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BGMが聞こえているのかな?
それではスタートです。お昼のだらだら読書ライブです。
お昼の読書タイムにライブでやってみようと思って、今セットしたところなんですけど、
ときどきお昼に読書ライブをやってみようかなと思います。
今日の本はですね、江戸はスゴイという堀内美須さんという方の本を読んでいるところなんで、ちょっと面白そうなんですよね。
世界が驚く最先端都市の歴史文化風俗ということで、今表紙をサムネイルにしてるんですけど。
浮世絵などビジュアル満載と、そんな逸話が。
家康公が礎を築いた庶民が生き生きと暮らす江戸の街は終わんないということで買ってきたんですけどね。
本書は半本木版で印刷された本や浮世絵など、江戸人によって描かれた絵画資料を駆使して、皆さんに庶民が主役の江戸の街がいかにスゴイ場所であったのかをご覧に入れようという思考になっています。
絵画資料をパラパラ斜め読みしていただくだけで、当時の息遣いが感じられるのではないでしょうかということですね。
なお、文庫版のために特別に書き下ろした番外編では、江戸にやってきた徳川家康の思惑と称賛について考察しています。
面白いですよ、これ。
堀口増美さんか。
YouTuberって書いてありますね。
初め、江戸の学者かなと思ってたんですけど。
ちょっと見てみましょう。
堀口増美。
東京都足立区生まれ。
タレント作家歴史YouTuberって書いてありますね。
明治大学文学演劇学専攻で歌舞伎師を学ぶ傍ら。
すでにそこで歌舞伎師を学んでる。
文学座付属演劇研究所で演技の勉強を始め、卒業後は女優として舞台やテレビドラマに多数出演だって。
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一方、2008年に江戸文化歴史検定一級を最年少で取得すると、
江戸に詳しすぎるタレントイコールオエドル。
アイドル。アイドルなんですね、これね。
アイドルをオエドルとして注目を集めて書いてあります。
注目を集めてたんだ、この人。
執筆イベント講演活動にも精力的に取り組む。
主な著書に、吉原はすごい、歌舞伎はすごい、以上PHP新書、徳川十五、創始者、浮世絵十七、中京出版、江戸百書館、
これ全部英語なんです、ローマ字なんですけどね。
新鮮組グラフィティ1834、1868などがあるということで、江戸260年の歴史のいろんなところにも詳しい方なんですね、この方ね。
はい、僕全然知らなかったんですけど、この方。
なんかね、ちょっと読んだんですよね。読んだ時にすごく読みやすくて、また語り口もね、すごくこう、あの、なんていうの、
現代風の語り方で、へぇーと思って読んでたんです。
で、ブログみたいにね、時々太字が結構あるんですよ、強調文字がね。
ブログ読んでるみたいだなと思いながらね、読んでたんですよね。
で、この方、学者とか研究者だったらすごい表現力だなと思ってたら、学者とかじゃなくて、YouTuberだったんですね。
ちゃんとそれもちゃんと勉強されたYouTuberだったということで、
おもしろいなと思ってね、こういう方がね、著作をいっぱいされるって、いいなぁと思いますね。
で、ちょっと文庫版前書を読んでみたいと思います。
こんにちは。この本を手に取っていただきありがとうございます。
著者の堀内真杉です。早速ですが、あなたは江戸時代ってどんな時代だったと思いますか?
もしかすると武士や一部の金持ちが威張っていて、庶民が虐げられた暗黒時代だったんでしょう?というネガティブなイメージを持っていらっしゃるでしょうか?と。
いやいや、とにかくエコの循環型社会だったんでしょう?というポジティブなイメージでしょうか?
