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【#276】「神楽坂で、座って揚げる。」新井均さん(神楽坂「天孝」店主)【前編】
2026-04-14 44:03

【#276】「神楽坂で、座って揚げる。」新井均さん(神楽坂「天孝」店主)【前編】

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▼神楽坂に、「座って揚げる」天ぷら屋がある──。


今回のゲストは、神楽坂の名店「天孝」二代目店主・新井均さん。

この店の特別さは、味わいだけにとどまりません。


芸者の住まいだった建物を活かした座敷で、目の前で一品ずつ揚げて供する。

しかも揚げ手までもが座して向き合う──そんな希有な「お座敷天ぷら」の文化を、今に受け継ぐ方です。


創業は昭和52年。

初代・新井孝一さんが神楽坂の芸者衆に見込まれ、この地で暖簾を掲げてから半世紀近く。

街の記憶、人との距離感、もてなしの作法、そして天ぷらそのものの美しさが、この一軒には静かに息づいています。


とはいえ、新井さんが最初から家業を継ぐつもりだったわけではありません。

若い頃には反発もあり、遠回りもあった。

伊豆での修業を経て店に戻ったとき、初めて見えた実家の仕事の奥行き。

そして父の不在を経て、ようやくわかってきたこと。


前編では、

・神楽坂天孝のはじまり

・「お座敷で目の前に揚げ場がある」という独自の佇まい

・初代の存在の大きさ

・二代目として店を受け継ぐことの重み

を中心に伺いました。


天ぷらの話であると同時に、

ひとつの街にしか育たなかった、ひとつの文化の話でもあります。


▼神楽坂天孝 公式Instagram

https://www.instagram.com/tenko_kagurazaka/


▼神楽坂天孝 公式サイト

https://kagurazaka-tenko.jp/


▼ゲスト略歴

新井均(あらい・ひとし)/神楽坂天孝 二代目店主。昭和52年創業の「神楽坂天孝」を継承。初代・新井孝一氏の背中を見て育ち、伊豆での修業を経て家業へ。芸者の住まいを活かした独自の「お座敷天ぷら」を受け継ぎ、神楽坂の伝統と対話の文化を今に伝えている。


▼インタビュアー略歴

早川洋平(はやかわ・ようへい)/1980年横浜生まれ。中国新聞記者等を経て2008年起業。羽生結弦、吉本ばなな、髙田賢三、ケヴィン・ケリーら各界のトップランナーから市井の人々まで、国内外分野を超えてインタビュー。13年からは戦争体験者の肉声を発信するプロジェクト『戦争の記憶』にも取り組む。『We are Netflix Podcast@Tokyo』『横浜美術館「ラジオ美術館」』『石田衣良「大人の放課後ラジオ」』等Podcastを軸にしたメディアプロデュースも多数。

https://yoheihayakawa.substack.com


▼最新刊『会う力──シンプルにして最強の「アポ」の教科書』(新潮社)

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▼Voicelegacy(Podcastプロデュース)

