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それでは、メッセージに入る前に、いつもの前にですね、挨拶する前に、今日特別にですね、
スーダンのいい教会で長い間ご会いなさって、今年でご委員会になさった名谷島先生ご夫妻が、
今年、教訓の教会、巡回なさっておられまして、今日、礼拝にお目になりましたのでですね、挨拶のときに挨拶していただけたらと思います。
では、お互いに挨拶しましょうか。よくお一人いらっしゃいました。
ありがとうございます。それでは一言お祈りしたいと思います。
愛する天皇、貴様神様、皆神賛美いたします。
今日この世に来て、主の民が共に集まって、共に礼拝を捧げますことを、心から感謝いたします。
主よ、我らの礼拝を、君が喜んで、受け取りになっておられることを、心に感謝いたします。
どうか今から、神の御言葉に耳を傾け、神に学ぶ、また御言葉に聞くときとして下さいましよう。
心を静まり、主の恵みを支配求めるときとして下さい。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日はアドベント第2週目の礼拝でありますけれども、
今日はルカノ福音1章39節から56節の間、そこからマリアの賛歌というタイトルで、
礼組を共にお受けしたいと思います。
福音その中で、イエス様の御好談についての聖書歌詞を読みますと、
頭の中に思い浮かぶ人物がいく人かいると思いますね。
まずイエス様の父ロセフ、そして母マリア、また親戚のバフテスマヨハネの父ラカリア、そしてエリサベス、
だいたいこの4人、それからヘロデ王、執事会、トヨホの裸足くらいだと思うんですね。
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その中で今日はマリアに、自分の身に起きたことを、彼女がどういう信仰を持ってそれを受け止めて、
そしてその結果どんなに素晴らしい恵みと祝福がこの人類に起きたのか、その恵みをですね、共にお受けしたいと思います。
私たちはこのマリアとエリサベスとの出会いから大切なことを知らされます。
それはクリスマスの出来事によって、より一層明確にされる神様の視点ということです。
神様の御目から見られる世界といいます。
まずこの時代のことを見ていきますと、イエス様がお生まれになったこの時代は、その中でこのユダヤというところはですね、男女が平等に見なされていない時代でした。
ところが、そんな時代にイエス様はこの女性であるマリア、その代からお生まれになったこと。
そして神様はそうした時代の中にあって、女性であるこのマリアとエリサベスを帰りみてくださった。
そして帰りみてくださるだけではなく、この世界を救う神様の御業の中心人物として主がお選びになりましたということです。
だから皆さん、神様の観点は世の視点と世の人々の視点と全く違うことであります。
いくらこの世が見下げている人たちであっても、神様はその人を用いて高く掲げて、その人を大きに尊く用いてくださるということなんですね。
そしてこのマリアとエリサベスは、周辺にいた人たちが中心に迎えられ、本当に大事な大事な働きのために用いられていきました。
まずちょっとだけエリサベスのことを考えてみたいと思います。長い間子供が生まれなくて寂しさを思いをしていたことでしょう。
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そしてそのうちにいつしか年を置いて、おばあちゃんになっていたエリサベスでした。
ところがそのおばあちゃんになって妊娠したわけですから、妊娠したら妊娠したで、今度は人々にいい歳としてと冷たい目で見られたかもしれません。
マリアはどうでしょう。マリアも同じく結婚もしていないのに何事かとですね、ひどくないとかとその妊娠のことが知られたとしたら、それを受け止めるこの世間の見方は大変厳しいものであったに違いないと思います。
その証拠でですね、長い旅をして捜索したベスレームは実はヨセフさんのふるさとなんですね。そこに先席もいたはずでしょう。でも泊まるところがなかったんですね。
ある説拠紙を見たらですね、そのマリアさんが身をもったこと、その噂がなんとベスレームまで広がってですね、その噂のせいかもしれないけど、彼らに対するベスレーム人々の冷たさは本当に広かったのではないかと、そういうふうに記されていました。
