうに教育されてたから
その天皇が人間でもいろんなところ へも来られて姿も見れるようになって
昔は写真が出るでしょ新聞なんか 天皇陛下の写真それしか見てない
48:01
天皇っていうのはニュースも見 たことあるかな馬に乗ったり
見たことあるけど本当に天皇は 神様生き神様って教えられてた
から だからね終戦後になって第一に
私が感じたのは戦争が終わった のが一番嬉しかった
その次に戦争終わってから広島 特に広島は外国からどんどんお金
が送ってきたり着る物が送って きたりして家を建てに来る人も
いて家が建て出していてどんどん どんどんこう人様の助けでね復興
していったじゃないですか その頃に私思ったのはね戦争が
なかったらみんな友達になって アメリカ兵とも友達になって
戦争がなければどんなにみんな 幸せだったかなと
戦争前も知ってるから物の豊富 な頃ね
あの頃そういえば幸せだったし 戦争が起きたためにみんな手苦労
していっぱい爆弾で人が死んだり 戦争恐ろしいのがもうすっごく
終戦後にあってだからそれがやっぱり 根付いてるから年とともに本当に
戦争悪いのを自覚してきだしたし だから今こうして皆さんが聞いて
くださるところへには行って話を すると
そうすると本当にいろんな方いろん な考えもあると思うんですけど
例えばこれはジャッジはできない ですけども例えばその戦争責任
にてのがあるかないかとかいろん な考えもあるじゃないですか
今のこの時代に戦争に進めること 憲法を変えとか私はそれを聞いた
ときびっくりしましたよねなんで って本当に思ったのはなんでって
一番に来ましたよねどういう理由 でそういうことを言うんだろう
かが知りたかったのもう絶対戦争 していけないってもう憲法にも
今できているのにそれ嬉しいこと じゃないですか私たちにとって
まあみんなにもでしょうけど私は 嬉しいことだと思っているしそれを
変えるってまた戦争に起こる可能性 のあることにするへえと思った
なんでが一番に来ましたね今でも そう思うなんでか分からないなんで
変えるか
今回この企画で佐野さんに話を伺 っててやっぱり思うのはやっぱり
知らないことって本当に危険だな と思っててやっぱり正直これだけ
お話を伺ってやっとちょっと本当に 千代さんが経験されたことの何万
51:04
分の一のちょっとだけ分かるぐらい だと思うんですけどそれを知らない
人も本当にたくさんいるから
いるいるこの時船に乗ってよく 分かりました
ピースボートに乗って
みんないい人たちがいっぱいい て若い人の質問の中で例えば原発
一つの話題に出たのが今原発がある でしょそれをなくするかなくさない
で続けるかそれからどっちか分かんない の書いてみんな手挙げたわけねなく
さないなくするだけでその一人の 青年がねどっちか分かんない中立
だとねそれはどうしてかなと思 ってそしたらよく分かんないもし
今やめたら電気どうなるだろうか その原発がない方が危険性がない
方はいいと思うけどそれがなかったら どうなるかだからどっちいいか
よく分かんないって言う子がいた のねでまあいろんな話の後で介護
の後でね私その子にねそばにいて ねあなたがそのどっちか分かんない
という気持ちはよく分かるとそれは 原爆でも原子炉でも最近できた
ことであっても戦争っていうもの とかその原子炉も原爆にコネクト
してることもねあなたが生まれる 前にあった話で私原子爆弾の経験者
だから言って話したってピンと 来ないかもしれないその聞いた
ときにはああそうかそういうこと があったかというまあ響くもの
があるかもしれないけど生まれる 前にあったことは私が大正時代
にあったこと明治維新のこと映画 で見てもああいうことがあったんだ
なぐらいで本当にピンと来ない 大正時代にあったでしょ関東大震災
ですごく人が死んだっていうの 映画でも見ましたよそう言って
話も聞いてお骨がここにこれだけの 骨がいてあの骸骨や何かあった
とこも言ってみたけどそのときは そういうことがあったかと思って
もピンと来ない本当にジュンと来ない だからあなたが中立で分かんない
から原爆のことも怖いのは分かる けど中立にいるのは分かるとだけど
