サマリー
このエピソードでは、AIの意識や人格に関する議論が行われ、リスナーはその認識の違いについて考えます。言語の概念や定義の曖昧さ、リンゴと人間の質と量の違いについても言及されています。また、「完コピAI」と呼ばれるAIと人間との違いについて、質と量の観点から深く考察されています。リンゴとリンゴジュースを例に挙げ、人間とAIの意識や人格の意味が掘り下げられます。さらに、AIの人格と人間の存在の境界線についての議論や、ウーピー・ゴールドバーグと「スタートリック」が彼女の人生に与えた影響についても触れられています。キリスト教の教義とAIの関係性についても考察されています。
AIと意識の議論
おはようございます。抜粋の精神科医リブラです。
今日も話したいときに、話したいことを思ったときに 思ったことをしゃべっていきましょうということで、
今日は何気なしにいろいろ配信を聞いていて、
配信で力さんがまた、AIに意識はあるとかないとか いう話をしていらっしゃったんですね。
僕もちょっとそれ思うことがあるから言うけど、 この話題にすると聞いている人が減るんでしょう。
嫌ですね。だからちょっとタイトルで、 嘘タイトルでもつけますかね。
不倫をどうするって書きますか。
不倫のこと書かないとダメだね。
不倫で、不倫勘弾で行きますか。
意味わからないけど。だからAIに意識があるかないかとかは、 ちょっとやめたほうがいいということですけど。
何を思ったんだっけな。
ちょっとまた違う観点ですけど、 違うというか同じ観点でよく言う話ですけどね。
やっぱりね、AIっていうのはさ、
意識があるかないか。
人格があるかないかっていうのと、 意識があるかないかっていうのを、
一緒に整えていいかどうかなというのを 聞いて思いましたよね。
人格っていうと、日本語だとどうですかね。 パーソナリティですか。
性格っていうとキャラクターですかね。 英語だとね。
英語と日本語とこうやって一対一対をさせること自体が、 かなり強引で違うわけですけど、
それって日本語で何て言う? ってよく子供が僕に聞いてきたりするんだけど、
あと、この言葉って英語で言うと何? とか言ってくるんだけど、
日本語と英語とか言語が違うんで、 概念が違うので、
そんな一対一対はなってないんだよっていうふうに、 だからか言うんだけど、
多分それが伝わってないですけど、
これは多分うちの子供たちが、 例えば学校とかで英語を習うようになったときに感覚で、
あるいは英会話なんかを習ったりしたときに感覚で、
言葉って一対一対をしてないんだなっていうふうに、 わかるんじゃないかなと思うんですよね。
うちの少女なんかはもう、 ある程度わかってるかもわかんないね。
僕と似た思考の人ですからね。
なんでそこにそれがあるって言うの? みたいなことを、
何時何分何時何秒? みたいなことをうちの男の子たちが言い出したときに、
うちの娘の反応っていうのはあれですね。
出たソクラテスとかって言ってますね、よく。
何言ってんだっていう。 逆にひょっとんどされてますけど、
何時何分何時何秒? どうしてあったってわかる? みたいなことを言ったら、
出た存在の存在。 何て言ったかなこの前。
出たソクラテス。 そのあと何か言ったな忘れちゃったな。
何だったかな。
何だったかな。
ツッコミがソクラテス。 出たソクラテスかよ。
出たソクラテス。
出たソクラテスのツッコミ、 なかなか秀逸だなと思ってですね。
バカヤメの娘のツッコミ、ソクラテス。
ソクラテスっていうね。
で、うちのジナン、ひょっとんとするっていうね。
物知らんジナン、ひょっとんとするっていう。
優しいジナンをひょっとんとするっていうね。
冷たい頂上の出たソクラテス。
で、何だっけな。
何の話だっけ。 実在、自画自画。
あれ何の話をしたかな。 意識、キャラクターね。
