1. 名谷教会 podcast
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2017-02-12 47:18

2017/02/12:信仰のベーシック(5)交わり

2017/02/12 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ピリピ人への手紙 -30, 伝道の書 4:9-10

00:01
改めてみなさん、おはようございます。寒い中、よくいらっしゃいました。
では、メッセージの前にですね、いつものように、周りの方と挨拶しましょうか。
おはようございます。
お祈りをする前にですね、年に何回でしょう、教職者手に文書が送られるんですけれども、
その中にですね、温かいおわかしのような文がありましたので、紹介というか、
わかし合いたいと思ってですね、読ませていきたいと思います。
正拠地試験を受けて、N先生です。2016年、私は正拠地試験を受けました。
試験を受けると決心してからの毎日は、50歳を超えた私には大変厳しいものでした。
年度勃開、小、中、高、大学生の4人の子育て、PTA、家事、空いた時間に日頃手を出さない本を十数冊も読み、何千字にもわたる論文作成、
切迫した毎日でしたが、たくさんの方の祈りとサポートを受け、無事合格させていただきました。
感謝しています。もし今でも主人と一緒なら、私はきっとお教師の試験も受けていなかったでしょう。
その選択も、神様の栄誉を表す生き方だと私は思っています。
正拠地になって、教会のすべての責任を負う主観者の主にを体験し、後悔していることがあります。
薬味会の後は、もっと牧師を思いやってあげ、値切らってあげたらよかったな、とか、
住籍を担う牧師へとりなしの祈りが少なかったな、と主人の立場を理解できるようになって、妻として至らなかった未熟さを神様に悔い改めたのです。
03:02
神様の御心に従いする生涯は、いろいろな意味で自分の計画をはるかに超えていますが、
神様に従う時に踏み込む世界は、私が一緒に行く、そしてあなたに安息を与える、と言ってくださる主が、すべてを唱えてくださっている場所です。
清挙寺のための学びで発見したことは、N先生の牧会姿勢は丸々先生、主人の丸々先生から受け継いだものですね、と言っていただくとき、
身体が覚えている主人が教えてくれた様々な事柄は、心学的意味がその裏に隠れているものだったということです。
伝道と牧会は、学び続けることで身を結ぶ、これが清挙寺主権から得た恵みです。
という証ですね。お祈りいたします。
神様、そうです、私たちが信徒であろうが教職者であろうが、すべて神様に住み許されて、
そして神様に愛されてお互いに住み合って一つとして歩む教会教土台のその各機関でありまして、
イエス・キリストを頭として、私たちはその身体の各機関でありまして、お互いに結び合わされ、つなぎ合わされて主の身体を立て上げていく信徒の同士でございます。
今日もその教会における麗しい交わりはどういうものなのか、その御言葉から教えていただきたいと願っております。
主をどうぞ我らに教えて悟りを与え、またその教えられた悟った御言葉を実践できる信徒の力も主をどうぞあふれるほどお与えください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
25節に書かれているエファーフローレトという人物です。
このエファーフローレトという人物を通して、教会教土台、教会における私たちのあるいは家庭におけるその麗しい、素晴らしい、温かい信徒的な交わりはどういうものなのか、
06:18
それを共に御言葉から教えていただきたいと願っております。
さあ、パウル先生とエファーフローレト、それからフィリピン教会、この三者の関係を理解するために背景をもう一度学んでいきましょうか。
先週少しお話ししましたけれども、フィリピン教会はパウル先生が今のトルコから今のギリシャの北部のマケドニアに渡っていって初めて建て上げた教会です。
ですからヨーロッパでは初めての教会といえる教会です。
パウル先生はそのピリッポという異教の町に留まって、一生懸命命懸けの伝道活動をしたわけです。
そしてやっとこのピリッポ教会が誕生したわけなんですね。