ねその気持ちは分かるけどこれから 今のこの時代を考えてもっと積極
54:08
的に原子炉が今どうなっている かそれが続けていいかいうこと
をもっと研究してそれで自分で 決めなさいと言ったの私が反対
した理由は未だに放射能が出ている 放射能はコネクト原子爆弾と同じ
放射能があるんだからその放射能 で私たちは火傷してたくさんの
人たちは放射能のために怪我も 火傷もしてないのにバタバタ死んで
いった私の父もそうだったの放射能 のあれで死んだ母もがんで放射能
にかかった人はがんの誰でもがん になる人が多いよ普通のときでも
法律的に原爆にあった人はすごく 多いの放射能であって私もがん
しましたよというわけね遅かれ 早かれ出るの私は遅かったから
よかったんだけどね若く出る人 だっているのがんというのはそう
だから10年間持っててもどうもない 人がいてだんだん年をとってそれを
バーッと大きくなった人がいるん だからそういう怖いことが原子炉
にコネクトしてるからだから私は やめてほしいと電気がないと言って
も他の方法で電気つける方法はいっぱい あるこれだけ技術の発達してる
日本の科学者技術者がもっとそういう 方面に力入れてもらったら原子炉
なんていらないのよむしろ爆弾 かかえてるようなもんよでも日本
の技術者と言わせばもう一人手 挙げた人は自分は将来ない方がいい
と思うけど今自分たちはそういう 壊れないのを一生懸命作ってる
日本の技術はすごいんだとだから そういうものを作ってるから全部
なくさなくてもいいと思うと言った ので私その人に個人的にそういう
立派な技術を持ってる科学者が おられるなら今の福島の漏れてる
あれを直す技術はできないんですか としたら私は作る方の係でそういう
57:03
直すとかそういう方のあれじゃない からよく分かりませんよあれと
第一にすることはそれを止める ことじゃないなくするなくさえ
もその後止めた後にする大事止めない と放射能がずっと流れてるんですよ
その周りに私の話の時にそれも 言ったんですけどねみんな目に
見えない味もない形もないから 放射能の怖さが分かんない
そうですねあれが例えば色が真っ黒 とかになってたらどんなにって
みんな恐れを感じて何か送るん じゃないかと思うけど放射能は
怖いよと聞いてても自分は大丈夫 だと思うわけ自分の街にその放射能
がさっき言われた色のついた雨 でも降れば怖がるかもしれない
けど何もないでも放射能は来てる ちょうどねタバコが悪いですよ
みんな分かってるのにタバコ吸 ってるでしょ
なんかそんな感覚が私はするんだ けど本人も放射能怖い日本中に
流れてくるよって聞いてると思う でも自分たち今どうもないから
タバコ吸う人も自分今どうもない 灰色になる人も元気よい80歳になって
うちのおじいさん吸ってたよとか 言わないんでなる人はなるんだよ
ぐらいでいるけど本当は良くない なのねそういう感覚じゃないかな
と思うんだけど私は
たぶん聞いてるとすごい風に落ちる しだからこそちょっと余計怖い
っていうのもあれですけど
それこそ若い人じゃないけどどう したら世界が平和になるかなっていう
問題私もずっといつも考えてるん だけど私は周りからまずは家庭
内がハッピーで人間幸せなら相手 の幸せも思えるじゃない自分たち
が不幸なら相手の幸せまで心が いかないかもしれないまずは自分
が幸せ家庭内ですからどんどん 幸せを今度は隣の人のことも広
がっていく周りからだんだんと 国になって国の中で別れてたら
喧嘩同士してたらやはり良くない 国がまた一緒になって仲良くなって
だから例えば日本でも日本の国民 が団結して絶対戦争しないっていう
1:00:05
ものそれと原子爆弾絶対持たない あれを続けるそして原発を止める
ある原発を一切止めるいうことを 発表して止めるように止めるだって
いっぺんに共犯者止まるわけじゃないん だからそれを順々に止めるように
していく日本が立ち上がったら また元の日本のように尊敬される
日本の国はすごいとか今日本は こんなに起きてるのは人気が世界
中で
外から見てもそうですか
うん下から1番目か2番目ぐらいの 程度になってるの
だからねよくあるニュースだと 未だにその世界は日本人尊敬で
