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2023-02-12 36:15

2023/02/12:律法の完成

2023/02/12 聖日礼拝

光田隆代師

マタイの福音書 -20


00:00
おはようございます。
今日ここに来させていただいてから、何人かの方にあと一回ということを告げられて、私自身がそのように感じてきているので、
お邪魔する、また報酬させていただくのも、あとわずかならと思わせていただいています。
ずっと、又井の福音書5章を開かせていただいておりまして、来月6章の主の祈りで終わらせていただく予定にしております。
今日は、又井の福音書5章の続きのあたりを、7章のあたりまでつながると思うんですけれども、そのような準備をさせていただいています。
では、始めに祈りをします。
すべて疲れた人、重荷を負っている人は、私のもとに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。
恵み深い天の神なる神様、尊いお名前と、イエス様の十字架の父親を崇めて感謝をいたします。
すぐ一週間の旅路をお守りいただいて、今日もう一度新たな思いを持って御前に寄せさせていただき、御一緒に礼拝を掲げる恵みをありがとうございます。
今日もこの中心にいますし、また私たちに御声を聞かせようとお働きになっていらっしゃる御様が、どうぞ十二分にお働きになって御言葉をお分かち下さいますようにお願いいたします。
尊いイエス様のお名前によってお祈りいたします。
最初に非常に献身的なというかチャレンジングなお祈りを捧げられていたので、教会でどういうお祈りが捧げられていて、皆さんがどういう方向に向かっておられるのかなということを想像させていただきました。
また今年度、春から新しい体制になられますので、いろんな期待とそれに向かって皆さんが心を合わせようとしておられることも想像いたします。
今日はまた井上将の十七節。私が立法や預言者を廃棄するために来たと思ってはなりません。廃棄するためではなく、成就するためです。という御言葉を読んでいただきました。
立法や預言者というのが福音書などで出てくる場合は、旧約聖書全体のことを指していると言われています。
03:01
実際の立法や預言者といえば旧約聖書の後ろの方に出てくる預言者というのではなくて、旧約聖書全体、つまり神様から告げられた今しめ立法と、そして預言者が伝えたメッセージ、すべてのことを指しているようです。
これらのことを、イエス様は廃棄するためではなく、成就するために来ましたとおっしゃいました。
ですから、この時はまだ十字架と復活の出来事が来ていませんので、来ましたと言われたのは、見越して十字架と復活、聖霊の降臨のことが明らかに見えていらっしゃって、そのことを成すために私は来ておりますとイエス様が宣言しておられるわけですね。
立法と言いますと、皆様は最初に何をお考えになるか分かりませんが、立法と言うと私はすぐに孟子の実戒のことを思い出します。
しかしその前に、創世紀の初めの三者のところで、アダムとエヴァがエデンの園で神様から最初にこれをしてはいけないという言いましをいただいたんですね。
その中のどの木からも食べてもよろしい、本当に自由です。しかし一本だけ知恵の木からは取って食べてはなりません、という一つのことだけを禁じられたわけなんですね。
それがサタンの本当に巧みな働きで、百許されていて一だけ、また千許されていて一だけだったのにもかかわらず、その一つのことに目と心を集中させられて、結局神様との約束を保護にしてしまって、エデンの園から出ていかなければならないという結果を彼らはやり取ってしまったんですよね。
それがおそらくルールの始まりだったと思います。それを見てもわかりますように、神様は私たちに厳しいことを言っておられるのではなくて、最善の道があるのでそれに従うようにというふうに一つの試験を置かれたわけです。
しかし人間は大変愚かなので、それに失敗するわけですね。しかし皆さんもご存知のように、人間が失敗したスタートから神様はアダムとエバに着物を着せたいですね。
06:03
逃れる場所、すぐに滅ぼしてしまうのではなくて、逃れる場所を設けられて、彼らを何とかもう一度回復させたいという計画をこの聖書全体の中で進めてきておられます。
先ほど申し上げた、モンステの実会というのも、これらのことを守って神様にお仕えしなさいというものをいただいたんですけれども、結局それらを守ることができない、
いつも不足、不平、不満だらけのエジプトから出た40年間をさまよい歩いて、その次の聖書が描いている歴史も、いつも不信仰、不信頼、背き、その歴史が繰り返しになってきているわけですけれども、
でも、にもかかわらず神様は、彼がちょっと良くなった方向を一回変えたらよろしいと言って、回復の道を備えてくださることがずっと書いてあるわけなんですよね。
