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近藤ナオです。急に始めるんですけど、近藤ナオという生き物という番組を、今日から始めようかなと思ってて、
なんで始めようと思ったかというと、ナオさんってマジ説明するのムズイみたいなことをすげえ言われるんで、
とはいえ、僕のやってきたこととか本当にやってることを伝わるように話すと、たぶん10時間とかあっても伝わるかなっていう感じがするんで、
とはいえ10時間あっても聞きたいっていう人もたまーにいてくれるので、でも10時間を毎回毎回喋るのはきついなと思って、
なので音源にして15分1本ぐらいな感じで、いろいろ僕が経験してきたこととかをためとけば好きな時に聞いてもらえる人がいたら嬉しいなと思って、
なんかちょっとやってみようかなと思って始めます。ちょっと初回なんで、ちょっとどうなるかわかんないし、ちょっとだけ一人で撮ってるのに緊張してる部分もあるんですけど、
いきなり1話目ガンって深く話しすぎちゃうと、もう本当わけがわかんなくなっちゃうと思うので、最初の4回ぐらいは、
僕の生まれた時から今やってることまでをざーっとダイジェストで話させてもらって、その中の1個1個5回目ぐらいから順番に伝えていこうかなっていう構成にしようかなと今は思ってます。
大きい結論から言うと、僕が10年ぐらい前に原稿できたのかな、何のために生きているかみたいな感じ、ちょっとダサい言い方だけど、
それは今思うと、世界中の人たちが釈然として生きていける世の中を作りたいっていうのを僕はやってるんだなっていうのを、ずっとやってきたんだけど、原稿ができたのが10年ぐらい前って感じで、
釈然とするっていう言葉がすげえわかりづらいと思うんだけど、よく使われるのは日本語だと釈然としないって言い方をすると思うんですけど、あの感じっすよね。
世界中の人たちが笑顔でとか幸せでみたいな感じって、全員が笑顔ってちょっと強制的で気持ち悪いなと思ってて、その時に釈然とするっていう言葉をふと出会って、釈然とするってどういう感覚かっていうと、
例えば40代の人とかが家にずっといて、ゲームとかずっとやって、ウィダ・イズニリみたいなのガー飲んで、ずっとゲームやって、もうそれで釈然としてるならそれでいいじゃないみたいな感じで、だから何しててもいいじゃないみたいな。
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でも40代でずっとゲームやってたら、大体多くの人がその生き方はないねみたいな感じでプレッシャーかけてきて、釈然と生きられない状態にさせられちゃうんだなと思ってて、なので釈然としないほうがもっと少しわかりやすく言うと、
世界中の人たちが一個でもいいから選択肢があるようなような作りたいなと思っていて、やっぱ最近日本中でもいっぱいいると思うし、世界中にもいっぱいって言い方がちょっとあれだけど、僕はかなりいると思ってるのが、本当に選択肢が一個もなくて、マジ沼から出れないっていうのかな。
本当に今の生活というか、流れからもうどうしても脱出できないという状態で暮らしている人たちを見受けるので、そういう人たちが一個でも選択肢があるような世の中を作りたいなっていうのを思っていて、それが今僕が大きくやっていることで、それがどうやって作られて、その感覚を作られていったかっていうのをまず今日は軽く生まれたときから、
26歳くらいまでかなーの話をざっとできたらなと思います。
僕はとりあえずおじいちゃんとおばあちゃん、一緒に暮らしていたおじいちゃんとおばあちゃんの影響をめっちゃ受けていると思っていて、お父さんお母さんが共働きだったんで、かつ僕が長男っていうか一人目の子供だったんで、僕とおじいちゃんおばあちゃんっていう三人で暮らすっていうことがすごく多くて、
まず愛というのかな、奉仕というか、そういうのはおばあちゃんに教えてもらったんだなと思っていて、
今思うと、おればあちゃんと毎日散歩して、家の近くの人の家を回って話したり、食べ物届けたりみたいなことをおばあちゃんがずっとやってて、そういう散歩に付き合わされてて、
