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こんにちは、【戦争の記憶】。今日は加藤茂美さんにお話を伺います。
加藤さん、よろしくお願いします。
はい。
今日はですね、加藤さんのご自宅にお伺いして、いろいろとお話を伺っていきたいんですけども、
お話を伺い前に、加藤さんの、加藤茂美さんの生年月日を簡単にお話させていただきます。
大正5年、9月14日、山形県のお生まれ。
はい。
で、10人兄弟。
10人兄弟のバッチです。
10番目ですね。
はい。
お姉さんが6人いらっしゃって、お兄さんが上に3人いらっしゃる。10番目ということで、お生まれになって。
この取材、今2015年の7月26日なんですけども、今は98歳。
はい。
もう間もなく99歳。
はい。
ということで、私もこの取材、いろんな方を愛してるんですけども、多分最高齢ですけども、とてもお元気で鮮明で、
先ほどもいろいろとちょっと取材始まる前にお話があったんですけども、
早速なんですが、事前にですね、年表をお送りいただいて、
しげみさん、加藤さんの、もう本当に今の青年学期から帰国に、この太平洋戦争第2次世界大戦の帰国に至るまでも、明確に日付まで書いていただいて、大変参考になったんですけども、
改めてこの年表を今手元にありますけども、振り返って今年ちょうど終戦70年ですけども、
加藤さんの中で一番、戦争の記憶という言葉で思い出す記憶というのは、いつ、どこ、ことがありますかね。
兵庫団相打つという場面には僕は出ておりませんからね。
だから、なんでソ連の国境を我々が守らなきゃいけないんだっていう、
そういう国家に対する僕は不満みたいなものを持ってたんですよ。
あ、そうなんですね。
兵隊の土地から。
だから兵隊に死のうとは思わない、僕は。最初から。
だからこれは個人的な考え方であるから、その当時そんなこと言ったら、それこそ踏み切られたんじゃないかと思って。
そういうことを言ったら。
そうですね。
飛行機免許。
だから中国が愛国という言葉がありますけど、
あれは僕は、愛国はいいけれども、中国に対しては僕は全面的に指定した方ですからね。
だから皆さんも知っておられると思いますけど、
入院すると非常にこの営内における新兵と少年兵とのね、少年兵と戸兵との間で差がありまして、それこそ厳しい暮らしをしたわけですよ。営内生活というのは。
どんな差があったんですか。その位によって、例えば。
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それこそ、戸兵に対する入りたての少年兵というやつはね、もう軍火の泥を落としてから、軍火というのは苦痛ですね。
それからもう舌打てに至るまで洗濯をしてやってあがめたというかね、上のものをね。
だから一番先に入った時には、肩章が一番最低の部分からこう、行くわけですけど。
僕は一人で入院してましたからね。だからあの広い兵兵に対して何ともいいね、恨みを持ったところであると思っているんですよ。
それは何歳の頃ですか。
それは22歳です。
22歳。
22歳の1月20日だと思います。
日付まで覚えられてきて。
その時から先ほど、岡田さん最初から国に命までは捧げるつもりはなかったという話がありましたけど、
それは当然口には出せなかったにしても、その辺の考えっていうのは何でしょう。
例えばお父様、お母様も戦争に対してそういう思いを持っていたとか、何の影響からそう思われていたんですかね。
僕は兄弟のうちのラストですからね。自分で独立しなきゃいけないという頭があったわけですよ。
だから早く独立したいと。
家計というのがあるわけでしょ。だってラストだからね、僕は。
姉の長男が全面的に家計というものに対しては引き継ぐ、全然そういうあれはないわけですよ、僕は。
10番目だとまた違いますよね。
そして、うちを離れて独立しなきゃいけないということが小学校からもう育まれているわけ。
だからそれが、根本的にお家が裕福な家であればですね、その財産を分けていただくとかなんかあるわけでしょ。
僕はそういうこと考えたことないの。
家からもらってなんていうと。
自分でやらなきゃいけないという考えがあったんでね。
やったからそういう風になったと思うんですよ。
誰かが教わったわけじゃん。
自然とそういう風になったってことですよね。
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実際22歳で入会されててさっきありましたけども、直接今戦争の記憶というお話を伺ったときに、
いわゆる戦地での、肉弾戦じゃないですけど、いわゆるそういう戦争の体験とはちょっと違うというお話があったんですけども、
そうは言ってもいろんな経験をされている中で、質問を変えようと思うんですけど、
この太平洋戦争、第二次世界大戦の間、いろんな場所、いろんなところで生きてこられて、
一番その生きる死ぬとか、そういう生死だったり、いわゆるその悲惨さっていうのを当時実感されたっていうのは何か思い出っていうのはありますかね。
そうですね。
通信ですからね、僕らはね。
単独行動というのは多いわけです。
なるほど。
だから、僕らを守ってくれるために、護衛がついてくれる状態が多かったです。
当時は、有線といってね、電話ですよね。
無線電話ならいいけども、芯を張ってね、あの戦場に弾が来るところですよ。
電話機と電話機をつなぐ、そういう仕事をやったんです。
あ、しるみさんが。
それはやっぱり危険ですよね。
でも、護衛してもらわないとできないわけですよ。
僕の写真を見るとわかるようにね、隠線撤収というね、線を伸ばすことと、撤収していくことと、
流出させなきゃいけない。500メートルあるわけですよ、電話線が。
長いですね。
それを戦場に仕組んだから、部隊になるわけだよね。
そうやって護衛がいても、やっぱり怖いですよね。
怖いですよ、そりゃ。弾が来ればね。
