1. 名谷教会
  2. 2024/01/01:完全なことば
2024-01-01 21:15

2024/01/01:完全なことば

2024/01/01 元旦礼拝

加藤満牧師

詩篇 19:1-14


サマリー

新しい一年の始まりを祝い、詩篇の19篇を通じて世界の創造と神の言葉の美しさについて考えます。完全な言葉というものは金よりも尊く、蜜よりも甘く、御言葉が美味しいと感じている私たちは、神の知恵に組み尽くせない完全なものが、神様の言葉の中に見受けられると思います。

詩篇の19篇による世界の創造と神の言葉の美しさ
今朝は、この箇所から、完全なことばと題して、メッセージをさせていただきたいと思います。
高いところからではありますが、改めまして皆さん、明けましておめでとうございます。
本年度もまたよろしくお願いをいたします。皆さんと新年を迎えられることを本当に嬉しく思っています。
今朝から新しい一年が始まってまいります。新規一転と言いましょうか。
新しい年を礼拝から始められるということが幸いであるなと思います。
今朝は、詩篇の19篇を開かせていただきました。
読んでいただいたらお分かりの通り、詩篇の19篇というのは、読んだら何か景色が浮かぶような、少し絵画的な、そのような詩篇です。
今朝、初日の出を見られた方はいらっしゃるでしょうか。
太陽の光がある種、真っ暗な空に徐々に昇ってきて、汗ぼのになって、徐々に徐々にその空を明るく照らしていくように、
世界の果てまで広がって、今このように世界が明るくなっているように、
そのように、神様の栄光、素晴らしさをまた世界を覆っているんだと、例えばこの詩篇は前半で歌ったりします。
とても気持ちのいい歌ですね。
この世界のこの明るさであったり、どこかしこを見ても、種の栄光、種の素晴らしさが表されている。
そういうことを感謝できるのはいいなと思うのですが。
この詩は、そのような世界の美しさを歌うだけではなくて、神様はこの世界を創造し納めている。
それも偉大な技なんですが。
この世界は、聖書はこの世界の創造をしている。
聖書はこの世界の創造をしている。
この世界の創造であったり、世界の秩序であったりというものは、言葉によって創られたと語るのです。
これ、結構いろいろな宗教でも特殊だと思うのですが、世界は神の言葉によって創られた。
キリスト教というのは、言葉の宗教と言われます。
言葉をとても大事にする宗教です。
なぜなら、この世界は神が神の言葉によって創ったから。
そしてこの詩編の十九編は、そういったことがいろいろ混ぜられているのですね。
神は世界を創造したその美しさと、しかし、その創造した神の言葉が今、私たちの手元にあると言いたい、そのような詩編なので。
今朝は、この歌に少し耳を傾けながら、年明けに変わらずに erschえた大切なことは、何なのかと。。。
なことかもしれませんが
覚えていきたいと願っています
ちょっとだけ
長くなりませんがじっくり四辺の十九辺に
ちょっと触れていきたいと思いますが
一節から六節を
もう一度読みます
天は神の栄光を語り告げ
大空は見ての技を告げ知らせる
昼は昼へ話を伝え
夜は夜へ知識を示す
話もせず語りもせず
その声も聞こえない
しかしその攻防は全地に
その言葉は世界の果てにまで届いた
神は天に太陽のために幕屋を設けられた
花婿のように
太陽は部屋から出て
勇士のように走路を喜び走る
天の果てからそれは昇り
天の果てまでそれは巡る
その熱から隠れ得るものは何もないと
この詩人は一体何を歌っているんでしょうか
昼から夜というのは
おそらく時間の流れでしょう
そして
太陽の光が西から東へと巡るというのは
これをおそらく世界にある空間のことですね
すべての時間
世界の果てまでと言われる
すべての空間には
神の言葉
神の知恵が満ちていると語っているのです
そしてその神の言葉や知恵というのは
この世界に満ちて響きながらもしかし
私たちの耳には聞こえない
神の言葉によって秩序は定められ
それによって運営されているが