時代劇や落語がお好きの方は、よくは知らないけどなんだか素敵な時代だったんでしょう?という漠然としたプラスイメージを持っているかもしれませんね。
あるいは学校で勉強しているけれど、つまらなくて全然頭に入らないという学生さんもいるかも。
きっと住人トリロの江戸時代感があることでしょう?と。
まあそうでしょうね。
私は江戸時代はすごい時代だった。特に江戸という都市は、同時代の世界を見回してみても他に類を見ないエキサイティングな街だったと思っています。
ということでですね、いやそうだろうと思いますよ、僕も。
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当時ですね、ヨーロッパとかね、特に1600、1700年代、ヨーロッパとか大変な時代だったんですけどね、あの頃はね。
環境とかそんなところじゃなくて、お城とかでもね、トイレがなかったってよく言うし、それとか待ち歩いてたら、上に気をつけろって言うんだって。
それは中で用を足した瓶を窓から外でジャーって捨てるので上から降り上がってくるとかね。
よくそういうようなことを聞くんですけど、そういうような時代だった中でですよ。
江戸時代当時から100万都市っていうような都市で環境も綺麗にされてたと言いますよね。
幕末に色々とね、外国から人が入ってくるようになって、アーネスト・サトウという方の日本国の歴史のことを書いた見聞録があるんですけど、
それを読んでも、とにかく道が綺麗でびっくりと。みんなが何かにつけて道を掃除したり、ゴミ拾ったりしているということで、
なんとこう、民度が高い国になったということをね、びっくりして話してらっしゃるというようなこととか、ちゃんと記録にも残ってますよね。
そういう意味で、本当になんか洗練された時代だったんだろうなという気はします。
確かにね、基金とかで大変だった時代ではあるんですけど、それと同じぐらいの意味でですね、すごい時代だったというふうに僕は思いますね。
そう考えるようになった1枚の絵がありますので、紹介させてくださいということでね、その本に見開きでバーンとね、版画が載ってるんですね。
これはね、江戸東南の市街より内海を望む図ということで、江戸の街がね、びっしりと描かれていて、遠くの水平線からね、日が昇っているんですよね。
江戸名所杖に描かれた朝日が昇り照らす江戸の街、びっしり並んだ屋根の隙間を縫うように走る道筋には無数の人影が、よく見ると水路にも沖の方にもたくさんの船が出ていますねということで、
こんな絵をね、版で彫ったなっていうくらい緻密な絵でね、確かにパッと見て屋根がびっしり並んでいる。こんな絵はね、それこそヨーロッパの城郭都市の絵とかがありますけど、見たことないですね。
江戸に暮らす名もなき庶民たちの営みをのびやかに描いた一枚ですが、何か平凡、むしろ物足りないような気も。そう思ったなあなたの感性は正しい。自信をもって次のページへどうぞということでですね。さあ何かというと、
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これは江戸名書図絵という江戸時代の人が、江戸人が江戸人のために描いた江戸名書のガイドブックの冒頭に掲載されている絵です。別に平凡な絵じゃない。むしろ何か物足りないと思ったあなた。あなたの感性は正しいです。だってこの絵には江戸時代の江戸の市街地を描いたガイドブックなら絶対に描いてあってほしいはずのものが描かれていないんですからと。
何と思います。そう、城ですと。江戸城が描かれていないんです。実際に江戸城には明暦3年1657年以降、天守がなかったのですが、それにもすごい理由が、これは後ほど本文でご参照くださいと書いてありますが、描かれているのは庶民が暮らす城下町ですと。
タイトルに江戸東南の市街より内海を望むとあるように、日本橋を中心とした下町地区から江戸の前海、いわゆる江戸湾、現在の東京湾にかけての状況です。朝日を昇って照らし出された市街地は実に賑やか。