先人が一人で助かったんですけどね。弾が来て、背負ってる電話機に当たっちゃったから。
そういう場所とか、実際に自分で電話を、無線機を背負って、あるいは優先の電話を背負って、
この隊からこの隊に対して連絡網を作ると。
という任務が出るわけですよ。
その時にはもう単独行動になっちゃうんですよ。
09:03
誰も守ってくれない。
そういう時はね、頭が遠くなっちゃう。
僕も当然体験してないので、怖かったですかって、本当にすみません、言葉足らずのことになったんですけど、
戦地のところで護衛がついてたとはいえ、今のその線を張る仕事をされてる時の、
何でしょう、気持ちというか怖いって言っちゃうと一言だと思うんですけど、
僕もいろんな方取材してきたんですけど、意外とその中にいるともう麻痺しちゃって、
なんか死を感じなかったっていう方もいたんですけど、やっぱり死は感じられましたか、すごい近くに。
死にたくないという方の考え方が強かったからね、僕はね。
僕と同じような考えの中隊幹部の中に、
中村さんという、あと広瀬というオンダーラーの人も2人いましてね、
3人で終戦をまとめてきたんですよ。
だから隊長、鳥海隊長という方ですけどね、
これは立川の人だけど、その方を隊長にしていていたのが最後の僕の出世なんですよ。
だから僕の収録してある写真を見ていただくと分かりますけどね、
僕はそういうことよりも、
農民のね、中国人の農民の働きというか、それは僕の所をね、
入られてね、ああいいなと思ってね、そういうことを見る方の方がね、僕は好きだったんです。
一方、軍務に対しては本心を出さないで勤めてきたというのは、よく勤めてきたなと自分で思いますよ。
今、中国の方の話もありましたけど、聞いている方も僕も含めてもう一度教えていただきたいんですけど、
12:01
通信のお仕事をされてたってことですけど、
そのさっきの戦地で優先を張るのも含めて、そのお仕事もずっと政治家ではやっていたんですか?
途中で例えば別の隊に行ったりとか、一回除隊してみたいな。
いや、ないですよ。ずっと。通信に行き込んできた。
それは、例えば通信じゃない方もいるわけじゃないですか。
本当に戦地で。
その辺の墨分けっていうのは、もう強制的に上から君は通信だみたいに言われたのか、
例えばそれまでの学歴とかいろんなことが左右したりとか、その辺の理由っていうのはどういう感じなんですかね、通信になったの。
そうですね、そういう質問があると思ってね、
僕も昨日からするくらい系統図を描こうかなと思っていたんだけど、
なかなか確定しなくてはいけないところがあるんですよ。
だから、それにはまず最小限の組織から行かないと分からないわけですよね。
皆さんお聞きになってもさ、スポットで引かれたんだよね。
その系統図っていうのは分からないわけでしょ。
その系統図を描いてね、それで説明しようかなと思ったんだけどね、
なかなかうまくできないんですよ。
多分複雑なんでしょうね。
どういうところでも、こんなに無線であってもですね、
一番線上に立つ状態の通信と、その中間にある通信と、
それからその監督通信というのがあって、
無線の場合にはみんな監督通信が聞いているわけですよ。
だから、生分なんか打ったらすぐあげられちゃう。
電報を通信したっていうのは、全部暗号で打たなきゃいけない。
だから、生分を打つとすぐあげられちゃう。
そうですよね。
そういうところだったりしたね。
先ほど中国の方って話もありましたけど、
そうすると満州とか南京とか、その辺にも行ってらっしゃったという感じなんですか。
15:02
どういう感じなんですかね。
当初はソ連の国境にいたんですよ。
ソ連の国境も一番近いところで、
リシリー・リブン島に近いところなんですよ、向こうのね。
あそこから見ると山から火が見えるんですよ、電灯が。
泣きながら見たんですよ。
あそこなのになーって、なぜぐらい離れているか分からないけど。
あまりにも遠いからね。
番人の頂上って、あそこの写真がそうですけどね。
番人の頂上っていうのはこういうところだよっていうね、
僕はカナエを連れて行って、終戦後に行ったんですよ。
行って見つけてやったんだよ。
ここで弁当を食べたんだよって。
そうか、知ってるわけですもんね。
だからこの村、13の行ったとこ行ってくるんだって聞いてきたらしい。
たくさん写真ありますね、番人の頂上その後の。
そうするとずっと通信一本でっておっしゃってましたけど、
まさにいわゆる情報を扱うお仕事をされていて、
そうするとやっぱり気になるのは、
例えば日本に普通にいたら、やっぱり当時情報が新聞も統制されてたりとか、
日本にいたらやっぱり負けてても勝ってるみたいなことが入ってましたけど、
それは全部逆に一番リアルな、例えば不利になってるとかも入ってくるんですかね。
その辺でどんな感じだったんですかね。
そう、あの無線機がね、
もう普通短波と長波とあって、
普通短波は使わない。
長波っていうのは電波の流れを生きることであるけども、
今のように発達したものじゃないからね。
18:01
電子艦という真空艦を使った、あれでしょ、
今はもう真空艦なんて使わないからね。
だから、なんていうかな、
ちょうど狭間を通ってきたっていう感じだね、僕は。
狭間。
もうね、新しいのといっても古いのと、
高い、高い。
だから電波、電波によっても、
Eとかね、
1とかっていうののスタートっていうのを、
同じわけに糸という、
2だと糸で、1になるんですよね。
そういう電波の扱い方ですね。
しかし、光通信というのをやったんですよね。
その光通信なんていうのを、
一番最初に僕ら経験したのは、
九十九年半までやったんです。
それをやったのは、12年の8月。
最初から国のために命をかけるまではっていう話もありましたけど、
その戦争に対して最初から、
例えば日本は勝つとか、もう負けるなと思っていたとか、
あとずっとその通信の仕事をされていて、
途中から、この戦争ダメだなと思ったことってありましたか?