そしてその後、パウル先生はまた他の町に伝道のために行くわけですから、そのピリッポ教会とさよならって離れたわけです。
今このピリピピという手紙を書いているパウル先生は囚人の身分としてローマに裁判を待っている。
そして刑務所じゃなくてある家の中に軟禁されている状態なんです。
そのパウル先生は自分が生み出したような 子どものような愛する兄弟姉妻たちのピリピ教会の信徒の皆さんに手紙を書いて
信仰を指導したり励ましをしたり 時には忌ましみをしたりして教会を指導していました。
それはピリピ人への手紙だけではなく エフェソー人への手紙 コロサイ人への手紙 それからピレモニチョ
この4つがパウル先生がローマの軟禁のあの状態で囚人という身分の中で 裁判の前に書き送った手紙なんですね。
でもパウルはローマ市民権者でした。
だからローマ市民権を持っている人は特別扱いをされたわけですから 監視はされていましたけれども
09:04
手紙も書くこともできますし もらうこともできますし
誰かパウル先生お世話したいという人があれば 一緒に過ごすこともできますし
食べ物とか服とかそういう差し入れもあげることもできますし あるいはお金もあげることができる
そういうことで特別な状況の中にあったわけです。
そんな中にあるパウル先生に 今日の25節からの見言葉から十分 迅速も歴史でわかるということは
フィリピン教会からファブ・ロデトという人 多分若い人ではないかと思うんですけれども
名前から男性ということもわかるそうです。
そういう人がフィリピン教会の神徒の代表として ローマのパウル先生のそこに行くんです。
なぜこんなことがあったのか フィリピン教会の神徒に噂が 頼りが耳に入ってきたわけです。
パウル先生が今ローマに南京で本当に貧しくて 体もよくないし 本当に苦労しているんですって
そうしたらどうしよう 私たちのフィリピン教会で何かしてあげませんか
そういう話があって献金も集めて そして多分これは勝手なだけの推測ですよ
パウル先生がキリッと見たときに おいしく食べていた食べ物があったり
あるいは服とかそういうものを 必要なものをみんながそれを集めてくれて
でもここからローマまでですから 多いでしょう
拒否があるわけでもありませんし でも誰か行くんでしょう
そしてみんなの顔を見るわけなんですよね
誰かあなたがあなたが そんな感じで見ているわけですね
パウル先生が自分が行きますと言ったのか あるいは誰かが 山本さんあなた若いですね
男性ですね あなたが行ったらどうとするのかなと それはわかりませんよ
でも彼は喜んでみんなの献金を預かって 物を持ってローマまで行きましたよ
それで彼はもうフィリピン教会の代表として 使者として喜んでパウル先生に行って
献金もお渡しする また服とか物も差し入れして そしてしばらくパウル先生のそばにいて
12:03
お世話するつもりでした
多分最初はお世話をしたり 多分いろんなことをしていたんですね
多分その最大の場面をイメージしてみるんですね
エファーブロデッドさんがパウル先生に行って 先生 僕です
お エファーブロデッドさん 久しぶりだな お元気かって
フィリピン教会の誰々さん みんな元気? そうですよ 先生 元気ですよ
先生の献金も この先生の体格も これもできるんだよ わかりましたけどね
そういうふうに外して喜んでいたことに しかいないと思うんですよ
ところがしばらく いろいろエファーブロデッドさんが お世話をしていたんですけれども
大きな事態が起きてしまいました
なんと お世話するために行った彼が従業になって パウル先生に世話をもらっている立場になって
多分その狭いお部屋にパウル先生も そんな元気じゃなかったから
よく横になっていたかもしれません
その横にお世話に行った彼も横になって もっとすごい従業になっているわけなんです
大変なことが起きてしまいました
今日の見言葉を見たらですね 27つと見たら
彼は昨日ほども病気にかかりましたとあります
パウル先生を手伝うために 助けるために 世話するために行った人が
むしろ従業にかかって 死にそうなんです
狭い部屋ですよ
パウル先生も今日の見言葉からわかるように 急忙なんです
その中に何千二人が横になって 大変なことが起きています