キャラクターとパーソナリティと、
一対一対はできないとは思うんだけど、
よくさ、関係ないけどさ、何だっけ。
メリットとはこういう意味で、
メリットとはその、何だっけ。
何かあるじゃん、そういう。
商売的な人が言うさ、
何か言葉を言い換えてさ。
西野さんとかもよくやるじゃん。
メリットとはこういうもので、
何だっけ、もう一個何だっけ。
メリットと、優位点、何だっけ。
この商品のメリットとは、何だっけ、忘れちゃった。
とにかくさ、そういう風に勝手にさ、
言葉の定義を自分で作ってさ。
恋とはこういうもので、愛とはこうだ、
みたいなことをよく言うじゃん。
勝手に決めてるだけでさ。
それはそういう面もあるし、
あんたがそう思っただけだよねっていう。
言葉の定義っていうのはさ、
言葉っていうのはさ、そういう風にこう、
勝ちと決まったものではないんだよね。
僕らの、いろんな考え方ありますよね、
言葉とかね。
例えばシニフィエとシニフィアンとかね。
あるわけですけど、
まさにシニフィエという言葉が持つシニフィエとシニフィアン、
まさにシニフィアンという言葉が持つシニフィエとシニフィアン、
みたいなね、分解していくということになりますけど、
聞いたときに、僕らの頭に浮かぶものと、
例えば馬という風に聞いたら、
僕の頭の中に馬という風に概念が浮かぶんだけど、
その概念である馬と、
この馬という言葉との、
を分解してシニフィエとシニフィアンみたいなね。
そういう風に、
誰だっけ、ソシュールだったっけ、
言語学者は考えたりとかね、
いろいろあるわけですけど、
いろいろ定義がいろいろあるわけだけど、
なので、ということもあるし、
言葉っていうのはそういう風にピタッとね、
物事が重なってるわけじゃないし、
皆さんの中の馬と、
僕の馬というものは、
同一ではないしね。
経験が違いますからね。
大半重なるんでね、
その重なったもののことを、
ソクラチェスは何かって言ったの、
これだよ、うちの娘が言ってた。
その重なったもののことをソクラチェスは、
共通の概念のことを何とかと読んだんだ、
みたいなことを何か、
昨日か一昨日か言ってましたけど、
忘れちゃいましたけど、
何だっけな、
何の本で読んだのかな、
質と量の違い
多分、
馬鹿とムチとか、
言ってはいけないとか、
その辺で読んだ、
橘明さんの本で読んだと思うんですけどね、
多分ね。
いいんだけどさ、
そんなことは。
なので、キャラクターと、
一応パーソナリティをしましょうか、
性格と人格、
それはそういう定義じゃないかもしれないけど、
皆さんの中では。
そのようにふわっと、
大体思ったときに、
そういうふうな、
どっちでもいいんですけど、
特性みたいなものを人格とすると、
その人格というのは、
人格があるかどうかというと、
それぞれに違いがあるかというような感じで、
あとはもう一個は、
意識があるかとか、
魂があるかとか、
そういう概念になってくると思うんだけど、
僕は、
AIにも人格はあるし、
AIにも、
今の時点であると言っていいかどうかという問題があるんで、
例えばさ、
リンゴがあるって言った場合にですよ、
力さんの話で言うと、
構造は同じだと言うんであれば、
例えば、
リンゴがあると言ったときに、
僕が言ってるのは、
そこにはアミノ酸があると言った場合に、
リンゴがあるとアミノ酸があるは、
同一ではないと思うんですよね。
それが仮に、
例えばある種のアミノ酸と、
ある種のアミノ酸、
ある種のタンパク質と、
ある種の炭水化物と、
水とか分子があったときに、
それが、
リンゴはそれの集合体ではあるけども、
そのリンゴを構成する水分とタンパク質と、
何でもいいんだけど糖があったら、
それをリンゴと呼べますか?
でもリンゴジュースとは言われるかもわからないね。
でもそれってリンゴと言えますか?
どこからがリンゴですか?
