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2021-06-21 15:48

5_1映画美術の仕事 前編(ゲスト:美術監督の部谷京子さん)


今回のゲストは美術監督の部谷京子さん。
”Shall we ダンス?”や"それでもボクはやってない"の美術監督として日本アカデミー賞最優秀美術賞を受賞し、これまで優秀美術賞も含め、合計10回の受賞された日本を代表する美術監督さん!
1週目は、これまで手掛けてきた”Shall we ダンス?”や"それでもボクはやってない"など様々な映画での美術監督目線のここだけバナシを聞いていきます!

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美術監督の部谷京子さん)女性が上がれない場所じゃないですか。神聖な場所として。映画って非日常の世界なんだなっていうのを、1本目にして体感しました。
黒木瞳の映画ここだけバナシ
こんにちは、ひまらやで配信始めました。黒木瞳の映画ここだけバナシ。今回も聞いていただきありがとうございます。
芸術でもあり、エンタメでもあり、ビジネスでもある映画。そこに携わるのは、ただ者ではないプロフェッショナルばかり。そんな方々に、仕事の極意をここだけバナシしていただきます。
そして今回のプロフェッショナルは、数々のヒット作で映画美術を手掛ける美術監督の部谷京子さんです。こんにちは。
部谷京子さんこんにちは、部谷京子と申します。
まず部谷さんのご紹介をさせていただきます。1990年代超ヒット作シャルイダンス、それでも僕はやっていない天地名冊、もう本当有名な映画ばかりですね。
それからキキキリンさんご出演のアンもなどなど数々の作品を手掛けられております。
最近では綾野剛さんと橘博さんがご出演されたヤクザと家族ザファミリー、ネットフリックス版の新聞記者でも美術をご担当されています。
なんと日本アカデミー賞、優秀美術賞を12回、2016年には主重宝賞も受賞。本当に映画、美術界の巨匠でいらっしゃいますけれども。
いや、とんでもないです、とんでもないです。やめてください。
映画、その業界歴45年だそうですけれども、そうなんですか?
そうですね、数えるとそんな感じです。
美術監督というのは、私は存じ上げておりますけれども、具体的にお仕事の内容とか、想像しにくいリスナーの方もいらっしゃると思うので、教えていただけますか?
そうですね、まず皆さん最初に言われるのが、美術って何やるのってことなんですけど、
私が思うのは、携わった映画の世界観を作るっていうことかなと思っていて、具体的に言えば、役者さんが出られてお芝居をする空間を作るっていうことかなと思っています。
よく私も現場に入った時に、自分のお部屋がどのようになっているかっていうのを確認しに行くんですけれども、
こういう生活感があって、こういうところでこうなんだって思う、そのすべての空間が美術監督のお仕事でいらっしゃるってことですよね。
そうなんです。
でもそれはお部屋だけではないですね、部屋さんだけに。
部屋なんですけど、部屋を作ってるだけじゃなくて。
部屋だけではなくて。
でもロケーションの場合だと、例えば季節を変えたりだとか、街の設定を変えたりだとか、東京を地方の都市に見せるだとか、そんなこともありますし。
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空の色は変えられないんですけど、それ以外のことで言うと、結構何かしら美術の力がそこに加わっています。
現代の映画は、まあ現代でいいんですけど、ちょっと昭和とか時代物とか。
ちょっと大変です、腕伸びしたところです。
どうですか、そういう作品が来た時に。
嬉しいです。
プレッシャーはないですか?
プレッシャー全くないです、私喜んじゃいます。
もう乗り越える壁が高ければ高いほど、熱いほど喜んじゃうタイプですね。
それはちょっとハートは。
やったー、槍がやるーって感じです。
ハート強い方がいらっしゃるんですね。
なんか毛が生えてるかもしれない、心臓に。
いやいやいや、でもやはり45年やってらっしゃるということは、すごいですよね。
いやいや、あまり言わないでください。まだまだ気持ちは新人なんで。気持ちだけですけど。
私も気持ちは新人でございます。
デビュー作は、おときまさひろさんの主演、ひこふんじゃったんですけども、その時っていうのは土俵?
