藤原徹平のキャリアの始まり
それでは引き続き、フジワラボの藤原徹平さんと プロジェクトの秘訣を探っていきましょう。
改めてよろしくお願いします。
このパート2なんですけども、ざっくり言っちゃうと、 徹平さんの人生とキャリアについて、
みたいなところをちょっと振り返るような パートにしたいなという風に思っていて、
パート1のほうでも、隈さんのところの 入りのお話はあったんですけども、
もうちょっと順序立ててお話伺えたらな と思うんですが、建築はやっぱり大学からの
あれだったんですか?
そうですね。建築家になるとはもうこれっぽちも 思ってなかったっていうか、想像もできてなかったですね。
建築家って仕事も大学に入るまで知らなかったですね。
学科でいうとどういうところに?
建築学科なんですけど、どちらかというと、
都市計画とか、そういう仕事をしてみたい という風に思って、都市にちょっと興味があったんですよね。
それでアイランムックとかそういうのを見てて、 建築学科というところで、
まちづくりとか都市とかで、これかなと思って。
そこで独立思考が強い人とか、自分のやりたいことを 企画を実現したい人向きですよ、みたいな。
たぶんそれ書いてある意味が違ってて、都市 ということと、独立思考というところは建築家とか
そういうことを言いたかったんだと思うんですけど、都市に興味があって、
自分のやりたいこと、企画をやりたい人って 俺じゃん、とか思って。
受験科目とか見る、あと文系、理系両方得意な人は 有利だとか書いてあって、
一応理系に行ってたんですけど、文系科目の方が圧倒的に成績がいいという、
ちょっと歪んだ理系だったんで、これ向いてるかもと思って、建築にしようというので。
それがいわゆる高校の、
高3ぐらい。
受験始まるぞというタイミングの自己分析だったんですね。
建築とその多様性
面白い。
僕同じく理系で、早稲田の理工学部というところにいたんですけど、
結構建築の匂いも割とするところで、同じキャンパスに建築学科の友達いたんですけど、
割とこう、ナードなやつが多い学部の中では、結構おしゃれでファッショナブルでみたいな。
なんかこう、バズーカって呼ばれるようななんか背負ってて、
そこに図面が入ってるやつ持ってるのがすごいアイコンだったなって。
格好つけてた。
すごく僕はフレンドリーなイメージだったんですけど、
そもそも建築っていうワードが多分デカすぎて、
なんとなくおしゃれだった奴らがやってたことみたいなぐらいの、
当然そういう免許があるとかそれぐらいはわかるんですけども、
もうちょっと正しく改めてこの機会なので、
理解させていただきたいなと思っていて。
なんか建築っていう中にもうざっくり分けていくと、
どういう職種に打ち分けられるものなんですか。
なるほど。建築はですね、大学によってちょっとストラクチャー違うんですけど、
大きく言うと一個はその理論系って言われる歴史とか、
あとは建築理論とか建築計画って言うんですかね。
そういうこう、歴史学をルーツにするようなリベラルアーツ的な文系的な要素があるところが一領域としてあって、
あともう一個、環境とか都市ですよね。
環境学とか地理学とかそういう領域に近いところの領域が一個あって、
あとはその構造とか、エンジニアリングですよね。
この鉄筋コンクリートとか鉄骨とか、あと木造とか、
エンジニアリングが必要なんで計算が得意、数学にルーツがあるようなところがあって、
本当に文系理系にまたがるようなところがあります。
そういうのを超えたものとしてデザインっていう、
全ての領域のこと分かってないといけないんですけど、
文系的な要素と環境学的な要素と、あとはエンジニアリング的な要素を統合したところに建築を作るっていうデザインっていう領域があるので、
そういう意味では建築学科の中に結構いろんな要素が統合してるっていう、そういう感覚があります。
なるほど、結構もうすでにいっぱいあるなってことは分かったんですけど、就職していく職種みたいなところで分けていくと。
職種は本当にいろいろで、さっき言った理論系、文系近いところで言うと編集者になる人もいるし、
研究者になる人ももちろんいますけど、あとは文化財調査とかそういうのに行く人もいる感じですね。
あとは普通にそういう研究、理論を研究して設計をやる人もいるので、そういう人もいるっていう感じの。
あとはこの環境系だと公務員とか都市計画とか、東京都とか横浜市とか大きいんで、
都市計画セクターだとコンサルですね、コンサル行くところが。
かなり細かく分かれてる。
あとメインはゼネコンですよね、こういうものを作る。
総合受け入れしてるゼネコンとか施工会社、社会組織設計会社とか、そういう感じで作る側の人がいて、
あとは設計事務所っていうものがあるんですけど、設計事務所の中でよりインディペンデントでグレーンタインみたいなゾーンが建築家っていう感じです。
就職の葛藤と未来への探求
建築事務所の中でも肩書きって分かれていくものなんですか?
