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はい、それでは今日もですね、周りの方々と挨拶したいと思いますが、
今日は祭族感謝礼拝ですので、こう挨拶しましょうか。
ことし一面か、ありがとうございました。周りの方に挨拶をしたいと思います。ありがとうございました。
感謝します。それでは一言お祈りします。
愛する神様、今日もこうして、祭族感謝礼拝として神様に礼拝できることを感謝いたします。
私よ、幼い子供たちから、お父様より方々まで、全ては神の神ですし、神のものですから、
どうぞ神様、あなたの素晴らしい恵みで、主が満たしてくださいますようにお願いをいたします。
今から御言葉に意味を傾けます。
どうぞ天主様、一人一人に、あなたの運命の御言葉を教えてくださいますようにお願いをいたします。
感謝して、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
今日は、新暦八書一節から三節、コロサイビトへの手紙第二章七節、この御言葉から感謝の厳選という題を持って、恵みを共にしたいと思います。
今年も一年が早、終わろうとしているんですね。
両谷教会に就任したことが、昨日のような気がしますけれども、あっという間に一年が過ぎ去ろうとしています。
しないにはですね、もうクリスマス雰囲気になっていますけど、教会はまだクリスマス雰囲気がなっていないですけどね。
今年も一年間、私たちの生涯を覚えて、なぜ私たちが感謝すべきなのか、何を感謝すべきなのかを御言葉から教えていただきたいと思っております。
皆さん、例えばですね、感謝しましょうとかと言われたときに、だいたいですね、自分が何をもらったのか、どんな良いことがあったのか、
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だいたいですね、そういったことを思い起こして、今年一年間とか、自分にどんな良いことがあったのか、それを思い起こして感謝したりするんですね。
ところが、皆さんご存知の第一テトロニック語書18節を見ますと、いつも感謝しなさいという言葉があります。
他の制度にもよく書かれているカーサですが、いつも感謝しなさいという見言葉なんですね。
この見言葉が聞いたらですね、ちょっとスタンになるかもしれません。いつも感謝できるのかしらとですね、そう思うかもしれませんけれど、この見言葉を皆さんよく考えていただけばいいです。
いつも感謝しなさいということですから、何か良いことがあったときにだけ感謝しなさいという意味ではないんですよね。
良いことがあっても、良いことがなくても、あるいは良くないことが起きても感謝する。
それが、いつも感謝しなさいという言葉じゃないですか。
ですから、まことの感謝とはですね、何かの条件や状況によるそれに対する反応としての感謝ではありません。
何かですね、良いことが起きたら、すごい良いことが起きたら感謝する。
その条件や状況に対する反応として感謝する。
それ以上にですね、何かを私たちは掴んでもっていなきゃならないんです。
ですから、ある結果に対して感謝するのではなく、どんな状況の中においても、どんな条件にあっても感謝できる、感謝する根本的な何かを持っていなければならないんです。
結論から申しますと、感謝は皆さん、どんな人がいつも感謝することができるのでしょうか。
それは、神様と正しい関係の上に立つときにいつも感謝することができます。
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簡単にですね、他の言葉でかえって言いますならば、神様の恵みを受けた人がいつも感謝することができるのでしょう。
今日の御言葉をちょっと見てみましょうか。
二節と、長いですけれども、二節三節をもう一度一緒に読みたいと思います。よろしいですか。
二節三節です。
三、あなたの神主がこの四十年の間あらので、あなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。
それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主はあなたを苦しめ、飢えさせて、あなたを知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。
それは人はパンだけで生きるのではない。人は死の口から出るすべてのものを生きるということをあなたに分からせるためであった。
アーメン。ありがとうございます。
皆さん、今日はイスラエルの民の話をしますけれども、彼らはエジプトの奴隷でした。
この奴隷であった彼らを神様が力をもって、その奴隷の身分から救い出してくださったんですね。助けてくださいました。
なんとその人口が二百万人ぐらいと言われています。
神戸市により多いです。
その二百万人の人々が、あの何にもない砂漠のような荒野を歩いて行進していったわけですね。
その中で彼らは、航海という海を荒野を歩いて行きました。
