1. 名谷教会
  2. 2013/01/06:聖日礼拝(旧音源)
2013-01-06 28:16

2013/01/06:聖日礼拝(旧音源)

2013/01/06 聖日礼拝(旧音源)


00:01
皆さん、おはようございます。
2013年の最初の聖日礼拝が、こうして捧げられていますことを感謝いたします。
御言葉の時が来ましたので、一言お祈りをして、今日の歌唱を書き、また続く聖三式のためにもお祈りいたします。
神のなさることはすべて、ときにかなって美しい。
すべてのことはあなた方のためであり、それは恵みがますます多くの人々に及んで、感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためで。
天の神様、こうして2013年をあなたが開いてくださり、最初の聖日にあなたに礼拝を捧げています。
あなたの御前にありますお一人お一人を今あなたが祝福して、そして新しい礼の注ぎ力を与えて、ここからお使わせくださいますように、
プログラムが一つ一つ祝福されていますことを感謝をいたします。
心から捧げるあなたへのこの祈りと、また献身と、そしてこの礼拝を清めてお受け取りくださるようお願いいたします。
また、あなたを信ずる信仰がますます深められ、強められて、そしてあなたをさらに信頼して、
主弟様を貸し顔として、また我が神主としてこれからも歩んでいけるように助けを与えてください。
また、その時が来ていますならば、主をどうぞまた新しい魂にあなたを信ずるその思いを与えてくださることを願っています。
全ては主の御業でありますから、私たちもあなたにゆがねひたすら祈っています。
全てのことはあなたの栄光が現れるようになるためであると、今日もそのことを覚えて今から御言葉をいただきます。
御言葉に託されているあなたの御思いを私たちも知ることができるように、どうぞ語るものをあなたが支え、
我に導いてくださって御言葉が一人一人の心に留まりますように、今日ここにこれらことを感謝をいたします。
事情があり、また弱気を覚えてこれなかった兄弟姉妹方のうちにもあなたが臨んでくださるようお願いいたします。
全てを御手にゆだねて、キューキリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
いつも礼拝を捧げてくださって、そして一つ一つのプログラムが祝福され感謝をしております。
その中にこの説教の時間があるんですけれども、説教者はいつも終わるたびに自分のその至らなさを反省をするんでありますが、
03:07
でも時々感謝もされるんです。
先生ありがとうございました。先生の説教のおかげで不眠症が治りましたという、
そういういわゆる説教といわば今日のテーマにあります。
目を覚ましていなさいというこのエピソードはたくさんあるんですね。
これはアメリカで聞いた話なんですけれども、大きな教会だと聞いております。
ご夫婦が来られて、そして説教者が前に立って、その二人が説教を聞いておられたわけですが、
奥さんの方は本当に目を覚ましてしっかりと説教者の方に目を向け耳を向けて熱心に聞いておられる。
ところがご主人様の方がどうもこっくりこっくりとなさっておられるという、
それを説教者も見ながら語っておったわけですが、
そして礼拝が終わって、そして説教者はその奥さんに声をかけて呼び止めました。
今日は礼拝に来られてありがとうございます。いかがだったでしょうか。
奥さんは本当によく聞いてくださって感謝をいたします。
でもご主人様はどうもつまらなかったようでしょうかというようなことでそのように言いました。
ところが奥さんは言いました。
違うんです先生。
主人は本当にいつも先生の説教を聞いていました。
そして私にいつも言うんです。
お前も一度は礼拝に行ってそして説教、神様の言葉を聞きなさい。
私はいつも断っていました。
どうしてもどうしてもと言うんで、仕方なく今日私が初めて来たんです。
そして初めて神様の言葉を今日聞きました。
実は主人は癌で余命に行くわけもありません。
ですから自分が生きている間に何とか妻に教会に行ってほしい。
礼拝を捧げてほしい。神様の言葉を聞いてほしい。
そういつも願っていました。
その時があって私も今日来ました。
主人がこっくりこっくり眠っていたのは薬の副作用なんです。
そう言いました。
そして奥さんは今日私は神様の言葉を聞いてそして信じたいと思います。
06:00
これから二人で礼拝を守っていきたい。
そういう証と一緒と聞いたことがあります。
そういう風にして礼拝の中で眠るということはあるわけですけれども、
いろんな事情があるんだなということも覚えさせられます。
