長嶋茂雄の影響
はい、みなさんおはようございます。今日はですね、長嶋茂雄さんについて、長嶋監督についてですね、つらつらと述べる、ただそれだけの回にしたいなと思います。
はい、ということで、たぶん日本のみなさんのほうがね、いろんな報道を見ていると思うんですけど、長嶋さんですね、巨人の監督だった、巨人のスーパースターだった人ですね、が一昨日かな、亡くなったということで、
ぼくはね、ネットでしか情報を見ていなかったんですけど、一つの時代が終わったなというような、月並みな言葉ですけど、そんな感じですね。
でですね、ぼくが野球を見始めた頃の、いわゆる監督っていうのが、長嶋さんだったんですよね。なので今日はちょっとそんな話を、ほんとに自分語りですけど、していきたいなと思うんですよ。
で、ぼくがですね、野球を見始めたのは、1999年かな、今でも覚えてるんですけど、1999年でした。
で、なんで1999年が覚えてるかというと、松中大輔と上原浩二っていう、その二人のピッチャーが確か入団した年で、1年目かな、バリバリすごかったんだよね。
上原浩二って1年目で入った大卒新人か、いきなり20勝かなんかしたんですよ。野球分からない人は何のこっちゃって話かもしれないんですけど、20勝ってそもそもね、なかなかやっぱりできる数字じゃないし、ほとんど出てないんじゃない、最近のプロ野球、日本でも。
だと思うし、それをね、1年目からやって負けるっていうのは、なかなかすごいことだと思います。
でね、その1999年の多分、確か巨人の当時の観客っていうのが長嶋さんだったんですよね。
で、ぼくがなんでね、興味を持ったかというと、確かうるお声なんですけど、じいちゃんにね、東京ドームに巨人阪神戦に連れてってもらったっていうのが、多分そっからだった記憶があるんですよね。
で、それまではあんまり野球を見るっていう興味はなかったんですけど、東京ドームにじいちゃんに連れてってもらって、そっからは生の感性とかさ、球の音とか、スピード感とか、多分子供ながら感じることがあって、そこですごく野球を見るようになったんですよね。
で、特に今のさ、若い世代とかって知らないと思うけど、当時はテレビでまだ巨人戦をやってたんだよね。ぼくは千葉の人間なんですけど、多分首都圏だとまだやってたんだよね、巨人戦が。
だいたいさ、夜の7時から9時くらいまでやってて、9時半からさ、だいたい9時くらいからさ、新しい番組っていうかドラマが始まったりさ、いろいろするわけじゃん。でもね、30分くらいはずれ込むんですよ。9時24分くらいまでは延長放送をやって、9時半くらいからずれ込むのね。
なので、本当に野球に興味のない人とかっていうのは、この30分ずれ込むことによってさ、自分が見たい番組がずれ込んだりとか、あとは寝るのが遅くなっちゃったりとか、野球のこと知ってるんだろうなって思ってたんですけど、でも僕は9時半まで見るじゃん。
その後、まだ試合が終わってなかったらラジオに切り替えて、ラジオですよね、ラジオ。ラジオに切り替えて聞くくらいめちゃめちゃその巨人を当時応援してたんですよね。
とにかくね、うちはどっちかっていうと野球一家というか、連れてってくれたのがおかん側のじいちゃんなんだけどさ、おかん側の家っていうのがいわゆる野球一家だったんですよ。
僕のおかん自身も学生時代にソフトボールをやってたっていう、自分がやっぱりプレーヤーだっていうところもあるし、なんといってもじいちゃんなんだよ。じいちゃんがもうめちゃくちゃ野球好きだったのね。めちゃくちゃ野球好きだったんですよ、本当に。
いろんな球場行ってさ、自分でスコアをつけることができてたし、あと六大学野球とか神宮とかであるじゃないですか、東大とか、宗敬明治とかっていろいろあると思うんですけど、それこそ長島さんも立教じゃない。そういうのもあるし、それくらいめちゃくちゃ好きだったんだけど、そういう影響もあって、特にジーチャーバージョンに行くと常に野球がついてたんだよね。
そういうのもあってすごく見てたんですけど、そのじいちゃんが言うには長島はとにかくチャンスで打てなかったって言ってたんだよね。
それって今、報道されている長島茂雄像と違うイメージだったんだよね、僕的には。僕は長島茂雄のプレーヤーとしての事例はもちろん知らないわけだから、報道で見たりとか、数字では見たことないからあれなんだけど。
野球観戦の思い出
