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2025-04-01 19:49

意見を持つことの難しさと学校教育の限界について

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サマリー

意見を持つことの重要性と難しさ、特に日本の学校教育の限界について考察されています。学校教育は本来の自由な発想を育むのではなく、既存の価値観に従わせる傾向が強いことが指摘されています。意見を持つことの重要性と学校教育の限界について深く考察されています。家庭での育て方が子供の意見形成に大きく影響することが強調され、学校では多様な意見を育てるのが難しいと指摘されています。

新年度の変化
はい、おはようございます。抜粋の精神科リブラでございます。
本日からですね、4月1日、新年度始まりましたね。
昨日までやっていた同僚の人も退職されたり、いろいろしまして、今日から体制がいろいろと変わりますね。
今週末から僕は新しい仕事も、新しい仕事って同じなんだけど、別のところで外来も頼まれてやったりしますしね。
いろいろと変わると、大丈夫かな、新しいところ。朝早いんだよな、なんか行ける気がしませんけども、というようなことで変わっておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
僕の方はですね、そんなくらいで、人が入れ替わるくらいであまり変わり映えのない生活をしておりますけど、思ったことをまた今日も話しましょうかね。
風邪がね、風邪引きましてね、ちょっとずつ治っていく感じですかね。
花粉症も引き続きということでやっておりますが、どうかな、何話しようかな。
とりあえず、録音ボタンを押してるんですね、本当に。
今、職場に向かってるんですけど、だいたい職場に着く時間が分かるので、その向かってる時間でそろそろスイッチ押さないと、録音しないと、録音できないじゃん、時間なくなっちゃうんで。
まだおそらく10分以上はかかるというふうに踏んでいるので、10分あればね、とりあえずいいかなと思って押してるんですね。
本当に内容決まってないんだけど。
今朝話した話しましょうかね。
今朝、奥さんと話したんだけど、いろいろなところに皆さん呼んでいただいたり誘っていただいたりしていくんですけど、
それはリアルの場でもWEB3やスタイフの場でもいろいろ誘ってもらえてありがたいところなんですが、
よく呼ばれるねというようなことで、行くからでしょうけどね。
うちの奥さんが言ったのは、僕を呼びたいときはどんなときかっていうようなことをうちの奥さんが言い出して、
どんなときかなと、どういうふうかって言ったら、
あんたがいると、何か言うからじゃないって言うんですね。
何か言うってそれはよく喋るけど、それは誰だって何か言うでしょうよっていうふうに言ってるんですけど、
そういうことじゃなくて、何か意見言うじゃんって。
だから何か議題になるよねみたいな、いるとっていうようなことを言われて、
あ、そんなもんかねと思ったんですけどね。
そのときの表現にね、誰の肩も持たないって僕言われたのに、
誰の肩も持たない?そんなことある?と思って。
最後まで寄り添わないって言われた。悪く言うと。
寄り添わない?そうだっけ?と思って。
うちの奥さんにはそう見えてるみたい。
最後まで寄り添いきらない。誰の肩も持たない。
何かいつも中立の場所にいようとするって。
いつも中立的な場所に移動しようとするので、
何か慰めてほしいときとか寄り添ってほしいときには、
僕の名前は上がらないんじゃないかと。
じゃなくて、教官と寄り添う言葉ばかりが出てくるような状況で、
教官の言葉だけじゃなくて、何か意見を言えよっていうときに、
しかも相手の立場から悪口を言ってくるわけでもなく、
中立の場所から意見を言ってくるような人が求められるような場所に
あなたは呼ばれるんじゃないかと。
そこで初めてハッとしましたね。
誰の肩も持たないって見えてるんだと思って。
精神科医なのにと思って。
