1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/03/17:聖日礼拝(旧音源)
2013-03-17 35:09

2013/03/17:聖日礼拝(旧音源)

2013/03/17 聖日礼拝(旧音源)




00:01
皆さん、おはようございます。
礼拝でのサプライズといった感じです。ありがとうございます。
はい、プログラムが一つ一つ祝福されていますことを感謝いたします。
今日も御言葉をいただきますので、一言お祈りをいたします。
愛がないなら何の値打ちもありません。
愛がなければ何の役にも立ちません。
天の神様、今日のこの時を心から感謝をいたします。
聖日礼御自身がこの場にあって私たちを導き、またこの礼拝を共に導いてくださるそのことを覚えて皆を崇めます。
こうして私たちが心を込めてあなたに捧げていますこの礼拝を、
天において受け入れてくださり、またあなた御自身がこの場にあって御霊を注ぎ、また今日のこの幸いと祝福を与えてくださっていますことを覚えて皆を崇めます。
捧げられた賛美が祝福され、また祈りが今日も天に良き香りとして立ち昇っていますことを心から覚えて皆を崇めます。
また御言葉をいただく時が来ました。どうぞ御言葉を通して聖御自身が私たちに語ってくださるようお願いをいたします。
今日ここに共にいざすることができたことをありがとうございます。
夜明けを覚えてここに来れなかった兄弟姉妹方もおられますし、また避けられない事情があってここに来れなかった兄弟姉妹方もいますけれども、
神様がどうぞ一人一人に行き巡って、その場にあって息を覚え、交わりとなることができますようどうぞ助けてください。
今からの御言葉のひとときをも主が全てを導き、そして私たちに語ってくださりますように。
語るものは乏しくまた夜明けを覚えておりますけれども、主御自身が支えてくださり御言葉がお一人お一人の心に留まりますようお願いをいたします。
いつもと変わらず主はこの礼拝の主であり、この教会の主であることを覚えます。
偉大なる牧者として私たちがこのお方に従って参ることを今日ももう一度覚え、また献身の確認をして、それぞれにまた救わし下さいますようお願いをいたします。
使わされるところは変わりますけれども、同じ主を仰いで、またこのお方を礼拝して、それぞれが主と共に歩む生涯を全うすることができますよう導いてください。
03:03
今からのひとときゆだね、主キリストのお名前によってお祈りをいたします。
アーメン。
御言葉をいただきますけれども、その前に挨拶をさせていただきます。
礼拝の後、ハレルヤコーラスの練習がありますので、宗法にも少し書きましたが、短くまとめるにはなかなか難しいものでありますが、
2011年度と2012年度の主観牧師をこの教会で務めさせていただきました。
主のお守りと皆様のお祈りサポートに支えられましたこと、また礼拝賛美祈り交わりを共にさせていただいたことを心より感謝いたしております。
これからも明谷教会がいつも必ず共にいてくださる主を仰ぎみて、そして祈りを共に聞き、御言葉に養われ、あがての愛の交わりの中で、神を愛し隣人を愛する教会を皆さんが立ち上げていってくださるように、そのようにお祈りしております。
私は天人ということで、香川県の狸というところに使わされています。
狸じゃないですよ。狸というところなんですが、狸が出そうなそういう雰囲気もあります。
カエルはよく鳴くということだったので、別の言い方をすると、田園地帯というんでしょうか。そういうところに使わされてまいります。
いつもこの三度目の天人となるんですけれども、そしてその教会を出ていくときに、いつも思うのは、牧師はその教会に召されて、そしてその群れを牧するというか、牧会の方式があるわけですけれども、
よくよく考えてみると、牧されているのは自分であって、自分が取り扱われているということ、いつも思います。
その差なかでは分かってはいないんですけれども、改めて神様が私自身を取り扱っておられたんだ、そんなことを思うんですね。
そういう中でまた色々と学び、また訓練を受けた。分かっていたようで分かっていなかった。できていたと思ってもやっぱりできていなかった。
06:08
神様がもう一度やり直すようにと。そういうことでもありましょう。これはまた私のご愛意とまた御心であった。そのように受け止めて、そしてまた認知へと使わされてまいります。