その荒野で彼らは今日の二節三節からあるように、何を学ばなくならないのか、何を訓練すべきなのか、
それですね、神様が主であること、神様がどんなに偉大で素晴らしいお方なのか、それを学ぶ、
いわばですね、この荒野はイスラエルの民にとっては荒野訓練学校のようなところです。
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今回ですね、鈴木さんの後輩がイスラエルに行かれましたので、荒野がどんなところなのか知りたい方は聞いてみてください。
何にもないところです。
その中で彼らがですね、御言葉にあるように苦しめられることもありました。
飢えさせられることもありました。
しかし、マナも食べさせてくださいました。
神様はなぜ苦しめたり、飢えさせたりされたのでしょうか。
またマナを食べさせたりしたのでしょうか。
後悔を渡らせたりしたのでしょうか。
それは一言で言いますならば、神様が素であることを知るためなんです。
イスラ神が荒野に入ることも一緒です。
自分のですね、軍事力や何か力を持って戦ってその地を占領するのではなく、助けてくださることも神様による力である。
それを知らせるために、いや知ってもらうために、神様が彼らを時には苦しめ、時には飢えさせ、時には食べさせ、時には後悔を渡らせてください。
ですから皆さん、この全行程を通して彼らが学ばなくてはならないことは、全ては神様がなされることなんです。
神様はこの二百万人以上の人々も一気に食べることができる食べ物も提供してくださることができる。
そしてあらゆる危険から守ってくださることができる、その方であることをイスラエル民が知ること、わかること。
それが神様の良き御意図でした。
ところが皆さんご存知のように、イスラル民が江戸から脱出したんですね。
そして後悔を渡りました。
神様が深い海を真っ暗に分けてくださって、どろどろの地ではなく渇いた地を歩いて渡ることができたんですね。
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奇跡を経験しました。
みんなが命が全ての持ち物も守られたんですね。
ところがですね、その後悔を渡ってたった三日が経ってですね、彼らは神様につぶやき始めたんです。
食べ物がない。神様は力がない。
彼らのですね、神様の恵みを覚える記憶力は三日ですね。
皆さん、つぶめの記憶力は三秒だそうです。
あるいは魚の船の記憶力は0.5秒だそうです。
それで釣ってですね、逃げたらまたその釣りに知られるんですね。
イスラル民の神の恵みを覚える記憶力は三日ですよ。
日本語にですね、三日防止という言葉がいますけれども、本当に三日で忘れてしまうんですね。
神様が哀れみを持ってですね、
あ、そうか。食べ物がないか。
マナをですね、天から空を見て食べさせてくださった。
最初はですね、みんなこれうまい、美味しいとみんなですね、集めて集めて食べたんです。
しかしそのことも何と続きましたか?
そうではありません。
また何日が経ってですね、彼は何と呟き出したんですか?
これしかないんですか?
エジプトにいた時には、肉も食べ、ニラも食べ、チューリーも食べ、
この荒野で踏んだ方がマシですと、呟いて腹を立てていたんですね。
何を言うするんでしょうか、皆さん。
彼らはですね、何か起きた良いことがあれば、
ああ、嬉しい嬉しいってですね、話します話します。
で、飽きてしまったら、なんてこんなことしかないんですか?
それは目の前に起きた状況に反応するからです。
自分の目に見える結果に反応するから、良いことが起きたら、ああ、嬉しい嬉しい。
それがちょっと経ったらまた同じ恵みが、マナが続いていますよ。
ウズラもありました。しかし彼らのつぶやきは終わってないんです。
目に見える結果に反応してしまうから、条件や状況に反応してしまうから、
良いことがあったら嬉しい、ちょっと悪いことが起きたら悲しい、嬉しい悲しい、嬉しい悲しい、
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一生前それがですね、ずっと続くんです。
繰り返しのばっかりの人生になってしまう。
目に見える結果に囚われているならば。
皆さん、ですから重要なことは、何か良いことが、あるいはちょっと良くないことが起きたときに、
そのこと、出来事や事件やその事態に囚われるのではなく、
私たちはこの事件やこの出来事を誰が許されたのか。
ここに神様のどんな御意図があるのか。
そして神様は、この事件が、この出来事が、良いことが、悪いことが、
起きる前も、起きたときも、起きた後も、神様は変わることがないお方であること。
神様の良きものは変わっていないことを、信頼する進行が必要なんです。
皆さん、今年はいかがだったんでしょうか。
今年1年間、2013年、皆さんいつも感謝していらっしゃいましたか。
あるいは、良いことばっかり起きたんですか。
あるいは、悪いことばっかり起きたんですか。
そうではないと思うんですね。
それで、良いこともあったり、あるいは悲しいこともあったりしたことでしょう。
その時に皆さんの反応は、感謝はどうでしたか。
