00:01
今朝は、ヨハネの誕生とザカリアの予言と題しまして、ユン先生よりメッセージをしていただきます。
皆さんおはようございます。今日もよくいらっしゃいました。
メッセージに入る前にですね、まず先週、本当に神様に感謝して、またお互いに感謝し合いたいと思いますけれども、
クリスタスコンサートのために皆さんが、本当に祈ってくださって、あるいは、今回は知らしをですね、5000枚作りましたけれども、
多くの方が、その前の日はちょっと寒かったんですけれども、あちらこちらですね、配ってくださって、ある方は500、あるいは1000枚ぐらいですね、
いちいちですね、配ってくださって、あるいは電話来たり誘ったりしてくださって、あるいはいろいろ応じてくださって、
一つの教会でですね、あの大シャペルであんなに立派なコンサートができたことは、本当に皆さんのご保護とお祈りと、
また神様の恵みと、また向こうのその5人の方、また学校の協力があったからではないかなと、そう思いました。
本当に感謝いたします。およそ150人ぐらい出席されたと思いますけれども、今回は特に知らしを見てですね、来られた方が結構多かった。
半分以上だったと思うんですね。まったく初めての方々が大勢いらして、本当に感謝できた。
このようにして福井の種を蒔いて、そして神様が神のときに確実に身を結ばしていくということを信じて歩んでいきたいと思います。
また昨日は子どもクリスマス会があって、子どもたちが60ぐらい、60人ぐらい来ていました。
教師の皆さんが本当に応じて、またおじいの方々も応じてきて本当にありがとうございました。
この時期に子どもクリスマス会を来てもですね、10人、20人来るのもなかなか難しかったと言われる時代でありますけれども、こんなにですね、大勢の子どもたちが来て、
また、今朝の4月の礼拝にも昨日来ていた子どもたちがまた来てですね、一緒に礼拝できたことを本当に感謝いたします。
皆さんのお祈りと復興祝いを感謝いたします。
では2人入る前にお互いにですね、お疲れ様でした。ありがとうございます。
おはようございます。
青山先生、挨拶しませんか。
ありがとうございます。
03:14
神様感謝いたします。
全ての栄光を神様がお受け取り下さい。
また、今から神様の御言葉に耳を傾けます。
素直な心、照りくだりの心を持って耳を傾けて、神の御声を我々に主を聞かせて下さい。
そして御言葉に喜んで従っていける信仰も主よ、我々に加えて下さい。
身手に委ねて、家様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
はい、今年のアドベントのメッセージは、特にルカノーク印象を中止にしてお話をしていますけれども、
今日は1900の箇所に続きまして、57節から80節までのところを見ていきたいと思います。
今日はエリサベス、それからザカリアの話、特にその中でザカリアの予言、あるいは賛美の68節から続くそのところを中止にして見ていきたいと思いますけれども、
婦人の妻であったエリサベス、そしてもう年をとっていたエリサベスとその夫ザカリア。
しかし聖霊様によって身こもったエリサベスは、6ヶ月後、ヨハネという幼子を無事出産しました。
この幼子が、後ほど皆さんのご存知のバプテスマ・ヨハネと呼ばれる人になるわけなんですね。
ところが今日の箇所を見ていきますと、当時の習慣に従って子供に名前をつけるときに、なんとこの家庭には戦時からつけられた名前がありました。
これがヨハネという名前だったんですね。
そしてその戦時からつけられたとおりに、ヨハネと名付けることを意思表示したと言いましょうか、その途端にこのザカリアの口と耳が自由にされていきました。
そして神様はこのザカリアを聖霊によってあふれるばかりに満たしてくださって、彼が預言、賛美をしたわけなんですね。
聖霊に満たされたザカリアは、神様を賛美して預言をしました。
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今日第一に注目していただけた一点は、賛美と感謝の言葉ということです。賛美と感謝の言葉。
まず68節をもう一度ご一緒にお読みきたいと思います。
褒めたたえよ、イスラエルの神である主を、主はその民をかえりにてあがらないようなし、アメ。
褒めたたえよ、イスラエルの神である主を、と言って主なる神様を褒めたたえるところからこの賛美が、この預言が始まっているんですね。
何から始まっていますか?賛美から始まっている。
皆さん、賛美とは何でしょうか?