建築事務所も規模によって全然違ってて、日経設計とかだと何千人っていう規模だし、
ちっちゃいアトリエ事務所だとボスとスタッフ2人みたいなものであるんで、
同じ建築家とか建築士って言われても規模の大小が本当にすごいありますね。
それによって分業でやられてるところもあるんですか?
分業でやってるところもあります。
設計って中にも意匠設計と設備設計と構造設計で、
それとは別に造園学科系とかのランドスケープデザインっていうのもあるという感じですね。
面白いですね。そのあたりまたちょっと深掘っていきたいんですけれども、
まず大学を出るぞと、すぐ就職されましたか?
まず大学に行くかどうか相当迷いましたね。
迷って結果が?
最初はもう一時新聞記者になろうかなとか思った時もありました。
大学ではやっぱり挫折挫折の繰り返しなんで、
設計課題っていって設計する練習があるんですけど、
それに建築家が教えに来てて、僕はたまたまラッキーで、
2年生の時にバン・シゲルさんってプリツカー賞とった方が
地下飛行機に来てて、バンさんからはもうほとんど褒められず、
僕だけに限らずほとんどの人は褒められないんですけど、
差を感じるというか、これはちょっと建築家とか無理かなという。
3年生になった時にすごい優しい野沢正道さんという建築家がいて、
野沢さんにすごい褒められて、もしかしていけるかと思って、
もう繰り返しなんですけど、また西沢理恵さんが4年生の時に来て、
またすごい批判されて、もうダメかなみたいな。一気に一応してて、
僕はもう普通に就職するのもありかもなとか、そういうのを葛藤してたりもしましたね。
そんな中、初めての就職って多分人生で1回だけじゃないですか、ファーストキャリアって。
何か決め手があったりとか、どういう風に決まったんですか。
いろいろあって、それで4年生の時にもう朝日新聞受けようかなとか、
もう朝日新聞の記者になってやると思って、申し込むことしたらとっくに終わってて。
もう全然俺、社会の流れわかってないわっていう。もうダメだと思って。
で、もう大学院試験受けようと。で、もう散々迷って、もう募集終わってるから恥ずかしくて、
すごい一生懸命勉強して、そしたら受かったんですよ、大学院。
それで、その大学院の勉強、当時その全科目試験って結構過酷な大学院試験で、
その専門科目、全科目を勉強しなきゃいけなくて、ほとんど授業をサボって映画ばっかり、
映画とか見に行ったりとか、みんなで建物作ったりとか、そういうのに夢中になってたんで、
授業はほとんど出てなかったんですけど、そこで初めて真剣に建築の授業に、
と言っても授業のノートに向き合って、あ、なるほどねっていう、
一個一個みんなのノートをコピー見ながら、それをもう一度分析したり、
教科書をまとめて読んだりすると、あ、そういうことかと。これ結構わかると。
わかるってことは結構いけんじゃない?と勝手に盛り上がって、
試験の成績もすごい良くて、授業にこんなに出ないのにどういうことだって面接で怒られて、
え、どういう、褒められてるんですか、怒られてるんですかって感じで、
でも大学院行ったらちゃんとやりなさいって言われて、わかりましたって言って、
で、大学院行っても結構頑張ってやったって感じかな。
結構いろんな事務所を受けられてみたいな感じだったんですか。
ただまたその時ちょうど、なんていうのかな、就職氷河期ってやつで、
全然こう人が取ってない時期だったんですよね。
はい。
もう普通に竹中とかでも、竹中工務店とかでも、全国から2人とかっていう。
そんな時代だったんですか。
すごい時代でした。
ほぼゼロじゃないですか、2人。
そう。2人なんだけど、早稲田とかは1枠あるから、早稲田とか強いんで、1枠あって、全国1枠みたいになったんですよ。
えー。
それ無理じゃんみたいな。
はい。
で、それ一応就職大学院の時に受けてみて、社長面接まで行ったんだけど、ダメだったんですけど、
こういう企業じゃないのかも、なんていう風に葛藤しながらそれ受けてて。
はい。
で、ダメだったことを契機に、やっぱこう建築事務所かも、建築家なのかもっていう。
その時初めて、建築家になる未来っていうのは俺にあるのかなっていうのを真剣に考え始めたっていう感じ。
へー。
それで真剣にもう建築雑誌読んで。
はい。
で、自分が行って、自分が成長できそうな建築家って誰だろうってことを3人まで絞って。
はい。
で、自分の先生に3人紹介してくれって言ったら、すぐ紹介してくれて。