良いことがあって、ああ、嬉しい、嬉しい、
ちょっと良くないことが起きたら、なんて神様、こんなことをするんですかと、
つんぼりしたり、がっかりしたり、ツボをしたりしていたのではないでしょうか。
その事件や出来事やその事柄という状況に反応するならば、
我らの人生は波に上がったり下がったりする小舟のような人生になってしまうんです。
だから人生に不納得がひどくなる。
上がったり下がったり、上がったり下がったり、上がったり下がったり。
ですから皆さん、希望をどこに置くのか。
神の恵みに置くべきなんです。
神様は、私たちが信じる神様は、変わることがない。
全ては神様の心の中で計画を持って全てを成してくださる。
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何かの事件や出来事や良いこと悪いことの背後で、
その全てをですね、その事柄を包み込まれて支配しておられる神様を見る信仰が必要なんです。
このような条件、状況に左右されない良い信仰を持っている、
良い感謝の信仰を持っている二人の人がいました。
彼らは状況や条件に関わらず、いつも感謝する人。
どんなに苦しい時に置かれていても、感謝する人でした。
それはヨセフとダニエルでした。
二人には皆さん共通点があります。
ヨセフもダニエルも本当に耐えることができない、本当に悔しいことが起きたんですね。
しかし彼らはそれにですね、そこらに反応して呟いたり、腹を立てたり、がっかりしたことは一切ありませんでした。
政府は開かないのですが、ヨセフの条件を考えてみましょう。
お兄ちゃんたちが彼をメディアンの商人たちに奴隷で打ってしまったんですよ。
一晩で奴隷になってしまったんです。
その時にも、またポテファルのセモベであって、いいところまで愛されていたところ、
ポテファルの奥さんの割りごとの家に、一晩で奥さんを犯したことをした。
そういう無実の罪で、牢屋に入れられてしまった。
そして、そんなにさんざん苦しめられて、本当に人生が真っ暗のような中にありましたけれども、
ヨセフは一度も、そのお兄ちゃんたちを恨んだり、呟いたり、
なんで自分の人生にこんなに苦しいことがいっぱいあるんだろうかと、感じたことが一度もなかったんですね。
今度、聖書をひらいてみましょう。一緒に聖書をひらきましょうか。
葬石です。葬石45章。一緒にひらきましょう。
月には眠い目を覚ますためには、聖書を読むこともいいことですね。
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45章8節です。
これはどんな場面か説明しますと、
そのようにヨセフが売られて、何十年がたって、彼がなんと、エジプトの総理大臣になったんですね。
大地震が起きて、そのお兄ちゃんたちが、二世代に食べ物がなくて、お米も何もなくて、
エジプトに物をもらいに来たときに、最後のヨセフと自分を売ってしまったあのお兄ちゃんたちと対面する劇的な場面なんですよ。
このときにヨセフがどう反応したのかをよくご覧ください。
まず、六節を私が読みます。
この二年の間、国中に地震があったが、まだあと五年は耕すことも、刈り入れることもないでしょう。
それで、神は私をあなた方より先にお使わせになりました。
誰が自分をお使わせになったと言っていますか?
神様が自分をお使わせになった。
兄たちが、君たちが私を売ったのではない、私が今エジプトにあるのは神様がお使わせされたことなんですよ、と分かっているんですね。
それは、あなた方のために残りの物をこの地に残し、また大いなる救いによってあなた方を生きながらえさせるためだったのです。
大いなる救いのために、神様が私を、イスラエルからこのエジプトに神様を送ったんですよ。
あなた方が売ったから、私がここにいるわけではないんですよ、と明かしているんですね。
八節を一緒に読みましょうか。八節三回。
だから、今、私をここに誓わせたのは、あなた方ではなく、実に神なのです。
神はあたしを太郎には父とし、その喧嘩の主とし、またエジプト全土の奉仕者とされたのです。アーメン。
これが皆さん、兄たちに奴隷で売れてしまった与世夫の話なんです。
皆さん考えてください。与世夫は、兄たちにつぶやいてもいいんじゃないか、してもいいような資格を持っているんです。
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そんなものです。しかし彼は、その兄たちに何一つつぶやきをしていないんです。
恨みも持っていない。憎しみも持っていない。
あるいは神様に対して、なんで神様はこんな辛い目にあわされるんですか。あなた本当に生きている神様ですか。
そういった神様に対するつぶやきもないんですね。
むしろ、感謝している。
私が今エジプトにいるのは、この救いのために、あなた方を生きながらえさせるために、神様が前を持って、私をイスラエルからこのエジプトに移してくださったんですよ。
神様が使わせてくださったんですよ。これは神様の恵みですよ、と感謝しているんです。
皆さん、予政府の頂点は、予政府は何を見ているんですか。
