そりゃそうじゃんっていう気持ちかな。でも便利さも欲しいみたいな。
例えばお弁当の話が例に出ると、僕はお弁当作りみたいな工程はなるべく省きたいわけですよ。
得意じゃないから。得意じゃないから、できるだけ省きたいなって。
省くことで僕がご機嫌でいてくれるほうが子供にとってもう便利って大きいんじゃないかなとか思ったりするんですよ、例えばね。
だから情緒はどこにあるかっていうと、お弁当作りそれ自体というよりは関わりの中にあるのかなっていうのと。
あとは、例えばお弁当作りに情緒を子供側が感じるかどうかって、
子供側の心の話だからコントロールできないと思っている部分と、
あとは、情緒を感じ取れるだけの素地、余裕だったりっていうのが前提にもあるから、
情緒を見出すって、贅沢な心抜きと涙な、そしてそれがなくなっちゃうのは貧しい気がするなぁとは思いましたね。
そうですよね。
情緒あるよねーみたいな。会話するかどうかを置いておいて、あ、なんか情緒あるよねーみたいな会話ってことでしょ。
たぶんAmazonのインターフェースについて情緒の話はしないですもんね。
しないっすね。
情緒とかないほうがいいじゃないですか、むしろ。
Amazon派の人って楽天、ノイジーであれよくないよねーみたいなことを思って、
でも楽天を評価する人は、あのノイジーさがそもそも購買行動を生んでいるのであるっていう見方もあるわけで。
でもなんだろうな、そこっていうのは、ヤッキーさんが指す情緒とは違うじゃないですか。
たとえばSFで、心を持ったアンドロイドが主人公と心を通わせていって、最後にロボット側が身を挺して主人公を守ったりして、
陽光炉に親指を突き立てながら沈んでいって、I'll be backって言うみたいな。
そこに情緒はあるじゃないですか。
でもこれ全部フィクションだし、登場人物の方側はロボットだし、自主自立型の任務を遂行するロボットで、それに対して情緒を勘違いするわけじゃないですか。
ちょっと混乱してきました。
人間側の解釈ですよね、それを。
立ち振る舞いがアンドロイドに情緒を勝手に感じているという、一連のストーリーに情緒を感じたわけですよね、人間自身が。
たとえばバックパッカーとかキッチンハイクとかをやって、情緒を感じているっていう話があったときに、
100年前の人に言わせたら、「そんなおめえ、自分の足で歩かねえで、車みたいに乗ってファーって旅して、どこに情緒があるの?」みたいな話にもなるわけじゃないですか。
80日間世界一周みたいな、それがニュースになる世の中では、80日で世界はどうするんだよみたいな話とかで。
情緒をどこに感じるかって、人側の解釈に依存しているものだから、世の中が便利になればなるほど情緒が失われていくかっていうと、既存の情緒は損なわれているかもしれない。
でも、感じようと思えば、もしかしたらさっきのAmazonのインターフェースとかにも、「いやー、ここの3枚目の写真で初めて解説が入るのって情緒あるよね?」とか。
あるよね、みたいなね。
だから、便利さが情緒を殺しているかどうかというと、便利になることで失われるものもあるけれど、いくら便利になっても人間は情緒を感じる余地があるんじゃないのかっていうことにちょっと思ったんですけど。
人との接点なんですかね。その接点を感じた上で、その人を想像するというか、接点と想像する時間というか。便利であればあるほど、その機会が減っていくって感じかもしれないですね。
情緒は感じてるけども、情緒を感じる機械と、多分人側の能力がもっと試されるようになるんじゃないですかね。情緒を感じるアンテナというか。
バックパッカーとかだとね、あからさまに感じの悪いインド人でボられたとかって、誰でも情緒感じるじゃないですか。
怒りとかもね。心の動きだから情緒。
心の動きもあり、心が動くじゃないですか。心が動く回数が多いっていろんな人が関わること。それを情緒としては解釈しそうだな。便利であればあるほど、その登場人物も減っていくし、感じの触れ幅も減っていくんで。
そうなると、その人がAmazonのインターフェース見て、このUIのこの青いボタン考えた人ってほんとすごいよね。俺にはわかんないもんみたいな。めちゃくちゃこっち側のリテラシー試されるみたいな。情緒を感じる。
リテラシーが必要になってくるんだみたいな。教養が必要になってきますよね。情緒を感じる。
面白いな。要するに世の中の人は、100人いたら100人とも情緒を感じて生きている方が幸せかどうか。幸せであるっていう命題になるのかなと思ったんですよね。
例えば、お父さん、お母さんが毎日お弁当作ってくれましたと。自分が大人になって苦労したがら作ってくれてたんだろうなっていう。大人にならなくてもいい。高校卒業するときに卒業まで作ってくれてありがとうみたいなものに情緒を感じているかどうか。
結構押し付けがましい情緒感じゃないですか。モデルじゃないですか。親の愛情がお弁当で表現されて、それを受け取った子どもがあって、そこに情緒があるみたいな話って。どうでもいいって思ってる人もいるかもしれないじゃないですか。
毎日食堂の金を出すとか、コンビニで買って自分の栄養を確保できる。金銭的余裕がないから、仕方なしに日の丸弁当作ってただけだよみたいな。っていうのを心の底から思ってる親がいたとして。