心配を減らすために行った人が 心配を二倍三倍かけてしまうことになってしまった
なんということなんでしょう
だからですね ピリピン教会から見たら
彼らが願うことを正反対のことが 起きてしまったわけなんです
お世話のために行った青年が パウル先生に恐縮で
お世話をもらっている状態になってしまった
多分ですね このエファブレデトさんも 信仰のいい人だったからですね
俺は何しに国国に来たんだろう 申し訳ないなと自分は責めていたかもしれません
大変申し訳ないな パウル先生にも申し訳ない
ピリピン教会に行くことも もう決まってどうしよう
もう悩んで悩んでいて 途中にさらに悪くなっていたかもしれない
15:05
ある意味で このエファブレデトという人は
ピリピン教会の信徒の 期待外れの人でした
助けるところか 心配の上に 心配をかけてしまった悲しみに悲しみを
待ってしまったことになります
あるいは研究を渡しに行って その研究を自分のために
それが使われてしまったかもしれない
ところがですね このエファブレデトが助けに来て 重病になって
そのためにピリピン教会 パウル先生 エファブレデト
この三者の中の この関係を解決するために
パウル先生が このエファブレデトと 特にピリピン教会に書き送った手紙の中から
私たちは教会における あるいはですね
これは人間関係のとてもお手本のような 見言葉だと思いますけれども
大きくの二つの問題から 二つの教えが教えられています
まず問題は何が問題でしょうか
一番目の問題は エファブレデト 彼の問題です
たぶんですね 彼は自分自身も ものすごく責めていたかもしれません
パウル先生にも本当に申し訳ない
何しに来たんだろう
そしてピリピン教会の 誰々が 灯籠さんとか 顔が浮かんで
もう寝れなかったかもしれない
本当に申し訳なくて 自分を責めていたことに しらないと思うんですね
だからパウル先生は たぶん彼にも言ったと思います
この手紙から 今日の25節から30節の この見言葉から 誰もがわかるように
パウル先生は エファブレデト 彼が自分自身を責めないように
そしてもう一度立ち上がって
以前よりなおもっと 人と教会にお使いできるように
その願いを持って この手紙を 書き送ったと思うんですね
これがもうダメだ ダメだ 僕はもう
そういうふうに そういった声を聞かないように
神様 あなたを大事に聞いている
そして今日の見言葉にも 後からまだ話しますけれども
25節を見たら パウル先生は 彼のことを
私の兄弟 同僚者 親友 使者と ものすごく褒めて認めている
これはお世辞でない
本当にパウル先生の 心からの気持ちだったわけなんですね
それからもう一つの問題は 多分フィリピー教会の中にあっただと思うんです
18:05
それですね 多分噂がもう既に フィリピー教会に伝わっているんですよ
26節を見たら こういう見言葉があります
彼はあなた方すべてを 期待求めており
また自分の病気のことが あなた方に伝わったことに気にしているからです
気にしているんですよ どうしよう
でですね フィリピー教会の皆さんが
彼は何しにどうなっていたんだろう
情けないなぁ なんでね 言ってね
名誉が欠けて もう研究も無駄遣いして
彼を責めたり非難したりする 全員ではないでしょうけれども
そういう声があったに違いないと思うんですね
それでパオロ先生は これを励まして指導するために
この手紙の中にですね エファブロデトにことに触れて書いてある
さあ どういうようにパオロ先生は 指導しているんでしょうか
そこから教えていただきましょう
25節をまずもう一度 一緒に読みたいと思います
25節
従業になっている彼を フィリピーに送ることにしました
ところがこのままですね ただ送ったら 彼はそこに行って気まずくなってですね
もう離れてしまうかもしれない
受け入れられないかもしれない
それも祈って心配したパオロ先生は 親切に優しくこの手紙を書いてですね
彼のことをまず何と言いますか 兄弟と言っています
これはね 通り一遍のそういう言葉ではありません
最初はよく世話してくれた でも途中病気になって
自分の悲しみに悲しみを重なるようなことが ありそうでしたけれども
でも彼は私の兄弟ですよ
だが私たちは神の子供ですから イエス様と同じ兄弟ですから