でも、当時長島がプレーしてたことについて語るっていうのは、僕にとってじいちゃんのことしかほとんど聞いたことないからあれなんだけど、とにかくチャンスで全然打てなかったって言ってたんだよね。
草っても巨人の4番バッターだったわけだよね、たぶん3番ファーストを4番サード長島だったわけでしょ、当時は。とにかく長島はチャンスで打てなかったんだよなーってじいちゃんがすごい言ってたのを覚えてますよね。
今はね、結構名称扱いされてますけど原監督っているじゃん、それこそwbcで日本を世界一にした実績もある、名称だよね。
当時99年は僕が見始めた頃って長島さんと下でヘッドコーチみたいだったんですよ。テレビ画面で監督とかが抜かれる時あるじゃん。その時には長島監督とヘッドコーチの原さんが隣同士で映ることがよくあったんだよね。
面白いのが僕のおかんがテレビを見ながらじいちゃんと同じような言葉で同じようなことを言ってたんだよ。これも今思えば親子だなと思うんだけどさ、さっき言ったみたいにじいちゃんは長島がチャンスで打てなかったんだよなーってことごとく僕とかに言ってたんだよね。
でも別のところで普通にじいちゃんがいないところで家とかでさ、おかんと一緒に野球を見て原監督とかがカメラで抜かれると、本当に原はチャンスで打てなかったんだよって。
たぶんおかんが子供の頃、どうなんだろうね。おかんが子供の頃っていうかわりと思春期ぐらいの頃っていうのは、どっちかっていうと原がいわゆるアイドルな感じですよ。どっちかっていうとちょっとかっこいい2枚目選手みたいな。2枚目スポーツ選手みたいな。そんな感じでたぶん原がいたからおかんも知ってたと思うんだけど。
とにかく原もいわゆる巨人の4番だったのかな。3rdだったのかな。ちょっと僕は原のポジションもよくわかんないんだけど。でもおかんに言わせると原も全然打てなかったっていう。その言い方がすごい親子だなーっていうところにも確かに思いますね。
とにかくそんな感じだったんで。監督といえば長島茂雄っていう感じなんですよね。僕にとっては。2000年くらい応援対決日本シリーズで長島さんと大さんが自分たちのチームを率いてやってた。それで長島って引退したのかな。
その後オリンピックの監督になったんですよね。北京オリンピックか野球の監督になったんですけど、ただそれは道半ばで倒れるんですよ。それもいまだに鮮明に覚えてるんですけど。
学校から帰ってきてテレビがついてて、もうその報道一色だったんですね。長島茂雄が脳梗塞で倒れたみたいなのをずっと言ってて、家帰ったらおかんが長島が倒れたよとか言ってテレビつけてて。それも覚えてますね。
当時ですら脳梗塞で倒れたっていうだけでもあんだけテレビでやってたっていう印象が僕にはあるのね。なのでやっぱり20年経って、あれから20年経って約亡くなったっていう。多分日本ではめちゃくちゃ報道されてるんだろうなっていう。そんな感じですね。
こういうのも不謹慎だし、僕は政治に太いからなんだけど、安倍首相って国費か国葬かされたんだよね。長島茂雄こそじゃないって僕は個人的に思うんですけど。本当に一時代を作った人だよね。
僕はその一時代を作った時に生きてないけど、でもやっぱりこの後世の僕ですら、そういういろんな伝説を聞いたりとか話を聞いたりとかするぐらい、多分すごい人でしょ。めちゃくちゃ歩けるようになったし、努力の人だよね。
ということでそんな話をつらつらと述べてきたんですけど、長島さんの亡くなったニュースを見て、当時のことをいろいろと思い始めてたんで、それをつらつらと話してみました。
僕最近は全然野球見ないですけど、スポーツ見るのとか好きだし、それこそ99年がめちゃくちゃターニングポイントだったと思う。あの時に野球を見る楽しさとかさ、それこそ今もそう思う人いるかもしれないけど、野球って長いしつまんないなと思う人いると思うんだけど、
僕も当時はそれまではそれだったんだけど、その年を境に長いスポーツを見ること、野球を見ること、それが苦じゃなくなった、むしろ楽しいなって思える年だったんですよね。その時の監督が長島さんだったんで、当時は巨人戦しかやってないわけですよ、テレビで。
そう考えると、いやー、なんか感慨深いなという、そんな感じですね。ということでどうですか、皆さん何か長島監督についての思い出話とかあればぜひコメント欄とかで教えてください。ということで今日はこの辺りにしたいなと思います。ありがとうございました。