それに対して、正しかにって思ってる合理的に解釈する子どもがいて。この一組の親子っていうのは全く別のところに情緒を感じて幸せに生きてる可能性もあるじゃないですか。
一方で情緒、心の触れ幅があって、心が動くその触れ幅があって、それによって人生が豊かになっていくっていうのも否定しがたい事実だと思うし、興味あるんですよ、自分としては。
言ったときに、世の中として優先されるものが、今は多分資本主義的な、より大きな利益をもたらす方向に動き続けちゃってて、それを止める術がないような状態がずっと続いてたと思うんですよ。
その動きに逆らうのが、さっきの不便液のバーみたいな話ですよね。対立概念として、より不便にすることで、人とのコミュニケーションがより感じられて。
だから、生まれるべくして生まれてるんでしょうね、この不便液の考え方って。
そうですね。そっちにもビジネス的にも寄ってますもんね。体験消費とかはそういう話だと思うんで。そうしないと人は買わないというか、そっちを望んでるというか。便利さよりも体験自体を人は望み出してるというか。
SNSとかもそうじゃないですか。便利さ。人と繋がって自分の近況を発信できて、人の近況が分かって。
というか、今は知らない人の近況とかを積極的に追いかけて。
これはセクハラなんじゃないかとか、おごりおごられだとか、いろんな話が。
日々飛び交ってるものに振り回されていく。自分はどっちのポジションをとっているみたいなところにわざわざされる。
それからあえて離れた方が心が豊かになれます。デジタルデトックスの進めみたいな。デジタルデトックスしてマジで体調良くなりましたっていう投稿があったりとか。
ある種カウンターカルチャーとしての反デジタルみたいなものがあったりして。
世の中の向かっている方向が必ずしも良いものばかりの明るいものではないっていうのは、
むやみに非観論言いたいわけではなくて、自分にとって良きもの好ましいものかどうかっていうのは必ずしも当てはまらないし、他の人においてもそう。
自分にとって良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは必ずしも良いものばかりは
それについて考えることには意味がありそうだなというふうに思いましたね。
そうですよね。
情緒。なんか情緒の話はまたしましょうよ、これ。
そうですね。またなんかできそうですね。
今日はとりあえず問題提起までなんですかね。便利になることで情緒を感じる場面が減ってる気がすると。
それに対して一個カウンターとして僕が言ったのは、情緒を感じる側のリテラシーの問題。
なので便利になっただけ、また新たな分野に情緒を感じる可能性があると、人間は。
そうやって情緒の解釈の余地を増やしてきたはずと。
その上で仮説が人との関わりなんですかねっていうのはね。
ありましたわね。
そうですね。人との関わりと。
あとはオーガニックなのか作られてるものなのかっていうところに将来はなっていくんでしょうね、もしかしたら。
人との関わりはオーガニックで発生する情緒であり、より便利な社会になっていくとVRとかそういう与えられる情緒みたいなものでなっていくのかもなと。
気になる話を聞いてしました。
面白いですね。AI大規模言語モデルによって生成された言葉っていうのも結局先人たちの積み重ねだったりするわけじゃないですか。
GPTに相談を投げかけたら、ものすごくこちらの心が動くような回答があったとして、
それってAIが無機質に出してきた言葉には違いないんだけれども、
じゃあその元になった考え方とかっていうのが先人たちがインターネットの海に放って残していた言葉が紡がれて自分に届いたという解釈もできるじゃないですか。
なんか十分情緒がある気がしたんですよね。
そうですね。そこにはそこには情緒がありますね。
そう感じようと思えば、今まで人類がこういう歩みを進めてきたくらいは自分の疑問に対してこういう回答が返ってきてるっていう。
技術ってここまで発達したんだとかね。そういう情緒の感じ方とかもあるんじゃないですか。
それぐらい思いを馳せる。なんだろう、これって空の思想みたいなところあるじゃないですか。
その因果が絶対あって、何かしらの運命を辿って自分の本当に届いた言葉であるみたいな。
4つ目目では、教養が超大事だなって思いましたね。
教養が大事ね。
教養がないと感じれないことじゃないですか。
いろいろそういうものを読んだ上で、あれが全部これに詰まってんのかーみたいな。
教養があればあるほど情緒を深く感じるという感じがしましたね。
そうかもしれないですね。クリシェ回、聞く人にとってはクリシェな上等句。
本人たちが一応わかってますから、上等句っぽいっていうのは。
けど、やっぱ上等句は上等句たるゆえんっていうのがありますな、これが。
だいたいそうだし、便利によって情緒が失われる。これも上等句じゃないですか、上等句で。
だけど、情緒っていうのは感じる側のリテラシーなので、感じる側の教養は、そういう意味で人生を豊かにするために教養は。
大事だよねっていうのはね。
欠かせないものだと思う。
もう一つ伝えたいメッセージでしたね。