びっしりと立ち並んだ屋根の隙間を縫うように走る道筋が、すでにたくさんの人影があり、水路にも遥か沖の方までも船が出ています。生なき庶民の活気あふれる日常が目に浮かぶようではありませんかとね。
私はこの、まるで庶民が主役と言わんばかりの描き方をとても新鮮に感じると同時に、自分が無意識に、江戸は武士が主役の町だと思い込んでいたことに気づかされてハッとしました。
もちろん武士が政治を担う幕府が置かれ、そのために開発されたわけですから、そういう側面はあります。しかし一方では確かに庶民が主役の町でもあったのですということで納得ですね。
よく長谷縁のお茶漬けのりとかに、東海道五十三次とかのカードが昔入っていたのをご存知ですかね。
あれの中にね、日本橋というのがあるんですけど、日本橋という、これめちゃくちゃ有名なやつなんですけど、出発ですよね。東海道五十三次の出発地点なんですけど。
ここの絵を見るとね、太鼓のようになった日本橋の真ん中にね、
これ何て言うんだろうか。下に下にみたいな時に、上の方に何かふわふわするものをつけた長い竿みたいなのを、
上に掲げながら歩く大名行列の銭湯とかあるじゃないですか。そういうのがね、二本パーッと立っていて。
そして何かね、向こうから行列が来るんですけど、手前にはね、魚売りとかそういう人たちが特に土下座をするでもなく、普通に歩いているというのがあるんですよね。
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いや、活歩しているという感じですね、これね。ちょっと読んでみますね。江戸の市民は実に生き生きと街を活歩していました。
例えば、宇多川広重の東海道五十三次、日本橋浅野渓は、日本橋を渡る三勤交代の武士たちの行列が描かれた有名な浮世絵ですが、左下にご注目ください。
ちゃんと庶民の姿も描かれているんです。武士たちには目もくれずに行商に出かけようとする彼らは、朝の忙しい時間に行列で道塞がれちゃたまんないやとでもいいだけ、少なくとも時代劇などでよく見かける三勤交代の大名行列を土下座で見送る庶民というような卑屈な雰囲気はありませんよね。
まさにその通りなんですよね、これね。
この人、時々ね、かっこ笑いなんか入ってるんですよ。その後見ると、これ学者の人が書いたのかなと思ったけど、まあユーチューバーの方ということで納得したんですけど、非常に親しめやすい文章の書き方で、今のブログを読む人たちにはすごく読みやすい本じゃないかなと思いますね。
無事のために作られた江戸の町で、当時世界最高レベルのインフラの恩恵を享受しながら生活を営み、時に文化の担い手になったのが江戸の庶民だったのです。もう諸手を挙げて賛成ですね。
本書は半本、木版で印刷された本や浮世絵など、江戸人によって描かれた絵画資料を駆使して、皆さんに庶民が主役の江戸の町がいかにすごい場所であったのかをご覧に入れようという志向になっていますということで。楽しみですね、これね。
文庫版のために特別に書き下ろした番外編では、江戸にあってきた徳川家康の思惑と調査について考察していますということですね。
また、ちょっと気になるので江戸を覗いてみたいというビギナーさんにも、もともと江戸が好きでさらによく知りたいという方にも楽しんでいただけるよう、三島経電、十ペン社一区、葛飾北斎など、絶対押さえておきたいビッグネームの有名な作品とともに、ものすごくマニアックな作品もぶっこんでおきました。
どれも私が惚れ込んだよりすぐりの作品です。図版や参考文献の出典は編末にまとめて掲載してありますので、気になる作品があったらぜひ追いかけてみてくださいということで、僕もぜひ見てみたいなというふうに思いますね。
さて、前置きが長くなりましたが、そろそろ本編の始まりです。
その1、その3の章までは、江戸という都市のありたつや特徴、朝鮮の町の政治、色派といった比較的広派な話題、その4、その6の章までは、江戸で繰り広げられる庶民の暮らしや娯楽文化といった比較的難波な話題でお送りしております。
