1. 名谷教会
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2026/10/04:罪の悔い改めと刈り取り
2026-10-04 42:24

2026/10/04:罪の悔い改めと刈り取り

2026/10/04 聖日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第二 12:1-14


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サマリー

礼拝説教では、教会におけるハラスメントを手がかりに、力を持つ者にはその力を抑え、他者に仕える責任があると語られます。そこから、強大な王権を得たダビデが戦場を離れ、バテシェバを奪い、夫ウリアを戦場で殺させた罪が詳しく取り上げられます。預言者ナタンのたとえ話によって、ダビデは自分の罪を突きつけられ、「私は主の前に罪あるものです」と悔い改めます。神はダビデの罪を取り去り死刑を免じますが、罪の結果として子どもの死や、家に剣が離れないことを告げます。ダビデの罪の波紋は、息子アムノンによるタマルへの暴行、アブシャロムによるアムノン殺害と反乱にも及びます。バテシェバとの子を含め、ダビデが四人の子どもを失うことは、彼自身が語った「小羊を四倍にして償わなければならない」という言葉とも重なります。説教は、悔い改めは罪の終わりではなく、その刈り取りに向き合う人生の始まりだと示します。それでもソロモンに「主に愛されたもの」を意味するエディディアという名が与えられ、神の憐れみと愛は罪人を見捨てないと結ばれます。

教会の力関係と、力を抑える責任
それでは、お祈りをいたします。
憐み深い、私たちの父なる神様、主の皆、お賛美をいたします。
今日も、私たち一人一人を、あなたの御前へと招いて下さり、
あなたを礼拝できる幸いへ、お感謝をいたします。
あなたは、私たちの全てを御存じの上で、私たちの罪を担い、
イエス様のあの十字架の父王によって、全ての罪を洗い流して下さいました。
イエスキリストの流された父王は、全ての罪から私たちを救うと、あなたは約束をされ、
そして私たちに永遠の命、復活の命を与え、永遠なる人と共に生き、
神の民として、あなたの恵みによって生きる幸いな人生を始めて下さいました。
父王、毎週毎週、私たちはその恵みの確かさと、豊かさを礼拝によって確認をしていきます。
あなたが生きておられ、どれほど確かなお方で、
そしてまた、私たちのこの現実の中においても、
あなたがそこに確かにおられることを、私たちは礼拝の旅に思い起こします。
どうか今日も御言葉の真実によって、私たちに、いけるあなたを仰がして下さり、
そしてあなたと共に生きる勇気と信仰をまた新たにして下さいますようにお願いいたします。
特に、この季節の中で、変わり目の中で、疲れを覚えておられるお一人一人がいらっしゃいます。
どうか主がお支え下さいますように、
祈られたようにここに来たくても来れない方、施設におられる方、
そしてまた、心痛んで分け合って来れない方もいらっしゃいます。
お一人一人を慰め、あなたが強めて下さいますようにお願いいたします。
世界における様々なことにおいても、あなたの御手が働いていることを信じます。
どうか祈る者とならして下さい。
何よりも御言葉を開いて下さいますように、
私たちに今日もあなたが語って下さいますように、
主も部屋をここにおります。主をお語り下さいと、
サムエルのようにひざまずくことができるように導いて下さい。
お願いいたします。
御手におよだねをしてイエス様のお名前によってお祈りを致します。
アーメン
今月、私たちの教団では全国牧師研修会というのが持たれます。
すでに案内が届いておりますが、その中で、
実はハラスメントについての検討会というか話し合いが持たれるということが告知をされていました。
ハラスメント、昨今はよく取り出される言葉です。
日本語で言うと迷惑行為というのでしょうか。