最初から思った。
それはなぜですか?
なぜですかね。
あんな大きい国と立ち会ったってね。
これ、相撲国だってよ。
地点は負けちゃうんだよ、沖縄の。
だいたい。
ああいう、その辺りで戦争したってよ。
物量から言ったって負けちゃうよ。
絶対。
アメリカ行って、日本と比べてみたら、それこそ大変だ。
中国は中国だって言うけど、たった3戦勝という勝しか行ってないわけでしょ。
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大きい国でね、中国に行ってきたなんていう運命なんか知れるものじゃないと、僕は思いますよ。
今、戦争が終わって振り返って確かに大国にっていうのはわかるんですけど、
当時、その戦争が始まる時、前後で、
しげみさん以外の方も、そういうどう考えても大国に挑むっていう意識はあったんですかね。
どう思われますか。つまり他の方はどう思ってたのかなと。
どうかなあ。
みんな中国が愛国一本で言ってるような気がしましたね。
そうでなかったら、あれだけ抵抗って言えないと思いますよ。
じゃあやっぱりもう麻痺してたんですかね、その愛国心で。
そう思いますね。
それは生まれる時からの教育が、中国が愛国に行ったから、
ちょっと取り去るわけにはいかないんじゃないかなと思う。
でもそういう意味ではさっきの話に戻りますけど、十人兄弟の十番目ということで、
いわゆる長男とかとは全く違うっていうのは理解はできるんですけど、
ただ基本的にお父様お母様、実際はどう思ってたかは別として、
やっぱり中国の愛国みたいなものを十人のご兄弟にも伝えてたんですかね。
それともやっぱり学校の影響が大きいんですかね。
学校の影響は大きいと思います。
実際そうするとお兄さん上に三人いらっしゃったってことですけど、
みなさん出生されて、その後ご無事だったのかとか。
長男は出生しないです。
次男というのはガーッと下がって、僕の上の上ですからね。
すぐですね。
上が長男で、ガーッと下がってきて、下から四本目が兄さん。
なるほど。
で、その下が兄で。で、僕と。こういうのになっちゃう。
これはみんな行っちゃったからね。
ただし、上の上の兄は僕が15歳くらいの時に兵隊に入ってた。
で、万象寺院に行ったんです。
それは昭和4年だよね。
4年から8年、その間に。
24:04
で、現地渋滞をしたんです。
現地渋滞したの。
法天で神経ですね。
法天というのは今、川崎市が人工都市になってるんですよね。
これは満州の方なんです。
満州国なんていうのは、そうなっても自衛隊よく行ってきたけど、
自衛隊には満州国というのがちゃんとあるんですよね。
僕は認めない。しかし、僕はね。
満州国なんていうのは、日本の財閥が決めたことは、
だいたいないんだよ、満州国は。
だいたいあそこを滅火しようという勝負だった。
最初から戦争は勝てっこないっていうふうに
しげみさんは思っていたっておっしゃいましたけども、
もうそうすると、いわゆる通信の仕事で
いろんな情報も入ってきたりすると、
ますますそれはもう勝てっこない。
そうですね。
そういう中で、日々戦地のところで優先引いたりも
生きた心地しない中で、常に朝から晩まで
死の恐怖と隣り合わせだったのか、
そんな中でも、生き抜きっていうのは不適切かもしれないですけど、
日常を感じられる時間とかってあったんですかね。
それは個人的なね、気持ちの持ちようじゃなかったかと思うんですよ。
僕は振り返ってね、自分の時間を作ったんですね。
自分の時間。
だから、戦場という名前のもとに行っていても、
戦部工作部隊という、だから行って、
中国人を主体にした運動会だとかね、
27:04
そういうのを組織してやるわけじゃない。
散々ぶなぐっておいてよ。
後から頭撫でているようなもんなんだよ。
だから散々こづいている部隊がいなくなって、
その後に入っている部隊なんだよ、僕らは。
ああ、なるほど。
だから、そういうことを見た見た人は、やっぱりあれ、できないなと思ったんですよ。
できない。
理解、自分の立場を理解できないわけ。
だから僕はどっち行っていいか分からないような状態。
だけどこれは間違っていいんじゃないかなという考えは僕の考えだったんです。
そういう個人の考え、当然表だとは言えないと思うんですけど、
いわゆる同僚というか、そういう横の同じ仲間とそういう話ってやっぱりできない、しなかったんですか。
自分の思っていることだったり。
そう。自分だけだね。
うん。自分だけで処理していたわけ。
だから僕は兵隊に対しては手を挙げたことはないんだ。
そしたらもう、ぶなかられると次なんか薬っぱでぶなかられるんだよ。
手が痛いって言って、これでぶなかられるんだよ。
そういう目に合っていない人は、そんな話をしても実感がわからないと思いますよ。
常にね、営内生活というのを大体経験していらっしゃらないから、わからないと思ったら、
営内生活だともう厳しさというのはないんですよ。
なんであんなことを決めたのかなと思う。
30:01