私たちにはわからない、神様にしかわからないそういうことがあるわけですし、
それらすべてが神様の栄光が現れ、
そして一人でも多くの人がその神の御言葉に触れていただけたら。
そういう風に思うわけですね。
今日のテーマがこの聖書に基づいて目を覚ましていなさい。
そんなことであります。
目を覚ましていなさい。
いつも食事中起きていなさいという、そういうことではないと思います。
よく朝早く起きなければいけない。
そして朝6時に目覚まし時計をセットして、
そして眠るわけですが、6時になったらビンと鳴ります。
わかったわかった、もう起きないといけない。
そしてベルを止めて、もう2、3分ぐらいならいいだろうという風にして、
そして何か胸騒ぎがして目を覚ましたら、
もうなんと6時半に回っている。
そして慌てて2階から下に降りていくという人がいたそうです。
蒼天のそういう一つの思い出でありますけれども、
なかなか目を覚ましているということは大事なことでありますね。
これは決して起きていなさいということでもあろうかと思うんですが、
この魂の目を開いていなさい。
神様にいつも目を注ぎ思いを向けて、そして信仰を持って生きていきなさいという、
その内面のことを語っているんだろうと、そのように思うわけです。
私たちはマルコの福音書をずっと読み進んでまいりまして、
13章、14章あたりになろうかとしております。
マルコの福音書は16章ございまして、
神様の復活のところで終わっていると思うんですね。
今年は3月の一番最後がイースターだということですね。
教会のカレンダーでは3月の一番最後が、
09:01
願わくばその16章の最後、
そしてイースターにちょうど16章の神様のよみがえりの箇所がぴったりくれば、
これこそ神の栄光が現れるんじゃないかなと思うんですけれども、
またそうなれるようになんとか、
このマルコの福音書を読み進んでいければと、そのように願っております。
今はちょうどイエス様が十字架に架かられる前の時、
もう間近に十字架は迫っていますけれども、その前の時であります。
その中でイエス様が弟子たちに語った言葉、
今日は目を覚ましていなさいという言葉が何度も繰り返されて語られています。
31節の言葉。
この天使は滅びます。しかし私の言葉は決して滅びることがありません。
まず第一に、滅びるものと滅びないもの、あるいは別の箇所では、
朽ちるものと朽ちないものがあるということを天使は言うわけですね。
朽ちるもの、滅びるもの、崩れ去るもの、そういうものは私たちは現実に見ております。
前にあった建物が崩れて今は無くなっている、そういうものもあります。
形あるものがやがて朽ちて同級化し、そして無くなっていく。
これは世の常であります。
そのような朽ちるもの、滅んでいくもの、そういうものがあるわけですね。
それはもちろん自然現象として朽ちていく、古びていく、そして崩れ去っていく。
そういうこともありますけれども、人災ということもやはり大きな要素であるわけですね。
マルコの13章の7節、8節あたりにもそういうことが出ております。
戦争のことや戦争の噂も聞いても慌ててはいけません。
民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、そういうような人が争いを起こし、そして武器を使って破壊していく。
それによってあったものが無くなり崩れ去っていく。
これは人間の愚かなことであります。
それは食い止めることのできる破壊でありますから。
これは少しでも無くさないといけませんし、またそのように人間は進んでいくべきであるという、それは当然のことであります。
12:08
ただ、自然現象においては私たちの手の及ばないところがあります。
人間の手で何とか食い止めようと努力はいたしますけれども、それに及ばない大きな力が及ぶこともあるわけですが、
そういうふうにして形あるもの、今まであったものが滅び去る、崩れ去っていく。
そしてこの天地は滅びます。
私たちは今あるこの天地万物がいつまでもあると思いますが、聖書はそうは言わない。
この天地は滅びます。
そういうふうに言うわけですね。
やがてこの天地万物は崩れ去って、25節にもそのような有様が書いています。
星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
朽ちるもの、そして朽ちないもの、滅びるものと滅びないもの。
しかし滅びないものもある、朽ちないものもあるということを聖書は言っているわけです。
私の言葉は決して滅びることはありません。
滅びないものがここにあります。
それは神の言葉であり、私たちが今与えられているこの御言葉。
