多分そのホモソが好きって初めて聞いたの中では、あまりその自分自身が、僕自身ね、サメ自身がですね、そういった振る舞いだったりとか、
ホモソ社会に溶け込んでいたことっていうところ。で、具体的にどういうことをしてしまったのかとか、そこに対する反省の気持ちみたいなのって、
なんかあんまり自分ごととしてはそんな話してない。まあ本当に嫌だと思っていたっていうことを話してるんだけど、でもただその中で適応しなきゃみたいな部分がすごく僕は強かったので、
適応しようとしてすごく嫌なことをしてしまったとか、まあ言ったらホモソのノリで嫌なことをしてしまったとか。で、実際にそういったことをされた人、
まあした人もだけど、された人の中で深い傷になってる人って全然いるだろうなっていうことを思ったりとか、
言ったらいざ自分はそうじゃないようなふうのことをしてて、それはノーだっていう話とか、じゃあそれが、でもそこの魅力って何なんだろうみたいなことで、まあ向き合おうとしてるとポジティブに言うとね、
思うところもあると思うんだけど、ただそこは全然自分の話みたいなことというか、あまり自分自身がやってきたことみたいなのって、なんか僕の中で覚えてないし、
多分すごくあるんだけど忘れてしまっているみたいなことがめっちゃあって、なんかそういったこととかをすごく考えた演劇でしたね、すごく良かったですね。
僕は結構いろんな、まあ演劇でも映画でも音楽でもその他いろんな表現だったり作品だったりとかも、よく言ってるのはどこかに僕をぶっ飛ばしてほしいみたいなっていうことで、このぶっ飛ばしてほしいっていう中には僕の考えをぶっ飛ばしてほしいとか、
なんかこう、これまた抽象的になっちゃうんだけど、本当に全然違うところに来たみたいな感覚になる作品とかってあったりすると思うんですけど、そういうのは僕の中ではぶっ飛ばす、ぶっ飛ばしてほしい、ぶっ飛ばされたに入っていて、とかまあそういうのを包括してぶっ飛ばしてくれるものというのを求めに行ってるって言ってるんですけど、
なんかね、ある意味自分の考えとか何かをぶっ飛ばすっていうよりは、なんかコンコンとノックされたような感じというか、もっと言うとそのぶっ飛ばしてほしいって言ってる自分のずるさ、ぶっ飛ばしてほしいと何かそういったエンタメ作品だったり、外からの刺激に自分を遠くの方にやりたいみたいな欲望みたいなことで、
いろんなことを多分覚え隠そうとしてる部分みたいなのも多分あって、なんかそういうのじゃなかったというか、なんかコンコンとすいませんと、あのこういうものなんですけどもあなたってどんな人ですかみたいな感じで語りかけてくるような演劇だったというか、なんかそれって僕が普段からよく言ってるぶっ飛ばしてほしいっていうものとは全然違うアプローチなんだけど、
そういうのが煩わしかったり、そういうのってもういいよって思っちゃう時期とかもあったんだけど、なんかそういった表現方法も含めてすごく良かったですね。
なんでこんなにいいんやろっていうのは、その場ではすごくわかんなかったし、なんか僕としてはぶっ飛ばされた感覚があったんですけど、あ、そうじゃないかもなみたいなコンコンと問いかけられた、扉を叩かれたようなものっていうのが聞いてくるっていう、特に少ない人数で小さな劇場で行われる小劇場演劇っていうのは、なんかそういう良さもあるのかなっていう。
思ってて、なんかそういう意味でも最近見た中でもすごく自分の中に残ってじわじわとあれってなーとか考えたりすることがあって、良かったですね。
かるがも団地の逆光が聞こえるという公演だったんですけども、またかるがも団地での公演があるみたいなんで、それも毎回こういうものをずっとやってるってわけではないようなんですけども、他の作品も線で見るとどんどんどんどん広がるというのは絶対あると思うので、行きたいなーと思ってますね。
そんなのが最近だと良かった、考えた、思ったことっていうなどとありましたね、演劇だと。
あとは先日、5月の11日、文学不利間東京ありましたね。
ゴダボに漏れず、私も遊びに行ってきまして、楽しかったですね、やっぱり。
僕、ちらちら配信でも言ってるんですけど、印刷の仕事で日銭を稼いでいるんですけれども、それで文学不利間で出すようなアートブックだったり、ジンだったり、同人誌だったりみたいなのをちょくちょく印刷することがあって、今回も携わったものとかがあったので、そういうのも見たいなーというのもあり、半分仕事、半分お遊びみたいな感じで行って。
僕の中でそういう距離感が結構楽しかったりして、まあそんなんで自分がやったブースの方々のところにもいろいろ行ったりとか。
ちょっと用事があるっていうのがいいんです、僕の中で。
なんか文学不利間の楽しみ方ってそういうのを持ってる人の方が楽しいんだろうなっていう、半分知ってるみたいな。
それこそポッドキャスト聴いてる人がブース出してるとか。
で、その人と会うのは初めてだけど半分知ってるみたいな。半分関係者みたいな感覚になるじゃないですか、ポッドキャストのリスナーって。
