00:02
おはようございます。
今朝は、ユン先生のお二人の子さんたちも出席されているということで、
こちらも懐かしいし、またお二人とも懐かしい教会だと、そう思いますよ。
私たちが主にやって人とされている幸いを、いつも覚えておりますが、心から感謝したいと思います。
それでは一言お祈りをいたします。
恵み深い御在天の地なる神様、私たちはこの2月を無事に迎え、この最初の礼拝において、
あなたのお言葉と、また聖さんの恵みに、共に預かるこの幸い時を与えくださり、ありがとうございます。
どうぞしばしの礼拝のこの一時を、あなたから始めから終わりまでお祈りください。
主耶穌様の皆を通して、御前にこの祈りをお伝えいたします。
アーメン
お読みいただきました、この箇所ですが、
今月は教会、あるいは教区関係の各総会が行われてまいります。
ユダネ教会も今月の末に大切な教会総会を迎えますけれども、
総会は確かに一つは事務的なそういう意味合いでの会議でありますが、
しかし私たちは単なる事務的なそういったことを行うだけの総会であってはならない。
私は教会を預かる責任者として過ごしてまいりました時に、
これは神様からの新たな挑戦の時だなと思いながら、この教会総会に向かうことを常としてまいりました。
私たちの教会もこうして今月末に総会を迎えるわけでありますが、
私はこの13章を読んでいただきました。
この出来事は、後で私たちもこの生産の恵みにあたかりますが、
その戦後死の末においてのイエス様が弟子達と生産を行うというそういう時、
その少し前の出来事が読んでいただいたこの箇所です。
03:02
イエス様は生産式の前に、今の表現で言えばそういう表現になりますが、
弟子達一人一人の足を洗いなさった。
ペテロは私たちの先生から、こんな私たちのこの泥足を洗ってもらうなんてことは申し訳ない。
彼は最初は辞退をしたんですね。
イエス様はその時に、よくこの言葉を開かれますが、
私がしていることは今は分からなくても、後で分かるようになります。
実際私たちの毎日の生活の中において、この言葉がいろんな点で開き上がっていましょうかね。
イエス様が仰っていることは本当だなと。
今はね、どうしてこういうことがあるんだろうか。
どうしてこういうことが我が身に起こるんだろうかと。
そう心配したり、不審に思ったり、戸惑ったりする。
その時は分からない。けど後で分かるようになる。
本当に私はそのことを今しみじみ思いながら、
自分のクリスチャン生活と仏会生活をしてまいりました。
その月日の中での事柄を思い起こします。
今は分からないだろう。けど後で分かるようになる。
その次に思ったことは、その後っていつでしょうか。
あつかわしくその時期まで自分で決めて、
そして求めるようなこともしていくような、そういうものでありますが。
けどしかしイエス様は後で分かるようになる。
そして本当に分かったことは、どうしてと思った言葉らが、
一つ一つ紐解かれるようにですね。
何でこういうことが起きたんだろうか。
どうしてこういうことが自分の身に起きたんだろうか。
けれどもその一つ一つが少しずつ解き明かされて、
ああ本当だな、なるほどな、という事柄がそこでもって教えられて、
そして安堵したり、やっぱりイエス様がおっしゃった通り、
今は分からなくてもいいなと。
後でイエス様がきちっと調子に合わせるようにして、
その一つ一つの事柄を教えて下さい。示して下さい。
私は自分のこのクリスチャン生活、仏会生活を通して
今はしみじみそのことを思うんですね。
ですから悔やむという事はあるんですけどね。
06:02
けれどもそういう悔やんだ事柄が後で分かるようになると言われて、
そしてその通りになってきますとね。
何であんなとこで心配したんだろうか。どうして悔やんだんだろうか。
色々雑念をそこに思い起こします。
けれどもイエス様は弟子たち一人一人の足を洗いなさりながら、
その事をおっしゃったんですね。
何で私がこうして足を洗うのか。
それこそこの十二人の弟子たちの足は、
この後ですね、何でこんな弟子たちの足をイエス様は洗いなさったんだろうかと思われるような、
そういうあえて全中と言ってもいいぐらいですね。
すぐ自分の身に満足いかない事とか、
あるいは心配な事とか、そういった事があったらすぐ離れてですね、勝手な道を行く。
現実にこの事の後でもって、
ご承知のようにユダはですね、この後の清算を受けた。
そしてその足でもって、わずかなお金を得るために、
イエス様の情報を大祭司の方に流しに行くわけですよ。
じゃあ他の弟子たちはそういう事をしなかったから良かったのかというと、そうではないんです。
ユダのそういう知らせでもって、イエス様を逮捕に向かう。
その一段がやってくると弟子たちは驚いて、そして最終的にはですね、