3人に会いに行ったの。
はい。
そのうちの1人は隈さんなんですけど。
はい。
3人とも、もう申し訳ないけど今年は取れないと。
うん。
その、藤原くんの先生からすごい推薦があって取ってあげたいんだけど、取れませんって言われて、もうダメだと思って留年したんですよ。
へー。
大学院生活の発見
大学院だから3年行ってるんですけど。
はい。
その、M3になった時に暇、単位全部取っちゃってるから暇なんですけど、そこでこう本当に大学で学ぶってことが分かったっていうか。
ほう。
何の授業出てもいいし、取らなくてもいいんだけど。
はい。
で、たまたま面白そうな授業を探したらあったんで。
で、そこで梅本由一さんっていう映画評論の先生に出会って、それも大変大きい教えを梅本さんから教わったって感じですよね。
そう、もう建築関係ないですもんね、そこまで。
関係ないんですよ。
へー。
で、梅本さんに出会ったのがたぶんもう人生の転機で。
はい。
で、梅本さんは日本の映画批評の結構中心的な人で、
はい。
尾山俊司さんとか倉澤清さんとかを結構ヨーロッパに送り出してた人なんですけど、
はい。
で、僕たまたまずっと学部時代、大学サボって映画ばっか見てたから、尾山さんとか倉澤さんとか大好きだったんですよ。
はい。
で、たまたまその流年決まってフラッと入った授業で、梅本さんと学部1年生の授業で、
まあ批評の授業だった。
そこで学部1年生がむちゃくちゃ批判されてるので、もうもかついてきて、
3人の美術の先生がむちゃくちゃ批判するっていう授業があったんですけど、
で、1年生に向かってお前たちは家畜だとかって言って。
えー。
ひどい授業だと思って。
はい。
で、もうそれ食料法的な授業で、今の時代は許されないと思うんだけど、文化とかわかってないとか、
そう、もともとこう、普段聞いてるポップカルチャーはカルチャーじゃないってことをわからせるために、
毎週自分が好きな映画とか音楽について批評を書かせて、
はい。
それをこう読み上げて晒すっていう、ひどい授業。
あー。批評を批評してるっていう状態なんですね。
それでこんなのは批評じゃない、強烈な授業だよね。
結構えぐられますね。
えぐりまくる。
それで大学院生の立場で潜ってて、それでもうムカついたから反論したらちょっと後で授業終わったら来いって言って。
で、行ったらもう大爆笑されて面白かったよって言って。
へー。
演技なんやと思って。わざとやってんだと思って。
なるほど。
で、あれぐらい言わないと変わんないんだよって私はすごい言ってて。
おもろい教育現場ですね、それは。
今の時代は絶対許されないと思うんですけど。
それですごいおいしいコーヒーマシーンがあったんで、いつでも来てコーヒー飲めなよって言われて、え?って入り浸っていいんですか?って。
入り浸ってたら、梅本さんが座ってる後ろに僕が買ってた映画雑誌があって、
あ、梅本さん全部持ってるんですか?って。
っていうか俺が出してる雑誌だからって言われて。
え?って言って、あ、そうなんですか?って確かに見ると編集長、梅本うちって書いてある。
で、それね、僕実は青山さんとか超ファンなんですよって言ったら、
今週は青山うち来るけど、ちょっと来ない?みたいに言われて、
いやいいですよって言って、その代わりペンキ塗れって言われて。
家のペンキ塗らせてもらった代わりに青山さんと一緒にご飯食べて話したりとかして、
ちょっとじゃあ来週藤原くんじゃあ青山の映画の批評書けよって言われて。
書いて、青山さんに送り付けられて。
青山さんから面白かったって言われたりして、
すごい良い経験をさせてもらったんですけど、
そこで梅本さんに、僕建築家になるかどうか迷ってるんですよって言ったら、
え、迷う必要ある?って言われて。建築家かっこいいじゃんって言われて。
俺も映画監督にいつかなりたいと思って、大学で教えてるんだよって言われて。
あ、そうか迷う必要ないのかと思って。
そこでだいぶ吹っ切れて。
そしたら隈さんから電話がかかってきて、
M3だったんですけど、バイトに来てくれって言われて。
仕事をいろいろ受けるようになったりした。
意外とその中から立ち止まるっていうか、
みんなと同じ、普通に学年がかかっていくっていうんじゃなくて、
もうしょうがないなと思って立ち止まったことで、
だいぶ自分の中で風景が変わったって感じ。
いや面白いですね。
大学って当然単位があって卒業っていうことになるので、
