00:07
こんにちは、近藤ナオです。今日は、近藤ナオという生き物の第12回を話していけたらなと思っています。よろしくお願いします。
第1回から第4回で、大体ダイジェストで、どんな話をこのポッドキャストでするかをさせてもらって、
第5回からは、リサーチ編の2本編というので、具体的にやっていることを1個ずつ話させてもらったんですけど、まだ2本でやってきたこと、話すことあるんですけど、今日はちょっと、
僕が影響を受けた人々みたいな話を1回入れてみようかなと思ってて、話の中で、
たまに講演会とかで話す時とかに、時間がなかなか限られているので、一番キャッチーなので一緒に暮らしてたおじいちゃんの影響みたいな話をよくするんですけど、もう少し時間があると、
一緒に住んでたおばあちゃんの話みたいなことをさせてもらって、それ以外になかなか話しチャンスはないので、他の影響を受けた人の話っていうのはあんまりない。話す機会がないんですけど、
まだ何人も自分の中では影響を受けている人がいて、
まず身近なところで言うと、お父さんとお母さんという部分に関しては、2人とも共働きだった部分はあるんですけど、結構毎週末は一緒に過ごす時間が多かったので、そこからの影響みたいなものも多かったし、
母方の、僕、父方の実家で住んでたのは愛知県の名古屋市ってところだったんですけど、母方の実家は岐阜県の水波市っていうところで、車で1時間もかからないところだったので、毎週末のように家族で岐阜県の方のお母さんの実家に行くっていうことも多くて、
なんで行くかっていうと、向こうのおじいちゃんが兼業農家だったのかな、米農家をメインでやりながら、半分は水波市の市議会議員とか、最後亡くなったときは多分岐阜県の県議会議員とかやったりとかっていう形で、
僕が政治的志向というか、街づくりというか、広範囲で広い意識を持てるようになったのは、たぶんそのおじいちゃんの影響は結構大きいんじゃないかなと思っていて、
プラス、岐阜の実家の目の前から、中央アルプスかなとかが見えるような感じで、自然の中で、かつお米のシーズンに関しては田植えから草取りから稲刈りから、そういうのを家族みんなで行っては毎週のように手伝うみたいな感じで、
03:13
そこで農業みたいなものにはかなり身近に触れられたっていうのは、その後の経験には大きく、第5話目だったかな、山梨県のNPO法人で笑顔つなげてっていう活動の話をするんですけど、そこで農業をやることへの抵抗のなさだったりとか、
あとその自然の中で、ちょっと不便でも自然の中で暮らすっていうことの気持ちよさみたいなことは、母方の実家で特にじいちゃんと一緒に暮らしたことっていうのは結構大きい記憶になってますね。
そのお母さんの影響っていうのは、それは自然っていうことでもなくて、お母さん、圧倒的に何かが興味があると集中力がすごいっていうか、女性なんだけどって言い方ちょっとあれだけど、今あんまりソロ版とかをやってる人っていうのはいなくて、携帯でピッピって計算できちゃうし、
ですけどお母さんその当時、小学生中学生の時とかは多分ソロ版にすごい熱中して、なかなか女性で数字強いっていうのって、僕なんか男性の方が数字強い印象があったんで、お母さんそのソロ版の世界で日本の全国で第3位とかになるぐらいまでやってて、
なんか知らなかったんだけど、トルフィーとかもいっぱい実家にその後あることを発見して、この人すげえなと思って、今はこの30年40年ぐらいはたぶん宝塚っていう活動体にはまって、それの支援とかサポートみたいなこととかは結構やってたりしてるなって感じなんですけど、
具体的に何やってるかいいとしても、1個自分で興味を持ったものに対してかなりのレベルまで徹底的にやるみたいな姿はかなりお母さんの影響は大きいなと思ってます。
今のそのソロ版が強かった、でも本当に暗算とかもめちゃめちゃ早かったし、お母さんとかは。だからその数字に関して比較的強くなったというか、抵抗感がなくなったのも結構お母さんの影響を受けててありがたいなと思ってますね。
その会社とかちょっと経営するときとかの数字の組み立てだったりとかそういうのに対して苦手意識もあんまなかったし、あとは打ち合わせしながら大体の概算をバババババってしていけたりしながら物事進めていけるようになったのとかは、
06:09
あと算数というか数字が強かったおかげでお母さん、日本生命保険会社みたいなところとかの営業じゃなくて内勤の方に就職していくんですけど、保険会社で培った数字を組むんだけど少し安定的に収支計画を組むというか、そういう感覚のマインドをお母さんから教えてもらったなという気がしてて、
その2つはお母さんから受けている影響かなと思ってます。
お父さんに関してはDIYかな、圧倒的に。
彼とは今思えばあれは違法だったのかゴミ拾いだったのかわかんないんだけど、例えばその辺に落ちている錆びついた壊れた自転車みたいなのを見つける度には家に持って帰ってきて、それを分解してピカピカに磨いて、
たぶん三台分のパーツを集めて一台のチャリを作るみたいなこととかをやったりとか、
結構これプロがやるレベルの施工工事じゃないっていうようなレベルのことを一緒にやってたりとか、
なのでDIYっていうか手を動かして何かものを作るっていうのはかなり身近なレベルにしてくれたのはお父さんかなっていう感じですね。
その後、影響を受けた人っていうので、ポッドキャストの一回目かな、には話したかもしれないですけど、高校生の頃、カバ君っていう、
