Namaste。
めいそうラジオ。
インドで出会った、タントラ瞑想コンビ、
サキとラシュミが、
愛と生と死と、お金のメディテーション、
タントラから生きる処方箋を探っていきます。
欲深い私たち現代人のための瞑想入門、始まります。
今回のテーマは、【タントラでよく聞くJuicyって何?】です。
そうよ、このタントラ世界に入ってからよく聞くこのJuicy、
Juicyワード、私めちゃくちゃ苦手なんよね、このJuicyワード。
ね、ラシュミめっちゃ言ってるよね、なんかJuicyに引っかかってるよね。
ちなみにJuicyは、ジュースのジュースに湧いてて、Juicyって言ってるよね。
そうだと思われますっていうよりも、
これは例えばイタリア語でやろうとも、英語でやろうとも、日本語でやろうとも、
ここだけはなんかさ、みんながJuicyって言うじゃん。
そうね。
何語のワークに出てもJuicy、Juicyって聞くんだけど、
これを最初から聞いた時にさ、
なんかの豚の丸焼きとか、
豚の丸焼きあんまないよ、日本には。
生贄に捧げた小豚の丸焼きとか、小羊の丸焼きっていうので、
本当に謝肉祭とかカーニバルの時には、肉をガーってみんなで食べるみたいな時に、
一頭そういう獣を潰して、串に刺してぐるぐる巻いて、丸焼き、ジュージューみたいな、肉汁ポタポタって。
それがどうしても私の中にはさ、このジューシーっていうのとピタッとくっついちゃうんだよね、なぜか。
対義語はあれだよね、日本語だとさ、なんかジューシーって言われてもふーんって感じだから、
英語だとドライでしょ、ジューシーの対義語は。
ジューシーの対義語って今考えると、そうじゃない?
ドライ or ジューシーだよね。
だから、そこから考えるとカラカラじゃん、日本語で。
あー、なるほど。
カラカラの反対がジューシーでしょ。
確かに。
だから、きっとなんか肉汁とも絡むけどさ、なんかこうジュワってさ、あんなんだろうなとは思うんだけど、
感覚的にはわかるけど、これをジューシーだねって言われても、ふーんみたいな気持ちはちょっとね。
私ほどさ、さっきはそんなにこのジューシーっていうのに、なんかドン引きとかしないの?
なんかね、ドン引きはしないけど、言った時にふーんってなり、スペルが頭に浮かんで、ふーん、なんかわかんないけど、
ジューンって、なんか捉えどころがないっていうか、なんか、なんていうの、高田順次が喋ってるみたいな、なんていうの、こう、わかんなかったよね。
なに、漫才聞いてるようなそういう世界?大笑いとか。
なんていうのか、何かしらポジティブな意味で言ってるんだろうな、くらいの感じ?
ふんふんふん。だけど刺さらないし、気にもならない?どっちでもないって感じ?
すごい、らしみが、ジューシーってなってる、ジューシーアレルギーみたいな、まではないけど、
でも、いったいみんな何を指してジューシーって言ってるんだろうな、みたいなのはある。ただみんなそれをいいことだと思ってんだなっていう、そういう感じ?