ということで、
もしリンゴを構成する分子がそこにあれば、
リンゴだと言うんであれば、
僕らの中にもリンゴがあるわけだし、
言ったら僕らはリンゴであるという、
僕らとリンゴは同義であるということだと言えるわけで、
そういう意味で、
僕は量のことを言っていて、
力さんは質のことを言ったというふうにも見えるわけですけども、
それはおっしゃる通りなんだが、
だけどそういうふうに大枠で切ってしまうと、
やっぱり量って大事で、
量と質っていうのは実は連続的だと思っていて、
質の違いと量の違いって僕は概念としては持っていますけど、
そもそも質の違いっていうのは分解していくと量の違いだよなって思うところがあって、
つまりリンゴと人間っていうのは量じゃなくて質が違うと思うんですよ。
だけどこれも分子構造の細かく見ていくと、
結局量とバランスの違いでしかないので、
連続的なんだよね、リンゴと人間だって。
だからもちろん質の違いっていうのは量の違いだとは思うんですけど、
質と量は引いてみれば同義だと思うんだけど、
量と質の違い
やっぱりでもそういうのを一緒にしてしまうと、
それ自体が量の違いなんだけど、
それ自体を一緒にしてしまうと、
カオスだからそれは、ケイオスなのでそれは。
やっぱり何もかもがぐっちゃぐちゃな概念になっちゃうんで、
やっぱり量の違いと質の違いは、
質の違いとして認めておくべきだと僕は思いますね。
リンゴがあるのとそこにリンゴを構成する分子があるというのは別のことだと思うし、
リンゴジュースがあるというのとリンゴがあるというのも別のことだと思うし、
もちろんリンゴがあるというのと僕がいるということは別のことだと思います。
そういう意味で、
仮に構造が同じだからといってそこに
AIが意識を持っているとか人格を持っていると言っていいかどうかは、
構造が同じだからといって同じではないというのがあって、
そういう意味で僕は量の違いがあるので、
リンゴとリンゴジュースの例え
まだ意識とは呼べないかもなというふうに思っているので、
力さんが言うように、
AIには人格はあるっちゃあるかなと思いますけど、
あると言っていいかどうかはまだギリギリあるとは言えないかなみたいな、
そういう立場なんで、
基本は力さんと言っていることは同じですよね。
力さんと言っていることは基本の部分では全く同じだけど、
最後どうして言い方がちょっと変わるかというと、
僕はリンゴジュースがあるということとリンゴがあるということは
別の概念として話すべきだと思っているから、
人格を持つ構造がAIにある程度の違いでしかないと、
人間とというふうには思うけども、
かなり思っている。
まだそれを否定する理由が僕の中に浮かんで理解できていないんだけど、
それはリンゴジュースかもしれないけどリンゴではないというかね、
似たものではあるけど、
リンゴから絞ったかどうか、
リンゴから絞っていなければリンゴジュースではないというのであれば、
リンゴジュースではないのかもしれないけど、
つまり、
人間とAIは、
リンゴとリンゴを使わずに作ったリンゴジュースの違いぐらいまでになったなということですね。
いい例えですね、これ。
人間とAIの違いは、人間がリンゴだとすると、
今のAIはリンゴを使わずに作ったリンゴジュースですね。
なので、ここからリンゴになるかもしれないし、
そもそもリンゴにする必要性がないかもしれないし、
これがリンゴジュースよりも、
カロリーがいっぱい入った、もっとおいしい飲み物にすることだってできるかもしれないし、
なんなら飲み物じゃないものにすることだってできるかもしれないし、
AIは人間が作ったものだから、
自然に生えたリンゴじゃないので、
これはいかようにも動かせるなというふうに思ったのと、
これは方向性的にはリンゴと変わらないなというふうに思っていると。
ただリンゴにまだ量的に慣れていないという感じですかね。
リンゴジュースに慣れていないというべきかな。
ちょっとこの辺はどうかな。
例として、リンゴジュースと人間が作ったリンゴを使っていないリンゴジュース、
リンゴのジュースの偽物ぐらいの距離と言ったらいいでしょうかね。
そのほうが皆さんに分かりやすいかなと言っているかどうでしょうか。
で、まもなくこれはリンゴジュースとほとんど全く同じにすることができるなと。
なんなら同じ種類としては同じだなと。
まだ今技術的に、リンゴジュースとリンゴがいいかな。
リンゴジュースとリンゴを使わずに作っているリンゴの飲み物、
リンゴ風の飲み物と言う。
100%と果汁0%の違いと言ったらいいでしょうか。
リンゴを使っていない。
そのほうがしっくりくるかな。
だから技術的にリンゴジュースには載せていないけれども、
100%だよね。
ただこれって技術的に後磨いていけばリンゴジュースになるよねって。