"本質のままの声"でつながる。

営業・採用・顧客育成まで、ひとつの番組で叶う。

数ではなく「深さ」でファンと関係を築きたい経営者や起業家の方に。

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▼初心者でもプロでも。

対話やインタビュー、アポのとり方を学びたい人のための

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感想

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00:29
今日は神楽坂天皇2代目店主の新井ひとしさんにお話を伺います。
新井さん、よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
さあ、お話を伺いますということなんですが、例のごとく、今日はですね、僕の方からまた馳せさんじましてですね、この神楽坂天皇のこの部屋は何て言ったらいいんですかね?
うちの店は、正式神楽坂天皇って言うんですけど、もともとうちの親父が初代で、お座敷天ぷら神楽坂天皇っていう名前でやってたんですよ。
お座敷天ぷらって言うんですよ。
はいはいはい。
ここが一番、その今話してる場所がメインのお座敷なんですね。
まさに。
で、お座敷って言うと一般の人って言うと、畳がバーンってあって、そこにこうちっちゃいテーブルというか、
チャブ台じゃないけどね。
そう、そういうのがあって、で、こう料理が運ばれる。で、天ぷらもそこから運ばれるんだろうっていうふうに思われてる方がいっぱいいるんですけど、
でも、うちはその天ぷらって基本はお寿司と一緒でカウンター商売じゃないですか。
目の前で寿司を握って出す。
確かに。
天ぷらを目の前で揚げて出す。
で、お座敷で運ばれてきたら、あんまりちょっと面白みがないっていうかさ、ちょっと半減しちゃう。
もう出来上がったものをね、みたいな。
そう、極端な話はね。
だから、そこでうちの家はお座敷だけども、目の前に揚げ場、今も多分目の前に揚げ場が見えると思うんですけど、
この揚げ場を作って、それでお座敷だけども、そこで天ぷらを直接提供するっていうのがこの場所なんです。
ありがとうございます。まさにその天候のユニークさなんかもこれから伺いたいと思うんですけど、やっぱりまずそこが一番ですね。
そうですね。
実はですね、私自身が今年最初にですね、ある方に連れてきていただいて、ここを体感させていただいた時に、まさにこのお座敷のスタイルにちょっと衝撃を受けましてですね、
もちろん天ぷらの美味しさも去ることながら、このスタイルと、
新井さんご本人にもお話ししたんですけど、天ぷらって言うとやっぱり正直もたれるみたいな美味しいものでもあったりとかしたので、ちょっと翌日とか心配だったんですけど、
もたれるどころかですね、体重が痩せた。これ別にそんたくしてるわけじゃないですしね、あれなんですけど、ちょっとびっくりしたので、
その辺も含めてね、当日ね油のちょっと秘密なんかも伺いましたけど、
まあ先生ながらね、天皇さんすごく有名なんですけど、僕は勉強不足でちゃんと存じ上げなかったんですけど、いろいろその後調べさせていただくと、
03:00
もう本当にこんなカジュアルに話させていただくのをね、もうあのちょっと恐縮するぐらい伝統、そしてね、この確信もあるお店ですので、
僕のほうから無理してですね、今回ね、改めてインタビューの機会をいただいたんですけども、改めて今お座敷のスタイルの話がやっぱりまず第一に出てきたので、
そこが一番ユニークというかね、まず聞いている方にもイメージ少し湧いたのかなと思うんですけども、改めてそのお店紹介というか、
お座敷のスタイル以外にも当然2代目として、こういうところがすごくこだわっているとかありますか?
そうですね、あのお店の紹介っていうとですね、私自身は今2代目なんですね。
初代新井光一、私の父親なんですけども、それが49年前にこの神楽坂で創業しまして、
今まさしくこの場所というか、この建物自体が元々神楽坂の芸者さんが持ってた建物なんですよ。
で、そこでなんでこの場所になったかというと、うちの親父初代の父親が元々天ぷらの職人で別の場所でやってたんですよね。
どういう企画かわかんないんですけど、腕がいい美味しい天ぷら揚げる人がいるよ、あのお店にいるよっていうのは口コミじゃないですけど、
当時はスマホとかなんもないから、それが口コミで広がって、神楽坂の芸者さんとかもために来るようになったんですよ。
あるときそしたらそこをもちろん職人だから雇われてて、
ちょっとオーナーが辞めるっていう話になって、うちのやつがもう辞めることになっちゃう。
だから挨拶に行ったんですって、常連の人たち。
芸者さんの人に行ったら、そしたらその芸者さんの方があんた腕いいんだから神楽坂に来て商売しなさいよって言われたんです。
その当時もう49年前だから、神楽坂って東京で言えば下流界、要は花町、芸者さんがいる場所なんですよ。