でもジューシー自身はさ、悪いことではないじゃん。なんか、身が売れるとかさ。
カラカラよりはいいもんな。カラカラな人生とジュワジュワの人生。
ジューシーな人生とカラカラな人生だったら、ジューシーな人生の方が良くない?そりゃそうだ。
いいよね。そういう感じ。
なるほどね。きっと、ジューシーな人生、私の中の深層心理の中で、これがなぜ、このアレルギー的にひっかかるっていうのは、きっとあれかもしれない。
なんか、ジューシーな体験ってわけじゃないな。このジューシーっていうその感覚っていうのは、一家制のものであったりするし、なんか壊れやすいっていうのとまたちょっと違うんだろうけど、安全じゃない気がするのかもしれないね。
ドライってイメージ的にね、乾燥した豆とかさ。
まあ、なんか安全だよね、ドライの方が、なんとなく壊れないし。
そう、壊れないし、安全だっていうところにいた人からすると、
なんかさ、売れた実はさ、ちょっとでも落ちたらシャーってなるよね。
なんかこう、水分の多い果物って、なんか皮薄かったりとかさ、リンゴよりも物が皮が薄いやつかな。
あー、確かに。
うん、なんかこう、やっぱり壊れやすいとかさ、なんかそういうのはあるよね。
そうか、ネクターとかそういうのもさ、きっとあれだね、皮の薄い果物から来てるような気がする、今も言ったから。
そうね、あとなんか、たぶんジューシーに対して、ここまで出し目ほどの嫌悪感というか、違和感はないけど、
なんかみんなが言って、サントラの人々が言ってて、なんかちょっと違和感を感じたのは、
ジューシーだねって、人に言うときに、人から言われるとか、
誰か、自分の体験ではなくて、男の人の表現をするときにジューシーだね、みたいなことを言ってると、ちょっと違和感はあったかな。
あー。
あ、そうか、人の形容をするときにジューシーな人とかって言うと、すごいジャッジメントをされてるような気がするってこと?
うーん、なんかそれはね、きっと言ってる人はいいポジティブな表現として言ってるから、別に悪気はないし、
それ自体はとてもいい、その人がそう感じたっていうのは、とてもいいことだとは思うんだけど、やっぱりその、
人の世界だからかな、なんかやっぱりちょっと評価っていう風に、それが良くてそうじゃないのが良くないじゃないけどさ、
そういう風に取ってしまうのは私の認知の問題だとは思うんだけど、そういう風に感じちゃってなんかちょっと違うなって思うところはあるかも。
なんか、自分の体験を振り返ると、確かにある体験は、ジューシーできたごちそうさまみたいな体験はあるよ。
うーん、なるほど。
あるけど、それは人に説明ができないし、私はその内容を人に喋りたくない。
えー、人に言えないの?ジュースが漏れちゃうから?
そう、言えない、言えないんじゃなくて、言いたくないなの。
言えないはさ、言ってはいけないか、それがどういう風にジャックされるかわかんないから言えないとか、
言葉にできないから言えないとかってちょっとネガティブなことだけど、
私はとってもポジティブな体験だけど、それを人に言いたくない。
なぜなら、美味しすぎるからです。
なるほどね、タントリカってあれ基本として秘密が守れるからっていう風には言うよね。
そうそうそう、タントリカの基本は秘密が守れること、秘密が守れない人はタントリカになれません。
なれませんというか、なってもなるならないの問題じゃないけど、
自分の迷走が深まらないから損っていうだけ。
よくここで使ってたかどうかわからないけどさ、
ジューシーな体験っていうのは人に言いたくないっていう風に言った時に、
個人的な身体知に落とし込まれているような体験なことじゃない?
身体知って何?
身体知って体の知能って書いて、
知能っていう知があるじゃん。
人文知っていうところの人文知の知。
そういうのでこの迷走体験とか迷走をするっていうのは、
個人的な本当に住人トイレの経験体験をするから、
そこで体に落ちてきた、体が知っている知能のことを身体知と言います。
と名付けましたみたいな。私が名付けたわけじゃないけどね。
そんな感じでわかる?身体知、人文知、身体知。
いろんな人がいろんなことを言うけど。
人文知との対比だったらわかる気がする。
でもどうなんだろう、
ジューシーな体験は人に言えないけれど、
言いたくないジューシーな体験は、
体でも心でも何でもないというか、
全部まとめてジューシーだから、
身体知かどうか私はわかんないかも。
もっと大きいことなのかもね。
人文知とか身体知っていうわけじゃなくて、
私にとっては迷走の方も、
おいしい、ガンギマリなエクスタシーみたいなのっていうのは、
身体知が知っているっていうところで、
言語化できないとかいう言語知っていうのかな。
ところからもう捨てちゃってるようなところがすごくあるからさ。
あとはもうなんか宇宙的体験とか、
その時その時のなんか、
もっと大きなものっていう感じ?身体知とかいうよりも。
説明しようと思えば、別の言葉で説明しようと思えば、
説明しようと思うほどドシボにはまっていくので、
結局説明できないので、
そういうものを一括にジューシーと言っていますっていう感じ。
そういう意味ではさ、わかった。
私のこの言語感から考えると、
ジューシーな体験っていうのは、
もっと大きく宇宙的な体験っていう感じですかね?
