完璧主義の考察
はい、皆様おはようございます。片付けコンサルタントのまっちゃんです。
このラジオでは、シンプルに自分の日常をちょっとだけ、機能より好きになるための学びをシェアしていきます。
はい、皆様いかがお過ごしでしょうか。
今日はですね、日本の民族学のちょっとハレとケの話と結びつけてですね、ちょっと完璧主義、完璧ということについてお話をしようかなと思います。
なんでかっていうと、片付けとか家事とかで、皆さんを悩まされることって、完璧にできるかどうかっていうところが一つあると思うんですよね。
私も極端に全てにおいての完璧主義っていうのは、あまりありませんが、長女ということもあり、これぐらいは自分でできるだろうみたいなラインはやっぱりあるので、
自分の中でこれぐらいはできてほしいなとか、これぐらいはやりたいなとか、これぐらいは綺麗であってほしいとか、これぐらいは自分はできる能力があるはずだみたいなラインができないときにやっぱりちょっと落ち込んだりすることがあるんですけど、
昔よりかはね、そういう時に落ち込まなくなったんですが、それは完璧よりも、よりもっと大切なことがあるっていうことを自分で再認識して、その完璧より大事なものっていうのは何なのかっていうのをいつも思い起こすようになったからなんですよね。
なので今日その話をしようかなと思います。というわけで今日のテーマは、日常に完璧は必要なのかどうかっていう話をしようと思います。
最近結婚式をあげたので、結婚式ってすごい学びが多かったので、ずっとこの結婚式での学びのトークっていうのは続くと思いますが、結婚式っていうのはまあ一つのイベントですよね。
お金もかかってるし、プロの人もたくさんいるイベントです。なので関わっている人たちっていうのはお花のプロだったりとか、司会者もお話のプロですよね。
料理を作ってるのはご飯のプロですし、ご飯配ってるのもそこの料亭とかね結婚式場で働いているプロです。私お金をいただいて働いている人はみんなプロと認識しているので、やっぱり結婚式っていう一つのイベントに関わる人たちっていうのはお金をいただいてやっている方々なので、やっぱりそれなりのクオリティーを持ってくるわけですよ。
結婚式場の装飾とかご飯とか、言葉遣いとか、カメラマンの方だったりとか、誰も無償でボランティアでやってるわけではないので、やっぱり仕事でやってるから皆さんの出してくるクオリティーっていうのはやっぱりすごいんですよ。
いわゆる完璧というものですね。これは晴れ時計で言う晴れの日、日常に当てはまることなんですよね。日本の民族学で言う晴れのところに当てはまるわけですね。観光祭とか祭りとか、なんか特別なイベントみたいなところですよ。
その世界の完璧っていうのはやっぱりすごいハイクオリティーなものがありますよね。私も神父として結婚式という晴れの世界に登場しましたけど、その時の自分もやっぱり非日常でしたもんね。
プロの方にお化粧していただいて、プロの方に服を着させていただいて、服も非日常なドレスのものだったので、やっぱり自分の中でのマックスというか、完璧だったんですよ。プロの方の力を借りてね。
私はそれを体験して日常に戻った時に、あのレベルをね、例えばメイクさんにメイクしてもらったレベルとか、服装のレベルとか、あの時の食べ物のレベルとか、装飾のレベルとかを日常でできるのかな?みたいな。
あのレベルの時の自分とか、あのレベルの時の自分のコンディションの持ってき方とかを日常でできるのかな?ってすごい考えたんですよ。片付けコンサルタントとして。考えた時に無理って。そんなの難しいでしょって思ったんですよ。
やっぱり日常って、ハレト家のね、家の日常って、非日常の時のレベルのワクワク感とか、完璧さとかを求めるものじゃないなって思ったんですよね。