うちのやつもやっぱ敷居が高い、そんなところ神楽坂に行ったってなんもないしお金もないし、どうしたらいいんですかって言ったら、
じゃあ私が住んでる建物の1階部分を貸すからそこであんた商売しなさいって。
それを言ったのが当時神楽坂の芸者さんだったんですよ。
当時は2階に芸者さんが住まわれて、1階のうちの親父と後、お母さん、母親は通いでこう来てたんですよ。
最初に建物の背景が素晴らしいと、でも全くの住居だから、もちろん造作して作って、
06:06
このお座敷とカウンターが6席ぐらいあるんですけど、それを作ったんですね。
カウンター、普通天ぷらとか寿司ってみんな立ってあげたり立って握ったりとかしますよね。
うちの父がこのお座敷を作った時に、多分今早川さん見てわかると思うんですけど、立ってあげるスペースないんですよ、実を言うと。
確かに。
なぜかというと、これ聞いてる方多分想像でしかないんですけど、床の下に普通の民家だったから、いろいろガス管だとかそういうのがあったりして。
ありきで作ってるわけじゃないですもんね。
そうなんですよ。もともと住居だから全然抜けれないんですって。
どうするのって話になった時に、座って製作してあげるっていうふうに思いついて。
それはお客さんが、これ今足入れで掘りごたつになってるからお客さんは楽なんですけど。
そこで初めてそういうのがお座敷天ぷらって無理矢理やろうがわからないけど。
うちの親父は多分後付けだと思うんですけど、お客さんも座ってるんだからこっちも立てたら失礼だろうみたいな。
あげる方もお座敷スタイルでね。
そうっていう風にしたらしいんですよ。
本当うちの親父よくやったなと思って。
でもそれが今逆に、多分こうやってやってる天ぷらってないんじゃないかな今、全国。
聞いたことないですね。
だけどね、非常に効率悪いっていうか、本当に。
でもやっぱりみんな外国のお客さんも上位ですからね。
すごくやっぱりそれを、天ぷらも本当に、早川さんも今美味しいって言っていただいてたんですけど、
外国人も来たお客さんも、こんな見たことない素晴らしい、これはエンターテイメントだって言ってくれる人もいっぱいいるんですよ。
逆にその、なんて言うんですかね。
煩わしさが逆にこううまく、珍しさっていうか素晴らしい。
ザ・日本じゃないけど、座ってあげるっていうのは、それは逆に今ありがたい。
正直大変ですけどね。
大変ですよね。
僕すみません、今日実際この部屋来るの3回目くらいですけど、
あげる方の方がぼーっとしてこっちは満足してるだけなんで、
そっちも立てないっていうのは、言われてみれば確かにそうだなって今気づきました。
そうなんですよ。
これ実際の、来ていらして、見てからなんとなく想像つかないと思うんですけどね。
09:01
今ね、外国の方もってありましたけど、せっかくなんで、あえてこうわかりやすく言うと、
やっぱりね、価格も当然それなりとか高級だと思いますし、
来てる方もやっぱりね、有名有名、老若男女いろんな方いらっしゃると思うんですけど、
やっぱり結構そういう接待だったり、
生財界の方ってこういう言い方がちょっといいかわかんないですけど、
でもやっぱり海外のセレブだといろんな方来ていらっしゃるんですか?
そうですね、やっぱりそのうちのお座敷テンプラっていうのは、
要は貸切、個室になってるんで、
いろんな方本当に来てますね。
例えばなんですけど、結構オープンになってるのは、
ニコラス・ケイジさんと、
あとレオナルド・ディカプリオ。
結構やっぱりコロナで一旦離れちゃったんですけど、
でもニコラス・ケイジさんなんかは、
うち49年なんですね、来年50年目に迎えるんですけど、
もうたぶんうち通って20年ぐらいになるんじゃないかな。
当時ああいう方たちって、
ほぼほぼ日本に来る時って、
自分の映画のプロモートとかで来たりするんですよね。
もちろん映画会社さんとかが接待してするんですけど、
もちろん限られた時間の中で日本に来てるから、
本当に分刻みのスケジュールなんですよね。
一回本当に面白い時があって、
必ず日本に来るたびにうちに来ていただけたんですよ。
もちろん映画会社の方たちがちゃんとセッティングして、
今晩のディナーはこちらですよ。
必ずうちの天候っていうのを入れていただいてたんですね。
だけどある時、どうしてもスケジューリングが合わなかったらしくて、
うちに来れなかった時があったらしいんですよ。
でも、どうしても日本に来たら天候に来たいっていうのがあったらしくて、
本人が、リブラスケージさんが、
スタッフ通すんじゃなくて、
ホテルのコンシェルジュから電話が来て、
内面ホテルのコンシェルジュの何とかと申します。
実を言うと、外国の方が1人で天候さんにいらしたいと。
受け入れ可能ですか?もちろん大丈夫です。
実を言うと、リブラスケージさんなんですよ。
大丈夫です。リブラスケージさん、うち常連ですから。
話をして。
それで、お待ちしてますって言ってきたんです。
そうしたら、すぐ5分後くらいに電話がかかってきて、