ハラスメント
定義を調べますと、人に対する発言や行動などが、
その人の尊厳を傷つけたり、不快感や不利益を与えたりする行為全般と
そのように定義をされておりますが、
それはいわば家庭において、もしくは職場において、
とみに私たちが気をつけなければならないのは、
教会においてそういうことがあってはならないということです。
これは特に私が次回を込めなければなりません。
牧師が神徒にハラスメントをするということがあります。
逆に神徒が牧師にハラスメントをするということもあります。
神徒同士が牧師同士がハラスメントをするということがあります。
そのようなことを危惧して、
そういうことは意識しすぎることはないということで、
また話し合いを重ねていくことでしょう。
特にこういうハラスメントの事態が起きたときに、
まず目を向けるのは何かというと、
その当事者の間にある力関係です。
決して強い人だけがハラスメントをするわけではないのですが、
しかし一般的によくあり得ることは、
何かしらの力を持つ強い人が、
自分よりも力がない人に関わるときに、
そこにハラスメントが起こりる、
最大限の配慮が必要であるということです。
なぜなら、弱い人は強い人に対する抵抗をする力や、
拒否権がないことが多いからです。
拒否権がない、立ち向かいようがない関係性の中で、
強い人に何かを言われるときに、どうしようもなくなる。
それは事実でしょう。
それゆえに、力を持つ人には、力を納める責任があります。
力を持つ人は、力を納める責任があります。
イエス様ご自身がこうおっしゃいました。
あなた方の間で偉くなりたいと思うものは、
皆に使えるものとなりなさいと言われましたね。
力を持つ人、私たちはそれぞれ力を持っています。
夫として、妻として、親として、力を皆持っています。
しかしその力というのは、
それは使えるために用いる責任があるということです。
そしてこのことは、ダビデも同様でありました。
むしろダビデこそ力が今あるときでした。
主の豊かな恵みと祝福のゆえに、
イスラエルの王国とともに、ダビデは王となりました。
そしてその王権は、かつてないほど強大になりました。
そして神様の願いは、
イスラエルの国もそうだし、ダビデの力もそうですが、
それを諸国に使えるために、
全ての人に使えるために、その力を用いてほしい。
それがイスラエルの王として召されたダビデの使命でありました。
ダビデがバテシェバとウリアにしたこと
しかし彼は、この力を持つ者に課せられた責任を侮ってしまうのです。
それが今朝ご一緒に見て参ります、
11章から12章にかかって描かれる、
バテシェバをめぐるダビデの罪の問題です。
特に11章から見ていくときに、
今日はショッキングな話をいろいろします。
11章はこれまで純粋に使えてきた、
あのダビデがどうしてこうなってしまったのかと、
本当に驚愕をするような内容です。
中悪な事件を彼は起こします。
しかし私たちは思います。
ダビデですら、こういうまさかという過ちを犯すのであれば、
私はダビデより優れた信仰者だと自分のことは思いませんよ。
ダビデですらこういうことが起こり得る場合、
ここに集う私たちは誰一人、
ダビデのようなことをしないとは言えない。
人事ではなく、私事として、
今朝この箇所をご一緒に向き合って見ていきたいと、
そう願うのです。
2つのポイントで見てまいります。
1つ目のポイントは、ダビデの罪であります。
11章から少し今日は見ていきます。
11章の1節というところを見ていきますと、
こういうふうに書かれています。
年が改まり、王たちが出陣する時期になった。
ダビデはヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍を送った。
彼らはアンモン人を落ちまかし、ラバを包囲した。
しかしダビデはエルサレムに留まっていたというのです。
この時イスラエルの国は、
イスラエルの東側にあるアンモン人という人たちと、