これはドイヨシハル先生、料理研究家のドイ先生も言ってますけど、料理も特別な時に出すような料理とか、お店でプロの方が作る料理と、日常で作る料理っていうのはもう前提からして違うっていう話をね、よくされてたんですよ。
ドイ先生も、もともとお父様がね、日本料理の方ですけど、ドイ先生はフランスで修行されたりとかして、もともと家庭料理をやってた方じゃなくて、プロの世界で料理をしてて、お父さんのドイマサルさんでしたっけ?ちょっと名前忘れちゃいましたけど、
お父さんの料理のところを受け継ぐために家庭料理の世界に入ったから、プロの世界とお家での普通の毎日やる家の家庭料理の世界を両方見てる人なんですけれども、やっぱり全然違うって話はされてたんですよね。
ハレとケにはそれぞれね、それぞれの世界の中の美しいとか完璧っていうものはあると思うんですけど、そのハレの世界の完璧とか美しさとかをケの世界に、日常の世界にそのまま持ってくるのは、そもそも別物だからそれは間違っているってドイ先生は前よくおっしゃってて、
私もそれ結婚式を体験してすごい思ったんですよね。確かに結婚式とか非日常の世界観ってのすごく美しいし、プロが作り上げてるから完璧ですし、細かいところまですごく巧妙に作り上げられてるものんだけれども、
それを日常の、例えば家事の料理とかね、お片付けとかお部屋の作りとかを日常の中で再現するっていうのは、やっぱりちょっと違うのかなって思うんですよ。
なんでかっていうと、日常っていうのはお金をもらってプロが作り上げるものじゃなくて、私たちが自分のために作り上げるもので、イレギュラーも起こるし、毎日淡々とこなしていくっていう言葉もあるんですけど、毎日淡々としていくものなんですよね。
日常の美しさ
その淡々っていうのは悪い意味の淡々じゃなくて、良くも悪くも生きていくために続けていくっていうことだと思うんですよね。ご飯もそうだし片付けもそうだし掃除もそうだと思うんですよ。淡々と昨日も今日も明日も生きていく営みとして淡々と続けていくものだと思うんですよね。
そこで完璧にご飯を作るとか、完璧に部屋をきれいにするとか、完璧に掃除をするっていう、その完璧にするとか、ものすごく美しくするとか、そういうものが大事な世界観じゃなくて、それよりももっと大事な核となる、
例えば人と一緒に住んでいる家族と幸せな時間を過ごすことが本当の核だったりとか、自分が豊かにその日を過ごせることがすごい核だったりとかすると思うんですよね。
料理自体がとか掃除自体がとか片付け自体を完璧にすることがそこで求められることだったりとか、完璧に美しくすることが求められることじゃなくて、それはあくまでいつも手段であって、健康的にご飯を食べて、少しでも大切な人たちと長生きをしたいとか、
少しでもその日一日をありがたく思えて、整えて、豊かに過ごせることが目的だったりとかするみたいな、そんなに完璧じゃなくていいんだよ日常はっていうことをね、今日はちょっとお話ししたいなと思ったんですよ。
日常の中にも絶対的に美しさとかね、あるんですけど、それは非日常の美しさとは全然わけが違ってて、本当にきらびやかで細部までこだわってて、プロが入って完璧でっていう美しさじゃなくて、なんかちょっとほころびのあるような、ちょっと崩れてるような、ちょっと生活感があるような、そのままの自然であるっていうこと。
生活をしているというそのものが、私は美しいなって思うんですよ。
で、例えばこれを料理で表現するとすごい伝わりやすいと思うんですけど、
卵焼きを作った時に、卵焼きを晴れの日のおせちとかでお弁当箱に入れたりするときで、卵焼きを作って焦げたりしたら、焦げてるところちょっと避けたりとかね、端っこ切ったりとかして、完璧な形を作ってね、お弁当箱に入れると思うんですけど、
日常で卵焼きに、例えば完璧を求めると焦げたことをちょっと責めてしまったりとか、焦げたところを避けてないものにしたりとか、端っこを、卵焼きだったら捨てないと思いますけど、捨ててね、形を整えて出したりすると思うんですよ。