だから兄弟だから決して非難したり 責めたりしないで
兄弟として受け入れてほしいという パオロ先生の願いになっています
皆さん 私の周りにも このエファーブロディットのような 兄弟姉妹があるかもしれません
あるいは私自分自身が このエファーブロディットのような
このフォローが必要な 教え合いが必要な人であるかもしれないんですね
21:02
あるいは期待外れの自分自身 あるいは誰々さんが 家族がいるかもしれない
でも彼らは 私自身自分自身は 変わることなく兄弟なのです
そういった兄弟姉妹 あるいは家族を
私たちは今日のですね パオロ先生のおすすめから
教えいただくとは29節を見たら 喜びにあふれて 急にやって彼を迎えてください
それから彼のような人々には 尊敬を払いなさいと言うんですよ
そうなんです皆さん フォローが必要な人
フォローしても惚れをしても お世話してもお世話してもなかなか変わらない
期待が多い人 期待外れの人 あるいは弱い人
そういう人がいるかもしれません あるいは自分自身がそんなものがあるかもしれない
そういう人々をどうしたらいいですか
喜びにあふれて迎えることです
嫌々じゃなくて しぶしぶじゃなくて 喜びにあふれて迎えること
それからそれだけでなく尊敬すること
これこそ皆さん 宿にある交わりの姿ではないでしょうか
これこそ教会 家族の姿ではないでしょうか
2番目は パオ先生は彼のことを 同楼者と言っています 同楼者
最初は良かったんだけれど 後からはあまり役に立たなかったから
同楼者じゃないわけではないですね
変わることなくパートナー 同楼者
本当に美しい この交わりの関係なんです
パオ先生は 彼に対する気持ちは変わることなく
彼は私の同楼者ですよ 自信を持ってお勧めして
これはパオ先生のマウコルでした 同楼者 パートナーです
たぶん これは後から知ってもらったパポロレトは
フィリピンに行って 涙したかもしれない
本当に迷惑かけたのに パオ先生は
俺のことを同楼者と言ってくれ
嬉しいな もうこっちにお仕えしようと
変わったのではないでしょうか
それから次は何と言っていますか
戦友と言っていますよ 戦友
何で戦友と言ったんでしょうか
それはですね 三十節を一緒に読みましょう
ここからお分かりになると思うんですね
三十節一緒に読みますね
なぜなら 彼はフィリピンの仕事のために
命の危険をおかして
24:03
彼は私に対して あなた方が私に仕えることのできなかった分を
果たそうとしたのです
この彼は キリストの仕事は何でしょう
それは福音宣教ではないでしょうか
その福音宣教のために 命の危険をおかして
死ぬばかりになったんです
ただずっとになったわけではないんですね
もうパオ先生をお手伝いして
福音宣教にして 病気になった
しかもフィリピン教会がしてもらえる分まで
彼が果たそうとしたわけなんですね
だからパオ先生は 彼のことを戦友と
心強い私の味方でしよう ということなんですね
それから二十節のもう一つの言葉は 使者と言っています
またあなた方の使者としてとあります
フィリピン教会の愛
フィリピン キリストの愛を代表するものです
皆さん フィリさんとはお互いに
イエス様の愛を代表する使者なんです
その愛を私たちは持って
家庭に 会社に 学校に もちろん教会の中に使わされて
その愛を代表して表すものなんです
そのためにイエス様が私たちに 愛を任せてくださったわけです
その愛を私たちは行く所々に
それを表す 示す 果たすべきなんですね
こういうふうにしてパオ先生は
パフロテと彼のことをどうか喜びにあふれて
一緒にやって彼を迎えてくださいとお願いしている
マジならフィリピン教会に
彼のことをちょっと悪い目で見ている
そういう人々があったようですね
彼は大きく慰められたでしょう
大きな失敗をして 多分脱卒して
教治して ダメだなと思っていたかもしれない
あれはフィリピンに行って
そこから街に逃げて
他の街に行ってしまったかもしれない
あるいは教会を離れてしまったかもしれない
それは分かりませんけどね
恥ずかしくて逃げたくなるでしょう
でも僕自らであるパオルは
彼がそういうふうに思わないように
そういうふうに思ってしまう誘惑から
彼を守りたかったんですね
そう思わないように 彼を守るために