そういう思いはすべて表せませんけれども、やはり一年間のことをすべて語るには一年かかるでしょうし、二年のことを語るには二年かかりますから、それは不可能であります。
またその辺は見た目によって皆さんも察していただいて、そしてまた同じ手話を以前、それぞれともにこの祝に従い、そして教会を立て上げていく。その方針にともに預かっていきたいと、そう願っております。
そして最後のお願いとして神聖歌の340番を持って送り出していただけたら幸いですということで、後プログラムのところにも340番をお願いしております。よろしくお願いいたします。本当にありがとうございました。感謝いたします。
さて、私たちは受難節の中にありまして、従者様がお苦しみを受けられ、そしてイースター復活へのその過程に今あるわけですけれども、いよいよ従者様が十字架におかかりになって、命を、その命が絶えてしまったという、そのところに来たわけであります。
君もそこにいたのかという賛美を持って押し出されてきました。私たちは今、このカリバリの山に上り、そしてイース様のこのおかかりになっている十字架の下に、跪き、そして死を仰ぐ一人に加えられていると、そのように信じております。
そのイース様が十字架におかかりになって命を絶たれた、その後どうなったんだろうかということが今日のテーマであり、その中に注目すべき一人の人物が登場している。
それがアリマタヤのヨセフという人であり、これは四つの福音書のすべてに記されていることであります。ですから、その四つの福音書を参考にしながら見ていくということも本当に恵まれることであります。
09:08
一つは、このアリマタヤのヨセフの勇気ある行動ということであります。このイース様の、いわば十字架にかかられたそのご遺体をそのままにしておいていいんだろうかということですね。これはそのまま放っておいていいわけがない。
本来なら家族や、あるいは親族、あるいは弟子たちが何とかそれをしないといけない。ところが頼みのこの弟子たちが全部逃げていってしまった。そういう状況の中、しかしそういう中にも新しい弟子が生まれていたということもここからわかるわけです。
その一人がアリマタヤのヨセフであった。ヨハネの福音書の中には、ヨハネの福音書の最初の頃に出てきたニコデモという彼も弟子になっていたということで。
そしてヨス様は十字架で命を断たれて、もうことを尽きたりと思いきや、何か別のところで新しい動きが始まっているという、そんな予感もさせられる、そんなところであります。
このアリマタヤのヨセフが何とかこのヨス様のお体を引き取りたいと思ったわけです。しかしこれには大変な勇気がいったろうと、そのように想像するわけです。ヨハネの福音書でもそんなことが書いてありました。
ヨハネの福音書の19章の38節。イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れて、そのことを隠していたアリマタヤのヨセフがイエスの体を取り、片付けたいとピラートに願った。
総督ピラートに何とかこの引き取りの許可をもらわないといけない。しかしお前は一体何者だというようなこともありましょうし、実は自分はイエスの弟子になった者だということも言えず、もし言えばまた弟子たちと同じように疑いをかけられる、そういうことも考えられます。
マルコでは先ほども読んでいただきましたように、思い切ってピラートのところに行きたい。このアリマタヤのヨセフにとっては本当にこの勇気のいることであった。そんなことを思うんですね。
12:04
しかし彼の思いの中には、このままイエス様を十字架の上に放っておくわけにはいかない。何とかそれを引き取って束に納めたいという、そういう思いが彼の中にあったということ。私たちはすでに御言葉を持って教えられています。
愛は恐れを取り除く、私たちの中に起こるその恐れ、不安、そういうものをヨセフも持っていた。しかし彼は、主を愛するというその愛に押し出されて、何としてでもイエス様を引き取りたいという、その愛に押し出されて彼はこの総督ピラートに引き取り方を願った。
そのことを福音書は言っているわけであります。
ただこのヨセフという人物は、この議員でもあった。有力な議員でもあった。人格的にも素晴らしい人であった。そういうようなことを想像すると、これが幸いして、お前が言うならそれもいいだろうというような許可を与えられたという、そんなことを思うんですね。