その1から通して読む必要は全くありません。次のページから始まる目次を見て、ピンとくる章や見出しがあったらどうぞそこから軽い気持ちで読んでみてくださいということで、ちょっと目次を読んでみますね。
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その1、実はこんなにすごかった、世界が驚く江戸城下町の秘密ということでですね。
まず、規模がすごい。日本最大にして最強の金星城郭。家康秀忠家光の3代の天主。天主がない理由がすごい。復興力がすごい。災害都市江戸で生きるということ。風水とかがすごい。
まさかの神田明神、張られた結界。これよく言いますよね。インフラがすごい。清潔さこそが繁栄をもたらした。世界最先端のすごい町ということでですね。
大江戸読売ということで、時々この天章十八年弾き号みたいなね、おまけが入っているのが面白いですね。
番外編。まさか私が将軍に。確信犯。江戸にやってきた徳川家康の称賛。家康がやってくる前の江戸。開明&改正に見え隠れする家康の野心。秀吉の思惑、家康の思惑。江戸に幕府を開くため、家康が売った布石。
はい、ということで番外編が出てきました。さあ、その2ですね。その2、城下町探検隊。ようこそ大江戸観光ツアーへということですね。日本橋名物は人ごみ。人ごみが名物。長たる商人が集う巨大ショッピングエリア。魚から鰹節まで貸しだらけ。川岸って書いてね、貸しだらけ。
25万人が日本橋界隈に在住と。すごいですね、25万人。大名行列ウォッチン。禁じて解禁将軍行列。数々の伝説に彩られた隅田川。羽目を外すなら四宿がおすすめ。公開処刑見てみるっていうのがすごいですね。公開処刑見てみる。
大江戸読売に完成10年。佐月豪とあります。はい、その3です。あれ、結構楽しそう笑い。江戸町人の暮らし。首脳交渉への大誤解。大江戸の町人って誰。町仏教の登録に親方ご苦労。町仏教の下で働く人々。浮世風呂で心身ともにリラックス。
頼木同心の屋敷に毎日神売が来る理由。文献は何時。起土版と時診版。住めば都の裏長屋ということですね。で、大江戸読売3。文化年間特別号だそうですね。はい、次その4です。その4は、役者アイドルスポーツ選手憧れのスターたちということですね。
モードファッションは歌舞伎から。歌舞伎から生み出された数々のデザイン。顔見せ興行の熱狂。戦慮役者は戦亡の的。江戸で一番モテた男。吉原誕生。伝説のオイラン。勝山と万事高雄。
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大江戸のスーパーウーマンと遊ぶ覚悟は。会いに行けるアイドルの時代到来。熱狂。燃え上がる相撲人気。躍動する美。卑下死のダンリズム。で、大江戸読売4。文化元年札記号とあります。
その後異常発達食文化。うーん、なるほど。ようこそ外食天国へ。これ楽しみですね。外食天国。江戸の飲み倒れと大充実の屋台飯。天ぷら小話。江戸町いろいろ。高級化路線への進化。大酒飲み&大食いバトル開催。江戸煩いにご用心。江戸のソウルフードそば。ソウルフード。
江戸のソウルフードそば。将軍様だって料理男子だった。はい、大江戸読売5。文化9年弥生号とありますね。
その6。毎日がスペシャル。とにかくイベント大好き。日本人がイベント好きな理由を考えてみた。自社の生徒族。江戸の祭りの頂点三能祭。個性的なパレードが見どころ神田祭。
三越自慢の深川祭で大事件勃発。お花見ブームを仕掛けた吉宗。潮干狩り花火水漕り水辺のレジャー。大人気の天体賞。自然と共に生きるということ。大江戸読売6。文9年弥生号ということで。
えー、これが目次でしたね。非常に興味があったところですね。ということで、どれ読んでみようかな。
どれ読もうかね。なんか興味があったのがね。なんか読んでた時に興味があったのがあるんだけど。
ようこそ外食天国へっていうのを読んでみようかな。188。ようこそ外食天国へ。
江戸時代初期、新興都市である江戸の町は男性があふれ女性が少ないという特殊な人口構成でスタートしたのだが、男女比が半々になるのは結局幕末になってからだった。江戸時代を通じて慢性的に女性不足だったんだそうですよ。