言われてみれば最後も管理者の肩を持ってないかもわからないなと思ってね。
そういう特徴があるんだと思って。
肩を持ってほしければ別の人に頼めばみたいな気持ちになってるかもわからない。
面白いなと思って。
それが癖みたいなところで、今さらなかなか変わらないですよね。
共感の言葉少ないかもね。
僕から発せられる言葉はもしかすると。
その辺がロボっぽいわけですけど。
わかるわかるってあんまり言わない。
言ってますけどね。
言ってるんだけどな。
共感もしてるしね。肩も持ってるつもりなんですけどね。
でもそれは客観的にうちの奥さんにはそう見えるっていうことなんでね。
それは事実かどうかはわからない。
事実ですね。
言ってるのはうちの奥さんから見たのが事実だから。
うちの奥さんの意見ですからね。
僕は誰の肩も持たないですって。
なので、そういう意味で誰の肩も持たないという特性が連続的につながっているのは、
誰かの肩を持ってそちらだけの意見を。
つまり意見のように見えて実は共感だっていうね。
わかるわかるっていう共感をしてるだけに過ぎない言葉を発するのが一般的だなと思って。
人間っていうのはさ、バカとムチにも乗ってましたけど徹底的に社会的な生き物ですから、
意見というものは批判に聞こえるから基本的には多くの人にとって。
なので意見っていうのは少し耳が痛いみたいなものですから、
言うべきじゃないんだよね。
人間社会においてはね。
その人の価値からするとね。
意見は持っているのは大事だと思うんですけど、
自分の意見を持つのはすごく僕は役に立つと思いますけど人生に。
ただその意見をあまり人の前で言わないほうがいいと。
今の社会で特にね。
そういうふうに思います。
言わないほうがいいもんだからみんな言わないようになって、
特に日本では言わないほうがいいのでね。
言わないほうがいいもんだから言わないようにどんどん訓練されて、
結局言わないだけじゃなくて持ちもしない。
いらないからね。
いらないものはやっぱり持てなくなりますよね。
不要なものはやっぱり考えなくなりますからね。
不要なことはね。
なので徐々に徐々に退化していって、
やはり意見を持つ人は減っていくんだろうなと思いますね。
だから共感の社会である日本社会で自分の意見を持ちましょうなんてのは、
ちょっとなかなかそれはやっぱり難しいかなっていうふうに思いますよね。
学校教育の限界
学校教育なんかでもね。
学校教育で自分で考えられる子供を育てようなんてことを思うことがあるでしょ。
学校の先生が。
学校の先生にみんなに考えさせようとするでしょ。
なのに先生が主導するんだよね。
考えろって考えてさ、考えた意見を言わせてさ、
それは合ってる、それは間違ってるみたいなことは言わないつもりなんだけど言ってるよねって思うんだよね。
結局そうなると、学校に先生がいる時点で、
学校の先生に迎合した答えを探す能力が優れている、
察する人が結局強いだけのことで、
本当に意見を持っているような人はダメなんでしょうね。
学校では評価されない。
なのでやはりそもそも少なくとも日本の仕組みで先生がいるようなタイプの学校で、
多様性だとか、自分の意見を持たせるような教育がそもそもできるわけがないと僕は思いますけど、
そもそも教育という仕組みで自分の意見を持つようなことができるようになるはずがないような気がしますね。
教育でできることとすれば、
自分の意見を持つことが大事だということを教え込むぐらいなことなんじゃないかな。
教育っていうのは何かを強要する作業でしかないので、
何かを強要するとか、何かを強いるというのがやっぱり教育だと思うので、
自由な発想を持たせるような教育をするというのは論に矛盾があるような気がしますね。
何て言えばいいかな。
何て言えばいいかな。何かいい例えがないかな。
今ちょっと子供が野球やってるからパッといい案が浮かびませんけど、
キャッチボールでグラブの左手のハンドリングを良くするために、
いろんな場所でキャッチボールをしなさいと言って、
いろんな場所というのは前と横と後ろと右と左だよと言って、