そのアンモン人がイスラエルの北にあるソバという人たちと連合を組んで、
イスラエルを倒そうとしていたので、
北と東に挟まれる形で戦いを挑まれるという、
とても厳しい状況にありました。
しかし10章でそのことが書かれますが、
10章の11節、12節を見ますと、
ヨアブとアビシャイという将軍の二人が、
お互いに困ったところがあったら助け合おうということを言いながら、
彼らは主に信頼して、
このアンモン人とソバの連合国に対して、
良い戦いをするわけです。
そして勝利をしていきます。
もともと北方のソバというのは8章で見る時に、
ダビデが一度占領した地域ですから、
どちらにせよ戦いは有利に進んでいた。
もう放っておけばこの戦いはイスラエルの勝利だろうというところまで来ていた。
そのための気の緩みでしょうか。
ダビデはヨアブたち将軍や兵隊を送った後、
一節にあるのはダビデは、
自らが戦場に赴かずエルサレムに留まったというのです。
勝ち戦であった。
しかしこれまで主はダビデと共に戦い勝利を与えたという言葉が繰り返し書かれてきました。
戦場にダビデが出なくなったというのは、
これが初めてですね。
そのような中で、
二節を見ますと、
ある夕暮れ時、ダビデが床から起き上がり、
王宮の屋上を歩いていると、
一人の女が体を洗っているのが屋上から見えた。
その女は非常に美しかった。
イスラエルの地域では一般的であったようです。
日中は暑い。だからうがるような暑さを下げて大体夕方に外に出る。
屋上から、屋上で夕方に出たダビデは、
一人の女性が水浴びをしている姿を目撃をするのです。
女性の名前は後で出てきますが、バテシェバ。
彼女について書かれている情報は、
非常に美しい女性であったということです。
非常に美しい女性であった。
ダビデは部下に命して即座に女性の身元を暴き出します。
四節。
ダビデは使いの物を送って、
三節。
ダビデは人を送ってその名について調べさせたところ、
あれはヒッタイト人ウリアの妻で、エリアムの娘バテシェバです。
そして四節。
ダビデは使いの物を送って、その女を召し入れた。
彼女が彼のところに来たので、彼は彼女と寝た。
彼女は月の物の穢れから身を清別していた。
それから彼女は自分の家に帰った。
さらっと書いておりますが、
新科学2017でここでは
召し入れたと上品な言葉が使われていますが、
これヘブル語の元の意味では取ったです。
取った。
物を取るかのように取ったということです。
取った。
音がある女性であることを知りながら、
ダビデは欲望に任せ、バテシェバを物のように取ったのです。
ダビデと共に寝たとあるので、
ある種これは彼女と同意の上であったであろうと思わせるかもしれませんが、
違います。
強大な王権を持っているダビデに対して、
バテシェバに拒否権など存在しません。
これは権力を貸さに来た傲観です。
そしてほどなくしてバテシェバは身を守るのですね。
そのことを受けて焦ったのはダビデでした。
6節以降書かれているのは、
彼の醜悪で残酷な隠蔽工作です。
バテシェバの夫、筆大都人ウリアが戦場から呼び出されて帰ってきてまいります。
7節、8節を見ますとこういうことが書いてあります。
ウリアがやってくると、ダビデは、
ヨアブは無事でいるか、また兵たちは無事か、
さらに戦いはうまくいっているかと尋ねた。
ダビデはウリアに言った。
家に帰って足を洗いなさい。
ウリアが王宮から出ていくと、王からの贈り物が彼の後に続いたとある。
ダビデは優しくウリアに戦況を問いかけます。
そしてウリアに、家に帰って足を洗いなさいと言う。
足を洗いなさいというのは、これはゆっくりしなさいということではありません。
これは因語です。
妻と床入りをしなさいということです。
ダビデはバテシェバの妊娠をウリアの子供として偽装しようとします。
しかしウリアは家に帰りません。
11章の11節を見ますと、
ウリアはダビデに言った。
神の箱もイスラエルもユダもカリオに住み、
私の主人ヨアブも私の主人の家来たちも戦場で野営しています。