でもそれを日常でやるってことは、大変ですし、余分なゴミが出たりとか、よく見せるために余分な工程が入ったりとか、ちょっと取り繕うというか、大変だと思うんですよ。
プロが作るお弁当と、自分が作るお弁当はまたちょっと違いますからね。
でもこの晴れ時計が最近いろんな、多分SNSの影響もあったりとか、多分SNSの影響が大きいのかわかんないけど、混ざってるような気がして、
晴れの特別なことを日常の中でやらなきゃいけないとか、そのレベルを求めなきゃいけないとか、そのレベルに憧れてそれを毎日やらなきゃ自分はダメだみたいな考えになりやすいと思うんですけど、
日常っていうのはもっと雑でっていう言い方はあれですけど、もっとシンプルで、スペシャルじゃなくてもよくって、特別に綺麗じゃなくてもよくって、淡々とそのままで一生懸命やっていくことが美しいっていう世界だなって私も思うので、
片付けも、ホテルとかモデルルームとかレストランとかってすごい素晴らしい装飾で、物に埃も被ってなくて、綺麗で憧れるのはすっごいわかりますし、
そういうお部屋に住みたいっていう感覚もすごくわかりますし、そういうお家に住む方法もありますし、そういうお家に実際住んでる人もいると思いますが、あれを日常のレベルでやろうと思ったら、それを管理するものが必ずいますし、それなりのそこに費やす時間っていうのも必要なので、
それを本当は自分がやりたいことなのか、別にそこまでやらなくても、それ以上に大切なこと、部屋を完璧に保つよりも、そこに住んでる人とおいしくご飯を食べたりとか、そこに住んでる人にイライラせずに会話ができたりゴロゴロできたりすることの方が、
もしかしたらあなたが求めていることかもしれないし、みんなが大切にしていることかもしれないので、日常で完璧っていうのは、自分を苦しめるぐらいだったら手放したほうがいいなって思います。
私もね、結構一つのことに固執しやすいというか、例えば片付けだったら、絶対ここはずっと綺麗にし続けなきゃいけないとか、ここには絶対プリントを置いてはいけないみたいな感じになりやすいし、持ち主ですけど、いつもそういうときに、例えば人にイライラしたりとか、自分が落ち込んだりするときは原点に戻ります。
なぜそこを綺麗にしたいと思うのか、なぜかっていうと居心地よく暮らしたいか、なぜ居心地よく暮らしたいかっていうと、例えば相方とその日一日を穏やかに過ごしたいからとか、その先の絶対核となる自分が大切にしている目的があるはずなので、
部屋を綺麗に片付けることも大事ですけど、部屋を綺麗に片付けなくても案外、その先に叶えたいことっていうのはすぐに手に入れられたりとか、どっちの方が大事だったりすることもあるよっていうお話を今日はしたかったです。
なので日常に完璧っていうのは、時には手放した方がいいよっていうことと、完璧じゃなくても美しさはそこには日常の中ではあるよっていうお話でした。
ジブリと日本文化
まさにジブリの中の日常のシーンとか美しいなって思う時があるのは、あれはやっぱ全部揃ってなくて、雑多の中にも日常感の中にも美しい何かがあるなっていうものが映像に現れているのがまさに私はジブリだとすごい思うので、
そこは多分日本の文化を好きな人にとっては共通点なんじゃないかなと思います。これはもしかしたら国によって違うかもしれないけれども、少なくとも日本の民族学では非日常と日常、晴れ時計の考え方があって、私はこれはすごい面白いなと思うし好きだなと思うので、
日常を完璧にすることに疲れている人がいたら是非この考え方を知ってほしいなと思いました。
はい、というわけで今日はここまで聞いてくださりありがとうございました。また次回のポッドキャストでお会いしましょう。では皆さまもまた次回のポッドキャストでお会いしましょう。