いずれにしても、そのような中でこのマリアとエリサベスという二人の女性が出会って、しかしそんな中で主にあるとても素晴らしい交わりを彼らはいただいていたわけであります。
今日読んでございましたこの46節から55節はマリアの参加、マリアの賛美、お詫びです。マリアはこのエリサベスの言葉に応えるようにして、この参加を歌い始めています。
女性に生まれたことが幸いなこととして受け取れなかった時代であります。といってもひどい差別が男女間に差別があったわけなんですね。人数数えても男性のだけ人数を数えるといった時代でした。
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またマリアはこの旦那さんが偉いことをしている人でもなく大工さんでした。職人の無名のいい名付けという本当に弱く小さいものであるにもかかわらず、身分の低いこの地の端ためにも目を込めてくださったから。
それで自分は地を崇め喜びたたえるという歌なんですね。48節を見ますと彼女はこのように歌っています。一緒に見ましょうか皆さん。今日の聖書歌詞の48節を一緒にお説明したいと思います。
主はこの癒し端ために目を止めてくださったからです。本当にこれからのちどの時代の人々も私を幸せ者と思うでしょうか。
マリアさんは自分の身に起きたこと、本当に自分は癒し端ためなのにこの時代にあって差別されているこの身分なのに主は偉い人ではなくこの私を目を止めてくださった。そしてこの身に主は偉大なことをなさろうとしておられる。
彼女はそれを本当に光栄と嬉しくと思っていたから48節の最後に本当にこれからのちどの時代の人々も私を幸せ者と思うでしょうと彼は賛美している。
もしこの人々、他の女性の人だったらこれからのちどの時代の人々も私を恥と思うでしょうと言ったかもしれません。しかしマリアさんはこれを喜びと賛美と変えて主の皆を崇めていました。
そして救い主感情のために用いられるというマリアの言葉を使えば偉大なことをなしてくださったから自分は神様をあがめる、喜ぶ、称えますと謳っているんですね。
ところが皆さんこの時代のことをちょっとだけ一緒に考えていただきたいと思いますけれども。
ちょっと調べてみたら、この時代はローマ皇帝がイザヤの地域を支配していたんですね。
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そして皇帝崇拝と言いましょうか、皇帝礼拝を強要する時代の背景があるわけです。そして人間である皇帝が権力を握ってもう神になるという時代です。
ところが皆さんよく考えてみたら、クリスマスは神が人となる出来事なんですね。
ですからクリスマスのメッセージのちょうどこの時代状況はクリスマスの出来事と逆さまということだと思うんです。
人間が神になろうとするこの時代に神様が人間になられたということなんですね。
ですから皆さん深くこのような時代に、なぜこんな時代なのか。
2015年じゃなくて、このような時代に神様がお生まれになったことにはですね、その神様の誕生とその生涯はその時代の人々の価値観の逆転ということ。
その価値観の逆転を主は私たちに迫っておられるということではないでしょうか。
マリアの参加は私たちが当たり前に思っていることを逆さまにするような内容なんですね。
いや、マリアの参加に関わらず、このマリアに賛美の心と、そしてその歌を彼女にお渡しになった神様こそが私たちの常識を逆さまにするような御業を表してくださったということではないでしょう。
これを今日ぜひ覚えて、皆さんの心の中に留めていただきたい。
神様がご自分を無にして祝福し、人間となられるということは、この神様の大逆転の力によって、
マリアは神様が本当に帰りになれるのは、偉大という基準ではなく、あるいは権力という量りでもなく、あるいは多くのものを持つというものさしでもなかった。
ですけど、弱いもの、小さいもの、貧しいものが、より神様に近いということを知って賛美したんですね。
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このような価値観の逆転に、彼女は目が開かれました。そして恐れをもって、心から神様を褒めたたえていると。
賛美の中に、神社から賛美の中に、私が好きな賛美でもありますが、その折り返しのところに、数えてみよう主の恵みという賛美があります。
恵みは数えるものだというのが、聖徒の大切な教えの一つではないでしょう。
今年も、はや12月2日目になっていますけれども、皆さんいかがでしょう。今年の恵みを数えてみたでしょうか。