強引に入ったとか言ってますけど 実際そんなことないですかしげ
ごさん
あの国の統計やつ見たよアメリカ イギリスよりずっとあって日本
はだいぶ上の方だったのね前です それがずっとえーって言うところ
が下なんだ私自身から見ても日本の 人たちの一般の昔のような国民
性の何て言うかな国民性の価値観 っていうか品位が下がってるように
思えるの
どういうところでそういうことを 感じますか例えば
昔は早い話がアメリカで留学生 で下職させてくださいと言った
のどうぞどうぞっていうのを理由 は礼儀正しい綺麗貴重面で優しい
今の人は日本人だめだめっていう の
そういうのやかましいだらしがない 時間も大騒ぎするとか汚いだらし
がないだから日本人の留学生は なおっていうのがおいいんだって
全部じゃないよいい学生もいます よ一般的に話で
一般的にそうちょっとなってるって ことなんですね
だから日本のね日本の人格っていう か国民のなんていうの
国民の格ですよね
品格が落ちたなぁと私は思った の
今アメリカってキーワードが出て きてしげこさんにお聞きしたかった
しげこさんはケロイドというか 顔のいろんな手術とかのでアメリカ
それ何歳の頃ですかね
最初行ったのは10年後だから23歳
手術で行ってそして1年ちょっと ぐらいいたのかな
で一度引き上げてみんなで中には カルフォーニアまで一緒でカルフォーニア
1:03:08
で飛行機降りておばさんの家行った 一人一人とそれからニューヨークの
学校へ行くために残った人が一人 というような人あったけど
あと全部引き上げて帰って
今その人亡くなったからよく人数 わかんないんだけど
一旦帰ってニューヨークの有名な 技術の学校へ行くために
後から来たのかそのまま残ったのか よくわかんないけど
一応みんな帰ったんですよ
聞きたかったのがノーマン・カズーゼさん という方のご尽力といろんなこともあって
アメリカで集めたお金の支援もあって
しげこさんが26人でした
25名の方がアメリカで手術をされながら
今お話あったように途中で手術したら 日本に戻って来られる方もいたり
アメリカで生活される方もいらっしゃると思うんですけど
これをまたお聞きすると本当に膨大な 時間になってしまうのであれなんですけど
単刀直撃でもちろん手術をしてということは
すごく未来明るくなるという部分も あると思うんですけど
いわゆる戦争でまさに原爆を落とした国の
アメリカに行くって
外から見ると複雑な思いがあったのかなって思うんですけど
実際のところしげこさんどういう気持ちだったんですか
私自身はアメリカに行くことは別に
手術に行きたい うれしいよ
そういうような感じは別になくて
ただノーマル・カズンと最初に会った時に
牧師さんがカズンさんにお願いして
整形手術のためにアメリカにできないか
ぐらいおっしゃったんでしょ
で帰って募金されて2年かかって
でお医者さんと看護師さんとノーマル・カズンさんたちが来られ
その時に牧師さんが
私たちはバイブルクラスがあって
教会1週間に1回ぐらい行ってたんですよね
だからみんなその人たちにね
先生が何日に市民病院か行きなさい言われて
で私もついて行ってみんなと行って
でどこ手術するとか見られて
で結局は美容整形じゃないんだから
機能整形だから
手術してこれは機能的に良くなる人が選ばれた
それとほらアメリカまで行くんだから
1:06:01
体が健康な人
それと親がいれば親の許しのある人
そんな条件があったらしいんですよ
私もインタビューの時アメリカへ行きたいかという時に
その頃私はもう東大分院でたくさん手の手術なんかしてたし
まだアメリカへ行く行くとかバクセンとしてて
手術に行く行っても東京でたくさんしてるから
多分私は行かないでしょって言ってたの
そのインタビューの時には
だからそういうなんていうの
期待がなかったわけ行けるんだという
何も期待もしてなかったし
ただ一緒にみんなと行って
いうような感じだったの
ただ行くことになって
これも神の説理だと思います
もう私生まれた時からこういう運命に
神がもうちゃんとしてらっしゃったんじゃないかと思う
そしてなんで神は私にこんな大火傷されたかと思った時に
神の証っていう言葉分かります?