それは神の視点です
神の視点からエパフロゲットも
27:02
自分自身を見るように
またフィリピン教会も
神の視点から彼のことを見るように
教えています
彼自身もフィリピン教会も
この世間の目で彼を見て
教化したりするのではなく
神の目でどこまでも哀れみと
どこまでも愛を持って迎え入れて
尊敬を払うように指導しているんです
多分ですね この手紙が送られて
その後フィリピン教会の
神父の見方も
エパフロゲットも自分自身を見る
あの見方も変わったことでしょう
これこそ皆さん 宿にある
交わりの姿であります
弱い人の重荷を
互いに担い合うことです
1キロしか
背負うことができない人がいます
50キロも
重荷を背負うことができる人がいます
そしたらですね
たくさん背負うことが
担うことができる人が
弱い人の荷物を
重荷を背負ってですね
お互いに担い合う
追い合うことが
宿にある交わりではないでしょう
世間の物差しで評価したり
評価されたりするのではなく
神の視点で
神の愛と許しと哀れみの目を持って
互いに感謝し合う
拭い合う
励まし合う
立ち合う関係が
イエス様が願われる
交わり兄弟姉妹の
関係ではないでしょう
皆さんは
自分自身はいかがでしょうか
今日の御言葉を通して
このパオルの愛と配慮
それからその背後にある
私たちの神様の陰になって
愛とご愛慮が
ここにですね
本当に溢れるほど
書かれているのではないでしょうか
エファーブロディット
彼は本当に
伝え外れの者でした
大失敗をしてしまいました
皆さんでも
誰もがですね
こういうエファーブロディットのような
失敗を
起こし得る者ではないでしょうか
誰にも失敗が
あるものなんですね
以前そのことがあったかもしれません
あるいはこれから
そういう失敗が起こるかもしれません
その時には私は
30:00
どうしたらいいんでしょうか
周りにそういう人々が
弱い人がいたら
どうしたらいいんでしょうか
もう一度29節を
一緒に読みたいと思います
29節です
ですから
喜びにあふれて
主にあって
彼を迎えてください
また彼のような人々には
尊敬を払いなさい
すごいことを
パオロ先生は言っていますね
伝え外れの者
弱い者
死のほどの病気になって
パオロ先生の悲しみに悲しみが
重なりそうな者
そういう者をですね
喜びにあふれて
彼を迎えてくださいと
勧めています
失敗したからといって
仲間外れしないでください
非難したり
責めたりしないでほしい
世間の目で評価しないでほしい
ということなんですね
昔も今も
この世の世間の評価は
どういう見方なんでしょうか
大体2つの部類があると思うんですね
1つは成果主義です
良い成果を出したら
立派な人
ダメな人
成功したか失敗したかが
この世の世間の評価の
物差しなんですね
会社でもそうですし
学校でもそうですしね
良い成績を良い格好を
良い開催でですね
何か実績があったりですね
本当にものすごく評価されて
標準もどんどんどんどんですね
伸びていく
ところが神の見方は
神様の物差しは
決してそういうものではありません
だから私はですね
この1週間にですね
日曜日以外には
世の中で暮らしているわけですから
そのまにか私の頭の中に
この世間的な
そういう見方がね
入り込んでいるかもしれません
そしてそれをそのまま持ち込んで
教会に来てですね
人を評価したり
あるいは裁いたり
あるいは褒めたり
しているかもしれません
私はですね
新学校の時に尊敬していたある先生がですね
こういう話をしたことがあります
教会に良いことが起きたら
それは全て神徒さんがなさったこととして
33:06
褒めて差し上げない
でも何か悪いことが起きたら
僕自身はそれを自分が背負って
歩みながらと言われてですね
何を言うなと思ったことはですね
新学生の時はありましたよ
でもなるほどそうだなと思うわけなんですね
でも世間的な命令ですね
教会も見られるわけなんです
例えば伝道はうまくできて
千年者の数が増えて
礼拝者の数が増えて
来席が増えたらですね
その教会の新徒さんあるいは役人さん
あるいは僕たちはですね
褒められるかもしれない
でもですね
毎年ですね
強制をね
それが出るある教会は
〇〇〇〇〇〇があるわけなんですね
そしたらこういうふうに