もうそれこそ三無性というのしか、みんなを逃げ去ってしまう。
ですからユダだけではない。他の弟子たちもみんな、
自分の身にあまり良くないと思われるような事からが起こって参りますとね、
やっぱり我先です。後で分かるようになるというような事はもうどこかに行ってしまって。
それで彼らは、それこそイエス様を、せっかくイエス様が洗ってくださったその足でですね、
恨んでそれぞれの所に去ってしまうということからが、その後に続くわけです。
そういう弟子たちを残してイエス様は、そこでお示しなさったのが、私は教会ということ。
申し上げたように、教会総会を迎えてまいりますけれども、単なるこれは事務会ではない。
そこでイエス様が、私たちを通して何をこの時代において、
09:00
あるいは私たちの教会として何を提供され、そして私たちを用いなさろうとしているのか。
私たちはそのために、改めて教会総会と合わせて、教会ということの大切さということをですね、
私たちはこの次の言葉から触れていきたい。
今、読んでいただきましたこの歌詞は、そういう大切な歌詞でありますが、
イエス様が仰っていますように、この一つのことは、イエス様が模範として示され、
私たちが学んでいくこととしてお目に立った事柄を見てまいりますと、
第一には、まず互いに愛し合いなさい、というそのことを、この34節に記されております。
私はあなた方に新しい忌みを与えます。互いに愛し合いなさい。
私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。
日本語では愛という言葉は、もう一つしかないですね。
あの、ギリシャ語においては、古典時ギリシャ語においては、あの、四通りの使い方がなされております。
一つは、やはり人間愛と言いましょうかね、男女の愛というところに表されるエロスという言葉が用いられたり、
あるいは、このストルゲーという、これは家族愛と言いましょうかね、そういう時にこの言葉が使われております。
それからもう一つは、これはやはり多いんですけど、フィレオという言葉ですね。
イエス様がこの後ですね、ペトロにあなたは私を愛しているかということを聞かれた時に、
イエス様がお持ちなさったそれは、ここで申し上げるアガペという、この自己犠牲という神聖な、そういうこの愛。
で、そのことを用いて、そしてペトロにあなたは私を愛しているかということをお尋ねになった。
けどペトロはですね、やっぱりその時はすでに、その改めで聞かれた時は、イエス様を裏切った旗のことですから、
12:03
自分にはそういうおてんがありますから、イエス様がおっしゃっているようなアガペで、
で、どんなことがあっても、確かに彼はね、イエス様が捕らえられるまではそうだった。
もうたとえどんなことがあっても、他の弟子たちは知らんけれども、私だけはイエス様、あなたを特許愛してきます。
そこではね、そういう意味合いの強い言葉でもって彼は誓ったんですけどね。
しかしその誓った愛ではない、裏切ってしまって、簡単に裏切ってしまった、そういう自分の経歴がありますから、
アガペでもってイエス様が私を愛してくれるかと言われた時に、その言葉には返すことがなかった。
だけど私は人間のレベルの中においては、非常に大切な高い愛というフェリオという兄弟愛をそこで用いて答えた。
私がイエス様と愛していることは知っているはずですよ、ご存知はずですよと言った時の愛は、
イエス様が求めなさったアガペじゃなくてフェリオという兄弟姉妹のそういう愛だった。
二度目、イエス様がなおアガペの愛でもって迫ったんですけども、その時も彼はアガペでも答えられなかった。
しかしイエス様はね、そういうペトロが正直に自分の愛の実態そのものも、
もう自分で確信を持って愛しますと言えない彼の弱さをそこでご承知になさったんでしょう。
ペトロが言うフェリオというその愛、それでもってイエス様はね、
じゃあ私をそのフェリオでもって愛してくれるかと言った時にふっかけましたと言って、
まあペトロは一つはほっとしたでしょうね。
そしてイエス様愛してきます。
そして彼は確かにその時はそのレベルの愛でしか答えられなかったんですが、
手の持ち、彼は順境者となっていくその時には本当にアガペの愛でもって、
自分を犠牲にして愛するという、そういう言葉でもって彼は生涯を全うしていった。
それがペトロの愛と言ってもよろしいかと思います。
愛というのは名詞ではなくて、
名詞ではなくて、
動詞となる時にその愛の本当の姿と言いましょうか、
それがそこに出てくるわけですよね。
いくらでも名詞としての愛はそこで私たちは語ることができます。
けども愛するというこのことにおいて、
その愛が動詞になる時にその愛というのが本当に本物になってくるわけですよ。
15:02