なんかそういうののリアルの場として機能する。
で、ついでに近くの人たちのブースとか見てなんかまた出会いがあるみたいな。
なんかそういう楽しみ方が一番楽しいんだろうなみたいな。
だから逆に本当にゼロベースみたいなので、カタログだけ持って、もちろんそれが一番多いお客さんの形だと思うんだけど、
ゼロベースでカタログ見て、このブースがっていってチェックしていって、ゼロでアタックするみたいなのって一番楽しいし、一番たぶん新しい出会いがあるんだけど、
たぶんそれってすごい大変っていうか、なんかそういうことを結構考えた文学フリマだったなという。
で、ものすごい人の数いて東京ビッグサイトで2回使ってやってるんですけど、
まあいろんなね、小説、フィクション、エッセイ、日記、単歌詞化、批評といろいろ全ジャンルあると言ってもいいと思うから、
ものすごい人の数っていうのと、なんかその中で結構重ねてるのってみんながすごく個人個人の気持ちとか思い表現したいこと、批評みたいなものが詰まったブースがものすごい数あるっていうので、
なんかこう人のパワーみたいなのがすごい溢れてるし、それまでのさっき言ったような半分関係者半分知ってるじゃないけど、
その人の出してる本以外の活動とか、その人自体に会いに来るみたいなことの行動とかも含めて、
で、実際僕もその波に飲まれながらやってるんで、本当はもっとあんだけあったら初めての出会いみたいなのを探すっていうことを一番求めてるはずなんだけど、
どうしても全然回れなかったですね。回れなかったっていうのがみんな多分そうなっちゃうんじゃないかな。
だからゼロベースで本当にゼロで出会いに行っている人っていうのはすごいと思う。
本当に体力があったり、自分の活動する気持ちがあったり、出会いたいっていう気持ちがあるっていう。
だからすごい本当に向き合ってるお客さんみたいなのがどれぐらいいるのかっていうのがわかんないんだけど、
最近僕の中では2025年って何か一つの境目だなって思っていて、
すごく積極的に新しい人に出会ってるし、それがいい感じの出会い方をできてるなっていう感覚。
本当はもっと2,3年前とかに会えてたらさらに最高だったんだろうけど、
多分今だから出会えてるし、今出会えて良かったなみたいな。
こんなこと言ってるとすごいインターネットビジネスっぽいことをやってるようなあれの言葉になっちゃうんだけど、
全然そんなことなくて、もちろんポッドキャストをやってる配信者の人だったりとかが結構本当に一番多かったりするんですけど、
それこそ演劇めっちゃ見てるだけなんですけど、めっちゃ見てるっていうのとかをインスタとかでシェアしてる中で、
そういうのを見てくれた人とかと繋がることがあったりとか、
それこそ友達の紹介とかで出会ったりとか、そういうので、すごく2025年4月ぐらいから新しい人に出会って、
なんか新しいことやるな自分、みたいな感覚あるんですよね。
もちろんこのポッドキャストはずっと続けていくんですけど、
同時にポッドキャストにしろ、自分がウォッチしてるいろんな界隈にしろ、何かが終わっていってる予感っていうのもすごくしていて、
特にやっぱポッドキャストは一つ区切りついちゃったなって感覚がめっちゃ僕の中であるんですよね、2025年に。
これは自分が2020年からプレイヤーとしてこの番組心のすなわち配信しながら、
毎週配信しながら他の番組とか、そういうシーンじゃないけど、
こういったそれぞれ野良でポッドキャストを配信してる人たちとどういう風な言語を交わしていくのか、
どんな風なコミュニティになっていくのか、シーンになっていくのかみたいなことに僕はすごく興味があったし、
それが大事だとも思った。
僕はどこかシーンの中の一部でやりたかったっていう願望がすごかったんですよね。
バンドをやってた時にしろ、何かそれぞれ出ていく人たち、文章で出ていく人とか、
そういったこと、お笑いとかもあるかもしれない、そういったそれぞれ流行ったもののシーンみたいなところって、
結構間近な人がそのど真ん中にいたりとか、その波に乗ってる人とかを目撃したのにも関わらず、
もう一つ自分が手を伸ばせばそこに入ったかもしれないけど、それができなかったみたいなね。
例えばバンドでこういう、今京都のシーンが盛り上がってますみたいな時に、
そこに自分は近くにいようと思えばいられたはずなのに、いれなかったりとかね。
それはタイミングとか何かとか。
自分たちのやっていることが表現されている。
で、それが世間とか社会に一人ポンって見つかるとかじゃなくて、
そういうのって絶対にシーンで見つかる。
こういった感じになってるんですっていうことって。
やっぱり複数人のプレイヤーがいて、複数人のイデオロギーがあって、思想があってっていうのが、
ただ、それぞれ違うんだけど、こうくくったらこんな感じに見えますよねみたいな。
っていうものの中にいたかったっていうのがあって、