それは、まあ普通に言いますと、何か良いことが起きたからというより前に、神様が神様であられるということのゆえに、そのお方に捧げる褒め歌であり祈りなんです。
これが実は賛美なんです。
神様が神様であられることということのゆえに、その神様に捧げる褒め歌、お祈り、これが賛美なんですね。
ところが一般的にですね、感謝と言ったら、生活の中に感謝すべき恵みを見つけて、そして受け止めた後、捧げる祈りであると言えるでしょう。
あるいは神様の御業を見極めた後、神様に捧げる祈りが恵みに対する感謝と言えるでしょう。
ですから皆さん、賛美も恵みを数えた結果、起こる感謝も当然、この二つは祈りの中で切り離すことのできない関係にあると思います。
賛美と感謝はまるで一つ、コインの両面のような関係だと思うんですね。
しかし賛美は感謝を先取りするように、神様は神様であることのゆえに起きる、あたしたちからの歌であり祈りなんです。
だから皆さん、いつも感謝に満ちあふれている、感謝でいっぱいしている人は、その口から賛美が流れてくるんですね。
皆さんいかがだったでしょうか。この一休暇、皆さんの心から口からは、感謝による賛美があふれていましたか。いかがだったでしょうか。
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一年中そうすべきだと思いますけれども、特にこの12月クリスマスを迎えるこの時には、心から神様に対して感謝で感謝で満ちあふれて、この口から賛美があふれててほしいんですね。
ザカリアもそしてマリアも、まず賛美から始めました。それからそのお方がくださる恵みに目をとどめました。これは大事ですよ。
まず賛美から始める。そして神様が自分に何を施してくださったのか。その恵みに目をとどめることなんですね。そして感謝へ導かれていくんです。ザカリアもマリアもそうでした。
世間的に見るならば、マリアもザカリアも感謝できないんですね。そういう都合なんです。しかし彼らは賛美から始めるんですね。そして神様が施してくださった恵みに目をとどめて、そしてそれが感謝へ導かれていく。これが素晴らしい信仰ではないでしょうか。
そうすると当然そこには何が起こるんでしょうか。喜びが起こるんです。賛美、感謝、喜び、これはもう一体なんですね。ひとつ。ですから賛美のある人には感謝がある。感謝のある人には何がありましょうか。喜びがあるんです。逆に言いますと賛美がない人には感謝もない。感謝のない人には喜びもない。
感謝を捧げようとする時、私たちは生活の中に感謝の理由を見つけるところから始めたりします。つまり恵みを数えるのです。しかしどうでしょう皆さん。
私たちの心の目が開かれていないと、霊の目が開かれていないと、神様の恵みが実は多くありましたのに、霊の目が、心の目が開かれていないから、なかなか神様の御手の御業である恵みを発見できないということがあるのではないでしょう。
だから賛美ができない。だからなかなか感謝まで行き着かないことがあるかもしれません。そして感謝の種よりも逆に悩みの種、つぶやきの種の方が多いことに気づき、心が重くなってしまうこともあるかもしれません。
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恵みを数える時、それら一つ一つのことを、まず聖書から神様の見方、神様の受け止め方を示していただかない限り、実は感謝の種ではなしに悩みの種、つぶやきの種に進むことになってしまいます。
しかしザカリアは違いました。聖言に満たされて、彼はまず、褒めたたえよ、イスラルの神である種をと言って賛美から始めたということを覚えたいのです。
私たちの心の目を恵みを施す種の身でから、もう少し高いところにあげて、その恵みの源である神様ご自身に思いを早く走らせるように、そのお方を賛美するところから始めようと私たちを導いているのです。
種を賛美する時に、種イエスを讃えることはあなたの力です。賛美を捧げることはあなたの力です。という賛美があります。不思議に、種イエスを讃えることは我々の力になるのです。賛美を捧げることは皆さんの力になるのです。
ある方はこう言いました。力があるから賛美するんじゃない。力がないんだけれども賛美を捧げると力が湧いてくる。これが不思議な神父の恵み、感謝の恵みですよ、という話。その通りだと思います。