すみません、リブラスケージさんSPしてるもんですけども、
本人1人で行くって言ってるんですけども、
私たちはSPしてる関係上、1人で行動させるわけにはいかないので、
12:02
キャンセルしてくださいっていう話があって、
そこまでして来たいっていうのがあったんです。
嬉しいですね。
2日連続で来た時もありましたよ。
それはよっぽどですね。
よっぽどでしたね。
言うまでもなく、あのクラスになればあらゆるところでおいしいもの食べて、
当然天ぷらも食べてると思うんですけども、その彼をもってして。
そうですね。それでまた面白い話があって、
やっぱりハリウッドのムービースターじゃないですか。
みんな写真撮ったりとか、サインしたりとかしてるんですよね。
そしたらリグワース刑事さんが、
僕のお父さんに天ぷらマスターのサインが欲しいって言って、
うちの兄貴がリグワース刑事にサインしてあげたんですよ。
えー、すご。してあげたって言いますね、確かにね。
それでリグワース刑事さんが、もうこれは素晴らしい。
カホにしようって言って、それを持って帰ったっていう、そういう話もあるんですよ。
ラスト侍ぐらいの勢いなんですか、向こうからすると。ラスト天ぷらマスターみたいな。
ほんと面白いですよ。
そんなね、ビップもとぜこのお店なんですけど、
今はまさに2代目っていうことで、創業が49年。
私のリサーチが正しければ新井さんも57、8ぐらい。
今年8位になりますね。
となると、ちょうどギリギリって言ってもいいですか、物心ついた時が9歳ぐらいとか、
そのくらいの時にお父様がここでっていうことだと思うんですけど、
その辺の時の記憶とかってあるんですか。
ありますよ。
結構鮮明に。
そうですね。当時あと、うちの親父、ある人のお店で高田のパパにもお店出してたんですよ。
そこは最終的に職人の方にあげちゃったんですけど、
すごくそれはね、うちの親父が神楽坂と高田はタクシーで行ったり来たりしたのを覚えてたんですよ。
両方そうか。
あとは、やっぱり市場とかに仕入れ行くじゃないですか。
夏休みとかは結構うちの親父、市場に連れてってくれて、
それで市場でご飯食べて、お店に来て仕込みしたいとか、っていうのを覚えてますね。
今のお話に伺うと、もちろん2代目でし先代、そしてお父様なので、やっぱりいろんな思いがあると思うんですけど、
僕個人的にはですけど、ぶつけてインタビューしてます。
お父さんをすごいリスペクトして、大好きだったんだなっていう感じがするんですけど、
当然親子なんでいろいろあったと思うんですけど、これ実際すぐ継いだわけじゃない。
15:02
いや違うんですよ。正直言うとですよ。
ぜひお願いします。
それこそ思春期の頃なんて、親の言うことなんて誰も聞かないでしょ。
どこ行くあれと一緒ですって、どこのお子さんたちと普通ですよ。
今でこそこうやって和食がこんなにブームで世界的に注目されてるけど、
昔はそれこそもう本当に何言いたまえとか格好悪いとか、そんなんでしたからね。
極端な話言っちゃうと、今の若い子たちとも一緒で、
かっこいいアイドルになりたい、役者になりたい、プレ野球選手になりたい、僕もそうだったから。
とりあえずニコラスケージ側の方ね。
だからもうそういう中で絶対天ぷらなんかやりたくないってもうそうでした。
そうですか。
でもそれがどこかで当然変わってというか。
でもすぐ着いたわけでどっちにしてもない?
違うね。それはね僕ね、結構ちょっとやんちゃで、高校途中で辞めたんですよ。
それやんちゃですね。言える範囲でどんどん言っちゃってくださいね。
いやいや全然やっちゃったわけじゃない。
学校に行くのがもうめんどくさくて。
で、そういうことが経てね、今あるんだけども、当時ね、なんだろうな。
今思うと多分、俺はさっきも言ったけどやりたくない、かっこ悪い。
でも結局後継げばいいんだろうからと思ってたら学校辞めちゃったんですよね。
そこが逆にあるからみたいな。
いずれやるんだろうみたいな。いずれやらなきゃいけないんだろうっていうのは多分、
普通にもし何もなければみんな自分で勉強していい、大学行っていい、会社に勤めてってやっぱそういうのあるじゃないですか。
そういうこと一切考えてなかったからね。
だからもう本当に、何だろう。いずれこの店に次がいいんだろう。
親父にやって、天ぷらちゃちゃってあげりゃいいんだろうみたいな感じで思ってたんだと思うんですよね。
でもとは言うけども、やっぱり素直に親父に言うことも聞きたくないし、
すぐ店入るのも嫌だし、ある程度修行だとあるじゃない。
そうですね。
そういうとこなかなかやっぱり行けなかったんですよね。やっぱり嫌だし、かっこ悪いしおっかないしさ。
それでいろいろバイトしたりとかしてフラフラして。
高校辞めてから。
それこそ22、3ぐらいのまで。だって本当に当時ね、仲間とか、僕らの時代はディスコブームだったんですよ。
なるほど、なるほど。
マハラジャとか。
ちょうどバブルの。
そうそうそうそう。だから僕らの先輩たちが、本当バブル絶好調で。
18:00
本当にサツタマでタクシーみたいな感じですか?