宇宙規模の。
なんか宇宙のこととか考えてない。
えへへへへ。そんなの?
なんかさ、私みんなが宇宙的とかいうのそっちの方が嫌い。
だってわかんないじゃん。どうやって知ってるの?
ロケットに乗ったこともないし、地球に住んでるし。
プラネタリウムに行って擬似体験をする。
なんて言うんだろう。
なんかさ、宇宙的な体験とか言われるとすごい実感がないんだよね。
迷走してて何かが飛ぶっていうことはもちろんあるんだけど、
それを宇宙って表現するのが私は今のところしっくりっていうのは、
だって宇宙のことなんかわかんないんだもんっていう、そういう感じ。
それよりはジューシーの方が、なんか肉汁ニュアンの方が
理解ができる、肉汁は見てるから。
そうか。肉汁から私も離れて、宇宙まで飛ばずとも、
なんか表現の方法ってこのさ、
すごくこの面白いね、シェアをしましょうとか言ったときって
言語化できるものっていうのは、今私はここにいてこういう体験をしました。
こういうことをやりましたっていうのは言語化できても、
そこで何を見たかどう感じたかっていうのの、
何、そういうのを拾うためにジューシーという言葉があり、
宇宙的体験という言葉があったりするのかもね。
その同じ言葉で、
響く人もいれば響く人も、
そうじゃない人もいるから、
いろんな言語があって、いろんな表現の形式があって、
よかったねってなるんだと思う。
だから、こうやって話してみると、
私はタントラの人々がジューシージューシー言うのに、
ちょっとなんか納得した。
私も宇宙なんかよくわからないから、
こういう体験はジューシーに包括されるっていうのに納得した。
なんか肉汁が嫌だったら果物でもいいわけじゃん。
汁っぽかったら。
とりあえずそんな嫌じゃなくなった。
でもまあ深掘りしてみると、
フルに生きるとかトータルに生きるとか、
そういうのはなんとなくイメージができるんだけど、
きっと安全な世界から離れて、
そのジューシーな世界にジャンプをすると、
もっともっとジューシー体験がいっぱいあると、
このことかっていうのがわかる日が来るのかもしれないね。
ある日突然来るんじゃん、ジューシー。
なんかさ、
その体験がジューシーだったっていうことにさ、
気づかなかったらただ過ぎ去っていくよね、
ジューシー体験もきっと。
そうしたらなんかジューシーに囚われた自分になっちゃうじゃん。
ジューシー、ジューシー、ジューシーって。
でもこれもさ、
執着の一つかもね。
このジューシーっていうのにいろいろ話をしてみてたよ。
これよ、ジューシーよ来い、ジューシーよ来いって思ってんのも、
めちゃくちゃ執着っぽいよね、アプローチとして。
瞑想してたらジューシーな世界に行けんでしょ、みたいな。
うん、それも執着だね。
そしたらなんか、
感受性が高まれば、
些細なこともジューシーなんだと思われる。
うん、そうね。
だからあんまり語るような世界では本当にないのかもしれないよな。
なんかそれ面白い言葉で、
なんとなく技法っていうのは、
How toは語ることができるけど、
瞑想はするもんじゃなくて、起こるものだって言ってるからさ。