土俵を作ったんですね。
お作りになった。
それをですね、今でも女性が上がれない場所じゃないですか、神聖な場所として。
そういう意味では、本当に映画って非日常の世界なんだなっていうのを、1本目にして体感しました。
なおかつその時に、美術の女子さんがあと2人いるんですけど、2人とも女性だったんですね。
なので、その土俵のセットができた時には、本当に3人で土俵に上がって、私たちしこふんじゃいましたってやっちゃいました。
本来の土俵には上がれませんのでね。
そうなんです。そこをまず作るっていうことから始まったので。
その女性が上がれない土俵を女性が作る。
それもデビュー作として、初めて自分でセットをデザインしたのが土俵なんですよ。
作品ごとに世界観を大事にしながら、しこふんじゃったのはデビューですけれども、それから数々の映画、美術をやっていらっしゃるんですけど。
いろんな壁があるほど面白いっておっしゃいましたけど、その壁ってどういうふうにして乗り越えていかれるんですか。
まずはですね、私台本を受け取った時、だいたいオファーを受けるのはプロデューサーか監督からなんですけど、まず台本を受け取って一読した時に、もう1本の映画が頭の中にできるんですよ。
それが非常に映像がシャープな場合もあれば、曖昧もことして、もやがかかったみたいな状態になることもあるんですね。
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そのもやがかかった状態っていうのは、私がその世界のことをあまり知らない、ほとんど知らない場合もあるんですけど、そういう場合には明瞭な映像にはならないんです。
その時に慌てちゃうんですね。これ大変だ、これ頑張らないと壁乗り越えられないぞって。そこからリサーチをして、昔だと今みたいにインターネットがない時代は、今皆さんインターネットでリサーチされたりすると思うんですけど、私の場合は国会図書館っていうのがまず私のバイブルのような場所で。
国会図書館?
はい。国会図書館っていうのは日本で発行された、一応すべての図書が置いてある場所なんですよ。
今もあるんですか?
あります。新聞とか雑誌もあります。ただ貸し出しはしてないんです。
じゃあそこで勉強する?
はい。そこでコピーを取ったり、コピーがなければ自分で書き写すというようなことをして勉強するんですね。
今もですか?
今は言ってません。今は言ってません。ごめんなさい。
便利な時代になりますね。
ちょっと新人の時の気持ち忘れてますね。いけない。取り戻さなきゃ。
知ってる世界ならいいけれども、全然知らない世界も世界観を作っていかなきゃいけない。
それから本に書いてある、監督が撮ろうとしていることとかいろんなことを汲み取って、それで美術を汲んでいくわけですよね。
でもなんとなく一読してイメージが湧くって先ほどおっしゃったんですけども、もともとは美術というものに興味があったんですか?映画に興味があったんですか?
美術です。
私、広島出身なので、広島で私が中高の頃に、映画美術というような言葉は全く私も知らない世界で、ただ私は広島に何もないと思って、とにかく広島を出たかったんですね。
詩で言えば広島が好きじゃなかった。とにかく広島にいる人間じゃないみたいなことを思いまして、大阪ではなく東京に行きたいと思って。
残念ながら海外に出るまでの勇気はないというか、そういう発想はなかったんですけど、東京の美大を目指したんですね。
それはなぜ美大だったかというと、広島に美大がないからなんですよ。美大に行きたいと言えば、親を説得できるかなと思いまして。
言ったところ、猛反対されて、ただ兄が四つ上なんですけど、東京の大学に行っていたので、お兄ちゃんに世話になるけ、生かしてくれって言って、泣きながら頼みました。
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それで美大に行かれた。
はい、美大に行きました。
その美術に興味があるっていうのは。
そうでもないんですけど、舞台美術専攻だったんですね。
舞台の美術。また映画とは全く違いますよね。
そうなんですよ。実は全然違うんですけど、当時は映画美術って発想がもちろんなかったので、何がいいかな、何が楽しそうかなと思ったときに、たまたま劇団四季は見てたんですね、広島で。
ああいうことやれたら楽しいかもしれんと思って。
四季の美術もね、美しいですし、凝ってますよね。
あと海外から来たものを再現っていうんでしょうか、また日本流に作られたりっていうことで、非常に興味があったので、舞台美術専攻ということで、武蔵美に入りました。
そこからどういう経路で。
映画。
映画。
武蔵美に入って。
うちはね、幸せなことに親が裕福じゃなかったもんですから、もう毎日アルバイトをしてたんですね。