サツタマっていうのじゃないんだけど、六本木の交差点とかね、タクシー捕まえたら一枚サツタマですよね。
それで泊まるでしょ。六本木交差点からあそこ、アザブジューマンまで行って、アザブジューマンのマハラジャ行くまでに一枚渡して、お釣りいいからアザブジューマンまで行って。
それは本当なんだ。
本当、それこそワンメン、千円いかないぐらいでしょ。
渡りいいっていう感じで。で、先輩とかに連れ合えてさ。で、その時にね、まああの、ちょっとこれ面白い話で余談じゃないですか。
全然いい。
マハラジャで、ハーゲンダッツのアイスクリームあるじゃないですか。
あれって一番最初、確かねマハラジャで出してたんですよね。
そうなんですか。
マハラジャってあの、確かね、男性がね、いくらだっけな。入場料があって、5000円したかった、5000円。
ちょっと忘れたけど、それであのドリンク、ツードリンクチケットをくれるんですよ。
で、それでね、当時ね、そのハーゲンダッツのアイスを食べたいがために、そこでチケット買って、それがね、すごく印象に残る。
なんか純粋なのか不純なのかよくわかんないですよね。だってそのために5000円払ってたみたいなね。
でもめちゃめちゃ面白かったですけどね、当時。
そういう時代で、なんかこう黒服になりたいとかDJになりたいとか、すごくそういうのかっこよく思えちゃったんですよね。
でも結局何も中途半端で就職をしないで、そうしたら本当仲良かった奴が、今で言うできちゃった結婚じゃないけどさ、子供できちゃったんですよ。
で、それ結婚して父親になるわけですよね。20いくつだろうな、3、4ぐらいかな。
で、それでなんかその姿見ててさ、俺何してんだろうなと思って、なんか俺一人で成長してないなって。
それでうちの親父に、当時がちょっとお店手伝って出たり出なかったんだけど、ちょっと俺このままだと良くないからさって言って親父に行って頭下げて、ちょっとどっか紹介してくれって言って。
それでその時に、伊豆の下谷温泉ホテルがあって、めちゃめちゃ大きいんですけど。
で、じゃあお前そこ行くかって言って、俺調理所知ってるからって言って、そこに僕修行に行ったんですよ。3年ぐらいかな。
で、その時に思ったのが、何もできなかったってことはわけじゃないですけど、いろいろ盛り込み、それこそ本当に修行ですよ。盛り込みしたりだとかして、魚切りつけたりとか刺身切りつけしたりとかして。
21:13
本当に当時は300人ぐらい入るホテルだったんですよ。それこそ夏とか忙しいからいいんですけど、オフシーズン10月とか農学の時とかあるじゃないですか。
その時安い団体客とか入れるんですよね。安い団体客とかの料理って、ここだけの話ですけど、冷凍物なんですよ全部。
冷凍物とかしてそれを盛り込んで、はいっていう感じなんですよ。こういう世界もあるんだなと思ってて、普通に日々重ねてきて。
それで3年ぐらい経って、あることはきっかけにうちの店に戻ってきたんですよね。
で、うちの店に戻ってきた時に思ったのが、そのうちの店の食材を扱っているものが、もう一級品ばっかなんですよ。すごいのばっかなんですよ。
で、僕はそれを改めて見て、うちの店すげえな、こんなの扱ってんだって初めて思ったんですよね。
だって片屋、冷凍物しか扱わなくてさ、戻ってきたら自分の店でこんなの、すげえ店、こんなの扱ってんだみたいな思ったんで。
一回出たからこそわかった。
それまで行く前はなんとも思わなかった。
最初に頭下げて、修行というかそこを紹介してお父さんに行った時は、お父さんはやっぱり嬉しそうだったのかとか、そもそもそれまでの数年というかね、5、6年かわからないですけど、ちょっとフラフラしてたわけじゃないですか。
今までツゲみたいにそういう言ってきたりプレッシャーをかけるみたいなのは一切なかったんですか?
うちの親父じゃなかったね。うちの親父も中卒なんですよ。千葉の坊主半島の千倶楽というところに生まれて、6人兄弟の一番末っ子で漁師の家だったんですよ。
なんで東京に出てきたかというと、うちの一番末っ子で長男、次男、長女、次女、三女、三男。
で、お兄さんがずっと漁師やってて、手伝うじゃないですか。漁師の家に生まれてくせに船酔いしたんです。
船酔いするんで、それでもう嫌で、当時その中学卒業とともに東京に出てくるよって話になった時に、向こうの方でいろいろ就職場所をあっせんするんですよね。
24:16
で、当時東京に来た時に親父が言ってたのは、2種類の店舗があって、一つは布団屋さん、もう一つは魚菓子だったんですって。
そしたらうちの親父、迷わず魚菓子を選んだんですって。今で市場ですよね。で、なんでなのって言ったら、もしね、食うことに困った時に、布団は食えないけど魚だったら食えるわって。
文字通りね。そういう時だったらしいんですよ。そこで市場でずっと仕事してて、たまたまそこに取引先だった天ぷら屋さんがあって、そこの大将に認められて、うちの親父なんかうちでやらないかって話になったらしくて、それが最初天ぷら始めたきっかけらしいですよ。