例えば江戸時代中期、兵庫6年1721年11月の統計によると、統計があるんですね、ちゃんとね。江戸の町型人口は女178109人。すごいですね。一桁までちゃんと記録がしてある。35.5%。
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男323285人。64.5%ということでですね、合わせて501394人ということで、すごいですねこれね。これに自社門前人口と武家人口およそ50万人を加えたものが江戸の総人口なわけだが、こちらは残念ながら正確な統計がないだって。
武家の人口と自社門前人口との正確な統計がないんだって。逆の気がしますけどね。町人の方が一人までちゃんと統計がある。すごいですねこれね。
ただ自社地の住人は基本男性だし、武家は各藩から単身婦人でやってきているケースがある。
あ、そっか。大名じゃなくて武家か。武家はそうだ。大名は江戸に奥さんと子供を置いてるけど、それについてきてる武士は単身人ですもんね。確かにね。町型よりもさらに男性比率が高かったことは間違いないだろうということで。
ああ、確かにそう言われてみれば確かにその通りですね。このような状況から極めて現実的な問題が発生する。食事の問題であると。現代のような家電製品がない当時は、米を炊くだけで相当な時間がかかった。食事を作るのも大仕事で、自社や武家では専門の調理方を置くこともできたが、町型ではなかなかそうもいかない。
長屋暮らしの庶民がまともな食生活を送ろうと思ったら、書体を持って男が外で働く間に、家で女性が食事を作るといった役割分担が不可欠だったが、ドドイツにも、
くしゃく二犬に過ぎたるものは、紅のついたる火吹き竹というのがドドイツからあるんですが、解説って書いてあります。くしゃく二犬とは、夜常犯プラス土間の江戸庶民が暮らす裏長屋の一般的な間取りと。そこに紅をつけた奥さんがいて、火吹き竹を使って飯を炊いてくれるなんて贅沢な話だ。リア充爆発しろという意味だそうです。
もう一回読んでみます。くしゃく二犬に過ぎたるものは、紅のついたる火吹き竹。紅のついたる火吹き竹があるということは、奥さんがいるということだということなんですね。女性比率が少ないわけなので。
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まあ、一般の裏長屋に住んでいる人にちゃんと奥さんがいるというのはなんという贅沢なんだ。リア充だというわけなんですね。それがドドイツにあったと。面白いですね。
とあるように、まあそういうことです。頑張って自炊したとしても一人分の食事のために薪や油などの燃料や食材、調味料を揃えるのは非効率的である。このために発達を遂げたのが外食産業だと。なるほどなるほど、そういうことなんだね。
その大きなきっかけになったのが明暦の大火ですね。明暦の大火は有名ですよね。大半が開陣に期した江戸の町は幕府の主導により驚異的な勢いで復興するが、実際に汗を流して現場で働いたのは土木人足や職人たち。多くが地方から単身江戸にやってきた独身男性である。
日中の過酷な肉体労働を乗り切るために、仕事の合間に食事をとってエネルギー補給がしたい。そんな彼らのニーズに応えるように江戸の町には大量の煮売屋の木を連なるようになった。煮売屋とは煮物や惣菜や団子などの軽食に茶や酒をつけて焚くファストフード店のような業態である。
当時、食事は基本的に自宅で済ませるもので、外食の機会は旅などの特殊事情の際に限られていたから、町中で誰もが手軽に食事をとれる煮売屋の出現は相当画期的だったということですね。
なるほどね。相当画期的だったと。
煮売屋は瞬く間に江戸中に広がるが、あまりに流行りすぎて火災の原因になり、明暦の大火からわずか3年後の満治3年1660年には、正月から3か月間で105回も火事が起こったというから、本末転倒。
火事が起こったからその復旧のために集まった人たちのために煮売屋ができたのに、煮売屋ができたおかげで105回も火事が起こった。