主の山に備えありと言われるように、勇気を持って愛に押し出されて踏み出す時に、そこに主が既に備えをしてくださって、そしていいだろう、それじゃあこのイエスをお前に与えようという許可が下りたということ。
本当に私たちも励まされる箇所ではないかなと思うんですね。
愛によって押し出されたその技は必ず主がそれを守ってそのようにしてくださるんだ、その確信が与えられると思うんですね。
私がこれまでのいろんな経験の中で、体験として教えられていることは、一つの戸が閉ざされる時、別の戸が開かれるということをよく経験することがあります。
あるいは一つの戸を無くす時に別の戸が与えられる、そんなことも言えるかと思うんですね。
主の山に備えあり、神様が必要なものはその時その時、相応しく備えていてくださるんだ、そんなことをこのアリマサヤのヨセフから学ぶわけです。
二つ目に、このイエス様が収められた墓についてのことであります。
アリマサヤのヨセフは、イエス様の体を引き取り、そしてどうしたのか。
15:08
それを、マルコの福音書はイエスを取り下ろして、その天布に包み、岩を掘って作った墓に収めた、というんですね。
この墓に収めたという、この墓は実はこれはルカの福音書の中にあったんですが、
自分のために作っておいた墓、そしてまだ誰もそこに当然収められていない真っさらなその墓。
おそらく岩をくり抜いて洞窟のような形になっているんだろうと、このように想像しますが、
自分のために作っておいた墓、そしてまだ誰も使ったことのない真っさらなその墓を、このイエス様のためにそれを捧げたと言えるんです。
ヨセフにできることの精一杯のこと、彼はここでした。
先座っても争点でしたか、その中で御言葉をいただきましたが、金銀を私にはない、しかし私にあるものをあなたにあげよう。
物恋が求めているそのものに応じることはできない。ないものを捧げることはできない。しかし自分にあるものをそれじゃあげよう。
ありまたやのヨセフにとって、今この場にあって、この愛するイエス様に対して何を自分は精一杯のものとして捧げることができるだろうか。
そのことを考えたときに、誰かの墓、あそこにある墓、こっちの墓じゃない、自分のために岩を掘って作っておいた真っさらなこの墓をイエス様に捧げて、
そこにイエス様を葬ったということ、そんなことをこの福音書から私たちは覚えるわけですが、これはありまたやのヨセフの主エスへの愛と彼の信仰から来ているわけであります。
私たちは既に主に対してウイゴを捧げようというその旧約からのそういう忌ましめがあるのを知っております。最初のものを撮放、ウイゴをまず神様に捧げるという、その信仰がこのありまたやのヨセフにもあったんだろうと、そのように想像するわけですね。
いとも良きものを君に捧げようという賛美がありますけれども、ヨセフの思い、このイエス様に一番良いものを捧げよう、それがこの墓にイエス様を納めるということであった、そんなことを思うんですね。
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私たちもこの礼拝において、今この時何を主に捧げましょうか。いとも良きものを主に捧げるというその思いとその信仰、そういう思いがあったならば、賛美をする時には私の精一杯の賛美、これを主に捧げよう。
祈る時にも精一杯の心からの真心の祈りを主に捧げよう。そうして礼拝をしていくということですね。
もちろん主に良きものを捧げよう、もっと良いものを、もっと良いものを、そう願って私たちは日々そのための学びであったり、あるいは訓練という言葉が厳しいのであれば練習ということをして、さらに良きものを主に捧げよう。
そして十戒の中で貪ってはいけないという忌ましみがありますけれども、この神様のためにあれもしたい、これももっと学びたい、そしてもっともっと自分を訓練を受けてもっと高めていただきたい、そういう意味の貪りはもっともっとしなければいけない。
もっともっと十字架を貪って、そしてこの主に喜ばれるものを捧げよう、そういうことが主に求められているだろうし、私たちの務めではないかなということを思うんです。
新しいもの、そして老い後初めてのものを捧げる、それが主に喜ばれるものである。