じゃあその中で戻りますけど、戻ってきて、超一流とか一線の魚って、それでそのまま修行先から引き上げて戻ってきて、これやっぱりあることがきっかけで戻ってきてって言ってたんですけど。
まあ普通に結婚して、アライさんもね。それで子供ができたってことですからね。
でじゃあ戻ってきて、その時は、これ聞いてる方あれですけど、今もうお父様はもう亡くなりになられて。何年くらい前?
もう4年ですよ、今年で。
そっかそっかそっか。じゃあその4年前にってことだと思いますけど、いわゆるアライさんが2代目を就命って言いますけど、はいつ?
あのね、なんだろう結構あの今色々その職人っていうかその店主さんとかさ、お寿司屋さんとかも天ぷら屋さんもそうだけど、結構子がかなり目立つじゃない?
うちの家もそうだったんだけど、意外とうちの家ってあんまり言葉発しないし、自然とこうなんですかね、スルースルーってわけじゃないけど、結構うちの俺になんかどんどんやれみたいな感じで。
で、なんか自然とそういう形になったんだよね。
あーなるほど。
だから、今色々お店屋さんでもさ、なんかそのどこそこのないないさんです、テレビ出たりとか色々やってるじゃん。で、もちろん後継もいるけども、結構それがかなり強調されちゃうと後継大変だなってすごく思うんですよ。
27:06
でも、なんかね、自然とそういう形になったの。なんか親父のキャラと結構僕のキャラ全然違うんですよ。親父あんまり喋んないし、意外と寡黙に天ぷらあげてる。僕は結構フレンドリーに話しちゃうし、たまにうちの人がお前喋りすぎだって言われてたんだけど。
だから、なんかいつの間にかお客さんの前で、親父と俺と一緒にいても結構僕がお客さんと話したいなとか。そんな形になって、なんかいつの間にか2代目っていう形になってきたよね。
なるほど。そういう意味ではね、厳密な境目はなかったのかもしれないですけど、やっぱり逆に当然その偉大な1代目じゃないですか。客観的に見ると。その時にやっぱりそのお父様のいろんな配慮もひょっとしたらあったのかもしれないですけど、その2代目としてのプレッシャーとかなんかそういうのはあった?ある?
一番最初にね、今でも忘れられないのがね、うちほとんど常連のお客さんばっかじゃないですか。うちの前から本当に、それこそ創業の時から来てくださるお客さんとかに、いいからお前やれよって言われて、うちの家が後ろで見ながらやった時あんだよ。もうそれはね、めちゃめちゃ緊張してた。
それはそうでしょうね。
でもまあもちろんお客さんはあんまりいいこと言わないけどさ、でもまあ嬉しかったのかな。でもそれもすごくありがたくて、そういうきっかけがないとやれないじゃない。
そうですね。
自分からやらせてくださいなんて、もちろん親父がいてね、親父のお客さん相手にそれで俺があげて同じお金もらうなんてさ、とてもじゃないけどさ、そんな考えれないからさ。
でもさてお客さんの方からなんかこう、自分を育ててくれる。うちの家なんか一切なんも言わないからね。本当に昔の職人ね、見て覚えろっていう。
だって親子だからさ、店にさ、いっちゃいちゃ親子だから逆で、もっとこうした明日があったらいいよとか言えばいいじゃん。何も隠す必要ないじゃん。一切言わないから。
まあそうは言っても、今振り返ったら別に直接こう印象的なエピソードじゃなくてもいいですけど、なんかこう今のこの天公二代目としてでもいいし、ひょっとしたらまあ親と息子でもいいんですけど、なんかこれだけは親父のこれ教えだったかもなみたいなことってあえてあげるとしたら何でしょう?
何だろうな、でもね、いつも間にお袋が入るんだけど、でもぼそっとねお袋から聞いたことがあって、なんか親父が俺が人史って呼ばれてたんだけど、なんか旦那さんがね、この間ね、いやもう人史の方が上になったなってぽそっとこの間言ってたわよってね、すごくそれはね本当に涙出るぐらいな感じだったけどね。
30:12
だけどね、あとその親父の偉大さっていうか、親父ってとにかく休んでいいよ、とにかく疲れてるんだからたまにはゆっくりしない?って言っても必ず店に行くんだよ、毎朝。
で、「なんだよ、疲れてるでしょ、まあいいんだよ俺は。」で、上に自分の親父の部屋があるから、そこにずっといるのね。で、お客さん来て入るじゃない。で、終わりましたと。で、また疲れたら帰るよね。
で、それでまた次の日来てるんだよね、当たり前だけどさ。で、まあ親父が4年前に他界したじゃない。で、ここに入るようになったじゃん、僕が。そしたらね、なんか親父の目線がすごくわかったのよ。親父を見てる風景が。
これは親父が店に来る意味わかったわ。やっぱりね、お客さんとね、相対して話してるのがすごく楽しいの。
やっぱ対話ですよね、まさに。
そう。で、それで自分がこう天ぷらをあげて、それをお客さんにあげて、おいしいおいしいって親父が言ってるのって、やっぱね、それがすごい嬉しいのよ。
だからね、やっぱこの晩なんないとほんとわかんなくて、なんかほんとに生きてる間は何も言わなかったけど、なんかそれでいなくなってからわかったことってやっぱりいっぱいあったね。