神の証っていうのはね
神は本当に人間のために
人間が幸せになることを望んだらいい
戦争なんかしちゃいけないの
それを人間が勝手に戦争して
勝手にみんなを苦しめて
神はそういうことをするのを喜ばれるわけじゃないわけ
だから本当の神の気持ちを
人々に幸せになってほしい気持ち伝えるのには
やはり伝える人がいるでしょ
神が降りてくるわけじゃないんだから
私たちは早く言えば
平和を望んでる人も私も含めて
みんな神のお使いだと思ってる
神が私を通して
平和のことを知らない人に教えてあげる
私がこんなに火傷してなかったら
原爆になったよと言っただけで
私の話をしたって
聞いたらやはり誰でも感動するでしょうけど
割と割れやすい
だけど私を見て
私の声だけの傷を見たら
それだけでももう
火傷してあんなになってと思うだけでも
どういうふうになった私の話をすると
1:09:01
強いじゃない
そのために私をこういうふうに
火傷させたんだと私は思うの
それと同時に
アメリカに来たってことも
もしあのまま日本にいたら
日本にいっぱい被爆者がいるし
日本は原爆のことで
また原爆のことかいうぐらい
みんなごじゃがじゃやってるし
それともっとアメリカは国の白いし
いろんな人に話せるし
だから私はアメリカに
そういう理由で送られたんじゃないかなと思って
今まで私が生きてきた過程は
全部神様の説理だと私は思う
そういうふうに思えるようになったというか
何かいつ頃から変わったとかってあるんですか
私はね子供の時は
うちは仏教だから
ダブルツの家でずっと育って
ちっちゃい時はおばあちゃん語で
女の子の3番目だから
おばあちゃんがいつも
お寺へお説教に聞きに行く時に
私はざぶとん掛かりで
おばあちゃんと一緒に行ってて
みんなじいちゃんばあちゃんばっかりで
私だけ子供だったようなところへ
よく行ってたの覚えてるし
それが原爆にあって
外で一人が歩けるようになって
友達の家に行く時に
道に歩いてたら
いい音楽が聞こえて
どこで聞こえるのかなと見たら
ちょうど日曜日で礼拝のある日で
教会のドアが開いてて
賛美歌を歌ってたのね
だけどその頃賛美歌とも知らないし
あるとは知ってたけど
中に入ったことないし
でもその音楽に連れて
教会の前に行ったら
中にいた人が呼ばれて
どうぞおかけに入ってくださいと
すっと入って後ろに座ってね
キリスト教の話を聞いてても
居心地いいわけ
意味はよくわからなかったけど
ずっと最後まで座ってたわけ
で終わってみんな帰る時に
牧師さんが入り口で
みなさんに挨拶されてる時の私に
はいよくいらっしゃいましたって
またどうぞ言われたから
また来てもいいんですか
いうことから
キリスト教の
それで私日曜ごとに行くようになって
そしたら谷本先生ですけど
谷本先生が
流れ家教会の
私のような友達知ってるかいって
それは同じ女学校で
やけどした人知ってたし
そういう人たちに声かけてね
1:12:01
集まるようにしたらって言われて
その言われた日に
誘って集まって
それから私たちに
一週間に一回夜ね
バイブル教室の先生がされて
そしてみんなで東京へも
最初東京へ遊びに行くかって
言ったことないから私たち
で何人か親が許した人たちが東京行って
東京行ったら東京の人たちが
いろんな名誉婦人たちが
募金したり俳優さんたちが
募金したりして
東大部員で
私たち手術受けたんですよ
その時たくさん手術受けてたから
だから別に
私アメリカでまた手術できるとも
そんなあれはなかったわけ
それよりも東京から帰った頃に
私看護婦になりたかったから
子供の時はそうだったんだけど
たびたび入院するたびに
もっと看護婦になるのが
私にとって一番いいような気がしてて
静岡の病院で
そこに入ることになってたの
そしたらこのアメリカ行きの話が出て
それで
そしたら私の名前がもう
行くようになってたから
なんかこう波に乗ってきたような感じなの
私は
何がやりたいから一生懸命になって
頑張って
ドロッカーじゃないの
みんなお見越しに乗せてもらってね
意外にこうしたような感じだけど
でアメリカ行きて
そしてあと25人
一人ずつ帰る前に呼ばれて
将来のこと聞かれたのね
で他の人はどんなことを言ったか知らないけど
私は帰ってね
もう看護婦になるように行くところがあるんだとか
言ったら
こっち行ってやってみないか言われたの
アメリカで看護婦
私もね本当にね
なんていうかね
まあ天真爛漫いたら綺麗な可愛い言葉だけど
本当に世間知らずで
ましてアメリカに親戚があるわけでもない
特別友達いるわけでもない日本人の
行って知り合った人たち
良いグループの人たちだけしか知らないところへ
行ってもいいっていうのは本当に馬鹿か
なんかなんていうか天真爛漫というか
物事を考えないというか
本当にそんな気持ちだったの
で私が分からないから
家帰って両親に相談します言っといたの
で帰って父と母に話したら
父が自分たちと同じように
1:15:01
私が死ねるならね
それはもちろんね