いろんなところでしなさい。次は左。
左のキャッチング、ハンドリングを良くして左。
次は右。次は右のキャッチング、右。
ハンドリングを良くして右とやってるみたいなね。
そんなような、それハンドリングが良くならんでしょっていう。
そうじゃなくて、遊びでどこに行くかわからなくて、
ファッて変なとこに行って、ここでも取れますみたいな、
そういう遊びをすることによってトスターの動きができる。
トスターの動きをするために、次は右。
右、次は左。
次はランダムで行きます。
ランダムというのは、上、右、左、下。
上、右、左、下。最後ランダム。
上、右、左、下。上、右、左、下って全然ランダムじゃない。
お決まりのことをやってるみたいな。
学校教育の、日本の学校教育で行われている多様性の勉強とか、
自分の意見を持ちましょうっていうのって、
そういうふうな教育に聞こえるんですよね。
僕からすると、
例えばですね、
僕なんかは割と、
いろいろ意見を持つ方かなと自分で思いますけど、
そう言われるしわからないけどね。
自分としては自分が普通にしか思わないので、
わかりませんけど、よく言われるわけですけど、
そうすると、僕はいろんな意見を持つように、
学校で厳しく指導されたのかと言ったら否で、
割と逆ですよね。
僕の世代っていうのは、
一つの価値みたいなものを教え込まれた世代だから。
唯一違うとすると、
家庭の教育がちょっと違ったかなと思いますよね。
家庭の教育は、
学校で正しいと思っているものが正しいとは限らないみたいなことを、
いや違うな、うちの父親はそれは言わなかった。
学校の先生に従えと言ったりしたな。
そうなんだけど、テレビは全部嘘を言ってるんだぞというようなことを、
子供の頃から言ったり。
テレビの中でもNHKが一番怪しいみたいなことを言っていたり。
僕は世間の意見と、
うちの親が言う意見がずれていることが結構あって、
反発して、
そんなことあるかとかって言って、
うちの父親はへそ曲がりだから、
へそ曲がって天の弱なんで、
いつも反対のことを言うんで。
喧嘩ほど喧嘩してないんだけど、
天神の遊びの喧嘩みたいな、
バカだ、そんなおかしいよ、みたいな。
そうすると、
へそ曲がりの発言っていうのは、
そんなバカだって、なんでそれおかしいじゃないかってことになるんで、
ディベートの練習になるんで、
家庭での意見形成
なんでよ、俺の言ってることがあってるよ、
ほんじゃさ、
ほんじゃこういう風だったんじゃない、みたいな。
こういう風じゃない、みたいな。
たとえばうちの父親は、
タバコを吸うんですけど、むちゃくちゃに。
昔から禁煙を周りから言われる。
そう言うと、
お父さんは禁煙ができないからダメなんだよって。
そういう、しっかり意志の強い人ならすぐ禁煙できるらしいよって。
お父さんは意志が弱いからって。
いや、違うと。
うちの天神宅は。
俺は、意志が強いと。
意志の強い者は、
途中でタバコをやめたりしないと。
俺はな、一度吸い始めたこのタバコを。
俺はもうテレビでも何でも言ってんだろうと、
あっちこっち新聞でも何でもと、
みんな言ってんだろうと。
実は知っている、タバコは体に悪い。
実はこれは俺は知っている。
だが、体に悪いことはもともとそれは分かっていた。
その体に悪いことだと分かっていながらタバコを始めた。
始めたにも関わらずやめる。
こんな意志の弱いやつはいないと。
俺なんかは体に悪いと分かっていても、
これを吸い続ければ肺癌になると知っていても、
それでも俺は吸い続ける。
ああ、なんて俺は意志が強いみたいなこと言って。
またそう言う。
よかった、お父さん、そういうこと言って。
こんな父親なんですよ。
そうすると、やっぱり、
それはお父さん、いつの父親じゃないよみたいな話になる。
これがまた人議論というか、人ディベートなんです。
遊びですよね。
てなことで、
僕らは小さい頃から、僕はというか、
うちの妹なんかも含めて、
ずっと家でディベート合戦をしていたので、
どうしてもこんなふうに育つというふうに思いますけど、
必ずしもそう育つわけではなくて、