ほんとそれがね、すごく印象的。
お父様は、その4年前にってありましたけど、亡くなられるまで結構、まあまあそのご病気とかってあれですけど、どのくらい前まで、つまりお仕事は?
まああのね、うちのうちね、めちゃくちゃ言うとガンで死んじゃったんだけど、めちゃめちゃせっかちでさ、せっかちなんだけど、死ぬのもたった3ヶ月で死んじゃったんだよね。
だからそんな死ぬときまでせっかちになる必要もなかったんだけど、結局その、まあ見つかって手術して、6月かなんか見つかって、手術して10月ぐらいにリハビリずっとしてて、もう一回やろうっていう感じになってたんだよね。
でもそしたら転移しちゃって、1月の3日に行っちゃったんだけど、その転移見つかったのも11月の後半ぐらいかな。ほんと11、12、3ヶ月経ってないからね。
じゃあその間までお仕事してた?
手術が8月にあって、5、6って5月か6月ぐらいまでごもかしごもかしやってたからね。それで本人もリハビリ終えてやるつもりでいたからね、84だけどね。
33:07
すごい、そうか。
ほんとに。
じゃあまあ変な話ですけど、本人もそんな早くとはひょっとしたら思ってなかった。
そうそうそう。それはね、ほんと元気だったからさ。
あのその時に、実際お父さんも亡くなって、正真正銘って言うんですかね、2代目ってなって、このお座敷のあげるところに通して。
そうすると細かい話ですけど、お父さんがまだ立ってらっしゃる時は、このお座敷のここであげるのはなかった?
基本的にはサポートだよね。
そのメインはうちの親父がやって、後半ちょこっとうちの親父がもうやっぱ疲れるじゃないですか。
そうですよ。
ちょっと変わってくれみたいな感じで。それで後半入ったりとかするんだけど、結局ほらお客さん側も、結局その
変わった2代目って、変わってからそこ、まあ親父がいて、それでわかんないけど、変わったんだなっていう感じで当時は見てるじゃないですか。
だけどもう今は、もう頭から僕だから。
そうですよね。
ただそれも多分お客さんの捉え方も違うんじゃないかなと思うんだよね。
今まさにね、その話ありましたけど、やっぱり冒頭からもやはりここはお座敷天ぷら、あらゆる対話が好き。
まさに今日もこの場所を介してお座敷トークしてるわけですけど、やっぱり今聞いてて思ったんですけど、基本的にここのこのお座敷であげるのは店主ですよね。
基本は、っていうか、あとカウンターと、あと2階にも今あげ場を作ってて、全部に3つあるんだよね。
で、基本的には僕が最初に全部あげるようにしてます。
で、うち1人、僕の2番料理長がいるんだけど、彼にもお客さんがついてるから、そこはもちろん彼のお客さんで最初からやらせるけど、基本は全部僕が回るような感じ。
やっぱりここのお座敷であげるっていうのは、もちろんこの天候としての、ある意味一番、他の場所も大事ですけど、なんかもう目が鼻じゃないですか。
だし、来てるお客様が期待してるところもあると思いますけど、やっぱりすみません、先生なんか思うのは、ここであげるっていうのは単に天ぷらあげるのがうまいとか、それだけじゃなくて、
まさにその総合力というか、単純に喋りがうまいとかそういう話じゃなくて、
ホスピタリンですね。
まあトータルの意味での言葉はコミュニケーション力になっちゃうと思うんですけど、だから誰でもできるわけじゃない。
当時はね、うちの親父に言われたのは、とにかく新聞嫁って言われた。
ああ、ここだとそれは求められるかもしれない。
でも新聞嫁って言ったってさ、ほんとカツジとか嫌いだからさ。
このビフォー荒井ひとしは嫌いそうですね。
でもね、それもなんかね、やっぱこの座敷で入ってお客さんと会いたいするようになったから、毎日じゃない。
36:03
なんかね、新聞嫁って言った意味がやっぱ分かるんだよね、いろいろと。
それが楽しいのよ、いろいろ。
要はほら、会話とかってさ、キャッチボールじゃん。やっぱり理解ができてないとさ、整理しないしさ。
そうなんです。
で、言うと本当に有り難いことに、もうすごい方たちばっかりでさ。
ここだけの話っていうので言えないここだけの話いっぱいあるわけですよね。
あるんですけども、そういう話についてくるの必死でさ、
僕のレベルの話は逆にこっちのお客さんたぶんついてくるの必死だと思うんだよね。
だからそれがね、うちの親父がね、新聞嫁って言った意味はすごいなんか、改めて入ってみないと分からない。
そうですね。
ちょっとね、今の話も出てきたんで、世界というかなんて言うんでしょう。
やっぱりその2代目、そして一緒にお父さんと働かれてた時もそうですけど、
僕がやっぱり今新井さんとこの転校でキーワードっていうのは、やっぱり伝統と革新。
変えるべきものを残すべきものを、いろいろ考えられながら試行錯誤して現在進行形なのかなと思うんですけど、
やっぱり2つ、シンプルにさっきのお店の紹介にもありましたけど、もう少しそこのところで詳しく、
いわゆる料理もそうですけど、お店もね、ここの神楽坂転校だけじゃなくて、