私たちが日曜日の朝こうして礼拝を捧げる、これはイースターの時にまた学ぶと思うんですけれども、主が復活されたそのことを覚えるために、記念としてそのようにしている、そういう意味があります。
しかしもう一つ別の意味で、初歩、老い後をまず神に捧げるという意味においては、この一週の最初の時、一週間の最初のこの始めの時を主に捧げる。
そこからこの一週間が主と共に歩む日々が始まるんだという、そのことも覚えさせられるわけです。
この有又屋のヨセフが、ヨセフ様を引き取り、そして新しい墓に、自分のために掘っておいたその墓にヨセフ様を葬ったということ。
21:09
そのことを通して私たちは、この信仰に私たちも習いたい、そう思うんです。
三つ目に、マルコの福音書の、先ほど読んでいただきました中に、その墓に収めた、そして墓の入り口には石を転がしかけておいた。
おそらくこの石というのは、大きな石、重い石、一人では到底動かすことのできない石。
この有又屋のヨセフは、金持ちであり、有力な議員であったということで、主要にも何人か持っていたと想像するならば、
人を何人か連れてきて、そして何人か何十人か知りませんが、その大きな石を転がして、そしてこの墓の入り口にそれを置いたということ。
いわば封印をしたということですね。この中にイエス様を納め、そして誰もその中に入ることのできないように封印をして、
そしてその中でイエス様と父なる神様と聖霊が三位一体の神がその中で交わることのできるような、そういう場を彼が提供したと言えるわけであります。
この墓の入り口に大きな重い石を転がしかけておいた、それを封印という言葉が相応しいのではないか、そのように思うんですね。
この封印という言葉は、例えば封筒の中に手紙を入れて、そのままにして出す人はいないと思うんですね。
それをしていないと途中で中のものが出てしまって、誰かがそれを読んだりなくしてしまうといけないので、封印というものをするわけですね。
そういう意味でのこの封印、その手紙を書き、そして封筒に入れ、シールをして、そして初めてそれが完成する、そういう意味の封印。
ですからこの墓に収め、入り口に大きな石を転がして封印をした、それでありました。
24:11
私たちのいろんな場面場面での封印ということを考えたときに、祈りにおいての封印というものもあるということを思うんですね。
私たちが最初に祈りを教えられたときに、誰にも最初は言うんです。いや祈れません。私はもう祈りなんてできません。そういうふうに誰にも誰でもが言うんです。
しかし今5年経ち、10年経ち、20年経ち、その言っていた人たちが本当にこの礼拝で祈りを捧げ、あるいはどんな時にも立派に祈りをなさっている、そういう姿を見るんですね。
でもその人も最初はお祈りをお願いしますと、いやいやもうできませんと言っていました。
そしてその後、祈り、あるいは願い、感謝、あるいは神様に聞いていただきたいこと、そういうのを全部神様に申し上げる、あるいは捧げて、そしてその祈りの最後をどうするか。
そのままであってはいけないということですね。その祈りに封印をするという意味で、主イエス様のお名前によってこの祈りを捧げます。主の皆によって祈ります。それが封印なんですね。
それをもって主にその祈りを捧げたということが完了するということ。このイエスキリストの皆によってこの祈りを天の騎士になるために捧げる。それを精霊御自身が全て導き、そこに三位一体の神様の名座がなされていくという。
これが私たちの祈りの姿であります。イエスキリストの名、それに権威があるわけですね。その権威のある名前をもってその祈りを封印して神に捧げる。
もう一つの封印ということで導かれることがあります。それは十字架であります。十字架はイエス様が私たちの罪の身代わりとしてかかってくださった。そして私たちが浮くべき本来罰をイエス様が身代わりになって十字架についてくださって、私たちの罪がそのことによって許されたということ。
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そのことを思うんですね。このイエス様が十字架にかかられているのを見た一人の人、それがローマ兵であったのかもしれない。本当にお前が救い主なら、その十字架から降りてこい。そしたら信じてやろうというような罵りをしたわけですが、イエス様は何でもできるお方です。神でありますから。