しかしその言葉は私たちには聞こえない
しかし確かに響いている
これはまさに創世紀の創造の物語を彷彿とさせます
この世界は神の言葉によって創造され
秩序づけられている
太陽が昇り沈むということも
海の波が押し寄せては返すというものも
季節が巡って年末を迎えて
また年始を迎えるということも
花が咲きし折れるのも
そして人が生まれ
そして人が死を迎えるということも
すべて主の定めた秩序と時の中にある
そこに例外はないということです
それは人間の目にはとても不思議に見えるものですし
捉えようとしても捉えきれないものかもしれません
しかしだからといって
気に入らないといって
変えることもできない
しかしながら
聖書が語るのは
神様が支配し導いておられる
この時と空間というものは
神様がそれを導かれる時になされる技というのは
美しいというんです
それは美しい
そして世界には
そのような神様の栄光があふれていると
詩人が歌います
人には分かりきれないことがある
私何度か
説教で語りますが
人には分かりきれないことがあるというのが
聖書のメッセージです
私たちはすべてを知りきることなどできない
この世界のことも
自分自身のことですらそうです
でもそれでもいいんです
分かりきれないんです
分かりきれない私たちが
分かりきれない弱さを抱えながら
神というお方に結びついていく
でも神がそれを導いておられる
その時と空間
その秩序というのは
美しいと聖書は語るわけ
そしてこの詩編の中心に
この詩の中心にありますけど
この7節から10節をお読みしますと
主の教えは完全で魂を生き返らせ
主の証は確かで赤はかなものを賢くする
主の忌ましめはまっすぐで人の心を喜ばせ
主の仰せは清らかで人の目を明るくする
主からの恐れは清く
常しえまでも変わらない
主の裁きは誠でありことごとく正しい
それは金よりも多くの純金よりも慕わしく
蜜よりも蜜蜂の巣の滴りよりも甘いと言われます
先ほどこの世界を秩序付け創造し
導いている神の言葉というのは
確かに響いているんだけども
神の言葉の完全さと響き
聞こえないと詩人は語りました
しかし本来であれば見ることも聞くこともできない
神の知恵言葉
しかしこの詩人は驚くべきことに
今それが私たちは目に見ることができる
読むことができる
理解することができると歌います
それが教えという形で
私たちの手元に与えられた神の言葉です
私たちで言うならば聖書です
詩人はある種世界が完全で美しいように
同様に
主の
教えもまた完全であり美しいと語るのです
そしてその完全さというのは
いろいろな表現でその後表されています
例えば
主の証は確かで赤々のものを賢くすると言われます
主の証は確かである
人を確かに作り変え
身心を悟らせる力ある言葉
それが聖書の言葉です
そして賢さと言われているのは
ここでは
頭の良し悪しではありません
聖書の語る賢さというのは
第一に
死を恐れることを知っているかどうかです
死を恐れることが知識の始まりであると
信玄が語るように
神を恐れ
神様の心を悟ることこそが
賢さと言われるものです
自分も大学院で学びながら
お前が言うのかということかもしれませんが
勉強は大事です
勉強は大事です
いい学校で学べたということも大事です
しかしそれと同時に
いやもしかしたらそれ以上に
人を愛し
神を愛するということを
学ぶことができる方が
その知恵を持つ方が
実は幸いなのではないかと
個人的には思います
そして
八節
主の忌ましめは真っ直ぐであると語られます
正しいことを愛し
悪から逃れることを知る人は
喜ぶことができる
そういうことです
善悪がある種
神の言葉の教えと賢さ、忌ましめと美しさ
複雑かつ
なかなか言えなくなってきた時代です
昨日も紅白歌合戦見てたんですよ
あの
ボーダーレスですかね
あの
赤組白組投票するのかな
と思いながら見てたんですけれども
投票しましたけれども
実際に曖昧な世界になってきています
多様性を認めるというのは
そういうことかもしれません