いろんな場所にちょっと出店って言っていいのかな。あと期間限定とかいろいろあるじゃないですか。
今もう閉じちゃってるのもあると思うんですけど、その辺過去のもの、今やってるもの、これからのもの、いくつかもしどんな感じでやってるのか。
この間はね、先月1月は神奈川に東京ホテルさんがありまして、そこで3日間限定でイベントやったりだとか。
今までは、あと海外とかでもね、いろいろサンフランシスコでもやったし、
あと国のね、クールジャパンの一環で、パリとかイタリア、ミラノ、ミラノは万博とかだけども、その辺一応天ぷら代表という形で行かさせてもらってましたね。
すごい、それは当然この転校さんとしての伝統と実績あるからだと思うんですけど、もうあれですよね、最初に、
原井さん、ナパとか、ナパバレーとか。
一番最初はそうね。
2010年ぐらい。
その時に、アメリカのサンフランシスコ、ナパバレーに、CIE、カリナリーインスティートオブアメリカっていう、料理大学が通称CIE、なんかの秘密じゃないですけど、あるんですよ。
で、料理大学すごく有名で、ものすごい入学金もめちゃめちゃ高いとこで、言えば本当に料理の界の灯台じゃないけど、そこで毎年1回テーマを持ったイベントがあって、2010年の時に、
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日本食?2010年は和食だったんですよ。で、それこそ京都の方からも、キクノイさんとか、キッチョーさんとかヒョーデイさんとか、みんな素晴らしいシェフたち呼ばれて、東京から押し寄せられたキューベイさんとか、あとフレンチのそれこそミクニさんもそうですし、
ミクニさん、あとキヤチさんとか、みんなそういう人たち呼ばれてて、で、天ぷらで僕も呼ばれたんですよ。で、東、東京と西合わせて全部で40人ぐらいのシェフが行って、それこそ3日間、
日本食はこうだこうだっていうワークショップやったりだとか、勉強会して、現地の人とか、それこそでもアメリカ人じゃなくて、いろんなとこから結構こういうのがあるからっていうので、結構期待とかしてて、で、素晴らしい経験でしたね。
でもなんかね、2010年です。今が15年前か、16年ぐらい前になっちゃうんだけど、当時ね、天ぷらに対する認識がね、全然低くて。
本当ですか。もう寿司天ぷらのセットじゃないんですね。
違う。認識がね、めちゃめちゃ低かったんですよ。だから、それでなんて言ったらいいんだろう。本当にその天ぷらに対する認識が低くて、
単なるフライ?フリッターとか外国人がしたら。
揚げてるけどね。そこ一緒にされちゃうとね。
そうなんですよ。それがね、本当になんだろうな。それから僕ももっと海外へ向けてのっていう天ぷらの認識が変わってきましたよね。
じゃあ、誤解をそろえずに言うと、世界へ出ようとか出たいっていうよりも、もちろんそれもあったかもしれないですけど、それがショッキングで、逆に歓喜されたみたいな。
そうなんですよ。で、向こうもいろいろすごく料理大会が何でもありますよと。で、いろんなものを用意してくれたんですけど、ほとんど使えなかったんですよ。
素材が?
そう。一番困ったのは小麦粉ね、薄力粉。卵一つとっても違うんだから。日本ですごい恵まれてるから。
これはなんかもう、本当どうしたらいいのかなっていう感じでいて、当時その時42代いろいろシェフいっぱい来て、みんないろいろ協力してもらって日本から取り寄せたりだとか。
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結構大変でバタバタだったんですけどね。でも本当ね、それがあって、今でこそそのみんな仲間、みんな今でも繋がってますけど、やっぱりそれがきっかけで世界への見方が変わりましたよね。
要はそこのアメリカの最初に用意されてた小麦粉とか卵だったら、天ぷら作れないですね、極論。
フリッターになっちゃう。
こういうレベルなのかと思った。
やっぱりそのショッキングなこともありつつ、実際その後もね、さっきも少し出てきましたけど、いろんなところで普及活動。
海外とかニューヨークとかパリとかミラー。なんかその中で逆に海外でそうやっていろいろ普及活動していく中で、気づいて逆に自分ご自身のこの天候というかね、日本で天ぷらをこのお店でやっていくことで、新たにインスピレーションをもらったとか、海外に行くことで。
すみません、ちょっと抽象的で恐縮なんですけど、あります?
あのね、なんて言うんだろうな。
まあ、そうだな。今、海外でやることに対して怖さはほとんどないんだけども、今かなりいろんな流通とか全部すごくいいからさ。
ただね、やっぱり海外でもアジアもそうだ。アジアとやっぱり北米とか欧米とか違うんで、北米の人たちってカウンターでダイレクトに会いたいするっていうのはあんまりないんだよね。
ファインダイニングって言ってほとんどテーブルサービス、ウェイターさんがいたりして。
確かに。
そういうのがほとんどで。
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