だから、自分より上の人の話というのは、全部天皇陛下の話であるというふうに心よというふうになっているわけ。
それはやっと、我が国の軍隊を言う天皇の統率し、保うところであるというのが一番先の拱門にあるわけ。
それがいいとして、天皇陛下からずっと伝わってきて、すぐ上の一等兵の話を聞くときには、
その天皇陛下の筋が通っているんだというふうに聞きなさいという。
そういうふうになっていたんですね。
そういう教育を受ける。徹底しているわけですよね。
曲がっているとか曲がっていないとかというよりは、批判ができないんです。
もうそのように決まっていたんですね。
自分では銃を持っているわけでしょ。完全的に。
一兆ずつ渡されるんだから。
それのリポの中の検査すると、目で見ると分かるんですよね。
三手が。
ああ、そんなのができたの、大変です。謝らなきゃいけない。
三八式御兵長長殿と言ってね、手入れが悪くて錆させてしまったということを言って、
鉄砲で謝るわけですよ。それで操縦をして、その錆を落とさなきゃいけないという。
それは笑って見ているわけで御兵が。
もうそういう時間の方が多いんです。
ラッパで落ちて、ラッパで寝るという。
33:02
あれがね、新平さんはかわいそうだなと、また寝て泣くのかなというラッパがあるんですよ。
たたたたたたたたた、たたたたたたたた、、、、
これは消灯ラッパっつってね、起きるときは起きるで。
それが八冠専法だとかね、消耗専法だとかってみんなラッパでやるわけですから。
ラッパの譜も覚えなきゃいけない
俺だったら覚えない
ずっと通信一本できて
僕も頂いたこの年表拝見してやはり気になったのが
終戦の1年前ですかね
ご結婚されてますよね
それは通信の仕事をして
どこか中国とかに行かれてたけど
日本で結婚
どういう状況で結婚されたのかな
やっぱり自分の子孫を残したいと思いますしね
だけどとにかくそうすることによって
国の戦争というのは
俺が実家にいたままで出て行って結婚して
僕が独立したかと思ってない感じで
全部うちに降りてしまうわけで
僕に何かがあった場合
戦時状 古戦時状というかな
だからそれをなくするためには
独立しなきゃいけないから
僕は席を持ってきちゃった東京で
その当時はどこにいらっしゃったの
山形県で
山形にもいらっしゃったんですね
山形で
すいませんちょっとまだ理解しきれてないんですけども
その当時は結婚されて今山形の時は
一回通信のお仕事はもう離れてたんですか
通信のお仕事山形でされてたんですか
いや山形にいたっていうのは
それに書いてある当時なんですよ
そこまでしかいないんです
そうですよね
そうすると東京の大森かな
なんかにいたんです
通信のタイで通信のお仕事をされているって
さっきお聞きしましたよね
日本電機に入った時に
通信のことについて少し軍隊でやったから
だから日本電機選んだんだよ僕は
日本電機選んでもせんね
36:02
言ってもらった
素朴な疑問なんですけど
その戦中に一回タイに入っていて
通信の仕事をしていて
除退してそのいわゆる会社に入る
終戦前夜というか
昭和15年でしたっけ
そうですね
僕にしては戦争中なんですよ
その除退するっていうのは
自分からしたのか
しなさいと言われたのか
それは年中なんです
年中だと言って
オパラする
期間限定なんですね
それはやっぱりそのタイとか
その人によるんですよね
ずっといなきゃいけない人もいたりとか
国の情勢によるんだよね
その辺がすみません
僕も勉強不足で
全くその途中で
そういう意味での状態があるってのを
知らなかったので
昭和15年で
それでいわゆる会社員にも
なってたってことですね
15年というのは
12年に
11年で引退検査で
12年に初年兵で入って
13年の12月に
一人で満州へ行ったんですよね
11月かな
この絵に書いてありますね
12月、11月
多分11月だ
11月ですね
11月の末ですよね
そうですね
一人で行ったんだから
不平学校から行ったんだ
ここ不平学校において
原体が
邪魔になる原体が
三聖少女の
ボタン校が
そうですねボタン校長
ボタン校長の水曜研推進に行ったんだ
その辺のあたりを経て
満期で除退されて
結婚されてるということですね
その後に
そうです
それは在号になってから
在号の時間に結婚して
結婚した時に
すでに東京に席を持ってきていた
なるほど
だから僕に何かがあったというのは
一切家内に来ることになる
そういうふうに
小杉城そういうものを作っておけば
だからみんなそういう状態でしておかないから
全部本家に行っちゃう
国からの保障
そうかそうですね
そうなると
自分の妻にしたものを引退して
そうなるわけないから
そうならないようにして
結婚というのをしたわけです
結婚されてからもう一度出世されてるんですよね
39:01
それが在号になって
それはいわゆる小州霊城みたいな
そう
その前も来てる
2階3階の
そうなんですか
3階の
それでこの年表にも書いてありますね
なんかイメージだと
1回小州霊城来たら
終戦までずっとみたいなイメージがあるんですけど
そういう人もいるのかもしれないですけど