自分が奴隷で売れて、そして牢屋に入れられて、悔しい目にあわされた、この出来事、事件に目を奪われて、心を奪われて、神様を忘れてしまうのではなく、
その背後に神様がどういう計画を持って導いておられるのか。
これは確かに神様の計画として素晴らしいことがある。
今、自分が奴隷になって、あるいは強姦の無実で牢屋に入れられたり、本当に苦しみにあわされた。
その発端は兄たちにあるんだ。兄たちのせいだ。
ずっと憎しみ続き、恨み続きできてもいいような予政府です。しかしそんなことはありません。
予政府のお話には神様でいっぱいです。それだけですか。
彼の心の中に、彼の信仰の中には神様でいっぱいなんです。
良いことがあってもなくて。
だから最初から最後までずっと感謝できることなんです。
ダニエルもそうなんです。少年の時にバビロニアへ捕虜で連れられていきました。小学生かもしれません。
そんな彼の人生に、全く異国の国に捕虜で連れられてしまったわけですから、彼の人生にはすぐ刺激なんですね。
なんで神様、この国をあなたのためなのに、こんなにこの国が潰されてしまうんですか。
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しかし無機嫌な恵みによって、ダニエルは選ばれて、異国バビロニアの、また同じく彼も総理大臣になったんですね。
しかし考えてみたら、ダニエルはバビロニア人じゃないですね。他の国もそうですよ。
捕虜に来た者が総理大臣になったわけですから、そのバビロニアの奥の管理家たちは値段でいたでしょう。
なんでうちのバビロンの国民じゃなくて、なんでイスラエルのユダヤ人が総理大臣になるのか。値段で引きずり下ろそうとしていたかもしれません。
だから狙っていたんですね。それで彼らが悪寡主国、企んで法律を作ったんですね。
そして、王様以外の者に拝んだり祈ったりものは拒絶しましょう。
で、王様がナツインしました。ダニエルを殺すための企みでした。
さあ、そのような時にダニエルがどう反応したのか、それをまた見てみましょう。
ダニエル書です。旧約聖書のダニエル書。
ダニエル6章です。ダニエル書第6章、10節です。旧約聖書1459ページです。
10節を一緒に読みたいと思います。
3杯、ダニエルはその文書の署名がされたことを知って、自分の家に帰った。
彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かって開いていた。
彼はいつものように日に三度跪き、彼の神の前に祈り感謝していた。
みなさん、ダニエルを殺すための法律でした。それが署名されたことをわかっていたんですよ。
そうしたら、祈ったら殺されるんですね。それを知っているはずなのに、何と彼は、
10節後半にあるようにですね、彼はいつものように祈っていました。
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自分を殺そうと狙っているその者たちがいるに関わらず、そんな状況に侵されていても、
ダニエルは感謝して、神様に祈っていたんです。
良いことが起きたから感謝しているわけではありません。
むしろ状況が悪化になりました。最悪になりました。死ぬかもしれません。
でもダニエルは感謝の祈りをしていたんですよ。なぜでしょうか。
寄せるとダニエルの共通点は何でしょうか。
揺さぶられない信仰を持っていて、神に希望を置いていたからです。
その人生の根を、キリストに根を下ろしているから、
どんなことが起きても、最悪の状況になっても感謝できる。
まさにこれが感謝の源泉なんです。
どうか私たちもこのダニエル、女性のような信仰を持っていただきたいです。
もう一度申しますが、皆さんよく覚えておいてください。
状況や条件に反応する感謝の態度を持っていますならば、
生涯上がったり下がったり、上がったり下がったりを繰り返すだけ。
しかし、神様を握りしめて、神様の素晴らしい計画を信じて、
自分に良いことがあっても、最悪のことが起きても、
神は主である。神様は神であられること。
神様がなされることはいつも正しくて良いことであるということを悟って信じなければなりません。
もう一つ同じダニエル書を見てみたいと思います。3章17節です。
ダニエルとその友達が火の燃える炉の中に投げ込まれる直前のことです。
その時にこの少年たちが何と深刻を告白しているのか見てみたいと思います。
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まずは17節を一緒に読みたいと思います。
もしそうなれば、私たちの使える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。
王よ、神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。
私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが建てた金の炉を拝むこともしません。