似ていないと私は信じたいんですけれども
ここはいまいちだなと
そうね
評価されるかもしれない
また世間の教科のものづきは
もう一つは犯人探しがあります
何か失敗が起きた
そしたらですね
誰のせいなのか
その失敗をですね
犯人探しがする
それが夢中になってですね
彼に追わせる
で、責任を持つ
これが一般の世間の評価ものづきなんです
でも神の評価は
神のものづきは
決してそういうものではありません
今日のパオロ先生を通じて
神様が私たちに教えてくださる
その愛の交わりは
このような期待外れのものも
失敗したものも
喜びにあふれて
主にあって
迎えて
尊敬を払いなさいという言葉です
この尊敬を払いなさいという言葉のニュアンスはですね
家様に対する
神様に対する尊敬の意味が
実はこの言語に含まれているんです
評価は
このような世間の評価ではなく
神の評価
神の味方をもって
お互いに配慮し合う
立て合う
励まし合う
慰め合う
そしてその体を一緒に立て上げていくところではないんじゃないでしょうか
そこでですね
今日配属していただきました
弁護者の書を開きたいと思います
9106ページ
弁護者の書第4章9節
36:12
9節から12節までですね
読みたいと思いますけれども
まず私が9節と10節読みますので
11と12節はご一緒にお読みしましょう
まず私が9と10節を読みます
1106ページです
9節
二人は一人よりも勝っている
二人が老くすれば良い報いがあるからだ
年坂が倒れるとき一人がその仲間を起こす
倒れても起こす者もいない一人ぼっちの人はかわいそうだ
一緒に
また二人が一緒に寝ると温かいが
一人ではどうして温かくなるの
一人なら家に任されても
二人なら立ち向かえる
三つよりの意図は簡単には知れない
皆さんこうなんです
一人が倒れたら
もう一人がその倒れた人を
なんでお前は倒してないの
じゃなくて心喜んで起き上がらせて
一緒に歩むことなんです
これこそ皆さん責任を共に負い合うこと
共に手を取り合って歩むことこそ
生徒の境界の麗しい交わりの姿ではないでしょうか
皆さん例えば体のどこかがテカテカとしましょう
足に大きなおできができたとしましょう
そしたらどうするんですか皆さん
足に行くかですね
お前はなんでおできができるんだろう
情けないねやめて
あるいは自分で自分を直せとは言わないでしょう
どうするんですか
早くドラクソに行くか
静かにいてそれを薬にもらったら
軟膏を塗ったり
その手が目が頭がその足を直すんですよ
それが境界なんです
互いに助け合うことこそ境界家庭なんです
だから不幸な境界は
不幸な境界は誰が失敗した
犯人探しをする
世間の目でですね
お前のせいだあなたのせいだ
なんでこうしたの
犯人探しをして責任を負わせる
39:00
しかし恵みに行って
精霊十万の境界は正反対です
何か失敗が起きたとしましょう
弱い人がいたとしましょう
そしたら共に悲しむ
共に喜ぶ
そして助け合って
どうしたらこれが
彼がもう一度立ち上がって
歩むことができるんだろうか
解決方法を考えて
一緒に祈り合って助け合おう
そこが幸いな境界
恵みに行った
精霊十万の境界ではないでしょうか
パオロ先生は
それを今この手紙を持って
フィリピン境界に
それから彼に教えているわけなんですね
でもですね
よくよく考えると
今パオロ先生は
サイバーを待っているわけなんです
結果的にですね
彼はパオロ先生は
ローマで死刑されたわけなんです
だからよく考えると
その死刑にあたる犯罪人を
手伝うために
お世話するために
そこに行くことは
死刑を犯すことなんですよ
ちょっとしたですね
お前も共犯者だろうってですね
刑を受けるかもしれないですから
でもそんな死刑を犯してでも
このパブロデトさんは
フィリピン境界の代表として
ローマまではるばる行ったわけなんです
たぶんですね
フィリピン境界の誰かはですね
私は行きたくないな
誰か代わりに行ってほしいなと思っていた人が
いたかもしれません
そんな死刑を犯してでも
パブロデトは
パオロ先生に行ってお世話した
その御言葉のように
彼は死刑を犯して
死ぬばかりになったんですね
なんと素晴らしいことでしょうか
パオロ先生にはですね
本当にどの牧師が見てもですね
羨ましいような道路者が
たくさんいたんですね
ルカもローマのあの一人