やらなければいけない、必修みたいな。
必ずこれをやりなさいっていうことに対して、
どう興味を見出すかどうかって一個ハードルだと思うんですけど、
何もやらなくていいっていう状況の中で選ぶと、
やっぱりやりたいとか興味があるっていうところに
純粋に行けるんだなっていうのは、
そういう時間ってめちゃくちゃいいですね、贅沢ですね。
その時初めてどんな授業でも取れるっていう権利ってすごいなとか思って。
毎回出る必要ないじゃないですか。
こっち別に単位いらないから。
気が向いたときだけ行って、なるほどなっていう風に授業を聞いて、
実践的な経験
1年間つまみ食いしていろんなことを聞いて、
その雑学的な感覚とか越境的な感覚とか、
そこですごい花開いた感じがすごくありますね。
なるほどな、それ考えると結構、
僕もそんな時間別に取れただろうなとも思いますし、
今社会人になってみて、別にちょっとぐらい金もあるし、
時間も作ろうと思えば作れるから、
別に何やったっていいはずなんだけど、
意外と動いてない人ってたくさんいるだろうなと思ったときに、
こういう話からすごくインスパイアされてほしいなとは思いましたね。
だいぶ時間は食ってるんですけど、もうちょっと聞いてみたくてですね。
そこから、ご縁があって就職されてということで、
都合15年ぐらい、そこから修行の時代があってお話だったんですけども、
仮に建築家としての成長曲線みたいなものを自分の中に見出すとすると、
それって割とじんわり上がっていった感じなのか、
どっか急激にブレークポイントがあったとか、
何か思い返すとどんな感じですか。
M3の1年間はすごい伸びた感じがありましたね。
特に予定もなく大学に行って授業を受けて本を読んで、
でもただただ建築、研究に向き合うっていう感じで、
それはすごい伸びたなっていう風に思います。
あと、何十回の成長曲線が重なってる感じが僕はあるんですけど、
それ以前にそもそも同級生たちとセルフビルドで違法の仮設建築作ってたんですよね。
大学祭とかの時に、炭管パイプとかで工事現場にある炭管パイプを借りてきて、
それでバーとか劇場とか作ってたんですよ。
ゲリラ的に。
それをもう究極、法律的に見ると違法に近いんだと思うんだけど、
仮設だし、自分たちで運営管理してるからいいでしょって感じで、
そういうのをやってて、それもやっぱりすごい力がついてた実感があったんですけど、
図面とか絵にできるわけじゃないから、段取り力っていうのが。
この鉄パイプ何本集めて、こういう風にお金集めて人を集めれば建てれるとか、
バイトを手配して下級生の組織作ってみんなに作業させて、
けがなくちゃんと手伝ってもらうとか、
現場仕切り段取り力みたいなのがむちゃくちゃついて、
この予算があって、足りなければ商店街から協賛もらうかとか、
運営力とか企画力とか養ったら仮設建築で養ったっていう感じ。
あとは当然違法すれすれなんで、ギリギリの折衝が大学側ともあるんですよ。
これちょっと大丈夫なのって言われたときに、
じゃあこういう風に対応しますとかって、
ギリギリを折衝していく。
そういうのがその仮設建築の現場で学んで、
ただそれってデザインの能力じゃないから、
仕事できるやつにはそこでなってたと思うんですけど、
M3の時に建築をすごい勉強して、デザインをさらに勉強して、
しかも一人だったから、批評とデザインを学べたっていうのが大きくて、
さらに隈事務所に入ったんで、多分めちゃくちゃ所属は早いっていうか、
こういう仕事があるって隈さんに言われたら、
それに必要なバイトとかそういうの手早くパッパッパってやっちゃって、
段取りがめちゃくちゃいい人っていう感じだったと思うんですね。
強制も高いから、結構段取った上でこういう風なプレゼンしたらいいんじゃないかって、
隈さんに提案して、なるほどねって感じで、
結構打てば響く的なところはあったんじゃないかなと思います。
デザインの探究
確かに、今僕も会社の経営とかをしてる中で、
一番そういう人を担いてほしいです。
そうですよね。
なんかこういうことやりたいんだけどって言った時に、
立ち上げのカロリーって結構高いですもんね。
そこを一旦よしなにやっといてくれるとか。
それは多分本当に自分で客観的に見ても相当使えるやつだったと思うんですけど、
そこの成長曲線で出だしはうまくいくんだけど、
最初から感じてた限界っていうか、