ダニエルとその友達少年たちは、神様がこの火の燃える炉から救い出してくださる。
いや、18節。しかし、そうでなくても、どういう意味ですか。
神様がこの火の燃える炉から私たちを救い出してくださらなくても、この火の燃える炉で燃やされて死んでも、私は神様を崇め信じます。
そんなことがあっても、神様は良い方であり、神様のあされは素晴らしい。
全てのことは良いことです。
これが皆さん、本当の信仰なんです。これが本当の感謝なんです。
皆さん、私たちの周りを見たら、同じ出来事が起きても、違う反応をする場合があると思います。
例えば、同じ良いことにあっても、感謝する人がいる反面、つぶやく人がいます。
同じ悪いことにあわされても、感謝する人がいる反面、またつぶやく人があります。
間違いでしょうか。よく考えてください。
それは、私たちの皆さんの態度です。もっとわかりやすく言えば、癖です。
どんなことがあっても、感謝する人は感謝が自分のものになって、ついていって、
それが神に目を下ろして感謝するそのものになっているから、どんなことがあっても感謝するんです。
しかし、感謝していないものが身についている。感謝しない態度が自分のものになっていて、
そんな人には、良いことがあっても、もっと素晴らしい、めちゃくちゃ良いことがあっても、つぶやくわけないんです。
条件上部にあるわけではありません。
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コロサイビという手紙を見てみましょう。今日のコロサイビという手紙2の7節です。
コロサイビという手紙2の7節をもう一度読みたいと思います。
これが皆さん、まさに私たちの信仰態度でなければなりません。
一緒に読みますか。
キリストの中に目指し、また立てられ、また教えられた通り、信仰を固くし、溢れるばかり感謝しなさい。
アーメン。
皆さん、キリストの中に目を下ろしてください。
目指してください。
そして、キリストの中にあって立てられてください。
そして、教えられた通りに信仰を固くしてください。
そうしますと、溢れる恵みがあって、そして溢れる感謝ができるものになります。
結論をもう一度読みたいと思います。
今日のメッセージを圧縮して一言で言うならば、神様の恵みに圧倒されれば、自ら感謝するものになれます。
神様の恵みがどんなに素晴らしいものなのか知っている人は、
良いことがあっても、病気にかかっても、悪いことがあっても、しないことがあっても、
神様の恵みに圧倒されているものは感謝するんです。
どうか皆さん、神様の恵みに深く力を入れていただきましょう。
そうしますと、病気にかかっても、苦しみにあわされても、
良いことがあっても、悲しいことがあっても、感謝できるものになります。
感謝の源泉は、神の恵みになります。
お祈りします。
では、今日のメッセージを覚えてですね、
今年1年間の恵みを振り返って、神様に感謝します。
また、どんなことがあっても、感謝できる信仰を神様私に与えてくださいと、
心合わせて一緒にお祈りしたいと思います。
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お祈りします。
主に愛を供できますように、神の恵みが我の上に、
神に信仰を、キリストに伝え、共に歩むことができます。
何という素晴らしい恵みです。何というあなたの恵みです。何というあなたの恵みなんです。
神の恵みがありますように。
では、一言お祈りいたします。
キリストの中に根立つ、また称えられ、また教えられたとおり、信仰を固くし、
溢れるばかり、感謝しなさい。
愛する聖な神様、2013年、ことし1年間も、
我ら一人一人をあなたが守ってくださり、
良き者でいたしてくださり、
信仰を守ってくださり、健康を守ってくださり、家族を守ってくださり、
そして教会を守ってくださって、こうして主にあって支えられ、
守られ、恵まれていることを覚え、感謝いたします。
どうぞ、私たちが一生での民のように、神様に対して感謝することによって、
愚かなことを犯すことがないように、
いつも感謝することができますように、
希望をあなたのおうちに置くことができますように、
どうぞ、我らに恵んでくださり、
信仰を強くしてくださいますようにお願いいたします。
お願いいたします。
7年間様々なことがありましたけれども、
でも神様は良きお子様であり、
いつも良いものを持って満たしてくださる方であることを、
どうぞ、我らの信仰が揺さぶられることがありませんように、
強めてください。
岩の上に私たちの信仰を立ててください。
42:01
それで本当に私たちが、
家庭において、夫婦の間で、親子の間で、あるいは教会で、
いつも感謝して感謝して感謝するものとならしめてください。
そして自分のゆえに周りが感謝され、
そしてその人も神様に感謝することができる感謝の蔵として
用いてくださいますようにお願いいたします。
心から、口先から、考えから、つぶやきや恨みや生きどおりなどは、
どうぞ一切取り戻して、
清めてくださいますようにお願いいたします。
みんなで感謝し、家様の皆によってお祈りいたします。