このため幕府は煮売屋の夜間営業を禁止する法令を度々出しているが、度々出しているということは、度々破られていたということだ。
焼けたら立てればいいじゃないと言わんばかりのたけましさだ。
復興の中で生まれたもう一つの飲食業が料理茶屋。料理を出すことを専門にした飲食店のことで、茶を使わないといけない。
あ、浅草寺か。
店が浅草寺門前の中にあった。
このようにがっつりしている。
このようにがっつりしている。
このようにがっつりしている。
27:01
このようにがっつりしている。
このようにがっつりしている。
このようにがっつりしている。
このようにがっつりしている。
このようにがっつりしている。
このようにがっつりしている。
このようにがっつり昼食を食べさせる店というのは、実は当時は世界的に見てもとても珍しく。
日本でも初めての事例だった。
がっつり昼飯を食べさせる店が日本で初めて。
当時は世界的に見ても珍しく。
いや確かに、そしたら異世界居酒屋の野部とか。
異世界の人にとってみれば、たまげたことというわけですね。
ただ料理が美味しいというだけのことではないということですね。
煮売屋などで人気の食材が豆腐と、
特にごめん豆腐に味噌をつけてこんがり焼いた豆腐電学がポピュラーな軽食でした。
なるほどですね。
というか、昼食自体が明暦の大火後のこのような外食産業の充実により定着した食習慣と考えられていると。
ああなるほど。
それまでは朝夕の一日二食が基本だったが、出先で昼食を取るのが当たり前になり、一日三食が一般化したのだと。
はあ、そうなんか。
昼飯食ってなかったんだ。朝夕だけだったんだ。
腹が減っては復興はできなかったのかもしれないということです。
次に、江戸の飲み倒れと大充実の屋台飯ということです。
また江戸時代中期には居酒屋も生まれている。酒屋で酒をはかり売りで提供し、その場で飲ませる居酒スタイルは、それ以前にもあったが、
元文元年1736年に浜倉賀氏の酒屋豊島屋が店の一角で豆腐でんがくを焼いて酒と共に提供したことが短所となり、酒プラスつまみを提供するスタイルが確立。
やがて酒屋から独立した純粋な飲食店としての居酒屋が主流になっていくということですね。
ちなみに当時の居酒屋は朝から営業する店がほとんどだったため、江戸の町は日中から酔っ払いだらけで喧嘩口論が絶えなかった。
酒嫌いの後代将軍徳川綱吉は大酒禁止令を出すなどして取り締まろうとしたが、無駄に終わっている。
無駄だろうな確かにね。
やがて京の飢え売れを大阪食え売れに並んで、江戸の飢え売れと称されるようになった。
そっか、大阪食え売れって言いますもんね。江戸の飢え売れって言われてたのか。
こうして江戸は3都の中で、京都、大阪、江戸ですね。
さらに簡易な軽食スペットが屋台だ。江戸の町中の人が集まる場所には、次のページの絵のような稼働式の簡易な屋台が多数出店していた。
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まあ、今、日本にあるような感じの屋台。
利用客のほとんどは男性で、いかにも画展系の男子と共に子供や武士の姿も見えるから、お使いや仕事の合間に小腹を満たしているのだろう。
こういった屋台の食べ物はとても安価で、例えば諮問屋は総財を諮問一金で売った店。
一問は現在の20円、25円程度の価値だったから、100円ショップのようなものだということで、
総財を100円均一で売ったということ。
この100円均一的なものって、本当にいろいろありますよね。
また、上の絵の左側に天ぷらの文字が見えるように、
現在は和食の高級メニューになっているものは、江戸時代に屋台から発展したケースが多いということですね。
確かにこの絵には諮問屋とか天ぷらとかがあります。
天ぷらの屋台の前で子供が天ぷらを食べているんですよね。
天ぷら小話。天ぷらは江戸時代中期に江戸で生まれた。
あれ?徳川家康って誰の天ぷらを食べ過ぎて死んだんじゃなかったっけ?