自分の中に、あるいは生活の出来事の中に感謝の種を探すことができなくなった時、もしそんな時があるならば、その時に私たちはどこに立ち返ったらいいんでしょうか。
いや、感謝することはないから、もう感謝しなくてもいいんじゃないかと思うのではなく、その時にどこに立ち返ればいいんでしょうか。それは、聖書を通して、御言葉を通して、ご自身を下手にお示しくださる神様ご自身に、まず目を向けることなんですね。
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これが皆さん、信仰生活においてとても大事なことなんです。普段ですね、誰もがなかなか感謝ができない、賛美ができない、そういう時がありましょう。
その時にこそ、ご自身を豊かに示してくださる神様、恵みと慈しみをもって豊かに祝福してくださる神様ご自身に目を向けることなんです。あえて目を向けることです。
そして、神様が神様であるというところから、感謝と賛美の生活を始めるのです。神様に向けたその目を持って、そして今度は自分自身を見ます。周囲を見ます。あるいは、置かれている環境を見ます。
そして今まで過去の様々な出来事を見てきた時に、不思議と感謝が湧いてくることを経験するんです。ですから皆さん、まず目を神様に向けましょう。
そして神様の見方、神様が我々自分自身を、家族を、周りを、その教会を、この日本をどう見られるのか、神の目線で、神の見方を持ってみるならば、誰もが大切で尊い存在ではないでしょう。
そしてそこには、どこを見ても必ず感謝の種が、賛美の種があるんです。2番目に注目したい点は、ザカリアが賛美と言っている聖なる神様は、救いをもたらされるお方であるということです。
今日の68節から79節のこの賛美の御言葉を見ますと、ここに救いという言葉が何回も繰り返されて出てくるんですね。
例えば71節、「この救いは、すべて我らを憎む者の手からの救いである。」とあります。あるいは74、75節を見ますと、「我らを敵の手から救い出し。」とあります。
何回も救いという言葉が繰り返していますけれども、ここで見たザカリアは、聖なるお方を、単なる先生とかいい人とかじゃなくて、私たちを罪から解放し、救いを要求されるイスラエルの神として褒め称えるということがポイントなんです。
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アドベントは、イエス様の御好談を待ち望むその期間です。同時にアドベントは、悔い改めの期間でもあります。
ですから、ある教団・教派では、古くから柔軟節とアドベントには教会の色があるんですね。それで同じ紫色を柔軟節とアドベントの色にするところもありますけれども、
いずれにしても、アドベントは悔い改めと、それから血の御好談、またサイリンを待ち望む期間として過ごしていきたいと思います。
私たちの救うイエス・キリストは、救い主として生まれてくださいます。救い主として。ですから、クリスマス礼拝に読む聖人の方には、母族していた羊飼いたちに天使が伝えたメッセージが出てきます。
天使は、羊飼いたちに何と言ったでしょうか。そこそこ読みましょうか。ルペノルク1教、次のページですけどね。2教10節、11節。私が10節読みますので、11節を一緒に読みたいと思います。
見つかりは彼らに言った。恐れることはありません。今、私はこの民全体のための素晴らしい喜びを知らせに来たのです。今日、ダビレの街で、あなた方のために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。アーメン。
聖人には、この救い主がベスレームの会場家に誕生されて、そして最後には十字架にかかって命を捧げられたことが語られていました。ですから、今日のザカリアの予言と賛美には、この世をあいて、一人後イエス様を十字架におかけになった神をザカリアは賛美したんですね。
皆さん、このように私たちは救われて、導かれて、神の御前に立たされて礼拝をしています。そして時々、自分が礼拝できるのが当たり前のように、当然のように思ったりすることがあるかもしれません。
21:15
ところが皆さん、振り返ってみますと、私たちは地獄に落とされて当然の罪人なんです。その罪人であった私たちに、神様は一人後イエス様を与えてくださいました。