そこでこの旧約聖書の時代が終わって、約束の新しい福音の時代が新約聖書でやってきました。
その時に、この1,000年以上、1,500年ぐらいの間、浮いたり沈んだり、浮いたり沈んだりの神様の前での歩みをしていたイスラエルだったんですけれども、
それでも彼らは自分たちが選ばれた民だという自覚があったので、立法を守る、いましめを守るということには熱心であった人たちがいました。
それが今日の二十節に出てきますように、私はあなた方に言います。あなた方の義が立法学者やパリサエ人の義に勝っていなければ、あなた方は決して天の御国に入れません。
五書は天国の御国に入るためにはというようなことから始まっていたんですけれども、ここでも天の御国に入るためには、その義、神様の正しさをしっかり持っていないとそこに入ることができないとおっしゃっています。
ところが立法学者やパリサエ人の義ということが書かれた後で、この二十二節のところから、孟子の立法というのは、その中にはあなた方が思っているよりもっと心の中を探る厳しいものですよという展開が始まっていきます。
それは例えば、馬鹿者とか愚か者という人は地獄に投げ入れられるということが書いてあります。そしてあまり細かくは見ていけないんですけれども、
09:16
簡易をしてはいけないということも実際に行為をすることではなくて、もうそのような思いで人を見るだけでそれは簡易ですというふうにイエス様はおっしゃっていて、それよりもあなたが見ている目を失ってしまうほうがよほどよろしいというようなことをおっしゃるわけですね。
そのようなことを立法の解説があった後で、この立法学者やパリサエ人についてイエス様が偽善者と呼ぶんですね。
もう人に見せるだけ、または自己満足だけの宗教に走っている人たちに向かって偽善者という非常に厳しい言葉を語られます。イエス様は優しい、本当にとろけるほど優しい反面ですね、罪に対して非常に厳しい態度をとっておられます。
この偽善者というのが立法を守るということでどうしていたかというと、人々が見ているところの次に立って堂々とお土産をする、そしてまた捧げ物をするときにも人が見ているところでいっぱいこれ見はしに捧げるというようなことをしていたわけなんですよね。
人に見られることを意識していたりとか、自分はこれだけやっているという自己満足の宗教家たちがたくさんいました。ですのでイエス様は悲しんでおられたんですね。
神を信じるということまた立法に従うということは外の形だけにとらわれる生活ではないんだということをひたすらこのマタイの副文書の3条の説教の中で語っておられるようです。
今申し上げた祈りのこと、施しのことの他には斬食をするということも当時は定期的に行われていたようですが、私はこれだけできているというような自覚で当時の宗教家が活動していましたから彼らに対してイエス様は白く塗った墓だと言われるんですね。
その中に汚いものがいっぱいあるのに外だけがきれいに見せているというふうに非常に辛辣な批判をしておられます。この同じマタイの副文書の23条にも偽善者という言葉でずっと並んで批判していらっしゃることが書いてあります。
12:01
そのように創世紀の初めから人は罪を重ねて重ねてくるわけですね。そして自分は正しいとか自分はある程度できているとかいう自己満足に立ちやすい人間の愚かさというものをイエス様は指摘されました。
ところがなおかつ私が立法や預言者を廃棄するために来たと思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのですとおっしゃいました。
人間はいろんな意味で愚かで自己自分は正しいといつも思いやすいそしていろんな失敗をするのですけれどもそういう人間を裁いてしまう神様の立法から私たちを解放するために私がその立法を成就完成させます。
もう全部すべて行ってあなた方私たちをその立法からこのなければならないというそういう生活から解放しますというふうにおっしゃっているわけです。
ですからこの5章の17節の言葉は福音につながっているということですね。神様からの良い訪れにつながっています。廃棄するためではなく立法と預言者を成就しますと私は成就しますとイエス様がおっしゃっています。
福音書の中にイエス様がエルサレムを見ながら涙を流されて嘆かれた場所が書いてあります。
そこには私は何度面取りが雛を翼の下に集めるようにお前の子らを集めようとしたことかそれなのにお前たちはそれを望まなかったという非常に涙に濡れ覚めまた非常に熱い心が語られているような言葉がありますけれども
いつも神様は人を愛して神様に本当に信頼することを心から願っていらっしゃるわけなんですね。しかし人間はなかなか自分の思いの方を大切にしてしまって
神様が何かお願いしたいときだけお祈りをするとか近づくということをして自分が自由に何かできるときにはできるだけ干渉してほしくないというような態度を取りやすいものです。