生まれつきみたいなものもありますよね、考え方っていうのがね。
ということで、
今日はまた駐車場に着きましたね。
ああ、そうか、これ600円なんだ最近。
なんか新しい駐車場を探さないと。
よいしょ。
何の話だったかな。
どこ止めようかな。
ということで、もうそろそろやめましょうか。
まとめますと、
ごめんなさいね。
まとめますと、
そういう意味で、
もし意見を持つ子供を作ろうと思ったら、
家じゃないと無理じゃないかな。
学校には先生がいて正しいことを言うし、
学校の先生が、
あとやっぱり褒められるっていうのは大事なことですよね。
自分の意見を持つことによって褒められる。
自分の意見も褒められる。
うちの母親が僕を褒めてくれていたので、
だから褒めることは大事だと思うんだけど、
学校でどうですかね。
学校でいろんな意見を言って結局褒められたらさ、
それってさ、やっぱり先生の意見だもんね。
だから褒められないと人はなかなか喜ばない上に、
結局先生がみんなを褒めたら、
難しい、ちょっとわからないな。
学校っていうのはやっぱり、
先生というのの効果は数人にしか現れない。
相対的に誰かを褒めたら誰かをけなしますもんね。
相対が生まれるもんね。
学校教育の限界
評価っていうのは相対評価だもんね。
絶対評価なんかで、
社会的な人間の評価っていうのは相対評価だもんね。
学校教育っていうのはやっぱり、
軍隊を作る以外には機能しないのかもわかりませんね。
ちょっと考えがまとまらないので、
私はそれをやってたんですけれども、
学校教育っていうのはやっぱり、
軍隊を作る以外には機能しないのかもしれませんね。
やっぱり、
やっぱり、
例えば、
最初に学校の教育の用途を見つけて、
それを学校に教えてもらった人が、
軍隊を作る以外には機能しないのかもわかりませんね ちょっと考えがまとまらないままやっておりますのであれですけども
学校教育の限界の話になりましたね で僕みたいなその何ていうか意見を持つ人間というのを育てるっていうのはかなりそう簡単な
ことじゃなくて逆に学校でこういうふうに締め付けを見たらこう考えるべきって言われると そんなことはないんじゃないかみたいな風にあのいちいち考えて高校の時もよく先生と議論しましたけど
なんていうかあの 天の弱な
ディベートごっこみたいなものは一つ役に立つと思いますね意見を持つ方法ね だけど学校で多様性のじゃなくて意見を持つという教育は
それはもう少し難しいんじゃないでしょうかと思います あとは学校では難しい ちょっとごめんなさい考えがまとまっていなくて
まあこんなところにしますかもうちょっとうついちゃったわね じゃあ一つ
じゃあこの段階でまとめよう 僕は誰の肩も持たないらしいし
それは意見を言うということと重なっているのではないか 誰の肩も持たないからというふうに見えるのは
共感を示す言葉が少ないから共感を示さず 中立から意見を述べていく傾向があるようにうちの草には見えるらしい
じゃあそういうことが 意見を言うということが
今の日本で求められ始めていると思う こんなこと言ってなかったか
それを子供をそのように育てたいと思う ではどう育てたらいいか 学校教育はどうか
学校教育でいろんな意見を持つような子を育てるのは ほぼ不可能ではないか やれるとすると逆に
ひとつのことを教養することによって そんなことないというのを出る状態を作ると
学校の先生がいろんな意見を教えるということができない そもそも教えられるというのは教える意見なので
教える意見に従わせるというのは そもそもいろんな意見 多様性からに反しているので
学校では無理 学校でやれるとすると 意見を持つことが大事だということまで
実際の意見を持てるかどうかは 学校ではおそらく無理だろうと
できたとして先生が各クラスで一人だろうと いや違うな いや無理か ちょっとこの辺がまとまってません
やめましょう落ち着いた それでは皆さん またちょっと考えますよこのテーマについて
それでは皆さんさようなら
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