何回もそれを繰り返してる方がいるってことですよね
僕は繰り返してます
小州霊城何度も来られてる
行くごとに対応が決まっちゃう
決まって
かかっとこう
黒龍峰の落ちてる状態がよく分かるんですよ
それはどんなところで分かるんですか
見ればもう明らかなのかもしれないですけど
例えば
例えば列車の中のサービス
最初行くときはね
もう列車の中の真ん中の通り道
あそこなんか
歩けないほど
リボンの大きなものがもらえたんですよ
それこそね
昼飯なんか弁当食べるわけですけど
お身をつけね
あれなんかもう
タルで持ってきて
サービスされたんですよ
ところがね
最後の出征の時なんていうのは
みんな列車全部暗幕をかいてね
中見えないようにする
見えないようにする
見えないようにっていうかね
光を外へ出さないように
電灯の光が
外へ出ないように
空襲の目標になる
目立たないように
真っ暗な中で
でもその時は最後の出征の時は
そういう真っ暗な中で
しかも九州からね
一番最短距離を通っていく
釜山まで
船に乗る距離が直力少なくと
でないとみんなブッ
危ない
危ない
で戦争には乗らない
全部の艦船に乗って
半分沈められてね
あの寒いのにさ
お前つま先に飛び込め
42:02
もうあの船がね
こんなになったところのこっちからなんか
降りることは飛べると
大変ですよ
今度は中見堂に
しっかり体つけてないと
バーッと落ちる
バーッ
顔
うんそうですよね
叩きつけられますよね
高い位置からね
こうなっちゃったというのね
衣も入らないね
なんか落ちてて
だから普通8時間で行くと
10何時間20時間とかかって
行くわけですよ
それは何で行くかというと
みんな蛇行してるから
直線になんか行けない
蛇行するのは何で蛇行するかというと
戦争間の攻撃を防ぐために蛇行する
着いた頃にはフラフラですね
みんなクタクタですね
船行する人ばっかないよ
さっきのその話少し戻りますけど
最後の修正で結婚されて
っていうところで
やっぱりその新婚さんで
奥様とかは当然
生きた心地しなかったと思うんですけど
なんかその時に
その後結果的には無事に戻って来られるわけですけど
なんか夫婦で話したこととか
なんか最後になるかもしれないな
みたいなことをやっぱり思ったり
なんか話はしたんですかご夫婦で
そういう話は逆にしなかったのか
いやあの子が入ってたんだからね
泣いてたんですよ
中に赤ちゃんが
現実に生まれてくるよって
その時僕は鵜の木にいたんです
情けない戦争をしたもんですよね
すごい辛い体験だと思うんですけど
この年表にもありますけど
お子さんを亡くされてるわけですよね
生まれたのも亡くなったのも
その当時は知らずにっていう
知らない
家内の実家で亡くなったんです
実家っていうのはジェネラーですからね
45:06
そのおじいさんもいたんですよまだね
人がいたんですよ
本当にこんな戦争なんてやらないほうがいい
差し支えなければなんですけど
そのお子様はご病気で亡くなられたとか
なんですかね
やっぱり
産後の生い立ちがあれだったんでしょうね
不審状がないもんね
食べ物はないんでしょう
生きるものはない
泣い泣い潰しに
泣い泣い潰しで勝てるわけないな戦争
僕は常にそういう思いで
戦争というものに参加していたからね
絶対命令にならなさって
中隊長の命令なんかは
僕ぐらいにしても何も聞かなかった
戻ってこいって言ったよ
鎌田将士が
帰ってね
山形市に
山形市の姪がいますけどね
姪のお墓のあるお寺行ったらね
CJCがあったのよ
これジェットネットだ
中隊長の
お墓の
軸軍中尉さんになってた
軸軍中尉様が
ちょっと音が忘れてたけど名前はね
中隊長から中尉さんになってたんですね
それを表すのでね
さっきあんたが言われた
48:04
なんていうのが兵席っていうかね
席の名簿みたいなものを
作ればよくわかるんじゃないかなという風に
思って作りかけたんだけどね
大変ですよね
お子様、亡くなられたお嬢さんですよね
お嬢さんの亡くなったこと生まれたこと
後からっていうことは
当時手紙とかでのやり取りとかっていうのは
家族夫婦でできたんですか
できたけどやれなかったね
それは何でですか
何でやれなかったのかな
やらなかったね
それはやると逆に寂しくなるからとか
辛くなるからってことですかね
そういうことをプラスしたんでしょうな
ほとんど町だけど
上海にいた時に
工兵隊の石巻から
爆薬、防食火薬という火薬
6トン積んである
荷物支払所に便貸しちゃってね
こういう欠けてあるものが起こったんです
なんか大変なことが起こったな
その朝現場に行ってみたんです
船着けば
バーンと海の方に出発しちゃった
俺たちと一緒に
名古屋に行く予定の船
船積みを待っていた荷物集積所が
工兵隊の市の節末で
工兵隊は自らの防食火薬6トンを爆発させた
51:03
4キロ離れてたんだがね
そんなこともあったんですね
そういう事故なんかもあるんだね
それだけでもすごい記憶ですけどね
しょうがなくて
上海の過ごし入り館の方に
名古屋には行けないってしまったんです