イエス様はご生涯、いつも私たちを、それこそとことん愛してくださっている。
その愛をもって私たちを育み、養い、また許し、そして癒し、そうしてくださった。
私たちが恨みであろう、そういう言葉に対して、
多く愛を語られたんですけども、しかし、
愛を語られたこのイエス様は、
愛するというですね、私たち一人一人を愛してくださっているという動詞でもって、
それを表しなさった。
それが十字架ですよね。
イエス様はその愛でもってね、
弟子たちにお命じなさった新しいましめとして、
互いに愛し合うこと。
彼らが一つになり、また一致するということを含めて、
そして互いに愛し合うことをそこでイエス様はお示しなさった。
このヨハネの十七詩を見てまいりますと、
イエス様の祈りがそこに記されております。
そのイエス様が弟子たちのために取りなしの祈りをなさった、
そこには互いに愛し合うということの具体的な、
それがそこに詰められている。
彼らが一つとなるためです。
二十一節もそうですし、その言葉が繰り返し、
彼らが一つになるように。
しかもそこでイエス様がおっしゃったそのレベルはね、
単にあなた方仲良くしなさいよというのではないんですよ。
イエス様はそこでね、
父と私という関係において、
その関係をそこに示しながら、
それが一つであるように、私たちが一つであるように、
この残していく弟子たちも一つとなるようにという、
そういう祈りですよ。
私たちの一致は単なる意見が合うかという、
そういう一致じゃなくて、
父と子の一つとなったそれをそこに取り上げて、
18:02
そしてそうであるように、
彼らも一つとなるようにしてください。
この一致ということについて、
バークレーというこの中華書の中では、
こういうことをこのバークレー博士が書いております。
全ての人が全てのことについて、
同じ一致した意見を持つような教会は、
教会ではない。
人々が意見を事にするが、
なお互いに愛し合っていく。
それが教会だ。
それは私たち青いたちも環境も何もかも違いますよね。
それこそ言葉じり一つによって、
誤解してしまったり、傷ついたり、
あるいは傷を与えてしまったりというのが、
それが私たちなんですね。
それは教会なんですよ。
しかし、
イエス様がおっしゃっている、
あなた方が互いに愛し合いなさいという、
そしてそこに含まれている、
一つとなるというこの言葉は、
たとえそのように、
意見をぶつけ合うようなそういう関係であっても、
しかし、
手動ししゅうにあって、
私たちは一つ。
今月もお祈りいただきたいと思いますが、
大阪啓示コンベンションが、
このドーンセンターという、
これは天馬橋から、
私たちも行ったことがあるんですけれども、
会場をそこに移してとして、
行われる。
やはりコロナの時期だったのですから、
対面というそれは、
なかなか難しかった。
けれども、今回は、
対面と、
あるいは、
Zoomという、
そういう方法を通して、
そして、
正解が行われる予定ですが、
このケジックの大切な狙いは、
それは、
すべての
兄弟姉妹が、
一つとなる、
というところに、
ケジックの大切な
メッセージがそこに含まれているわけです。
ですから、
このケジックコンベンションは、
いろいろな共派団体から、
そこに
参加されます。
ただ、
みんな集まって、
そして規制を上げるというのではなくて、
このケジックの大切な使命は、
一つになるということのための
21:01
正解と
言ったらいいかも分かりません。
距離は違うか分からない。
あるいは、
信仰体験も違うかも分からない。
けれども、その違いを
お互いに認め合いながら、
しかし、
それを超えて
一つになるという、
そこに、
このケジックという目的があるわけです。
ですから、
私も毎年、
参加して
今日に至っておりますけれども、
いろいろな共派の
教職者と、
あるいは
他の教会の
教会の方と
ケジックを通して教えられるようになったという、
そういう方と、
久しぶりにお会いするということからが、
教育の一つの
豊かな横野さんの
繋がりにおいても、
楽しみと言いましょうかね。
そういうのもありました。
そして、それもあります。
申し上げましたように、
教会ということは、
確かにいろんな考えを持っている、
あるいは体験を持っている、
あるいは信仰の立場もあるかも分かりません。
しかし、
それだけは分かれるのではなくて、
それを超えて
互いに愛し合いながら、
愛し合いながら、
弟子たちみんな違うんですよ。
個性も違いますしね、
経歴も違うんです。
お互いに
え、なんで
我々の弟子の中に
あんなまたいのような人間がおったんだろうか。
我々の税金を
マーク騙しといて、
そして、というような
いう点でもあれば、
それこそまた、