それなのに私が家に帰り、食べたり飲んだりして妻と寝るということができるでしょうか。
あなたの前に、あなたの魂の前に誓います。
私は決してそのようなことをいたしません。
ウリアは筆体都心であった。彼は違法人です。
しかしそうでありながら彼はイスラエルの神様を恐れ、
戦友のロークを共にする誠実な人物でありました。
しかしダビデはウリアが家に帰らないことがまずいと思う。
だから彼は次の隠蔽工作に進んでいきます。
ダビデは自分の食卓にウリアを招き、
ウリアを酒で酔わせるのです。
しかし13節、
ダビデは彼を招いた。彼はダビデの前で食べて飲んだ。
ダビデは彼を酔わせた。
夕方ウリアは出て行って、自分の主君の家来たちと一緒に自分の寝床で寝た。
しかし自分の家には下って行かなかった。
酒の勢いでウリアを家に返し既成事実を作ろうとします。
しかしウリアは帰らない。
その結果ダビデは最後の隠蔽工作に出ます。
11章の14節から15節。
朝になってダビデはヨアブに手紙を書き、
それをウリアに託して送った。
彼はその手紙に次のように書いた。
ウリアを激戦の真正面に出し、
彼を残してあなた方は退き、
彼が撃たれて死ぬようにせよ。
ウリアの誠実さのゆえに偽装工作がうまくいかない。
ですからダビデは邪魔なウリアを戦場で殺すようにと指示を出します。
自分の罪を覆い隠すために、自己誤信のために、
ダビデは何の罪もない誠実な部下ウリアを捨て去りました。
しかもそれがこの歌詞を見るときにダビデには躊躇があまりありません。
それが躊躇なく実行できるのは、
ダビデが強大な王権を持っているからです。
自分の力で何とでもなるからです。
力というのは時に倫理も道徳もねじ曲げた結果を正当化することができます。
醜悪なものを正しいことのように粉飾する力があります。
しかしいかに力があろうと、
彼が好感をし人を殺しにしたという事実は変わることがありません。
隠してウリアの殺害は実行されて成功します。
そのことをヨアブがダビデに報告を送りました。
ダビデはその報告を受けています。
25節
ダビデは死者に言った。
25節
あなたはヨアブにこう言いなさい。
このことに心を痛めるな。
剣はこちらの者もあちらの者も食いつくすものだ。
あなたは街を一層激しく攻撃しそれを全滅させよう。
あなたは彼を力づけなさい。
ダビデは言います。
剣はこちらの者もあちらの者も食いつくすものだ。
戦争をしていたら人ぐらい死ぬ。
気にするなということです。
吐き捨てるかのように
ウリアの命に対する敬意も
神様に対する恐れも完全に失われた
冷徹な言葉がここでダビデの口から出ます。
そしてウリアの死が発覚してから
26節
ウリアの妻は自分の夫ウリアが死んだことを聞き
自分の主人のために痛み悲しんだ。
門が開けるとダビデは人を使わして
彼女を自分の家に迎え入れた。
戦争未亡人バテシェバを妻に迎え入れるというのは
おそらく当時の社会においては
ヘセド
慈しみに満ちた言葉です。
恋です。
青王が
あの戦争未亡人になった兵士の妻であるバテシェバを
迎え入れてあげたんだ。
慈愛に満ちた王に見えたことでありましょう。
しかし
ダビデとヨアブだけが知る完全犯罪がここで成立するわけです。
ただ
この11章の最後を見ます。
彼女は彼の妻となり
彼のために息子を生んだ。しかし
ダビデが行ったことは主の見心を損なったという言葉で
11章は閉じられます。
ダビデが行ったことは
主の見心を損なった。
緊張感あふれる言葉です。
完全犯罪が成立したダビデは全てを隠している。しかし
主は一部始終全てを知っておられた。
それが12章へとつかなかってまいります。
ナタンのたとえと罪の告発
2つ目のポイントです。12章。
罪の悔い改めと刈り取りにダビデはここから向き合わされます。
先ほど見ました27節の最後。
しかしダビデが行ったことは主の見心を損なったという言葉がありますが
この言葉は元のヘブル語の言葉では
主の目に悪であったという言葉です。
主の目に悪であった。