神の一人後が全人類の罪をすべて身に受けて、余命にまで下り、そこから復活があったんですね。そのようにして私たちの罪は許され、永遠の命を与えられ、本来怒りの子であった私たちを神の愛しご愛することにしてくださる。
その恵みを、この感動を、この驚くべき恵みを、このアドベントの時にあがめて思い起こして、感謝して感謝して神様に感謝を捧げようではありませんか。
どこから仕込まれたのか、どこから命に導かれたのか、その恵みを、その恵みを数えて感謝する時が礼拝ではないでしょうか。
聖書1ページを一緒に開きたいと思います。
904の聖書、イザヤ書43章です。
43章、4節、すみません、3節と4節を読みたいと思います。
まず私が3節を読みますので、4節をみんなで読みます。
1194ページです。
それでは3節を読みます。
失礼しました。
あたしがあなたの神主、イスラルの聖なるもの、あなたの救い主であるからだ。
あたしはエジプトをあなたの身の代わりとし、クストセバをあなたの代わりとする。
あたしの目にはあなたは光華でたっとい。あたしはあなたを愛している。だからあたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたの命の代わりにするのだ。
24:13
アーメン
4節を私がもう一度読みます。よくご覧ください。
あたしの目にはあなたは光華でたっとい。あたしはあなたを愛している。
アーメン
本当にアーメンではないでしょうか。
この御言葉にありますように、神様はあたしたちをご覧になって、もう目に入れても痛くないほどに、目の瞳のような存在として愛しておもんじてくださっているんですね。
その愛を皆さん日々感じておられるでしょうか。
その愛を皆さん日々感じておられるでしょうか。いかがでしょうか。
聖徒はそうしたあたしたちのことを神の子、神の子、怒りの子であったあたしたちを神の子と呼んでくださるんですね。
そのような尊い存在として伝わってくださっているということなんです。
心から捨てられそうな人であっても、誰も目を向いてくれなそうな人であったとしても、みんなは神の目には光華でたっとい存在である。
そしてずっと永遠までたっとい存在として関わってくださる、そばにいてくださるその愛。
皆さんこれこそ福音、グッドニュースではないでしょうか。
昔もそうですけれども、今日も街の中を見たり、あるいは近所のあちらこちを見たり、あるいは世界のところを見てみますと、
本当に誰もが神に尊い存在であるのには変わらず、見捨てられたり、人々から虐待とか、あるいは様々な本当に大変な目にあってですね、苦しみの中にいる人々がこの日本にも世界にも大勢いるのではないでしょうか。
その人々に一体何が必要なんでしょうか。
もちろん水や食べ物や薬や勉強のための石とか、そういったものも必要でしょう。
しかし最も必要なのはイエス・キリストではないでしょうか。
27:04
皆さん、私たちが毎年、特にクリスマスになりますと、多くの行事をしております。
その中で皆さんが本当に心を込めて祈って準備しておられることに感謝しておりますけれども、その中で決して絶対に忘れてはいけないことがあります。
それは何をするにしてもイエス・キリストが伝えられること。
賛美をしても、祝賀をしても、美味しいものを食べても、それがメインではないでしょうね。
それは単なる道具にしかいない。
それが用いられて、そして究極的にはイエス・キリストが伝えられること。
そのために私たちは奉仕をして伝えていることではないでしょうか。
あたかもですね、
アコネシスか、アライスかフレオシスか、またアライスか。
12月、あっという間にですね、元旦になってしまった。
ということになってはいけないんですよね。
イエス・キリストを、まず皆さん自分自身がイエス・キリストを深く吟味して、感謝して、そのキリストに満ち溢れているならば、そのキリストが皆さんから溢れ出るでしょう。
もし、今朝ですね、美味しいコーヒーとパンを食べられた方は、よく嗅いでみたら、コーヒーの匂いがするかもしれません。
あるいは、朝から納豆を食べられた方を嗅いでみたら、納豆の匂いがするかもしれません。
キリストに満ち溢れていますと、皆さんから何の香りが話すでしょうか。
イエス・キリストの香りが話すでしょう。
その人に触れますと、イエス・キリストが、このクリスマスの一輪子であるキリストが伝わってくれる。
そのようなクリスマスを過ごしていきたいと思うのであります。