しかしそのような愚かな私たちに向かって神様の今しめば私が全部完成するのであなた方はそれからは自由になるということをイエス様はおっしゃっています。
15:08
お開きにならなくても結構ですが聖書の箇所だけお伝えしますが第2コリントの5章の20節のこれも有名な箇所ですけれども5章の20節にこういうわけで神が私たちを通して進めておられるのですから
私たちはキリストに代わる施設なのです。私たちはキリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。
神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは私たちがこの方にあって神の義となるためです。私たちが何かで正しいとなるのではなくて
このキリストによって私たちは神様の前に正しいと見ていただけることができる道が開かれたと新約聖書が私たちに教えています。
続きですね。エペソビトへの手紙の2章の4節からお読みします。
聴いていてください。エペソビトへの手紙の2章の4節。
しかし憐れみ豊かな神は私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえにそむきの中に死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださいました。
あなた方が救われたのは恵みによるのです。神はまたキリストイエスにあって私たちを共によみがえらせ共に天上に座らせてくださいましたと書かれています。
神様の大きな憐れみで私たちは救われるということがこのところに書いてありますしその後ろには信仰によって救われるということが続いて書かれています。
このようにイエス様は人にはできないことをご自分で完成してくださいました。
立法の一点一角も滅びないで私が実現しますとおっしゃっています。
ガラテヤビトの手紙の3章の11節の中には立法の呪いがその十字架によって取り除かれたという有名な歌詞がありますように
イエス様の十字架というのは神様からの呪いを立法の呪いを全部取り去ってしまっているものなんですね。
ですからこの事実に立って私たちはイエス様神様との和解を喜ぶことができるようにされています。
そのことはきっと皆様がよくご存知のことだと思います。
18:04
それでローマビテの手紙の中の3章とか4章のあたりには信仰のことについてたくさん書かれてありますけれども
その3章の31節でそれでは私たちは信仰によって立法を無効にするのでしょうか。
決してそんなことはありません。むしろ立法を確立するのですというふうにパウロが語っていました。
ですから今私たちが神様の前に立ってそして立法を完成するというのは信仰に立つということによってそれがなるということが言われているわけなんですね。
ですのでイエス様の十字架がありそして救いの道が用意されています。
それを私たちが受け取るということはとても大切なことだと聖書は私たちに教えているわけですね。
それで新約の時代というのがどんなに大きな許しの世界にあるかということを見るときに
またその信仰によって受け取ることができるかということを考えるときにですね
例えばアブラハムは完全な人だったかというと
アブラハムは奥さんのことで嘘をついたりしている場面がありますよね。
そしてモーセも怒ったり不必要なときに怒ったり
また神様に私はとても弱いのですよ、そんなにしゃべることはできませんとかいう人でした。
彼も嘘をついたこともあります。
ダビデについてはまさに犯罪を犯し殺人を犯すという人だったんですけれども
この新約聖書にアブラハムが信仰の人として登場し
またヘブル人への手紙の中でモーセもこの世の快楽を無視して神様に従っていたというような書き方がしてありますし
ダビデはもちろん非常に素晴らしい信仰者として描かれてくるわけなんですね。
そのように神様は人の罪の時代ばかりを見ておられるのではなくて
神様に本当に立ち返っていたときには過去のことを忘れてしまわれる
消してしまわれるということを見ることができるのではないかと思います。
ですから神様は私たちを立ち返ること
本当に信頼して神様の前に立ち返ることを願っていらっしゃるということです。
21:02
今日最初に創世記の3社の話をしましたけれども
あの時点からも神様とのしっかりした関係が気づけなくなっている人間に
もう一度精霊を与えて神様がわかるように神様に従うことができるように
今私たちは備えられている福音の時代に生かされております。
ですので今何をしなければいけないかということは
まず第一番に神様が私たちをとても愛しておられて
どんなに深い罪人であったとしても
方向を変えて神を信じるならば
受け入れてくださる。許して受け入れてくださるということ