これ何なんだろうなと思ったら、日本にある民生委員っていうめっちゃ不思議な仕組みがあって、不思議じゃないな、全然不思議ではないんですけどすごいな、この仕組みはと思って、本当に善意のある人たちによって成り立つ仕組みで、
本当ボランティア、マジボランティアなんですけど、たぶん小学校の学ぐらいかなって、民生委員の人がそこのエリアの独居老人というか一人暮らしのとか、そういう人たちの家をたまに回ったりとかして、孤独死してないかとか、サポートをどこまでしろみたいなルールは多分ないんだけど、
みたいなことをやる仕組みで、しかも次の人を見つけない限りやめられないっていう、めちゃめちゃなんだそれはみたいな感じで、それをたぶんおばあちゃんは今思うとやってたから、だから散歩で人の家をぐるぐる回って、ご飯届けたりして、
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でもすごい喜ばれてたし、その感情っていうのは僕の中で、いろんな人のことを考えられるようになったっていうのは、そのおばあちゃんのおかげかなと思ってて、もう一人は一緒に暮らせたじいちゃんですね。
じいちゃんがもう超絶わけわかんない権力者で、もう死んじゃったからね、わけわかんなかったかどうか今なら喋ってみたいなと思うんですけど、何がわけわかんないかっていうと、じいちゃんが決めた近藤家のルールみたいな、近藤直っていうんですけど、近藤家のルールは子だからみたいな、よくわかんないルールがいろいろあって、
小学校とか中学校とかでも、俺の友達たちはみんなできるのに、俺だけできないみたいなルールがあって、例えばよくわかんないところでじいちゃんがこのエリアから出ちゃいけないみたいな境界線とかが引かれてて、そこから出れないから俺だけボーリング場行けないとか、何なんだこれはみたいな、でも理由を聞いても理由はない、近藤家のルールだからみたいな感じで、
それがすごい嫌で、やりたいことがもうやれないっていうのを本当にずっと押し付けられてて、その後も小学校の先生とか中学校の先生とかも、俺が独自で考えたやりたいこととかをやると、例えば算数とかめちゃめちゃ得意だったから、算数の時間にすごい苦手だった、英語の勉強しようと思って、
先生がやってる授業内容全部わかるから、自分で考えて英語の勉強してたらめちゃめちゃ怒られて、いやでもわかってるんですけどみたいな、そういう意味で自分の持ってる権力みたいなものを押し付けてくるっていうのに対して、すごい嫌な気持ちが醸成されていっちゃったっていう感じで、
なので、本当にやりたいことができない人たちが世の中にいることに対して気になるような人生が始まっちゃったんじゃないかなと思っていて、
小学校の頃とかも家にいるというか、じいちゃんの監視家だともうやりたいことができないから、小学校とかでは10歳の時には自分で紙芝居サークルみたいなのとか作って、仲間とかを組織して、
組織っていうか、今思えばチームマネジメントして、紙芝居作ったらめちゃめちゃ学校で大ヒットしてみたいな感じで、10歳の時にはもう自分で考えていろいろやってたなっていうのは、覚えてるかなっていう感じかな。
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その後、中学の先生とかもめっちゃイラッとして、やりたいことができないなと思ったんだけど、高校に入って、おじいちゃんがかなり弱ってきたのもあって、高校へかなり自由になってきたのと、
高校2年生の時かな、カバ君っていう、めちゃめちゃ自由に生きてるなこいつみたいなやつがいて、カバ君とか歌大好きで、歌超上手くて、尾崎豊とか超上手かったんだけど、カバ君でも全然勉強とかできなくて、勉強できないんだけど、
今は答えは1個じゃないっていうのはわかってるんだけど、当時は完璧な正解があるものがすごい大事だった。
だから算数とか、さっきの算数とか理科とかが物理とかが得意だったのは、正解は1個だけっていうのかな、計算式が合えばその確実な答えにつながって、それが答えと合ってて正解みたいな感じになるから、