それから、私たちがこのように神の恵みを覚えるたびにですね、自分自身のことを、これまでの信仰生活を振り返って思ってみるならば、
自分の思い通りになったら大変だったなと思うことがあるんですね。
しかし、思い通りにならなかった結果、これが私にとって最高だった、これこそ恵みだったということがあったのではないでしょうか。
私に大勢ありました。その中にですね、日本選挙のために長い間祈って祈って準備していたところ、
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特に武蔵に行ってから、日本に行けるチャンスが何回かありました。
ぜひ来てくださないとか、許可がありますからねとか、その数が実際にありました。
ところがですね、行きたい気持ちはいっぱいでしたけれども、なぜかその道が開かれなかった。
思い通りにならなかったんですね。
もし、あの時の思い通りに自分が行ってしまったならば、今ここにいないかもしれません。
日本にそこに、どこかにいるかいないかもしれません。
しかし、振り返ってみたらですね、あの時に自分の思い通りにならなかったのが恵みだったなと私は思います。
皆さんにもきっとそういった恵みがあるでしょう。
そして私は神様に賛美を捧げることになります。
最後のポイントに移りたいと思います。
ザカリアはこの預言の言葉の中で、神様が与えてくださった救いそのものの目的を明らかにしています。
単なる感謝で感謝でいっぱいの賛美ではなくですね、一つ一つ噛み締めてよく読んでいきますと、
このザカリアの預言の賛美には素晴らしく神の救いを彼は歌っているんです。
そこを73節から75節を一緒に読みたいと思うんですね。
73節との箇所、73節から75節を一緒に読みましょう。
3杯、我らの父、アブラームイム。
清く、正しく、恐れなく、死の御前に仕えることを許される。
この環境ですね、神戸役成長を見ましたら、こうなっています。
私たちを敵の手から救い出し、生きている限り清く正しく、御前に恐れなく仕えさせて下さるのであるとありました。
皆さん、これが救いの目的なんです。
敵の手から、悪魔の手から救い出して下さいました。
そして、生きている限り清く正しく、そして御前に恐れなく仕えさせて下さる、それが救いなんです。
これがイエス・キリストがこの地に御前になった目的なんですね。
キリストがカイバオケに誕生されて、そして十字架にかかわられることによって、勝ち取ってくださった救いは目的のない救いではありません。
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目的がある救いなんです。
救って何をするためなのか。神様がなぜ私たちを救ってくださったのだろうか。
神の狙いが、目的があるわけなんですよね。
それがこの七十三節、七十四、五節に書かれているわけなんです。
それは、簡単に厚くして言いますなら、それは神様に使えるためなんです。
神に使えるためなんです。
使えるということは、礼拝することなんですね。
ですから、救いの目的は何でしょうか。神を礼拝することなんです。
神様を礼拝すること、それが救いの目的である。
私たちが神様を礼拝するものとなるために、神様は罪の罠目から私たちを解き放ってくださったということです。
これが盾の関係であるならば、横の関係から救いの目的を見るならば、それは使えることですから、お互いに、信者同士が互いに愛し合うこと。
そして隣人、隣人を神のかたちに作られたものとして、神の御子の命がかかるほどに、尊い存在としておもんじていく、使えて愛していくこと。これが救いの目的なんです。
女性が生まれた後、誰が生まれてきましたか。家様が生まれてきました。
すべての者の救い主になるために、すべての人々を救うために、一番低いところに降りてくださいました。
それが家畜の馬小屋の買い訪けであります。そして赤ん坊の姿で誕生された理由であります。
ある時イエス様は弟子たちにこう言いました。
自分は使えられるためではなく、使えるために来たのだ。
みなさん、私たちもこのキリストの討伐指標によって、罪に許され永遠の命をいただいた者として、今度は周りの方々がこの大切な神様からのプレゼントであるイエス・キリストをしっかりと受けることができるように、祈り、愛し、使えていきたいと願います。お祈り致します。