この言葉はよく烈王旗の王様の評価の中で使われる言葉です。
彼のやっていることは主の目に悪であったということがよく使われると思います。
これは神様が王を評価する上では最も重い断罪の言葉です。
主の目に悪であったという一番重たい神様の断罪の言葉です。
神様は預言者ナタンを通じダビデに例え話をします。
それが先ほど読んでいただいた1節からの例え話です。
1節から4節。
ちょっとゆっくり読むのでご一緒にどういう話か観ていただきたいと思います。
1節から。
主はナタンをダビデにぶつかわされた。ナタンはダビデのところに来ていった。
ある町に二人の人がいました。
一人は富んでいる人。もう一人は貧しい人でした。
富んでいる人にはとても多くの羊と牛の群れがいましたが
貧しい人は自分で飼ってきて育てた
一匹の小さなメスの小羊のほかは何も持っていませんでした。
小羊は彼とその子供たちと一緒に暮らし
彼と同じ食べ物を食べ、同じ杯を飲み
彼の懐で休み、まるで彼の娘のようでした。
一人の旅人が富んでいる人のところにやってきました。
彼は自分のところに来た旅人のために
自分の羊や牛の群れから獲って調理をするのを惜しみ
貧しい人のメスの小羊を奪い取り
自分のところに来た人のために調理しました。
ここまでですが、たとえ話、ここで描かれている話は
富んでいる人と貧しい人がいる。
富んでいる人にはたくさんあるけど貧しい人には
家畜が可愛い、自分が家族のように可愛がっている
小羊一匹だけであった。
お客が来た。お客が来たときに富んでいる人は
自分の家畜から出さずに
その貧しい人から大切な一匹を奪い取って
それを分け与えたという、そういう話ですね。
自分が富んでいるにもかかわらず
客人に自分の羊や牛から獲ることを惜しむ
ケチ臭い。
恵みと真逆の人です。
ケチ臭いというのは恵みと真逆ですね。
ケチ臭いんですよ。
そして貧しい人から
メスの小羊を理不尽に奪い取る男の話でした。
ダビデはこれを聞いて言います。
5節、6節。
ダビデはその男に対して激しい怒りを燃やし
中に言った。主は生きておられる。
そんなことをした男は死に値する。
その男は憐れみの心もなく
そんなことをしたのだから
そのメスの小羊を4倍にして
呟かなければならない。
私たちは読んでいてわかります。
問い話で富んでいる人は誰のことなのか
これはダビデのことです。明らかにダビデのことです。
しかしウリアからバテシャバを取った
ダビデのことなのですが
ダビデは自分のことだとは気づきません。
誰か遠い他の人の話として
彼は人事のように激怒いたします。
そんな奴は殺してしまえ。
しかしこれが罪に陥っている人間の特徴
と言えるのかもしれません。
罪は自分の罪を負うように働きます。
そして罪は自分が何をしているのかが
わからせない。わからない。
そして自分の罪の現実の真をつく言葉ほど
私たちは人事のように聞く。
それは私のことではないですよねと聞く。
でも真をついている言葉を私たちは見える。
ダビデがそうでした。
しかしここで神様はダビデを逃がしません。
七節から書いてあることはそういうことです。
ナタンはダビデに言った。
あなたがその男です。あなたがその男です。
イスラエルの神主はこう言われます。
私はあなたに油を注いでイスラエルの王とした
また私はサウルの手からあなたを救い出した。
さらにあなたの主君の家を与え
あなたの主君の妻たちはあなたの懐に渡し
イスラエルとユダの家も与えた。
神を軽視した王と、罪の刈り取り
それでも少ないというのなら
あなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
どうしてあなたは主の言葉を下げすみ
私の目に悪であることを行ったのか。
あなたは筆太刀神ウリアを剣で殺し
彼の妻を奪って自分の妻にした。
あなたが彼を暗門神の剣で殺したのだ。
今や剣は常しえまでもあなたの家から離れない。
あなたが私を下げすみ筆太刀神ウリアの妻を奪い取り
自分の妻にしたからだ。