で、その中で最後にやったアルバイトが、つぶら屋プロダクションのアルバイトだったんです。
学生科の青いファイルをめくるんですよ。
で、そうするとつぶら屋プロダクションっていうのがキラキラ輝いて目に飛び込んできて、その場ですぐにピンク電話を10円玉入れてかけて、その日のうちに面接に行って、明日から来れるって言われて、はい、来れますって言って、翌日からアルバイトに行きました。
それが映画というか映像と出会いですね。
変身者の連続ドラマでした。恐竜戦隊5世のっていう作品です。
楽しそうですね、それ。
楽しいですよ。
じゃあそれがきっかけになって、映像の世界に飛び込んで。
その時に幸せだったのは、関わってるスタッフの皆さんが、皆さん映画をやりたい人たちだったんですよ。
私はそこで初めて黒澤明監督のお名前を聞いて、そんなすごい人がおってんじゃと思って、その頃ちょっと幼な心にですね、自分の中で決めたのが、わかった、黒澤明監督と仕事をするまでは、私はこの仕事を辞めない、続けると思って。
すごい、ちゃんとした目標。
目標は黒澤明さんでした。
明さん、明監督でした。
それは叶ったんですか。
叶いました。2本やりました。美術女子として最後のお仕事が黒澤明組でした。
なんか絵に描いたような。
叶うんですね。
素晴らしいお話、なんか元気になりますね。
夢と8月のラプソディっていう、7月の原爆の話ですね。
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その時も、リチャードギアさんが出られたりして、秩父に大きな農家のオープンセットを作ったんですけど、とっても本当にエキサイティングな毎日を送ってました。
足掛け3年黒澤組やってました。2本続けて入ったので。
女子として、黒澤組に入られたと。
そうなんです。
でも念願叶えてよかったですよね。
やっぱり石杖に、今の部屋さんの石杖になってらっしゃるんじゃないですか。
なってますね。やっぱり、黒澤明監督と言うと、今、黒崎よしさんのお名前をあげられる方も多いんですけど、
明さんの方をやりましたって申し上げるんですけど、やっぱり皆さん、え?って、なんかちょっと憧れのみたいなお気持ちでてんてんてんって、そういう表情を見て取るとちょっと嬉しくなります。
私も羨ましいなと、一度お目にかかりたかったなとは思いますけど。
とっても素敵な方ですよ。大きくて。高校屋ですね。私にとってはもう晩年にお会いしてるので。
今、手掛けてらっしゃる作品というのは終わりなんですか?
あります。
まだ発表できない?
発表できないものもあります。
発表になってないんですけど、1本は来週実は田植えに行くんですよ。
田植え?
田植え。
田植え?
田植え。田んぼを作ってるんです。
田んぼを作ってるんですか?
はい。この辺までは喋ってもいいと思うんですけど、徳島県でオープンセットを作ろうとしていて、実はコロナ禍で来年に撮影が延期になったんですけど、監督が今年試しに稲を植えることにしましたと。
今、田んぼを決めた場所に作ってもらってるっておっしゃって、田植えをしますっておっしゃったので、これは恋ってことだなと思って、来週田植えに行きます。
今年1年、稲を育てて収穫までして、来年の春からの撮影に臨むということをおっしゃってました。
そこに明治時代の話なんですね。
そこに農家というか、小屋のようなものを建てるんですけど、男が一人で暮らしていて、そこで牛を飼ってるんです。
もう言っちゃってますけど。
その牛が田んぼを耕すんですけど、その小屋を作ってしまいましょうかと。
私が去年の暮れから準備をしていたときに、小屋オープンセットって理想を言えば、1年ぐらい作って寝かせるといいんですよねって言っちゃったんですよ。
そしたら監督がそれを覚えていたみたいで、部屋さんも建てちゃいましょうかっておっしゃって。
ちょっと今慌ててます。うわぁスケジュールが。
1年ぐらい小屋作って、雨風吹かされて。
なおかつ山の中で雪も降るところなんですよ。
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徳島で?
はい。私がロケハンに行ったときも、実は雪が降ってたんです。
ピンとこないですね。
こないですよね。あったかいとこって思うじゃないですか。雪が降るんです。
いろいろ伺いました。大変ですね。
ですけど1年がかりでセット作っていくっていうのは、とってもある意味贅沢。
ありがたい話です。贅沢なことだと思います。
ますますこれからも45年とは言わず、ますます美術監督として頑張っていただきたいと思いますけども、
まだ終わりではありませんのでお付き合いください。
よろしくお願いします。
アリスナの皆様次回もお楽しみに。それではまた。さようなら。
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