何でしょうかね、その、
右翼的な考え。
私はそれ認めない。
我が道を行くというような
そんなものもいた。
けれども、それがみんな一つと
なるために、
と言う様は、
父と子との関係をそこに
示しながら、
私たちがそうであるように、
どうぞ、父よ、彼らを一つにしてください。
互いに愛し合う、
ということの
具体的なそれは、
そういう意味、
そういうメッセージがそこに
込められておるわけです。
イエス様、
先ほど申し上げました、
このヨハネの
十七章、
そこにおいてイエス様は
こういうことを知っている。
あなたが私を世に使わされたように、
24:01
私も彼らを世に使わしました。
十七章の
十八節、
そういう祈りを
イエス様は私たちのための
取り出しの祈りとして
それを教えています。
世に使わす。
父なる神が
このあるイエスキリストを
使わしになるという
その関係を
そこに持ってきて、そして
彼らが一つになり、
そして一つになりながら、
あなたが私をおつかしかけたように、
私も
その一つとなる
彼らを世に使わします。
私は
教会総会というのは
一つで、そういう意味、
その総会を通して
私たちが
一つになり、
そして
父がこうお使わしなさったように、
今度イエス様は
私たちを、教会を
信頼して、
そしてこの世に派遣していく。
それが教会だ。
この
読んでいただきました
4節から15節にかけての
この様子を見ていきますと
ここには
愛は行動するということを
申し上げましたけれども
対愛し合うことへの実行
の模範を
そこで示しなさった。
それが足を洗った
イエス様の姿の中にあるわけです。
あなたの足はもう
ちょっと汚れすぎて
洗えないという
そういう足はいないんですね。
足の代謝は関係なしで
本当に今まで
外でもって歩んできた
その足の
この彼らを
この辺りの光景というのは
やっぱり靴の文化の中にある
欧米の人たちにとっては
わからないでしょうね。
なかなか想像できないと思います。
けど私は日本人の
過去を見てまいりますと
やはり時代劇なんか見ますと
何ですか?
発表してきた人が
旗子について、旅館について
そして最終にやってもらうのは
女中さんが来て足を洗うという
そういう場面を
時代劇なんか見ますと
よく言ってまいりますね。
すぐわかりますよ。
そういう点でね
27:00
やっぱりユダヤの習慣と
日本の文化には
一つ似たところがあるのかなと
ことの一つが
今の姿かと思います。
イエス様は
そういう関係を
ここでお示ししなさった。
汚れた
どこをどういう風に歩んできたか
わからないような弟子たち
一人一人の足を洗う。
さすがに私もそこでは
最初は遠慮したんですけど
ところが
もしこのことをしなかったら
そうしたら
じゃあイエス様は足だけじゃなくて
全身やってくださいと
全部ね
水浴でしょうか
そういう洗ったものはもう
必要はない
足だけでいいんだということ
そこでベテランは注意を受けてね
そして彼は恥ずかしそうにして
足を出したと思いますよ。
その足を
イエス様は
丁寧に洗う。
もちろん
そしてまもなく
自分を
その足で持ってね
海に出ていく
このユダの足もそこで
イエス様が洗いなさった。
イエス様は
その姿を通してね
単に足を洗うっていう
習慣的な意味合いも
あったかもわからない。
けどもしかし
イエス様は
それ以上に
互いに愛し合う
愛的な例をそこで
模範を示しなさった。
自分に向かってくる
反抗的な足
自分を
それこそ足蹴りするような
そういう足
イエス様は
そういう足であったとしても
そのように
一人一人の足を丁寧に
そしてこれを
洗いなさる。
この有名な
こういう光景を
示しましたこの
ピリピリという手紙の2章
この2章を見てまいりますとね
ここに
2章の6節から8節を見ますと
キリストは
神の見姿で
現れる方なのに
神の在り方を捨てることが
できないとは考えず
ご自分を虚しくして
あるいは別の訳では
無にして
しもべの姿
あるいは
30:01
使えるものの姿を取り
人間と同じように
なられました
キリストは人としての
性質をもって現れ
地獄を癒し振り
死にまで従い
実に十字架の死にまでも
従われた
と
パオロは
ピリピリの教会に書き送った1文の中に
キリストのお姿をそのように
とらえ
そして書き送っております
イエスがご示しなさった
互いに
愛し合うというこの模範
それは
ご自分を十字架にお付けになる
愛であり
そして
1節にあるように
イエスはその愛を
残るところなく示された
あるいは
公語訳では
この上なく
愛し抜かれた
古い文語訳では
極みまで
これを
愛したまえ
という
その時の
イエス様の姿を
それぞれの訳が
究極の愛
という
そういう姿で持つ
そこに記載しております
その頂点が