それだけのことがあったらそうですよね
全部何もなくなっちゃって
そうですよねすっからかになっちゃいましたね
僕は隠して持っていた受信機だけがあったんです
だからニュースは聞いていたんだよ
今取られるかどうかは分からないけど
川崎市の川崎というところがあるんですけど
そこに三上総長が僕の上の人がね
いるはずなんですよね
僕を訪ねてもいないから分からない
それにはね
これには訪ねて行こうとしたんです
名簿がありますね
この名簿には兵隊のプライが付いてないでしょ
付いてないですね
中央側にもしも見つかった時に
悪いから僕は書かなかったんです
そのプライが
分かんない
誰が入れ人だろう
名前だけだったらね分かんないですもんね
この名簿拝見してもですけど
やはり終戦のタイミングで
8月15日もまもなくやってきますけど
そこで終戦終えてから帰国されるまで
すぐ帰国できたわけじゃないんですよね
見ると次の年の2月とかですね
日本に帰ってこれて
その帰ってくるって
そんな簡単なことじゃなかったってことなんですよね
いや簡単じゃないですよね
そりゃね
無防備だからね
何にも持ってないでしょ
54:01
特に僕は持ってなかった
ハンゴまでみんな撃っちゃったから
撃って兵隊さんに食わしたんですよ
みんな平らですけどね
上限がないんですよ
終戦は
そういうためにね
そういうグループの中に誰かがいて
反乱軍みたいな形になって
暴動を起こっちゃったことがあるんです
そういうのを見るとね
中国の司令部の方から
どっかに持って行っちゃう
それが機関渋滞からそういうのが出たっていう話を聞いたんだけど
みんなに言ってもらってね
機関渋滞にそういう状態があったそうだと
だから我々も何とかしなきゃいけないと
でここで
俺たちが指示にみんな動いてくれますけどね
これは本当の人事だからね
変えるための手段としてこういう方法を取らないと
中国側に悪いんだ
だからみんなに相談した
そういうことをやった中隊がいないらしい
他はやらないと
だから鳥上隊長もそれでいいんだろうと
鳥上さんねあなたね
隊長になるって自分で言うけど
そうじゃないんだと
今まではそうだったと
今はそうじゃないと
みんな平らですよね
僕が戦闘機って言ったんだよ
すごいですね
だからそういうふうに誰かがね
やっぱり犠牲にならないとね
で中国からね
労働を要求してくるんですよ
57:01
今日何人だって
何の労働かというとね
日本軍がね
固定弾だとかね
そういうのぶっ壊して
陣地を作ったわけ
そういうの復興させなさいと
壊したもんだから直せっていうのは
それはそれでそうでしたね
聖火山というところに僕はいたんですけど
そこで亡くなった兵隊が一人いたんですよ
その家を探しに行ったんだ僕は
その方の
その方が亡くなったのは何で亡くなったんですか
病気ですね
そっか
じゃあある?
僕から手を取って
体全体を焼くことせずの模式がないんですよ
終戦軍だ
だからここからね
先を
取って
手から先?手首から先?
温かいうちに取るんだものが
今亡くなったら
加藤さんこれ焼いてあげていいですか
焼いてね
これも無いんだけどさ
模式がないから
しょうがないから
松林って枯れ枝を取ってね
でこれ
なかなか焼けない
焼き方も分かんないでしょ
それで
毛布に包んで
あそこに向いたんですって
僕は終戦軍
その邪魔探して行ったけど
見当たんない
分かんなかったですよ
行かれたんですね終戦後
終戦後行ったんです
洋洲湖のほとりだからね
南京川ですから
1:00:02
幅が4キロあるからね
川の幅が
すごいですね幅だけで4キロ
で鉄橋を駆けずにね
あと鉄橋に入るのに4キロ
そんで僕は船で渡ったところ
橋が駆けた
10年間の歩みとなって
歩いたもんだよなチェモフは
あの川に橋を駆けたんだ
すごい実感がありますよねそれは
すごいなと思う
そういう意味では今お話がかかりましたけど
やっぱり日本に行ってましては戦争知らない
僕からすると終戦っていうと
やっぱりすぐその8月15日の
漁港放送がイメージできちゃいますけど
加藤さんからするとその本当の
終戦ってのはいつになるんですかね
8月15日が一つの
どこで漁港放送聞かれたのか分からないですけど
区切りなのか苦労して
次の年2月に帰ってきた時なのか
それかしばらく経って
何か生活が見えてきた時なのか
ご自身の終戦っていうのはいつになりますかね
やっぱり帰ってきてからだね
これが終戦というものは
こういうものかというのは
品川からね
品川から上野まで
MPに送られて乗った
あのあたりだと思うな
すいませんMPっていうのは
勉強不足で分からないんですけど
MPっていうのは何のことですか
アメリカ軍の憲兵団
ワンショットかけたね
それの扇動で品川から上野まで
送ってもらってね
上野で乗って
自分の実家に向かうわけですよ
それが鹿児島だから上陸したの
遠いですね
鹿児島から酒田島の煙を見ながら
乗った列車がやっぱり
1:03:02
三島
あのあたり三島だからね
列車が三島二島
それ引き上げ車だという
あの元に従戦して腰掛けをしたんですよね