神様はここではっきりとダビデが隠してた罪を全部言います。
あなたはバテシェワを奪ったし
そのために筆太刀神ウリアを殺した
あなたが殺した。
中悪な罪をすべて暴き出します。
主は言われるのです。
私はすべて知っている。
何よりも神様が悲しかったのは
ダビデの罪が何であるかと言っているかということです。
それはウリアを殺し彼の妻を奪ったことが罪なのですが
根本的な彼の問題は何か。
それはあなたは私を下げすんだという言葉が2回繰り返します。
あなたは私を下げすんだ。
どうしてあなたは主の言葉を下げすんだのかということが9節にあり
10節ではあなたが私を下げすんだと言います。
下げすんだ。
下げすみという言葉はヘブロ語ではバーザーと言われますが
これは言い換えるならば
見下すだとか軽視するということです。
軽く見るということです。
ダビデはこれまでそうではありませんでした。
彼はイスラエルの誠の王は神様であると認めてきました。
彼は誰よりも神様を重たいお方として見ていました。
神様を王として歪まずき
御声に聞き従うことこそがダビデの力でした。
誠の王がいるゆえに
イスラエルの地上の王であるダビデは
この世の王とは異なる
神が恵み深い誠の王であるから
地上の王であるダビデも恵み深い者として生きました。
神と人とに仕える王である
それはまさに聖なる生き方です。
この世の者とは横並びにできないような
この世の神とは違う聖なる神が恵み深いように
ダビデはこの世の者とは横並びにならない
恵み深い聖なる王様でした。
しかしダビデが神様を侮った
下げすんだ
結果どうなったか
ダビデは力を収めずに誘惑にとられたときに
ダビデは聖ではなくて賊となります。
聖の反対は汚れではありません。
聖なる者の反対は賊なるものです。
普通の王様になり下がりました。
普通の王様になり下がるというのは一体どういうことでしょうか。
実は彼がした行為2回とも
その取ったという行為は
一体何を言っているのかというと
実はこれは第一サムエル記の八章につながっているんです。
ちょっと見ましょう。第一サムエル記の八章ですね。
第一サムエル記の八章です。
第一サムエル記の八章の11節から
実はこれはイスラエルが最初に
民が王が欲しいと言ったときに
王を立てるのはいいけど
王があなたたちのところに立ったら
王様ってのはこういうことをする存在ですよ
ということを神様が言った場所です。
八章の11節から
とびとび読みますがここで書いてあることは
あなた方を治める王の権利はこうだ
あなた方の息子たちを取り
戦車や軍馬に乗せ
自分の戦車の前を走らせる
とんで13節
またあなた方の娘たちを取り
香料を作るものや料理するものやパンを焼くものとする
そして16節
あなた方の奴隷や女奴隷
それにあなた方の子牛やロバの最も良いものを取り
自分の仕事をさせる
あなた方の羊の群れ十分の位置を取り
あなた方自身は王の奴隷となる
ここまでにいたしますが
実はこの取ったというヘブロ語の言葉は
ダビデが召し入れたという言葉と同じ言葉です
バテシェバを召し入れたと同じ言葉です
ダビデがバテシェバを襲ったときに
彼はどうなったのか
聖なる王ではなくて
普通のどこにでもいる王様になったということです
神科や人を物のように扱える
奴隷のように扱うことのできる
この世の普通の王様と
何一つ変わらない存在になったということです
聖の真逆は賊ですよ
その結果戻りますが
第二サムエルの12章の10節に戻りますが
どうなるか
今や10節にあるのは
今や剣は常しえまでもあなたの家からは離れない
神様は常しえにあなたの家を
恵みによって建てると言われましたが
同時にここでは
常しえにあなたの家から
剣は離れないと宣言される
ダビデの家に災いが起こる
この11節に書いてあるのは
今度はあなたが自分の妻を取られるようになる
あなたが自分でしたように
あなたはされるようになる
赦しの後も続く罪の波紋
逃れようのないダビデは
即座に悔い改めをいたします
13節