イエス様が
十字架にお付きなさった時の
事柄でしょう
試験をよくやりますが
この油田を
せっかく
洗ってもらったその足を
持ってそして
わずか銀30枚でね
イエス様を
大祭司を始めとする
イエス様の命を
取ろうとしている
彼らにこの情報を
伝えます
この銀30枚というのは
銀貨30枚というのは
そんな恐ろしのような
訳ではないでしょう
あの
指定の時の
21章を見てまいりますと
これはユダヤ人で
どうしてもそういうことは
しないそうですけれども
指定しました
ユダヤ人の
その
持っている
奴隷をですね
所有している奴隷を
この家畜がね
33:01
何かでもって
障害を
消費させてしまった
怪我させてしまった
その時の支払われる
金額や情報は決まっておりましてね
その場合には
この銀30枚
言うなら未満銀ですよ
奴隷の
その未満銀として
そういう言葉が
その中書いてありますけれども
記されております
つまりイエス様は
奴隷が怪我した時に
受ける未満金程度のもので
ユダは
そのイエス様を
討ってきたわけですよ
そういう弟子たち
その足をイエス様は
丁寧に
ここで見てみますとね
具体的な様子が
そこに書いてありますけれども
このイエス様が
弟子たちの足を
洗いなさる時に
この四節には
上着を脱ぎという言葉がありますよ
それは脱ぎで
こうする
そして洗い終わるところ
十二節を見ますと
上着を着けて
というこの二つの
動詞がそこで
使われております
弟子たちの足を洗うにあたって
上着を脱ぎ
そして終わると
またイエス様は
その上着を着けてという
この
言葉ですけれども
この二つの動詞は
実は
この言葉が
別なところでも
用いられております
使われております
この十章の
この十七節というところを
見ていただきますとね
私が
再び命を得るために
自分の命を
捨てるから
こそ
父が私を
愛してくださいました
私が再び命を得るために
自分の命を
捨てるからこそ
父は私を愛してくださいました
ここでこの
36:00
命を得るというこの言葉
そしてすぐに言って自分の命を
捨てるというこの言葉
足を洗いなさる時の
イエス様は上着を脱ぐ
そして洗い終わると
再びそれを着る
こういう一連のことを見ていただきますと
その
イエス様の
行動と言いましょうか
その姿は
あさにこれがね
この
言葉の
意味するところを見ていただきますと
十字架と
復活
パウロは
そういうイエス様の
御様子を伝えていたんでしょう
彼が今度は教会を挙げますために
示しましたこの
コロサイビチの手紙なんかを見ますと
このコロサイの三章の九節
そこで
互いに偽りを言ってはいけません
あなた方は
古い人を
その行いとともに脱ぎ捨て
新しい人を
着たのです
とこう言う
パウロは
古き人
それを脱ぎ捨て
そして新しい人を着る
私たちは
イエスキリストの十字架において
私たちの古き人は
そこで持って
宝物にさられている
そして私たちは
新しい人を着るように
新しい子供を着るように
復活の命を持って私たちは
新しされていく
エピソード教会にも
この脱ぎ捨てるということ
そして新しい人を身につける
という
十字架と復活を意味する
その言葉を
パウロも
イエス様のお手本をそこに覚えながら
コロサヤの教会に
それを送っておきます
教会は
そういうふうに
十字架と復活という
これが私たちの教会の
中心のメッセージであり
私たちの信仰の
一番の礎ですよね
そしてそこから
教会というのが
生まれ
また
その信仰のもとに
私たちは
互いに愛し合う
ということの秘訣は
39:01
ですから私たちが
いつも
イエス様の十字架と復活
というところに
自分の信仰
また私たちの信仰の基盤
基いというものを
そこに置いていく
というこのことが大切です
教会がこれから
総会を迎えて
そして新たな
教会を成そうとするにあたって
このイエス様の
まんとして私たちに
示しなさった
教会のあるべき姿
というものを
心にしっかりと覚えながら
総会に備え
また私たちは単なる
総会に備えるわけではない
私たちの信仰生活
という形成されていく
その信仰生活のもとに
この十字架と復活
というこの信仰を
しっかりとそこに
置いていきたい
教会がそこにあるということを
イエスキリストの十字架と
復活を表すんだ
教会のそこに
十字架が書いてあります
記されております
教会は単なる
教会という印として
そこに十字架があるわけではない
そこには十字架と
復活という言葉に
されているという
世に対するメッセージが
大切なこの
十字架の
メッセージですよね
教会がそのメッセージを
失うときに
教会は
教会でなくない
単なる建物が立派に
できていたとしても
それがそれだけのことで
終わってしまう
お祈りをいたしましょう