簡単に言うと国際コンペ勝つみたいなレベルって本当に、
もう何て言うのかな、段取りが良くても、
批評性がちょっとあってもダメなんですよね。
本当に人を感動させないと勝てないから、
本当に良いデザインじゃないと勝てないっていう、
本当に良いデザインまで上がっていくためのプロセスっていうのは、
当時隈事務所全体としては誰も分からないっていう段階だった。
隈さんも分からないし、僕らも分からない。
そこをストラグするのに、
2003年ぐらいに国際コンペで参加し始めて、隈事務所で。
でも負けても負けても、隈さんにまたやっていいですかって言い寄って、
隈さんは割と前向きな人に対して基本的には全部OKなんで、
コンペ経験からの学び
負けるってことは会社は赤字、そのプロジェクトに関しては全く収入がないんですけど、
コンペチームをチャレンジさせてくれ続けて、
4年間ずっと負け続けて、
4年間負け続けたのを絶えしのんだ、僕らチームメンバーすごいなと思うんだけど、
隈さんもすごいし、僕らもすごい。
いや、すごいですね。
週年、週年。
それは、それ以外の仕事もやってるけど、もう合間を縫い。
ルイヴィトンの本社ビルとか、JR渋谷駅の改修とか、
朝日放送の本社とかやりながら、裏で海外コンペチャレンジっていうのをずっとやってて、
2007年に同じ年に3つ同時に勝つんですよ。
えぇ、来たって感じで、もう。
すごい。
チャップドバドバ状態。
それはもう、もう分かったって感じ。
はぁ。
もう、僕一人じゃないですけど、みんなで、あ、なるほどっていう。
いや、面白い面白い。負けの分析ってやってたんですか?
めちゃくちゃやってました。
それは審査員から教えてもらえたりってことじゃないんですかね?
じゃないです、自分たちで。
何が悪かったかと。
でも、掴んだのは、負けで2位だったんだけど、コンペ雑誌の、ヨーロッパのコンペ雑誌の表紙になったんですよね。
僕らの負けたけど一番共感されてたんだっていう風に気づいて。
その雑誌もすごいですね。
そうそう。相当たぶん、2位の案が、1位の案がたぶん気に食わなかったと思うんですけど、コンペ雑誌が。
それで、僕らが表紙になって、あ、これは届いてるかもと思って。
はぁ。
あとちょっとじゃんって言って、そっからまた2位になりかかったんですけど。
でも、そこの執念がやっぱり相当みんなの努力あってなんですけど、
その相当な人数がコンペチームで、インターンとかで海外から参加してくれて、
その時のメンバーはかなり多く建築家になってると思う。チーム一緒に戦っててくれた人ですね。
いやぁ、すごいですね。その負ける経験ができた環境は結構最強ですね。
最強ですね、これは。どう負けたかって負けの分析はすごいしてて、
おっしゃるように、当時負けたことのコンペ案のレクチャーしてくれとかも海外、いろんなレクチャーの場で言われたりとかしましたね。
いや、それは本当に勝ちたいって思ってやってないと無理ですね。
もう意地ですね。
そうでしたか。やっぱりやり始めて4,5年ぐらいは。
4年ですね。4年間負け続けて。それが一番悔しかったけど、でも充実してたんでしょうね。
でもその頃ってまだ隈さんですらちょっと分かんないみたいな状況だったんですね。
やっぱり難しいですよね。隈さんの立場から見ると分かってると思うんですけど、
これはいい、これ悪いって。ただ、いいものに上がっていく過程を現場で動かしてるわけじゃないから。
隈さんは建築家としていろんな審査に関わったりしてて、こういう案がいいっていうのは分かってると思うんですけど、
その案に行く過程は分からないんだと思うんですね。
現場ではないから。
一体どんなスタディを日々繰り返してたら上がるのかっていうその浮遊感の感覚っていうのが分かんなくて。
それじゃダメだって言われても、どうしたら上がるのかが分からないっていう。
難しい。ゴールのレベルとかクオリティは分かってるけど。
それは隈さんは分かってると思うんですよね。
そう。それを現場で上り詰めて。
どうやったら浮遊するのっていうのが、飛行機がどうやったら飛ぶのっていう。
このレベルまで飛んでるのがゴールだって言われて、相当上ですけど、どうやって飛ぶんですかっていう。
すっごいですね。ありがとうございました。
すごくいいヒントをたくさんいただいたと思うので、人生、そしてキャリアっていうところの転換点をいろいろお伺いさせていただきました。
パート2は以上とさせてください。ありがとうございました。