国語とか英語とかが苦手だったのは、これを訳しなさいとか言われると、僕模範解答と一軸一緒じゃないと当たってるっていう気持ちにならなかったんですよね。今はあれは何なんだろうと思うんだけど、そういう感じだったのに高校2年生の時にカバ君出会って、カバ君英語とかで当てられて訳とか言うんだけど、全く違うことを、マジで全然単語の意味とか違うんだけど、堂々と言うわけよね。
それがなんかもうめちゃめちゃかっこよくて、こんな風に自由に生きれるんだなみたいなのは、カバ君をきっかけにかなり僕は吹っ切れたなと思ってて。
その後、僕身長が195センチあって、愛知県の名古屋市出身なんですけど、名古屋の人がっていうとちょっと絶対かかるんだけど、名古屋の人は結構僕とすれ違うたびに、なんかでげえでげえみたいな感じで聞こえるぐらいで言ってて、
ただでかいだけみたいなのもすごい恥ずかしくて、全然バレーボールとかやってたけど、そんな国体というかそういうので、インターハイとか出れるほど運動神経も良くないし、でかいのは恥ずかしくて、
でもめちゃくちゃベタに、あ、モデルとかならできるかもって思って、あ、ちょっとモデルをやるために東京の大学に行こうみたいな。で、東京大学でどうしよう、何学部行こうかなと思ったんだけど、
僕は数学得意で、あと絵描くのとかすごい好きだったんで、数学と絵だったら建築デザイナーみたいな、それぐらいしか思いつかなくて、別に建築とか全然やりたかったわけじゃないんだけど、じゃあ建築でいいかと思って、
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で、東京の大学探して、三流大学って言ったらあれだけど、国師館大学っていう超武道派の大学があるんだけど、柔道とか剣道とかそういうのとかすごい強くて、そこが偏差値そんな高くないのに建築学科の校舎が下北沢にあったんですよね、めちゃめちゃ街中やんと思って、
それで受けたら受かって、愛知県の名古屋とかの大学も受かっちゃったんだけど、お母さんにお願いしてモデルとかもやりたいし東京行きたいんだみたいな感じで出してもらって東京行って、
大学1年生2年生の時とかはもう本当に全然別に勉強もしたくはなかったし、でも一応モデル事務所みたいなところに入ってやってみたんだけど、売れる奴のオーラは全然違うなみたいな感じで、全然そういう分野じゃないなと思ったけど、東京自身はめっちゃ面白かったから、
女の子とイチャイチャしたりとかも含めて、大学1年生2年生の頃はそういう感じだったんだけど、大学3年生の時にジョージ・クニヒロっていうアメリカで建築やってた先生がうちの大学に赴任してきてくれて、
その先生がもう分かりやすいアメリカっぽい感じで、建築なんだから座学じゃなくて外行くぞみたいな感じで外連れてってくれたり、建築は自由でいいんだみたいな感じで、もっと自由な設計しろよみたいなことをガンガン言ってくるみたいな感じで、それで建築がすごい楽しくなっちゃって、それで一気に建築の世界に入ってくるんですけど、
その時に昔からいた建築学科のまた別の先生が、めっちゃイラつくような持論というか、みんなの心を折るようなことを言ってきたんですよね。
それ何かというと、一学年だいたい100人ぐらい生徒がいるんだけど、その生徒たちに対して、うちの大学とかだと将来建築でデザインやってる、個人でやってるだけじゃなくて、組織に入ってやってる人とかデザインに関われる人って一人いるかいないかだなみたいな、めちゃめちゃ夢も希望もないことを言うなこの人と思って。
20代、30代は修行みたいな、やっと40代で新人みたいな感じでデビューしていける世界なんだよみたいなことを言ってきて、いや本当かよと思って、それで大学3年生の時に友達と2人で建築デザイン事務所を作ってみようと思って。
作ってみたら、リアルな設計の仕事は取れなかったんだけど、当時建築の世界にコンピューターグラフィックのCGがどんどん導入され始めた頃で、例えば体制建設とか大手とかもCG一本発注すると250万円みたいな感じで、すごい金額払ってた時代があったんで。
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それででも俺らは、そんなにお金もらわなくても2人で大学生で1本作ったら50万とかもらえればもう十分だったから、私もめっちゃ体力あるからほとんど寝ないでも別にやれたし、あと当時はレンダリングっていうCGを起こす作業みたいなのがクッソ時間がかかったので、レンダリングしてる間に寝ればいいみたいな感じでずっと仕事しててみたいな。