ダビデはナタンに言った
私は主の前に罪あるものです
ナタンはダビデに言った
主もあなたの罪を取り去ってくださった
あなたは死なない
しかしあなたはこのことによって
主の敵に大いに侮りを起こさせたので
あなたに生まれる息子は必ず死ぬ
しかしあなたの息子は必ず死ぬ
ダビデが主の御前に悔い改めた時に
13節で書いてあるのは
主はあなたの罪を取り去ってくださって
あなたは死なない
即座に来たのはすごいことですね
立法に照らし合わせるならば
ダビデの行った交換も殺人も死刑です
しかしここで主は宣言されます
あなたは死なない
ヘセドですね
恵みです
しかしあなたの子供は死ぬ
ダビデの罪は神様の前に許されました
しかし彼はこれからの人生を通じ
自分の犯した罪の刈り取りを経験していかなければならない
ということがここで示されます
どういうことでしょうか
15節以降見ていくとよくわかります
ダビデとバテシャバの間にできた子供は病気になります
16節17節を見ますと
ダビデがそのために何をしたか
ダビデはその子のために神に願い求めた
ダビデは断食をしてひきこもり
一晩中地に伏していた
彼の家の長老たちは彼のそばに立って
彼を力を起こそうとしたが
ダビデは起きようともせず
彼らと一緒に食事を取ろうともしなかった
必死な断食と祈りですよ
子供が死ぬかもしれない
しかし聖書は18節に名の仮名にその子は死んだとある
祈り虚しく子供は死にます
ただここからが怖い
すると
ダビデは子供が死んだということがわかった後
一転して断食を即座にやめ
食事をいたします
その氷片ぶりたるや
家来たちがダビデの姿を見て
驚くほどでした
ダビデなんでそんなにすぐに
そんな風に変われるんですか
ダビデ自身は23節で言いました
あの子は死んでしまったのかも仕方がないじゃないか
もうあの子は私のところに帰ってこないんだから
私が断食をする意味はない
言葉としてはわかります
ただ彼の行動は不気味です
そして彼はこの後バテシェバを慰めに行ってのち
すぐに彼は彼女と寝たとあります
結果ソロモンが生まれるのですが
ダビデのこの行動は正直言って不気味ですよ
実はダビデのこの行動に関しては
様々な仲介者が言っていますが
解釈がすごくわかります
この行動をなかなかわかりやすく理解ができない
ただ私はこのダビデの行動は
平成を無理に取り戻そうとする姿に見えます
平成を無理に取り戻そうとする姿に見える
私は罪を犯した
しかし私は主に悔い改めた
許された
そして裁きとして子供も死んだ
過去の生産は済んだ
さあこれから新しい門出が始まるそうです
もう全部終わったんだから
次にこうです
彼は思ったかもしれません
さあ全てが元通りになったと
しかしことはそう単純ではありません
ダビデが犯した深い罪の波紋はこの後消えません
ダビデの罪の波紋は
その子供に響いていくというのが
13章から描かれる事柄に書いてある
ダビデの息子長男アムノンがいますが
アムノンは自分の欲望を満たすために
異母兄弟である妹のタマルを
強姦するという事件が起きます
自分の妹を息子が襲う
悲惨な事件です
しかしこの事件を知った後
ダビデはどうしたか
13章の21節というところを読みすると
13章の21節
ダビデ王はことの一部始終を聞いて
激しく怒ったと書いてありますが
この後アムノンに何か言ったということは書いてないです
ダビデは怒った
怒っただけで
強姦というか罪を犯したアムノンに対しては
何も言わない
何も言えないのかもしれません
自分も同じことをしたからでしょう
そして過去の自分の罪を思い出させるこの事柄に
ダビデは深く関わりたくないと思ったのかもしれません
しかしこのタマルと同じ母を持つ兄であるアブシャロムは
憎しみを募らせ
ついにアムノンを殺害します
ダビデの息子の間で兄弟殺しが起こります
そしてこれは後のアブシャロムの反乱に繋がってまいります
長くアブシャロムに国を乗っ取られ
ダビデは東方を余儀なくされる
そして実はもう一つの波紋があります