その時の僕から見ると本当に自由に自分の生きたいようにというか自分を表現したいように表現して、周りなんか関係ないっていう感じで生きてるカバ君に出会ったおかげで、
そういう生き方を同い年でしてる人がいるんだっていうのを見せつけてくれたのは僕にとってはすごい大きいきっかけだったし、
その後は大学3年生の時に、僕の感覚であんまり面白い先生がいない状態の大学の建築学科に、
アメリカから不倫してきてくれたジョージ・クニヒロさんっていう先生がかなり建築の面白さを教えてくれたし、
彼の独自のルートで、結構日本トップレベルの設計事務所にバイトに行けたりとかさせてもらって、
それをきっかけに、日本本当一人を争うような組織設計事務所にバイトに行かせてもらって、
そこに来てる他のバイトの人たちっていうのは、東大だったり早稲田だったりとか東京理科大だったりとか、
09:07
そういう建築の世界ではエース級のところの建築学科の学生とか大学院生ばっかりだったんで、
そこの環境に僕を連れてってくれたのはやっぱりすごいありがたかったですね。
僕がびっくりしたのは、僕みたいな、うちが三流大学なのかちょっとわかんないですけど、
うちの当時は人学年建築学科100人ぐらいいたけど、やっぱり休み時間とかお昼の時間に建築の話してるやつは誰もいなかった。
僕も含めて。全然合コンの話だったりとかテレビの話だったりとか、全然建築とは違う話っていうのばっかりだったんだけど、
そのバイト先に行くと休憩時間とかもずっと建築の話してるんですよね、みんな。めちゃくちゃびっくりして。
建築家の噂話で盛り上がってるっていうか、建築業界だと日本人だと安藤忠夫さんとか、
田毛健三さんとかっていうすげー多分有名な巨匠の建築家、これぐらいの名前だったら聞いたことある人いるかもしれないですけど、
京都で安藤忠夫さんがほぼ初期に作ったあの建築はこういう背景があってねとか、田毛健三さんは最近ちょっともうボケてきちゃったのか、
卒業設計の時の総評で自分が作った東京都庁の建物を間違えたとか、
なんかそのレベルの建築家ゴシップみたいなのすら集めて建築の話で盛り上がり続けるっていう、
すごい世界観というか、僕の大学でもありえなかったので、でもそれによって建築を本気で話し合う仲間が作られていって、
そこで出会った、大学どこだっけな彼、ちょっと忘れちゃったの、松井くんっていうのと出会って、
彼と二人で設計事務所を作るっていうので、僕が二十歳ぐらいの時に会社を作ったっていうのはすごい大きい出会いでしたね。
松井くんは何を教えてもらったっていうか、松井くんは設計事務所の息子だったので、
もう生まれた時から、大分が出身なんだけど大分の設計事務所で生まれた時からずっと建築の畑にいて、
小学校中学校から建築の雑誌読んでるみたいな、すごいサラブレットみたいなやつで、
建築業界で早いうちからコンピューターで図面書いたりとか、CGの技術を持ってたりとかもしたので、
12:04
彼と出会って会社作ってからはもうお互いの家に週5日か6日泊まり込みで、僕も一気に技術を教えてもらって、
二人でもう1日18時間とか20時間ぐらいずっと仕事してるみたいな感じで立ち上がっていきました。
それでいろんなところから仕事をもらえるようになって、途中ですぐ建築プロデューサーっていう肩書きだったかな、
山本小鉄さんっていう商業系の建築プロデュースかな、すごい流行ってるディスコとかクラブとかプロデュースしたりとか、
みたいなのが多分有名だったと思うんですけど、その人から知り合って、僕らはクラブ作るっていうよりは、
海外にスタジアム作るとかそういう系の仕事を頼まれて一緒にやってたんですけど、
山本小鉄さんに結構早いうちに俺は言われてすごいありがたかった言葉があって、
なおさ、お前努力すればなおと同じように誰でもできるようになると思ってるくない?みたいなこと言われて、
僕ほんと周りで一緒にやってる友達たちとかバイトの人とか見てて、なんでみんなできないんだろうっていうのはすごい思ってて、
絶対努力すればみんなできるんだよっていうなかなかストイックなスタイルで、今思えばもう役割分担だからできることとできないことがあって、
それを組み合わせて見てみたい世界をみんなで作っていくっていうのとかっていう方がもちろん気持ちいいことだって、
僕はそれが好きだし、それの感覚に気づくきっかけをくれたのは小鉄さんで、
僕にさっき言ったように、なおは努力したら大体のことできるっていうのは見ててわかるけど、
他の人たちはそうじゃないぞって言って、それを強要するようなスタンスだったりとか、その前提を一回考え直したほうがいいと思うよみたいなことを言ってくれて、
そうなんだと思って、あれは結構でかかったですね。
それ以来周りにいる人たちを見てみて、確かにこの人はこういうことはできるけど、ここはもうこれ以上頑張っても技術的にというかセンスの部分も含めて厳しいだろうなっていうのを思ったし、
あれは本当にありがたかったです。
あれを23歳とか24歳ぐらいの頃に気づかせてもらって、そこから少しずつだけど、自分じゃない他人っていうものに対して興味を持てるように少しずつなってたっていう感じですね。
15:01
この後はちょこちょこいろんな出会いがあるんですけど、もう15分ぐらいになってきちゃったので、またちょっと途中で何回か目からところで気が向いたら25歳から45歳ぐらいの間で出会った僕の人生に影響を与えてくれたような気がしている
人たちシリーズをやっていけたらなと思います。
じゃあまた次回に。