しかしながら
善悪がなくなるわけではないんです
私たちはそれを気をつけなければならないような気がします
いいこと悪いことは明らかにあるんです
そしてそれを私たちはしかし
簡単に断定できる時代には
生きれなくなったということでしょう
主の忌ましめある種
神様の言葉の基準に
考えなきゃいけない時代になりました
これは主の御心として
どっちが正しいんだろうかということを
祈って考える時代になったんだと思います
でもそれを私たちは続けなければならない
そして何よりも
愛をもって真理を語りなさいと
エテソジョが語るように
正しさだけに逃げてはいけない
愛がいつもその前になければ
私たちはバランスをきたしてしまうわけです
そして続けて見ていきますと
主の王政は清らかで
人の目を明るくすると言われます
主の王政は清らかである
清らかという言葉
これは
ピュアという英語の言葉です
ピュアです
純粋
混ざり気のないという言葉です
神様の言葉は
混ざり気がないものである
だからこそ
混ざり物の多くなりがちな
私たちの心に
ある種潤いや力を与える
言葉なんですね
混ざり気がないということはそういうことです
純粋なものに打たれる時に
私たちは自分の混じり気に気づかされる
そして
主からの
恐れは清くと書かれます
清いという言葉
これはクリーンという言葉です
綺麗ということですね
主の恐れることは知識の始めと言いましたが
その通りに
主を恐れることが
信仰者の最初の姿勢
クリーンな状態だということ
主を恐れることは
私たちを白紙にそこから始めてくれるということです
私たちが白紙にいつでもそこから始めるというのは
主を恐れるというところから始まる
そこから描き出されていく私たちの笑みがある
そして
主の裁きは誠である
神様は誤った裁きはなされない
主の義というのは曲げられずに実現をする
完全な言葉とは
だから私たちは平和のために祈り続けているわけです
そしてこの完全な言葉というものは
述説にありますが
金よりも尊く
蜜よりも甘い
御言葉が美味しいと感じる
そういう感じでしょうか
でも皆さんどうでしょう
御言葉を読んで美味しいと感じることはありますか
変なことを言うかもしれませんけど
私はあるんですよ
聖書を読んでいくと
ただただ楽しい
面白い
美味しい
そしてハッとさせられて
読み始めると
止まらなくなっていく
10年間がい
それなりに勉強してきましたけど
でもまだまだ
組み尽くすことのできない言葉
そりゃそうです
神の知恵ですから
神の知恵ですから
人間が一生かかっても
組み尽くせない
完全なものが
この中にあるとするならば
まあそうですよね
組み尽くせない
でもそれだけの言葉はですね
主の教えは完全というものと書かれていますけれども
それは何かというと
主の言葉というのは
私たちを救い
私たちを喜ばせ
私たちを慰め
私たちを時に砕き
悔い改めさせ
そして神様の似姿に変えていくために
もうここには十分なものがあるんですよ
ということを言っているわけです
もう十分にここにある
他に何かではなくて
神様の言葉の中に
私たちに対して
十分なものがあるということを言っている
そして11節14節を読みしますと
あなたのしもべも
それらにより戒めを受け
それを守れば大きな報いがあります
誰が自分の過ちを悟ることができるでしょう
どうか隠れた罪から私を解き放ってください
あなたのしもべを傲慢から守ってください
それが私を支配しないようにしてください
その時私は大きな背きから解き放たれて
全きものとなるでしょう
私の口の言葉と私の心の思いとが
見舞いに受け入れられますように
主よ我がいは
我が贖い主よと
見ましめを受けそれを守れば大きな報いがある
聖書はそう語ります
聖書の言葉を守れば
報いというのは何かいいことがあるというよりかは
私たちは神様の本当の知恵であったり
神様の身姿に変えられていく
人としての本当の姿を回復していくということですけど
しかしそれでも従えない現実があるわけです
傲慢と全き者