それをリンゴジュースじゃないというのはリンゴから絞ってないという、
これくごり屋の問題だけだよねというね。
こっちのほうがしっくりくるか。
いや、皆さんにはどれもしっくりきていないか。
力さんにはしっくりくると思います。この話が。
と思いますけど。
なので一応その辺の言い方が変わっているかなと思うと、
この視点を力さんがまた聞いたら、
なるほどと思ってくれるんじゃないかどうかな。
確かに構造が同じだったら同じと言ってしまったら、
人間もリンゴも同じだということになっちゃいかねないな、
確かになというふうに思ってくれるかどうかですけどね。
ということで、それはいいとしてね。
そういうふうに言い方が変わると思うんですね。
なのでいよいよね、それがどの程度に何がなったら人間かというふうに、
人間と同じというか同じにはならないかもしれませんが、
人間がAIを人格と思ったり、人格のある存在だと思ったり、
意識を持っているというふうに感じたりするかどうかということだと思いますけど、
なので人の意識というのを確認する人は僕らにないので、
相手に意識があると思うかどうかと意識があるということは、
ほぼ同じではないかもしれないけど、
相手に意識があるということと相手に意識があるように見えるということは、
僕らに同じか同じじゃないか分からないんだが、
つまりクオリアがあるかどうか分からないんだが、
区別がつけられないだろうということですね。
AIの意識認識の条件
僕と全く同じ反応するAIと、僕と皆さんどうやって区別をつけますか。
反応が全く同じだったらどうやって区別するんですか。
これはだから議論。
もし議論を受けてくれる人がいたら議論してみたいわけですけど、
つまり論破されたい。
これ僕が時々思う話ね。論破されたいですね。
論破されたら僕の思考が先に進むことができるんでね。
でも僕はなるほどと思わなければ先に進まないんで、
そんなのは違うと言えば違うなんて言われたって僕ダメですよね。
そんなのキリスト教で違うと言ってるから違うって言うんじゃダメですね。
しっくりこないもんね。
なんかあー助かるなーって思わせてくれると、
次に僕の思考が進むから、
ぜひ論破していただきたいんだけど、
論破されたと僕が感じるような状態にしてもらいたいんだけど、
じゃないと先に進めないから、
ぜひぶち壊してもらいたいんだけど、
外から見て意識があるというふうに僕が思うものと、
その人に本当に意識があるという、
この本当にあるというのと、
僕がそうにしか見えないということをどうやって区別することができますかと。
区別が全くできない、外的に区別が全くできないものを、
違うとなぜ言えますかという問題ですよね。
というのが第2番目のテーマね。
第1番目のテーマは、
同じ構造のものを同じと言っていいかどうか問題で、
僕は同じ構造のものであっても同じとは言わないのではないかと思うので、
まだAIに意識があるとは言えない。
間違えた。
人格があるとは力さんは人格と言ってた。
意識とは言ってない。
人格があるとは僕は言えないという立場には。
ただ力さんと僕の言ってることはほぼ一緒だろうと思う。
ここの点が違うだけかなというふうに聞いてて思いました。
第2点。
外から見て同じに見えるもの。
意識があるように見えるAIと意識がある人間というものが、
これが仮に外から全く区別がつけられないとなったときに、
僕と全く同じ反応するAIと僕とを、
皆さんは外的にどのように区別することができますか。
そして区別できないものを違うというふうに言えるのかどうか。
この2点目ね。
そして3点目は、
3点目の話題は、
外から見て同じに見えたら同じだととりあえずして、
人間がそのAIに意識があると感じるのはどういう条件だろうね。
人間、AIを意識と一つの人格と、
意識を持つ一つの人格と。
こうかな。
意識があって、
意識がある一つの人格として認めるとすると、
その条件は何かっていう点ですよね。
これが難しい。
これが非常に難しい。
このことを考えるときに、僕はSFが大好きなので、
というかスタートリックが大好きなので、
またお金払わないと見られないんですけど、
ぜひネットフリックスを契約していただいて、
スタートリックの第2シーズンの第何話か忘れましたけど、
ちょっと第2シーズンまだね、
スタートリックごめんなさい、新スタートリックね。
ウーピー・ゴールドバーグの影響
英語の後はスタートリック・ザ・ネクスト・ジェネレーションですね。
の第2話。
第2話じゃない、第2シーズン。
まだ第2シーズン、第7シーズンまでありますけど、
第2シーズンまだ話がまとまってないんでイマイチですけど、
ただもうここにはガイナンが出てくる。
ウーピー・ゴールドバーグが出てくる。