引き上げの方だからね
腰掛けをさせてもらった
ところがね
それには自由の乗る人が待ってるわけよ
俺たちが乗って
後に怒涛のごとく乗ってくるわけ
だから入口から
電車の乗る人からじゃなくて窓から入るんだよ
窓から
窓から入るのは
テーブルだっていいね
大変でしたね
それで
粉砂さんが見えた時には
きついなと思ったね
それで品川に行って
品川でまた憲兵に
MPに送られて
千里沢に帰ったんです
そこで奥様と再会されて
いや
僕の持ってる
金井の実家に金井がいないんだよ
いない
それで探した
探したって言って
消えてね
そしたら大船に来てるって言って
大船ってこっちの金川の
金川の大船
大船に金井の兄がいたんです
それじゃあって
金川に来たんです
その時は2月のせいでしょ
支援に切り替えてるのがあってね
その時のね
大変だった
奥様は大船で再会されて
そうですね
当然今だったら携帯電話で
どこにいるって言えますけど
言えないからその山形まで
行かないと分からなかったってことなんですよね
米沢か
向こうにいるものだけと思ってたからね
今みたいに連絡のというのが
1:06:03
大切ではなかったように思う
奥様と再会されて
最初に掛けられた言葉とか覚えてますか
ちょっと恥ずかしいかもしれないですけど
いやいや
ちょっとね
行った時に
大船に
留守だった
またしても
留守だっていうのはね
日本電池行ってるって
奥様が
給料もらいに行ってる
そうかその間も出るわけですね会社からは
その間は僕の留守さんの間は
本中といってね
地方中だけはもらえるのね
家内
そういう風にね
手継ぎを取れるように
手継ぎを作ってたから僕は
そういうことも含めて
だから毎月もらいに来てるわけ
わざと来なきゃいけない
送っては来れなかったらしい
来るのだけで大変そうですね
大船からね
交通費もかかりますよね
でも交通費が安かったから
ただ行き来の遠かったから
大船も
うなぎ屋なんかいっぱいいたんですよ
田んぼの
養成
うなぎ屋全部取って食べたり
そんなこともあったんです
で行ったら留守で
その後までも再会されたわけですよね
でも結果的には当然奥様と再会できて
その時の何か覚えてます?
言葉でもいいんですけど
ああなおすってさ
帰ってきたのなって言われて
もうね
姉でしたからね
義理の姉だけど
それは十五塚の海軍省で
海軍の何とかは
勤めてたんですよ
大株のいい人でね
声を上げたから
日本電気火業から
止めてくださいって言って
その日のうちに大分気配してさ
徐々に
家を増やしてくれてね
僕と金谷のために
本当ありがたかったね
そこから帰ったんですよ
1:09:01
日本電気に帰ったら大変ってさ
そんなことがあったんですね
日本電気と言ってもね
差別提供の高な穴というんだからね
差別提供というのを受けたことがないから
わからないと思いますけど
僕は小学校しか出てませんから
もう給料はシャッとしまっちゃう
僕は二級生で
その上の学校出た人はみんな
社員
日本電気社員と
日本電気多摩川工場の社員と
差別がついて
それから片薬2キロ
片薬1キロ
全然違うわけですね
人間に差別
非常に抵抗を持ったね僕は
こんなとこに勤めてられるかと思った
卒業に一番声を上げたのは
飯屋志郎です
共産党の
ゼネストをやったんですけどね
ゼネストが中止されたのは
J-1級
あの当たりのJ-1級というのは
すごい力を持ったね
やっぱりそうなんですね
飯屋志郎も泣きながら放送したんですよ
労働者を団結しなきゃいけない
ついラジオで放送した
連合軍から
日本政府では抑えきれなくなっちゃったんで
その当時は
日本全体が
連合国の支配下になった
いわゆるその終戦後で
J-1級というか連合国の支配で
いろいろ支配とか統制
全て変わったわけじゃないですか
国が変わって
いわゆる今もそれは人によって
考え方だと思いますけど
そういう意味で独立というか
日本が今もアメリカと密接に
関わりはありますけど
でも日本がいわゆる独立みたいな感覚を
加藤さん覚えられた時ってありましたか
その終戦後それが今も実はずっと
つながってるのか
いや独立してないよ
してない
もうほとんどは
連合国
もしくは大部分はアメリカでしょうね
1:12:01
そういう牙を作ってんだからね
作っちゃった上に立ってね
今若い人たちがいろんな運動を
やっておられるようなんですけどね
今の立場はそのままではないと思うんですよね
ちょっと間違っているんじゃないかな
それはどんなところで感じますか
特に間違ってるっていうのは
戦争的な部分になっちゃうと思うんですけどね
そういう風な戦争的な基盤は
上にして上に立ってきてるわけでしょ
だから国会で通過してね
あれ言ったでしょ
あれを覆そうとして
反対の意見もあるわけですよね
反対をしてみてもね
根本はざっと昔の
決められていってしまってる上に立った
政治のやり方ですからね
仕組みとしてはそうですね
だと思うんですよ
だから今の生き方
若い人たちの生き方というのは
間違っているとかそういうことじゃなくて
反対そういう地盤に立ってという風に