福音を受け取るということが第一番のことです。
二番目はその福音を受け入れた私たちが
キリストに見せられるように成長するということですよね。
赤ちゃんが生まれてずーっと
赤ちゃん可愛いんですけれども
全然成長しないで何年も生きていたら
もうそれは心配になりますように
私たちも成長することが求められています。
そのためには前回も申し上げたように
私たちにはこの世にいる限り
悪魔の非常に、サタンの非常に巧妙な働きがありますので
世の欲、持ち物の誇りとかですね
それらのことに目を奪われたり
耳を奪われたりしないように
警戒をする必要があります。
エトソの手紙などで教えられているように
人が失敗しやすい大きなことの中に
私が思うんですけれども
あの人が悪いとか、これが悪いとか
人を裁いてしまって
その背後にいる悪の霊の働きではなくて
その人を憎んでしまったりする
愚かさが私たちにはあります。
ですからそのようなことをしなくなって
いつもイエス様が見ておられる視点で見ることができるように
私たちは変えられていく必要があります。
このマタリの福音書5章6章7章まで
3章の説教が続いていくわけですけれども
この7章の終わりのところに
終わりではないですけれども
7章の7節のところから
求めなさいという有名な箇所があります。
そして神様は尚更求めてくるものに
良いものを与えてくださらないことがありましょうか
24:02
というところが10節に来るんですけれども
その12節に
ですから人からしてもらいたいことは
あなた方も同じように人にしなさい
これが立法と預言者です。
旧約聖書全体が言っているのは
あなた方が人からしてもらいたいことは
何でもあなた方も同じようにしなさい
これが神様のルールの中身です
というふうに教えてくださっています。
規則づくめ、ルールづくめであったら
教会生活は非常にやりづらい
そしてこうなければならないという感覚で
教会生活を続けると
もう喜びも何もなくなりますけれども
そこの中に神様の愛が働いて
ルールを生かしていく
そのようなものになったら
きっとそれは神様が求めておられる
働き方だと思います。
ですからこの参上説教の中にも
たびたび捌くなということが書いてありますように
私たちも早まって
また片方からしか見ないで
全体が見えていないのに
一面からだけ見て捌いてしまうようなことが
ないようにということを思わせられます。
それで今日礼拝の最初に
お読み、祈る前に読ませていただいた
マタイの十四章の二十八節
有名な二言葉ですが
すべて疲れた人、重荷を負っている人は
私のもとに来なさい
私があなた方を休ませてあげます
立法から解放して
本当に神様との関係が
もう私あれができなかったから
過去にあれをしたからということで
楽しむ必要もないんだということを
教えてくださっています
それはその二言葉の続きに
私は心が仁和で減り下っているから
あなた方も私の屈辱を打って
私から学びなさい
そうすれば魂に安らみを得ます
私のもとで学びなさいとおっしゃるんですね
もう許されてありがとうございました
さようならというのではなくて
私に学び続けなさいと
イエス様はおっしゃっています
そうすることによって
私たちの魂に安らみが得られる
ですから
イエスキリストを信じるということと
そして学び続けるということと
平安というのはずっと
繋がっているわけですね
それはどこかで切れてしまうものではなくて
学び続けて平安であり続けていくという流れが
27:02
その中にはあります
この11章の30節で
私の屈辱は負いやすく
私の義は軽いからであると言われました
この言葉で
よく伝道集会などでは
あなたの過去の罪の重りを
イエス様の十字架のもとに下ろしましょう
ということで
よく使われるわけなんですけれど
これは
私の屈辱は負いやすく
私の義は軽い
あなたには負うべき重りがあります
それは重い重りです
しかし
私の屈辱
イエス様が負わせている
負わせておられる屈辱なので
一緒に負っていきましょう
あなたは私に学んで
今とても重いと思っている重りを
キリストとともにになっていきましょう
という招きが
このところにあります
ですから
不倫を受け入れて
神の愛の中で
私たちは成長していきます
そしてそれまで
私にはとてもできないと思っていたような
その重い重りを
神様からいただいている
それらのことを
キリストによって
追うことができるようにしてくださる
というのが
この11章の
28、29、30
その御言葉が私たちに
教えていることですし
そのようにイエス様は
私たちを招いていらっしゃいます
ここのところ
説教準備をさせていただく中で
いかに
神様が私たちに
祈り求めて
私に期待して近づいてきなさい
とおっしゃっているか
ということを
たびたび感じさせられました
放っておられるのではなくて
いつも
イエス様は
私たちが神に近づくことを