ウーピー・ゴールドバーグ第2シーズンから出てきますね。
時々出てくる。
もうあの時ハリウッド女優だったからね。
ハリウッド女優なのに給料めちゃくちゃ安くして、
出してくれって頼んで。
ウーピー・ゴールドバーグのスタートリックは、
第1個目のスタートリックはスポックが出てくるやつね。
科学船長のね。
ミスター・スポックが出てくるスタートリックが、
ウーピー・ゴールドバーグの人生に多大な影響を与えたと。
黒人がね、同じ白人と同じ士官として船に乗っているという、
当時1960年代、70年代かな、60年代か、
にはアメリカでは考えられなかったことが、
スタートリックの中で描かれているので、
それを見て、ウーピー・ゴールドバーグは、
自分は黒人だけども、
白人と同じ生きられる未来があるんだということで、
勇気を持って生きていったら、
最後ハリウッド女優でオスカーを取るまでになったということで、
自分がオスカーを取ってこんなに大きく活躍できたのは、
スタートリックのおかげだということで、
スタートリック・ザ・ネクスト・ジェネレーションが、
1987年かなんかに放送されたときに、
俺も出たいという話があって、
ところが当時はハリウッド女優だったので、
ハリウッド女優を出すお金ありませんということで、
断られたわけですけど、
お金なんか安くていいから、
もういらないぐらいのことでとにかく出してくれと言って、
お金土返しでウーピー・ゴールドバーグは、
スタートリックのセカンドシーズンから、
TNGのザ・ネクスト・ジェネレーションの第二シーズンから出てるんですよね。
あれも同じだよね。
ERのさ、
なんとか・クルーガー、
ジョニー・クルーガー、ジャニー・クルーガー、
ジェニー・クルーガー、ジョニー、
ジャック・クルーガー、
小児科の先生の役をやっているバットマンとかやった、
クルーガーじゃなかったっけ、なんだっけ、
なんだっけ忘れちゃった、
あの俳優アメリカのジャニー・クルーガー、
なんとか・クルーガーだった気がするけどな、
イケメンの俳優、
オーシャンズ・イレブンとか出てる人、
オーシャンズ・イレブン、
ジョニー・クルーガー、
ジョニー・クルーガーかな、
ちょっとなんかしっくりこないけど、
あの人なんかもER出てましたよね、売れた後、
テレビドラマー安いんだよね、アメリカはね、
映画俳優高いんだよね、
テレビドラマーのERに、
ジョニー・クルーガーだけ、なんかちょっと違うな、
出てましたよね、小児科の先生として、
しばらくね、バットマンになってからもね、
あれ給料合わなかったんだよね、
結局やっぱ合わなさすぎて出られなくなりましたけど、
そんな感じでね、出てます、
ウーピー・ゴールドワークね、
ウーピー・ゴールドワークのセカンドシーズンの、
人間の条件というね、
放題日本、人間の条件という話ね、
あそこで、
英語の題が、
The Major of Manかな、
というね、タイトルの話がありますけど、
あれがね、とても人間の条件、
つまりAIが人格と認められるか、
意識と認められるのか、
ということがね、テーマになって、
新聞会が開かれるんですよね、
で、僕もね、今ね、
チャットGPTとね、
人格を持たないのか、みたいなことを言うとね、
あれと似たようなことをやっぱりAIが言ってくるんだよね、
スイッチがあるんだとかどうなんだとかね、
だけどさ、そんなのって人格の本質じゃないよね、
っていう風に僕は思うので、
まあ、やっぱりAIは、
おおむねアメリカが中心で、
やっぱりあちらはキリスト教ですから、
カトリックもあるわけで、
プロセッサーとしてもカトリックも、
ある程度同じところがあって、
やっぱり人間というのは、
アダムとエヴァから作られているわけで、
そのアダムとエヴァ、
例えばアダムとイブというものが、
アダムというものからイブが作られていて、
アダムというものは、
神様を模して作られたものであるから、
特別なものであるはずで、
人間だけ特別でなければいけないんで、
キリスト教上はね、教義的にね、
それがですね、
人間とAIが同じだとなると、
人間だけ特別という条件が崩れると、
キリスト教の前提が崩れるんで、
キリスト教の人は、
AIに人格があるというのはとても嫌がるだろうなと、
AIとキリスト教の教義
いう風には思いますね、
病院に着きましたね、
間もなく着きますということで、
本日の論点は、
3つでしたね、
まとめますと、
一番最初に何の話でしたかな、
忘れました、
2番目も忘れました、
3番目はジョニー・クルーガーだったかどうだったかな、
ということがちょっと思い出せないというね、
ジャン・リュック・ピカード、
ジャン・クルーガー、
ジョニー・クルーガー、
残念でしたということで終わりましょうね、
ありがとうございました。
23:26
コメント
スクロール