持っていかなきゃいけないんじゃないかな
という風に思うんですよ
その反対してても
もうその政府を選んでるのは国民ということになりますからね
動かせないですよね
与党が決めたことは
追い詰められていった場合に
どういう風に考えていくかという
真相補正という形から言ってね
それに反するような
政治的条件が今出てきたか
もとく言われているけど
今の内閣が決めたんじゃなくて
昔のことじゃないかと思うんですよ
戦力があった当時の
だから終戦70年と言われてますけど
そういう意味ではずっとその70年前
もっと前から続いていることもあるってことですよね
いろんな意味で今も
ですね
当時と今でまた違うと思うんですけど
偽らざる気持ちを聞きたいんですけど
その日本という国政府
あと天皇陛下とかに対してのその気持ちっていうのは
いろんな意見気持ちあっていいと思いますし
当時と今って違ったりすると思うんですけど
その辺ってどうですか
1:15:00
天皇陛下
天皇陛下ってね
天皇陛下は何もかも
治めているかごとく
なっているわけですよ
我が国の軍隊は90とこから来てね
ところが戦時に関わらずね
90項目があるんですよ
兵隊さんは戦時には関わっちゃいけないと
いうことの意味だと思うんですよ
ところが海軍大臣だってよ
海軍省だって陸軍省だって
みんな兵隊さんでしょ
あの当時の総理大臣だって
本当に立派な兵隊さんで
そうですね
将軍
ああ
今はどうなっているか
よく分かんないけどね僕は
高校博士団釈という
釈遠寺でもって
あったわけでしょ
だから国会議員とは言いながらね
全然船長なんか知ってもらわなくたって
一瞬でなっている事例がいたわけです
僕はそれらの人を教育した
なんていうと非常にいらそうな話だけどね
戦争をたけらわずになってきた時に
そういう人たちも兵隊の経験をさせなきゃいけない
というのが政治の考え方だった
それで奈良城へ行って
我々捕鯨学校のワイン所ってやったんですよ
だからそういう商工いない人たちが来た時に
自分たちの服を貸して
そんなことがあったんですね
1:18:00
やったことがあるの
軍歌と言ってね
軍靴ですね
編み上げ靴
それを履かしてた
で鉄砲を出して
奈良城を丸化したことがあるんですよ
すごい偉い人たちだというのは
当然わかっているわけですよね
その位としては
わかっている
不思議な感じですね
そんなことを僕はやったんですよ
それはもう12年13年と
千葉の捕鯨学校にいたから
そういうふうなことに割り当てられたんですよね
なるほど
最後に伺いたいんですけど
今もう終戦70年で
いろんなご経験を聞いてきたんですけど
これ聞いてる方
これ音を録って
インターネット上でもずっと流すので
ひょっとしたらまだ生まれてきてもいない
この将来聞くかもしれないですね
もちろん僕らも聞かせていただいてますし
ここにご家族だったり
お孫さんたちもいらっしゃると思うんですけど
これから今生きている人たちに
改めて最後にしげみさんとして
これだけは伝えたい
この話自体がそうですけど
何か一言あるとしたら
どんなことを言葉を送っていただけますかね
僕らはこの9月の末に
また展開のような集まりがあるんです
集まり
その集まりの得意に感じたけれど
僕らが受けた軍隊生活というのとね
今盛んに言われている
区分されているような気がする
というのは
太平洋戦争に参加したらと
僕らは太平洋戦争のうちの一部ではあるけど
大陸より他に出たことはないんですよ
今度また集会があるけれども
1:21:02
その集会行ってみるとはっきり分かる
だから僕は発言しないことにしてある
だけど言ってみたいことは言ってみたいからね
言ってみますけれど
だから
なんていうかな
そういうふうなまとめになると
非常に苦しい状態になりますね僕は
あの輸送船に乗って帰ってくるというのね
あの戦中の隣地
ああいう様を見たら大和戦争って
いかに積みつけてなんものであるかという
あれが分かりますよ
あの八地に対してね
昔の上官を引っ張り出してさ
もうぶっ飛ばして
僕はもう
政党がその謝ってたんでね
識者が謝ったんじゃないんだという風に僕は
言いたいと思うんですよ
そういう風に作ったのを自ら作ってんだという
自覚が欲しい
もっと穏やかでね
一生終わりたいと思う
僕から取ってあげた
手首寄り下げる
彼の家を訪れていくにしたってね
僕はもう連絡をした
娘だとか孫娘だとか
それにしとってくれる
こんなものを
弟子のおかげでね
おかげで連れて行ってもらったから
僕は生きたけどね
ああこんなわけでしてね
もっと早く行動を起こせばよかったなと
思いますよ
1:24:03
で常連なんていうとこ大変なとこですね
もう間もなく99歳も迎えられるということで
いつの間にかね
これからもいつまでも元気でいていただければと思います
メロさんのおかげですよ
ということで今日はですね戦争の記憶ということで
川崎にお住まいの加藤茂美さん98歳
加藤さんにお話しを伺いました
どうも長時間にあたってありがとうございました
いえどうだろうね