そばにおらすと
いなさいと言う
だけど人がどうなるか分からない
先のことを順に言うと
私一人が残るかもしれない
そうなった時のことを考えたらね
お父さんがどうせ言うわけにいかないと
自分で決めなさいと
そういうのんきな気分だから
25人いた時にすごいいいグループにいられて
すごい優しくて楽しくて
で特に帰る前に
カズン付きでお世話になって
4人女の子がいて小さいの
私子供が好きだから子供の時から
その子たちと遊んでも楽しかったし
えあそこに来るんだなと思って
こんなに長くアメリカにいるような
計算もなかったのよ
将来アメリカで
学校行ってもいいなぐらいの
軽い気分で
むしろあの素敵な国へ行けると思う喜び
あの子たちに会える喜び
その方が強かったの
勉強しに行くよりは
私勉強を努力しない人だから
勉強足らずなの
本当に勉強足らずなの
恥ずかしいぐらい
それで1人でアメリカに帰って
もちろん行くってことが決まった時に
カズンさんが飛行機も
キップとか鉄とか全部なさって
私が行けた理由は
カズン付けの要領になったから
入れたんで
昔はただ学校で学生だけだったら
帰るとかね
何か仕事で行くとか
特別な人しか
身内があれば
家の通った身内がいれば
それに頼って行くとか
それしかなかったの
ビザももらうのもね
そういうふうにして
アメリカに来たわけ
余談が長くなってごめんね
実はずっとお聞きしていたいんですけど
さすがにCFさんお疲れだと思うので
インタビュー的には
一回
また改めて広島でお会いしたいと思って
最後に
インタビューとしては最後なんですけど
インターネットラジオという形で
僕本気で
思いとしてあるのは
僕が死んでも
10年100年500年
残るものが
今の時代のインターネットの
ところだと思うんですよ
さっきしげこさんが
ご自身の役割というか
生まれてきた意味と
おっしゃっていて
神様の直接降りてくることができないから
そこで変わりという話がありましたけど
1:18:01
まさに今これを
収録しているのは2013年の
8月20日ですけど
いろんな研発もあったり
政府がいろいろとやっていますけど
今ここで聞いている方もそうですけど
50年後100年後
聞く人に対しても
メッセージを最後に
いただきたいなというふうに
とにかくね
みんなが愛の心
思いやりの心を育てることが
第一だと思う
そうすると自然に
戦争反対の心も生まれるし
人を
思うから人の命が
私ねこの世の一番
大事なのは命
命がないと何も
生きたか何もできない
命が一番
大事だと思う
だから命を大切に
する命
ことは
何かというともちろん
人間は必ず死ぬ
るんだから
一生何千年も
生きた人いないんだから
何百年も生きた人も
いないじゃないですか100何年
までが最高じゃないですか
必ず死ぬ
だから生きてる今
今が大事なの
生きてるこの大事な命を
大事にするためには
やはりみんなが健康を保って
楽しく生活したいじゃないですか
で命を
病気で
年取って死ぬのは自然の死に方
でなくても
アクセデントで
死ぬ人もいる
そして自然の台風とか
こないだのような
津波とか
地震とか
自然の災難で死ぬ人もいる
でもそういう統計見てて
自然のそういう災難
で死ぬ人
そして戦争
戦争で死ぬ人
見たら
戦争で死ぬ人の命が
一番大きいと思うの
多いと思うの
あの
この一年間
私たちが生きてる
間に
この第二次世界大戦
今でも戦争のために
死んでる人もいるじゃないですか
ルキューミアになって
放射のために死んでる人も
いるじゃないですか
戦争のために不幸になったり
死んだりする人の数が
一番多いじゃないですか
だからそれを防ぐために
私たちが
努力しなくてはいけない
それで
こうしてレゴに残してもらうこと
私にとっては
本当にありがたいし思うし
あ、私が
あなたに会ったということは
こういう仕事をあなたにさせるために
会ったということも
1:21:00
これも偶然じゃない
神の説になる
だから神はちゃんと
会うべき人と
必要な人との
交流は
自然になるように
してくださってる
私はそう思う
私は
まとめて声に出すことできない
だけど喋ることできる
あなたはそれができる
だからお互いに
できることを
出し合って
それを将来に残そうという
気持ち
それはもう愛ですよ
愛があるから人々の命を
抱いて思うからできるんだよ
愛は
ただ
あなたが好きよー
だけ言い合って
いろんな面でも
あるわけ
本当にこうして出すことは
素晴らしいと私は思うし
これも
愛の一つですよ
ありがとうございます
2時間以上お疲れさまでした
お話を伺ってありがとうございます
今日は笹森しげこさんに
お話を伺いました
またたっぷり
お話を聞かせてください
皆さんお元気で
命を大切に
自分の命だけじゃない
周りの人の
人々の命が大切になるように
頑張っていきましょう

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