それは神御自身が永遠から永遠のお方、決して滅びることのない、朽ちることのないお方。
その中におられる神御自身は滅びることはない、朽ちることはない。
その神御自身の言葉自身もまた滅びることはない、朽ちることはない。
そして私たちは御言葉によってもう一つ滅びることのないものがあるということを知っております。
神は実にその一人をお分かりになったほどによく愛された。
それは御子を信じる者が一人として滅びることなく永遠の命を持つためである。
これは人、あるいは人の魂というのも滅びの道と永遠に続く道に分かれるというわけですね。
狭い門から入りなさい、その道は細く厳しいけれども、
そこに歩んでいくならば、やがて永遠の命につながるその道を歩むことになる。
それは決して滅びることはない。
しかし広く開かれた大きな道、みんながこぞって入っていくその門とそれに続く道は容易く歩めるけれども、
15:08
それは滅びに向かう道であるというわけですね。
神様はその滅びることを望まないで、永遠に続く、朽ちることのない命に至る道を歩むようにと願っておられる。
それが神様のご愛であり、そして御子を信じるその御子が滅びない道とその永遠の命を与える道であるということを言うわけですね。
では滅びるというのは何を言っているのでしょうか。
一人として滅びることなく、それじゃ滅びるとは。
それは罪の日払う報酬は死ですと聖書は言うわけですね。
魂の死、私たちの体が朽ちる、それは私たち全てに与えられるものでありますが、
そうではない。魂の死が滅びである。
その滅びの源にあるのが罪であるということですね。
ですからその罪から解放されて、救いに至るために神様が愛し、そして御子イエスキリストをこの世に送ってそれを信ずる信仰によって、
滅びの道から永遠に至る、滅びない、朽ちない道へと会いましてくださるその約束が聖書に記されているということ。
そのことを私たちはもう一度このところで信じて歩んでいきたいと願うわけですし、
また神様がそのように私たちに促してくださるように、またそれを信じる信仰に至らせてくださるようにと願うわけであります。
そして第2番目にこの天地は滅びますと。しかしというわけですね、その日その時がいつであるかは誰も知りません。
天の御使い達も子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
父それは天の父なる神様。よく言われる神のみぞ知るということですね。
天地は滅びます。これは聖書の宣言であります。しかしそれがいつなのか、誰も言うことはできません。
それは誰も知らされていないから。それを愛に言う人がいるならばその人は偽り者であり、勝手にいわばデマカスを言っているわけであって。
神のみぞ知る。これが聖書の宣言である。
18:02
ですから私たちは知らないのは当然であって、天の御使いも誰も知らない。神だけが知っている。天の父なる神様だけが知っておられる。
ですから私たちは色々なことを知ろうとします。今は情報の社会ですから、いち早く色々な情報を知りたい。
そして知っていないと何かが起き遅れしたり、ダメなんじゃないかと、そんなふうにさえ思わせられますけれども、
でも知らないこともたくさんありますし、あってもいいんだろうと思いますし、誰も知らないことはあるんだということですね。
神だけが知っている。そのことをここで宣言されているわけです。その時がいつであるかは誰も知りません。
父なる神のみぞ知るということですね。
しかしその時が知らないから私たちはどうしてその時に備えるのかというのが第三番目であります。
この13章の最後の後半の部分ですけれども、繰り返し繰り返し言われていることが、
気をつけなさい。目を覚ましていなさい。そういうことであります。23節、だから気をつけていなさい。
あとは33節、気をつけなさい。目を覚まし注意していなさい。
そして34節も目を覚ましているように。そして35節だから目を覚ましていなさい。
そして37節目を覚ましていなさい。繰り返し繰り返し目を覚ましていなさい。気をつけなさいよ。注意しなさいよ。
それはその日がいつ来るかわからないから。天地が滅びる時。その時は同時にイエスキリストがもう一度この世に来られるというその時です。
私たちはクリスマスをせんだって過ごしました。イエス様がこの地上に送られてきたそのこと。この福井の日だ。
やがて来られるというその時を待っていたその時が来た。それが約2000年前の出来事として福井の日イエスキリストが来てくださった。
そして十字架にかかられ、また神様の元に帰って行かれた。そのお方がもう一度来てくださる。その時は全てが明らかになる。
21:11