そばにいました
スギンいたんですね
ルカさんもいました
テモテもいました
このパブロデトさんもいました
あるいは以前はですね
プリスかアクラ夫婦のようにですね
もう自分を捧げてですね
殿堂する神徒さんもいました
その他にもですね
命を懸けてですね
もうこういう近所の
兄弟 道路者 繊維は
たくさんあったんですね
そういうですね パオロ先生
私は個人的にですね
牧会社選挙として
本当に私のロールモデル
模範ですけれどもね
42:00
こういうところを見てですね
時には羨ましいなと思う時が
時々あるんですね
それでですね
思うわけなんです
パオロ先生はやっぱりね
これほど愛の人であって
恵みに満ちた人だったから
これほども仲間が
親友が 道路者が周りに
たくさんあったんだろうと
それで自分自身はですね
それほどの兄弟 道路者 道路者 親友
パブロですと
プリスかアクラ ルカ
手持てるような仲間を持てる
そんな値打ちのあるものなんだろうか
自ら自分をですね
点検したりするわけなんですね
パオロ先生は彼のことを
喜びにあふれて迎えてください
尊敬を払ってくださいとですね
勧めています
なぜでしょうか
パオロ先生はどうして
こういうことが言えたんでしょうか
その背後のことを考えていきたい
パオロ先生は自分自身のことを考えたら
これは実は当然のことなんです
彼は以前どういう人だったんでしょうか
キリストを剥愛したものだった
彼が捕まった人の中では
ステファノのように
処刑された人がたくさんいたことです
そのような発害者
人殺しのような自分だったんですね
でもそんな自分が
神様から捨てられるはずの自分が
神様が一方的に愛してくださって
許してくださって
許してくださるだけではなく
人にしてくださって
キリストの承認としてくださった
その許し
その愛
憐れみを考えるならば
このエサブルトのことは
大したものではないんですね
だから彼はこのように
言えたのではないでしょうか
キリストの許し
憐れみの愛を
厚く深く体験したパオロは
その愛を自分も表しているんです
パオロも以前は
見事に失敗したものでした
でも彼がキリストに出会って
神のイエス・キリストの愛を
深く経験したから
パオロ先生は
エサブルトに優しく
忍術に愛を持って
触れることができたのではないでしょうか
ただしも今同じなんですよ
キリストになって
許されたものです
愛されたものです
イエス様がかぶるべき泥を
私たちがかぶるべき泥を
イエス様が代わりに
45:00
かぶってくださったわけなんですね
恥を
イエス様が代わりに
恥を見てくれたわけなんですね
その愛
憐れみ
許しに
パオロ先生は感動して感動して
だからこのように
接しているのではないでしょうか
私たちはいかがでしょうか
同じなんですね
キリストの愛
憐れみ
それを経験したものです
だから今私たちはここに
おるわけなんです
私たち自分自身も
死という罪の代価を
許された
許していただいたものなんです
このエサブルトがですね
この後
フィリピンに帰って
彼は一体どんな人になったんでしょうか
先生には出てこないから
わかりませんけれども
多分ですね
フィリピンの親父さんが
おう帰ってきたか
大丈夫よ
そしてですね
薬もですね
彼をですね
手当てしてですね
よくですね
喜んで受け入れたに違いないと思います
それでですね彼は
本当に皆さん申し訳ないです
もう泣いてですね
もうね
それでですね
お互いですね
泣きしまってですね
彼もですね
本当にパオロ先生
フィリピンの皆さん
本当にありがとう
それですね
もう一度ですね
病気が治ってからはですね
本当にフィリピン教会の
立派なですね
素晴らしい人物になったことではないでしょうか
皆さん
メッセージを終わりたいと思いますが
神の視点を持って
それは許し合い
憐れみの目なんです
その視点を持って
お互いを見る
お互いを尊し合う
迎え合う
そこが教会
家庭
それが主にある交わりなんです
岩谷教会が
皆さんがこのような
麗しい交わりを持つ
教会
神道というですね
良い評判を得る
我々でありたいと
願っております
お祈りします
47:18

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