もっと前からあったんじゃない?と思った方がいるかもしれないが、これは誤解である。
徳川将軍の実績をまとめた資料、徳川実記には、
元な2年1616年正月21日、家康が駿河で鷹狩りをしている時に、
京都出身の豪商茶屋白二郎が面会にやってきたため、
最近神方ではどんなものが流行っているのかと尋ねた。
すると、鯛をかやの油に手揚げ、
そが上にひるをすりかけしが行われて、
それがしもたまわり候に、いとよき風味なりと。
鯛をかやの油で揚げて、その上にネギ、にんにくなど、
食用となるゆりかの植物をすりかけて食べるのが流行っています。
私も食べましたが、とても美味しかったですと言ったので、
早速作らせて食べてみたとある。
どこにも鯛の天ぷらを食べ過ぎたなんて書いてないのだと。
この時、家康が食べたのは天ぷらというよりも鯛の酢揚げ、
もしくは鯛の漬け揚げと考えられる。
ただ家康がこの日の夜に腹痛を起こし、
それ以降体値を崩してわずか4ヶ月後の4月17日に亡くなっているために、
少々拡大解釈されて、鯛の天ぷらを食べ過ぎて死んだ説が
流行しているということだろうということですね。
このせいか家康はとても食いしん坊だったと思われがちなのだが、
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実際には健康志向がとても強く、基本的には米と味噌、
季節の魚や野菜を中心にした素食を好んだ人だった。
なんというか噂の一人歩きって怖いねと書いてありますね。
ただ天ぽうら、天ぷらり、天ぷらと呼ばれる料理が
戦国時代頃からあったことは資料上からも確認できると。
多くは異性者の食前に登ったメニューとして記録されており、
モルトガルで調理する意味のテンペーロから転じたとする説や、
肉を使わない精進料理であるからジン、つまり天ぷろから転じたという説など諸説あるが、
具体的にどんな料理であったのかはよくわかっていない。
当時の日本では珍しい油で揚げた西洋風の料理をひっくりめて、
このように呼んでいたのかもしれないとも言われている。
天ぷるとかあっちの方から来たのかなと思ったんですけどね。
天ぷらという調理の意味の言葉というところからという説があるというのが初めて知った。
屋台飯としての天ぷらが登場するのは、油絞りの技術が飛躍的に発展。
食用油の生産量が飛躍的に増在した江戸時代中期以降だと。
北越節夫という資料によると、天ぷらの名づけ親は三刀経伝だそうです。
浮世絵にして偽作者にして商人という江戸のマルチ文化人である。
天明元年1781年、経伝の家の近くに大阪から芸者と駆け落ちしてきた利助という男が転がり込んできた。
さすが大阪人の利助は話が面白く起点が聞くので、経伝もよく面倒を見ていたが、
江戸では野菜のごま揚げが人気やねえ。大阪では魚の揚げ物が人気なんやけど、江戸にはまだその屋台がないんで、
わてがやってみたい思いまんねん。でも看板に。ただ魚のごま揚げと書いたんやったらしょうもない。
なんかええ知恵はないでしやろかと相談してきた。
そこでおもむろに筆を取った経伝が記したのが天ぷらの文字だったんですね。
利助は正直意味がわからなかったが経伝曰く、お前は今天竺浪人。住所を振って無職を奢る後に包んだ言葉と。
プラリと江戸へやってきて売り始めたんだから、天ぷらね。
天ぷらのフは小麦粉のことで、ダは薄い着物のことだから。
食材が小麦をまとう様と、お粗末な服着物を着た様子と、掛けてみたかっこ笑いとのこと。
本当かなこれ。
洒落の明る大阪人の利助を喜びして早速天ぷらの看板を出して屋台売りを始めたところ、これが瞬く間に評判となり、一月も経たないうちに天ぷら屋台が乱立したということです。
しかし元祖○○には何かと議論が付きまとうのが世の常。
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江戸時代当時から、京田が命名したという天明元年より前から天ぷらという言葉あったぞというツッコミの声が江戸時代当時から寄せられていると。
北越説府にも京田命名説を有力としながら、それ以外の諸説も紹介されているということで、1700年代から諸説あったということですね。
確かに天明元年上演の上塗り作品の中にすでに天ぷらというセリフが出てくるところから江戸で天ぷらが普及したのはそれ以前。
安永年間、1772年から1781年なのであろう。
ただ京田命名説のエピソードが一番面白くキャッチーなので、そうでしょうね、これが定説として留守しているということですね。
やがてそれまでのごま揚げとは一線を描くし、白身魚やアナゴ、エビ、貝柱、イカなどのバリエーション豊富な魚介類の切り身に緩く溶いた小麦粉を塗ってごま油でさっと揚げ、食べ歩きがしやすいように串刺しにして屋台で販売するスタイルが主流になったという。
値段は1つ4本だったからコンビニのホットスナックコーナーみたいな感覚ですねということで。
100円くらいなんですよ、これね。100円ちょっと高くない?さっきの指紋屋って100円って言ってたからね。
はい、1つ4本か。結構高い感じかな。
はい、ということでね、40分くらい経ったので今日は江戸はすごいという本について一部読ませていただきました。
とっても面白い本ですので、どうぞ手に取って読んでみてください。
それではまた。