その時は誰もわからない。それはちょうど34節。旅に立つ人が出かけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番に目を覚ましているように言いつけるようなものです。
ところが門番はまだ主人は帰ってこないだろうと思っていた。いつ帰ってくるかわからないわけですね。
ところが不意に帰ってきた時に、それこそ眠っているのを見られて、主人に叱られることのないようにというわけですね。
いつ帰ってくるか、いつ主が来られるかはわからないからです。夕方か夜中か。庭鳥に鳴く頃か明け方かわからないからです。
それが不意に突然に襲ってくるから、備えていなさい。目を覚ましていなさい。
そして、いつも主と向き合って、神様に従い、神様のお言葉を頂き、礼拝を捧げて、祈りを持って日々過ごしていなさい。
目を覚ましていなさい。気をつけていなさい。それは決して難しいことではないと言うんですね。
いつ来るかわからないから何か特別なことをしなければいけないのか。そうではないと聖子は言うわけですね。
もし明日、キリストがもう一度来られるとするならば、今日あなたはどうしますか?という問いに対して、私たちはどのように答えるだろうか。
これは本当に問われますね。もし明日、キリスト様が来られると。いつかわからなかったと思って過ごしていたところが、明日という、そういうふうに突然知らせがあった時に、それじゃ今日、どのように過ごそうか。
いろんな答えがあろうかと思うんですね。あれをしておこう、こうしておこう、そういうようなあろうかと思いますが、最も良い答えは、いつものように生活をすることだ、というふうに教えられました。
それは、いつものように、今まで来てきたようにキリストにあって、キリストにふさわしく生活していたならば、そのようにしなさい。
見た目によってあえる生活をしてきたんだから、たとえ明日キリスト様が来られるとも、今日もいつもと変わらないように生活していきなさい。
24:08
今まで礼拝を捧げてきたそのように、今日礼拝を捧げ、そして明日キリスト様が来られても、私は変わらずに礼拝を捧げていた。
神に喜ばれる生活、それを今までしてきましたから、今日も変わらずにそのことをさせていただきます。
特別何か、明日キリスト様が来られるからといって、する必要はないんだ、というふうに教えられたわけです。
ですから私たちは、この滅びることのない御言葉に聞き、またそれに仕上がっていく生活、今までそのようにしてきた。
そのことをこれからも続けてさえいればそれでいいのだ、そういうふうに教えられるわけです。
天地は滅びます。しかし私の言葉は決して滅びることはありません。
この滅びない言葉と、そして神御自身に私たちが従っていき、またその御方を私たちの内にいただくときに、私たち自身も滅びることのないものへと導いてくださるんだ。
そのことを信じて、これからも会いましていただきたい。そのを願っています。
それではお祈りをして、清算祝儀をさせていただきます。
目を覚ましていなさい。気をつけなさい。注意していなさい。その定めのときがいつであるか、私たちは知らないからです。
天の神様、今日も御言葉を通してあなたの身胸を教えてくださり感謝をいたします。
私たちにはわからないことがたくさんありますけれども、しかし神様だけが来ておられること、そのことも今日知りました。
ですけれども、すべてをあなたに委ねますあなたが、神様をまた地上に送ってくださるときが必ずあるということを聖書を通して知りました。
でもいつその時が来てもいいように、私たちは備えていけるように。
そして霊の目を開き、あなたを見上げる日々を過ごさせてください。霊の耳を開いてあなたの声を聞くその日々を過ごさせてください。
27:09
またあなたに祈りを通して対話するその思いをいつも与えてくださるようにお願いいたします。
そして神様がもう一度来られたときにはそのことを喜び、そして新しい天地が目の前に開けることを感謝するものとしてくださるようお願いいたします。
御霊によってもう一度一人一人が今天に助けあげられて、その天の御国のその前端を今あげらせていただけるものとしてくださったことを感謝いたします。
ただ今からまた青山をいただきますけれども、
イエス様が十字架によって流してくださった血を、また咲いてくださったその肉をいただきますけれども、
そのことを通してもう一度イエス様のご苦難と私たちへの愛と希望を仰ぎ見ることができるように一人一人を助けてください。
イエス様の尊い御名前によって委ねてお祈りいたします。
28:16

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