待っておられます
いつも待っておられます
ただ私たちが
そこへ行くかどうかの
テストがあります
おそらく
聖書のいろんな箇所で
神様が
私に求めなさいと
尋ねなさいと
言われているところだけを探したら
もうあふれるほど
あるはずです
福音書の中ですら
たくさん出てきます
それほど神様は私たちに
もっと近づいて
私に求めて
私を知りなさいということを
求めて
神様の側から求めていらっしゃる
ということが教えられます
そのようなことで
今日も
お話を終わらせていただきます
けれども
先ほど開きました
30:01
またに
福音書の7章は
7章の終わりのところは
この3条の説教の
まとめのような
話が書かれてあるところです
よくご存知のように
御言葉を聞いて
行う人がどういう人かというと
砂の上に家を建った人ではなくて
岩の上に
家を建った人である
とに似ていると
言われました
ですから私たちが神様に求めて
従っていくという生活は
御言葉に
土台して
人生を立ち上げていくことだ
というふうにイエス様は
教えてくださっています
ですので今
この聖書を読むということが
私たちの
信仰生活の土台として
当たり前は当たり前なんですけど
どんなに大切かということを
もう一度
感じさせられています
皆様の
生活がどのようなのか
私分かりませんけれども
若い人はとにかくいつも
手を握って電車の中でも
歩いている途中でも
とにかくインターネットの
世界で生きているわけですよね
自分の時間って
本当に静かにする
時間ってあるのかなと
思ったりします
だんだんテレビを見る人も
少なくなってきているとは思いますけれども
ひと頃
前は
人が家にいたらテレビがついている
というお家も
ありました
そのように
これはサタンの働きかもしれませんけれども
人が静かになって
本当に一人で聖書を
読んで
神様の
おっしゃっていることを
本当に聞くことができるような時間って
昔よりはもしかしたら
少なくなっているかもしれません
何か他の
しなければいけない仕事と
聖書を開いて
読んで
神様に
尋ねる
そういう時間は
皆様の生活の中に
何パーセントぐらい
占めているでしょうか
イエス様は
私たちにとても
求めておられます
近づくことを求めておられます
そういう中で
話がちょっと
あちこちしますけれども
愛のある
精霊の導きのある
豊かな生活になるように
導いてくださっています
つい去年から
旧統一教会問題で
宗教二世ということが
よくキリスト教の
新聞なんかでも
見るようになりました
宗教二世の人たちが
33:00
厳しい
縛られた生活をして
とても喜びがないというような
若い人の声に
聞いたりしますけれども
規則に縛られて
ここで泣ければならないということになってくると
人間は本当に喜びを
感じることができないと
思うんですね
多分新聞で読んだと
思うんですけれども
ある牧師先生は
うちの教団ではないと
思いますけれども
牧師は
日曜日に御用があります
でもその子どもさんたちは
別に
聖職者でも何でもない
家族であるだけなので
ですけれども親の仕事の都合で
働きの都合で
いろんな拘束が
起こるわけですよね
ですから牧師家庭の
子どもさんたちのためには
家内の配慮が必要だと思うんですけれども
その牧師さんは
日曜日の礼拝が
日曜日の教会の御用が
終わった後
子どもと一緒にアイスクリームを食べに行っていた
という記事が
書いてありました
ですからこれが正しいと言って
上から
ガチッとはめていくのではなくて
相手の立場も考えながら
福音が本当に理解できるような
愛と配慮を
することが
できるようになったらいいなと
そのことを
思わせられました
神様は
イエス様の十字架によって
私たちが本当に
神様を知って
精霊の助けによって
豊かな人生を
送ることができるように
用意をしてくださっています
ですので
近づいて神に呼び求めて
そしてキリストに
学んで
学び続けて
私たちの生涯が
神様に用いられていくように
最初のお祈りに
ありますように
神様に用いられていく
そのようなものにさせていただきたいと
心から願います
最後にですね
パスカル
人間は考える足であると
17世紀のパスカルの
言葉を
お読みして終わります
主よ今からあなたの
御用のためにあなたとともに
またあなたにおいて
役立てる以外には
私が健康や長寿を
いたずらに願うことがありませんように
あなたお一人が
私にとって何が
最善であるかをご存知です
ですから
あなたが御覧になって
何でも良いと思えることを
36:00
なさってください
御心のままに私に与え
また取り去ってください
私の意思を
あなたの意思に従わせてください
以上です
ではお祈りを
いたします
36:15

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