そこにこの5年間ぐらいでそれぞれで喋ってた、
ポッドキャストで交わされてた言葉みたいなのっていうのは、
5年間の何かすごくインディーズなというか、手作りなシーンではあったと思うけどし、
どこまで多くの人に届いたかわかんないけど、
僕は結構自分がプレイヤーとして色々関わったりしながら大事に、一番大事にしたかったシーンだったと思うんですよね。
実際に番組が終わる、ここ1年ぐらいで終わったり、活動停止したり、ふんわりフェードアウトしたりみたいな、
これまで5年あったら1年で2年で3年でみたいな、だんだんあったんですけど、
定的にラジオ番組だったり、ラジオ局主導の番組とか、逆に今やっぱポッドキャスト来てますよねみたいな言葉をガンガン言う人とかもいて、
ああ、全然見え方違うみたいな。今俺が大事にしてたものは終わろうとしてる。
ああ、だからこの人は今から始まるんだみたいな感じっていうのがあるみたいな感覚とかもあって。
僕はそういうシーンに属したかったし、シーンにしたかったし、自分がどうするのかみたいなこともすごく考えてたから、
この今楽しい感じっていうのはどっかで絶対終わるんだなって思ったんですよね。
だし、てらださんとやっていく中で、心の砂地次第もそのままではいられないんだなとは思ってたんですよ。
絶対に人生は進んでいるわけで、そこで変わることもあったし、外理的な要因で変わることもあるし、
僕とてらださんの関係もあるし、心の砂地でやれることみたいなのの限界もあるだろうしみたいな。
それができる限り外部的な要因とか、もうちょっと工夫したらなんとかなるじゃんっていうことで限界が来るってことは
潰しておきたいなと思ったから、完全リモートで撮ってるし、距離感というか台本を作ることだったり、
編集のシステムだったりみたいなのをシステム化したのはカッチリ僕がしたいっていうのはあるんですけど、
そうすることが一番長くできると思ったんですよね。
限界が来ないようにするっていう、負担をかけないようにするっていうシステムにしておけば、
できる限りそういったことが避けられるだろうっていうことを2021年ぐらいで始めてるんで、その段階で思ってたんですよ。
で、やっぱりどうしても互いに絶対に会って収録するとか、
やっぱり負担が絶対かかるところは、そういった負担が蓄積してしまうんだろうなと思って。
で、それは別に悪いことじゃなくて、それで終わるんだったら別に終わるし、
別に本人たちもそれが何とも思ってもない部分でもあるだろうし、
このやり方がいいと思ってるしとか、譲れない部分があるとかいうところもあると思うんだけど、
僕は終わらせたくなかったし、っていうので、だから今も続けられてると思ってるんですけど。
でもやっぱりそうなるよなーっていうのはすごく思っていて。
で、この間ずっと一緒に、友人でもあるし、毎年イベントをやっていたネオ五条楽園という番組が今年の5月で終わるわけなんですけども、解散という感じになるわけなんですけども、
その辺りはイベントでも話したりもしたんだけど、彼らは彼らでそれぞれ何か表現というかやっていくだろうし、
すごくポジティブに捉えてるんだろうけども、まあまあそういうことなんだろうなーっていう。
すっげーわかるなーっていう部分もあるし、僕はでも終わるっていうことを良しとしてなかったから工夫したけど、
別になんか多分終わりたいみたいなところもあるんだろうなーっていうことはすごく理解できるというか。
その辺も考え方の全然違いだと思うんですよね。僕はまだやりたいことがあるっていうのが一番全然あって、
全然話し切ってないことがめちゃめちゃあって、それを多分やろうと思ったらあと5年ぐらいは多分いるから10年やろうと思ってるんですけど、
でも別に多分そういった風なモチベーションでみんなそれぞれやってるわけでもないし、
同時に思うのはリスナーとか、このシーンっていうのは配信者ベースでやっぱ考えてたり、プレイヤーベースで考えてるところがあるんですけど、
大きいのはやっぱ結局はお客さん。ポッドキャストの場合だったらリスナーっていう層があって、
そこをどう捉えるかっていうのもめっちゃ大事なんですよね。だからどういう人に届いてほしいか、
どういう風に付き合っていくのか、どういう風なアクションをしていくのかっていうこともすごく大事だから。
っていうか一番大事なのってそこに人が集まることなんで、結局一番大事にしないといけないのはお客さん、リスナーさんだと僕は思っていると思うし、
僕はこのお客さんっていう言葉で思ってるけども、もっと友達だとか、別に本当に配信者の人、プレイヤー、作ってる側と変わりがないよねって思ってる人もいる。
この辺の見方の違いっていうのも面白かったりすると思うんだけど。
で、僕はいきなり終わったりするとか、終わりたいっていうことが責任なんじゃないかなと思ってるんですよ。
別にやりたいことだし、お金払ってきてるわけでもないし、聞いてもらってるわけでもないしとか、