そしたら毎月30万円ぐらい1人稼げるようになっちゃって、あれこれもう十分じゃね?と思って。でもう就職活動もせずに野に放たれたっていう感じで、だんだんCGの仕事をやってたんだけど、そのうち少しずつ美容室のデザインとかカフェとか、そのちっちゃいインテリアのデザインとかの仕事が取れるようになってきて。
そしたら途中でこんなクソみたいなコンセプトのカフェ作っても意味なくない?みたいなふうに思うようになって。そしたらそっかと思って、建築デザイナーがもちろんコンセプトを作るわけでもなく、その上に建築プロデューサーみたいな人とか、コンテンツプロデューサーっていうか全体の企画を統括してるようなポジションの人がいるっていう当たり前のことが分かってきて。
友達と2人で会社やってたから、もう1人はもうほんとザ・建築家で、親も設計事務所やってるみたいな人だったんで、多分建築家の道にいた方がいいなと思って。
僕がポジションを上げるっていうのかな。建築プロデューサーみたいな方になったら、そういうコンセプト作ったりとかそういうのもできるかなと思って。
2人でコンセプト作りみたいなところからデザインまでっていうのをやるような感じで、22、3歳ぐらいからそういうふうにどんどんシフトしていったっていう感じなんですけど。
その頃、多分六本木ヒルズ万歳みたいな感じで、もう22、3年前ですかね、東京の六本木ヒルズでもうキラキラした感じで、ザ・資本主義みたいなものがもうもてはやされて、
僕もそれに疑いもなかったし、将来こういうものを作れたらなみたいなことを思ってたんですけど。
そしたら25歳の時かな、東京に上野っていう駅があるんですけど、上野の駅前に2000坪の土地持ってるかなり中規模なのかな、中規模小規模ぐらいの不動産デベロッパーから直接ここの建築プロデュースをやってほしいみたいなことを言われて、
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総工費350億円ですと言われて、おお、マジかと思って、25の俺らに頼むんだみたいな、って思って企画書1本書くと1000万円みたいな感じで、やってたんだけど、
でもなんか正直、上野、六本木ヒルズみたいなのを作りたかったけど、とはいえ東京の上野のあたりってまだ東京の中でもアジアっぽさが残ってる雰囲気のところに六本木ヒルズ作るのもなみたいな感じで、
とはいえでもそれは新しいコンセプトを作れるほどまだまだ自分に知識もなかったし、なのでもう仕方なく淡々と1,2年ぐらい企画書を書いてはみたいな感じでやってたんだけど、
そしたら急に、六本木ヒルズに住んでる人たちが最低限必要なエネルギーとか食料とかそういうものがどこで作られてどうやって供給されてくるとか、分かって暮らしてるのかなみたいなことを急に思っちゃって、
でも俺もエネルギーの作り方とか食料の作り方知らないなと思って、知らないのに建築プロデュースとか街作りとかやってていいのかなって思って、それは結構僕が決めたら結構極端な性格はなぜかあるので、
26,27ぐらいでも建築作るのやめようみたいな、新しい建築やめるみたいな感じでいきなり設計事務所を、というか建築を作る行為をやめちゃって、それで何したかっていうと、
週半分は東京から近かった山梨の方で50人ぐらいの集落でNPOを作って、そこで自然エネルギーとかそういう有機農業、食べ物の作り方だったり他にもいろいろやってきたんだけど、そういうことを週半分山梨でやって、
週半分は渋谷で建物を作らない街作りをするっていうので、急にザ資本主義の世界から、キラキラした世界からバンって思いっきり振って、今思えばもう20年前から二拠点居住っていうのかな、本当に毎週毎週行ったり来たり来たり来たりで、
その時一人目の子供が生まれたので、0歳とか1歳の子供を連れて毎週のように行ったり来たりするっていう家族全員で移動するみたいなライフスタイルが始まっていくんですけど、ここからかなり自分で独自なことをいろいろやってきたと思うので、ちょっと一回今日はここで区切って、続きは来週。