恵みはですね、数えるものなんです。素質的にですね、数えれば数えるほど、恵みも感謝も幾倍にもなると思うんですね。
そして今までの恵みを振り返って、私たちは神の恵みを数えます。
そうしますと、神様の働きに預かるにふさわしいものではないにもかかわらず、
どこを見ても何を見ても、神様に用いられるにふさわしくはないんじゃないかと、自分のことを考えてもそうだなと思うんですね。
失敗は多くて、物足りなくて、未熟なものでですね、恐縮に、なんと今日は引退の先生方が3人もいらして、恐縮なところでありますけれども、
本当にですね、こんなものが、主の尊い教会の仏会に任せられて、仏会をさせていただいている中で、
感謝でいっぱいでありますけれども、また一方では、本当に物足りないなとつくづく思わされるところであります。
しかし、にもかかわらず、神様は働いてくださって、力づけてくださって、知恵を与えてくださって、あるいは助け人をお手伝い送ってくださって、救いを起こしてくださって、
そして私たちにも、マリアにそうしてくださったように、エリサベツにそうしてくださったように、祝の素晴らしい恵みと祝福をお与えくださっているのではないでしょうか。
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皆さんにも、そのような恵みが今年だけでなく、今までずっとあったのではないでしょうか。
そのような意味で、マリアは恵みを数えたんですね。
そして、マリアは先行者として、我が身に起きたことを一つ一つ数えて、そしてその数えて、いつしかそれが喜びと感謝で、心が本当に満たされて一杯になります。
これが賛美ではないでしょうか。そしてこれが我々の信仰の在り方ではないでしょうか。
エリサベツにあったマリアは、我が魂は死をあざめと賛美しました。
例えば調べてみたら、このあざめるという言葉は、各世紀といってメガホンという言葉がありますよね。
メガホンの語源なんですね。ですからその意味は、あざめるという言葉のギリシャ語の意味は、大きくする、拡大するという意味なんですね。
ここで皆さん、マリアは本当に自分は小さいものです。いやすいものです。
しかし、死をあざめるということは、自分は小さくして神様を大きくするということが、実はあがめるということなんです。
皆さんが賛美するでしょう。死のみなあがめますということの時に、そこにはこういう意味がこもっているわけです。
死を私はどんどんどんどん小さくしてください。そしてあなた自身をどんどんどんどん大きくしてくださいという意味にあがめるという言葉の意味があるのです。
そしてまた言い換えますと、私を縛る世の価値観を、この世間の価値観を小さくしてください。
あるいは私のこの闇を小さくしてください。弱さを小さくしてください。見えないようにしてください。
そして見事が教える価値観を、死の真意を大きくしてそれを表してくださいという意味があがめるという意味があるのです。
そのような心を持って賛美していきたいのです。そのような心で礼拝していきたいとそう願っております。
自分の小ささを通して神の大きさが明かしされる。
そして神様の御意思が大きく広がっていくようにと祈りを込めて賛美した賛美がこのマリアの賛美であるのです。
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そして今日の私たちの礼拝も賛美もそのような賛美と礼拝でありたいとそう願っております。
最後に私たちもこのマリアと同じように弱さを抱えているかもしれません。
それぞれ自分の弱さを、自分はこんな弱さがあるんだなと思っておられるかもしれません。
しかし皆さん、このマリアと同じように弱さを与えられてこそ私たちが自分を大きくするという罪を犯さずに、
むしろ神様を大きくして神様をあがめることに熱心な私たち教会へと導かれていくということを覚えたいのであります。
どうか皆さん、マリアのサンタのその本質は自分を低くして、自分を小さくして、そして室を大きくする。
室の心を拡大して広げていく、それがクリスマスのもう一つの本質の意味ではないでしょう。
メッセージを終わりたいと思います。
確かに私たちの目には納得いかない言葉が人生にはたくさんあると思います。
しかし皆さん、いつも人間のあるいはこの世的な観点から自分自身の人生や様々な起きる出来事を見るのではなく、
神の視点、神の目から見た新しい逆さまの現実を見させてくださいと祈りつつ歩んでいこうではありませんか。お祈りいたします。