実はアブシャロムというのは単に王の息子なだけですが
アブシャロムの反乱がとても上手にいったのは
アブシャロムの右腕に軍師アヒトフェルという優秀な人物がついたからです
しかしこのアヒトフェルはよくよく調べますと
これはバテシェバのおじいちゃんです
11章の3節に先ほど見ましたが
11章の3節にバテシェバの身元を探した部下が言ったのは
あれはヒッタイト人ウリアの妻で
エリアムの娘バテシェバですと言います
そしてこのエリアムというのは誰のことなのか
第二サムエル記の23章の34節というところ
ここにはダビデの勇士についての名前が列挙されますが
23章の34節
ダビデの三十勇士の名前が書いてありますが
34節にマアカジンアハスパイの子はエリフェレって
ギロジンアヒトフェルの子エリアムと書いてあります
アブシャロムに協力したのはギロジンアヒトフェルと特定されています
自分の孫の家庭を壊した王への憎しみがあったということは容易に想像ができます
そしてこの12章ダビデの食い改め以降
実はよくよく見ていくとこの争いがきっかけで
ダビデは子供4人を失います
最初に赤子が死にます
アムノンも死にます
そしてアブシャロムも死にますし
もう一人死にます
でもこれは皮肉にも
ダビデがイカって言った
あの12章の4節の言葉の実現です
その男は哀れみの心もなくそんなことをしたのだから
そのメスの子羊を4倍にしてつぶなわなければならない
彼が語った言葉の通り
彼は子供を4人失う
ダビデの罪の刈り取りはダビデの死まで続きました
主への食い改めは罪の終わりではありません
罪の刈り取りの始まりであるということがここからよくわかります
ソロモンと、離れない神の愛
さて戻って12章の24節というところを見てまいりますと
実はこのようなダビデの行動の中で
バテシェバを通じて子供が生まれます
ダビデはその子供に対して
ソロモンという名前をつけます
ソロモンという言葉はヘブル語のシャロームから来ています
平和という言葉です
ダビデはソロモンを愛しましたが
たぶん彼の言葉からしたら
ここから平和が始まるというイメージだったのかもしれない
しかし生まれた子供に親が名前をつけているのに
神様は即座に別の名前をつける
預言者ナタモツカは死のためにその名を
エディディアと名付けた
エディディアという言葉は主に愛されたものという言葉です
聖書が語るのはナワアイデンティティです
ダビデは罪の生産が済んで
平和が戻ったという意味で
シャロームとつけたかもしれません
しかし神様の視点ではそうではありませんでした
罪の刈り取りは残っています
ダビデの家から剣は離れません
しかしその混沌の中に生まれた子供
ダビデ家の未来に対して
主は愛しておられるというのです
主は愛しておられる
それはこれほどのことをダビデはし
これから剣は取り去られないのだけれども
神の恵みと哀れみは
なおもダビデの家からは離れていかないという
恵みの宣言なんです
なおも神の愛は離れないという宣言でしょう
主は罪人を見捨てるお方ではない
12章の13節
今朝ご一緒に目を止めたい言葉です
12章の13節
ダビデはナタンに言った
私は主の前に罪あるものです
ナタンはダビデに言った
主もあなたの罪を取り去ってくださった
あなたは死なない
私もそうですが
失敗しない人間はいません
罪を犯さない人間なんかいません
しかし神様がここでダビデに言ったことは
あなたは死なない
死なずにあなたは
狩り取りに向き合わなければならない
神様に許されたのは何のためか
それは自分自身が犯してしまった
罪の狩り取りと向き合うためです
自分が生み出してしまった破れを作ろうためです
その悔い改めと狩り取りの人生に
主の憐れみは尽きていないということです
重たいことですが
誰かではなく私のこととしても受け止めながら
そのことに誠実に向き合わせていただきたい
一言お祈りをしております
42:24

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