しかし、イエス様はそうはなさらなかった。イエス様はこの十字架につけられてこの救いを全うする、それこそ使命があったわけですね。ですから十字架から降りないで、そしてこの罪の贖いの業を全うなさったわけです。
私たちは十字架を仰ぐ時に、それは私の罪の贖いのためであった。そのためにイエス様がお苦しみを受け、命をもって私たちのこの罪深い私を許してくださった。それが十字架であります。
その十字架と封印ということを御様によって導かれていく時に、十字架というのは一体何だろうか。それは大きな荒削りの木を二つ用意して、それを縦文字に重ねて、そしてそこに貼り付けにするという死刑の道具であるということは学びました。
しかしこの十字架は、そこに私たちが罪人が付けられている。そのことを思う時に、この十字架の中に全ての私の皆さんのその罪の一体が、あの十字架の中に封じ込められているんだ。そのように導かれるんですね。
あの十字架の中には私の罪、あなたの罪、皆さんの罪が十字架の中に全部閉じ込められている。その上にイエス様が貼り付けにされている。手に足に釘付けされて、そしてそれが封印ではないだろうか。
そうでなければ、イエス様がそこに封印として付けられなければ、そこに閉じ込められた罪がまた出てくるかもしれない。イエス様が釘付けされたというこの封印によって、そこに閉じ込められた罪の一切はもはや出てくることはないように。
30:06
そのためにイエス様が十字架の上で、私たちの罪の一切をこの封印に閉じ込めて、もう二度とその罪が出てこないように、イエス様は封印となってくださった。そのように導かれるわけです。
アリマタヤノヨセフがイエス様を墓に収め、そして大きな石を入口に転がして、そして封印したという、そういうところから十字架のこのお恵みをもう一度私たちが今日導かれて、
そして私たちが、イエス様が十字架についてくださったことの意味をもう一度改めて覚えて、この十字架を日々仰いで、そしてこのお方に従って参りたいと思うんですね。
誰でも私についていきたいと思うなら、私にイエスキリストについていきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を覆って我に従いなさい、十字架を見る時に。
そこに自分の罪が封じ込められ、それだけではない、その上にイエス様がかかっておられるその姿を見るように、私たちが瞼を閉じて、そして祈る時に、私もそのイエス様がかかっておられている十字架のその下にひざまずき、イエス様を仰いで。
このお方こそ我が神、私の罪を贖ってくださったお方なんだということをいつも覚えながら、また私たちが罪過ちを犯す時にも、そこに意思さえすればいいのだ、そのところでもう一度イエス様の十字架を仰いで。
そしてもはや私の罪とかの意思さえが二度と出てこないように、イエス様が十字架にかかっていてくださるんだということを覚える、そのような日々をありませていただきたい。
またこの十字架とその福音を多くの人に伝えていく、その使命を全うしていきたい、そのように願います。
お祈りをいたします。
33:01
天の父なる神様、今日も二言葉を通して、あなたの恵みを覚えたことであります。
ありまたやのヨセフが勇気をもって願い出たことを覚えます。
私たちにも愛をもって推しに出されるこの勇気を与えてください。
一歩踏み出す時に、主はそのところで必要なものを与えてくださるその信仰に立つことができるように、どうぞ導いてください。
またヨセフが主にこの墓を提供したように、私たちもさらに良きものをこの主に捧げていく、そのようなものとしてくださるようお願いいたします。
また大きな重い石が封印として立てかけられたそのことを思いますけれども、主はそれで終わられるお方ではありません。
主が弟子たちに残したあの予言の言葉を私たちももう一度思い出すことができるように、やがての時イースターのその復活の喜びに預かることを私たちはすでに知っておりますけれども、
しばらくはこの主のお苦しみと、そして十字架にかかってくださったその意味をしっかりと覚えて、そして主との交わりとの中で、この十字架の恵みをたくさんいただくことができるように、一人一人をどうか主が支え、導きくださいますように。
この今日の御言葉のときを感謝し、皆様の尊いお名前によってお祈りを致します。
アーメン。
35:09

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