12節13節を読みしました
12節13節を読みます
胸が刺されるような言葉です
自分の罪深さ傲慢さを私は自覚することができないと
詩人は語ります
私は自分の罪深さや傲慢さを自覚することが
いかに難しいか
神様を信じて歩むことの幸いということを
私たちはもっと喜んで歩むべきだと思います
ただ同時にこれは牧師である私自身の自戒を込めて
言いますけれども
本当に主に救われ
神様と共に喜んで歩んでいく
その歩みを生きるのであれば
主を恐れることと
傲慢を砕かれるということが
常に必要だということです
傲慢とは何か
主を恐れるとは何か
古い比喩を用いて言いますけれども
それは私の心の王座に
誰が座っているかという
ことなのでしょう
私の心の王座に誰が座っているか
主を傲慢から解放してください
そうすれば私は全き者となれますと
詩人は歌いました
全き者というのは聖書の中で何度か出てまいります
ただこれは注意深く見なければならないんですが
全き者というのは
過ちを犯さない完全な人間のことを
言っているわけじゃないんです
全き者というのは何かというと
エデンの園の前で
神様の前に裸で立っていた
アダムとエヴァの姿なんです
彼らは善悪と知識の実を食べて
自分の中に善悪の基準を取り込んで
自分で善悪を判断するようになったら
私みたいな土くれが
罪深いものが神様の前にいて
いろんなものを隠し始めました
でも神様が願われるのは
あなたが土くれであることは
分かっているだって私が作ったんだから
あなたが限界があることも
分かっているだって私が作ったんだから
でも
そういうあなたの
姿を私の前に隠さないでほしい
全き者というのは
土くれであり
問題があり賭けがあり
でもそういう私たちを神の前に
隠さないということです
神の前に
隠して暗闇のあるところがない
状態のことです
全き者です
そのようなところであるし
私たちが
主の前に整えられていく
ということがあるのでしょう
アダムとエヴァの姿を見て
神様は彼らが
その実を食べた後でも
その名前を呼んで
ご自身の前に立たせようとしました
彼らの名前をエデンの園で呼んだんです
それはなぜかというと
滅ぼすためではない
愛するためです
それと同様に全きとは
自分の罪深さも弱さも抱えつつ
許しと愛の
御手を広げる神の前に
出続ける姿です
私はこんなものです
でもあなたがそういう私を
なおも愛してくださっていることを
知っているし
信じます
だから私もあなたを愛していきます
全き者というのはそういうことです
主は変わらない
私を贖うお方
新年からいろいろと
堅苦しい話をしました
ただいろいろ話しましたが
一つ皆さんと覚えたいことは
何かと言いますと
御言葉に立ちましょうということです
一言で言うとということです
聖書の御言葉に立ちましょう
聖書って本当に面白いんです
本当に豊かな
そして私たちを立たせるために
十分なものがある
今朝の十九編の七節に
主の教えは完全で
魂を生き返らせという言葉がございます
なぜならそれはそうです
神の言葉は今なお生きていて
私たちを神様の前に立たせることができる
なぜなら
神は今なお生きておられるからです
教会は今なお生きているからです
教会は今その上に立ちますし
教会が神様の言葉に立って
そこに生きるならば
実はそれで十分なんです
私たちは何かをすることを否定はしません
でも私たちはすぐに
あれだこれだということをしたがる
いいんですよ
別にそれは否定はしないんですが
ただその時に
いつも確認をしなければならないの
私たちはでも十分に
神の言葉に立っているか
私たちのこの教会の交わりは
神の言葉に立っているのだろうか
足元を常に確認するということなのだろうと思います
御言葉に聞きながら
生きておられる神様の前に
応えていく歩みを
今年度もご一緒にさせていただければ幸いです
主の教えは完全で
魂を生き返らせと
神の完全な言葉に信頼をいたします
一言お祈りをしてメッセージを終わります
21:15

コメント

スクロール