今回は、つなぐ人・針生孝子さんにお話を伺いました。
旦那さんとのご結婚をきっかけに「この人をサポートする」と決め、旦那さんを支え続けてきた針生さん。
まずはその旦那さんとの出会い、そしてお仕事と歩みについてから、伺いました。
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/6513739a0bc9d6e1d690bae1
旦那さんとのご結婚をきっかけに「この人をサポートする」と決め、旦那さんを支え続けてきた針生さん。
まずはその旦那さんとの出会い、そしてお仕事と歩みについてから、伺いました。
---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/6513739a0bc9d6e1d690bae1
感想
まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!
00:03
ゆいなわさんの聞く人ラジオのお時間です。
今回はつなぐ人・針生孝子さんにお話を伺いました。
旦那さんとのご結婚をきっかけに、この人をサポートすると決め、旦那さんを支え続けてきた針生さん。
まずはその旦那さんとの出会い、そしてお仕事とその歩みについてから伺っていきます。
針生さんは、お仕事は何ですか、何されてたかとか、今でもいいんですけど、お仕事は何ですかって言ったら、何と答えますか。
今の職で。
でもいいです、その前のことでも聞いてきますけど。
その前はほとんど夫のサポートです。
夫のサポート、旦那さんのサポートをするっていう。
ずっとしてました。
っていうことは、主婦みたいな感じですか。
主婦であり、私と8歳離れてて、昭和15年生まれの、中学しか出てないんですけど、すごく仕事の大好きな人で、結婚した時に私はこの人をサポートするって決めて。
へー、すごい、はいはいはい。
で、夫はもう社長がすごく大好きだった。
勤められてる会社の社長さん。
で、社長の恋って言われたら、いつでも行きたいと。
へー、はいはい。
分かったって私に言い出して。
あっ、そうなんですか。
それでずっと。
旦那さんは何の仕事をしてたんですか。
技術者ですかね。
技術者、あー。
だからあの頃は、あれですよね、団体就職、集団就職で多分来たと思いますね。
あっ、どこかじゃ、地方とかの。
そうですね、区下田っていう場所、栃木県羽賀郡区下田の出身で、
集団就職みたいな感じで。
生まれは浅草なんですけど、そっちへ疎開して。
へー、そうか。
それで就職で、社長さんのことは。
で、徳木で私知り合って。
あー、そうなんですね。
お見合いなんですけど。
はいはいはい。
私は常務、信用金庫の中で窓口にいたんで、
で、常務の話でお見合いしてみないかって言われて、誰も知らない。
だけど、まあ母には、常務の話だからちょっと断れないから、
ギリで行ってくるねーって言って帰ってきた。
多分結婚すると思って帰ってきました。
03:01
へー、そうなんですね。
お見合いってことは、当然初対面というか。
そうです。
旦那さんとの初対面のときで、どんな感じだったんですか?
いや、何し一生懸命でしたね、私にいろいろ説明を。
全部自分のことを隠し事なく話してくれた。
とては誠実な人だなっていうのがあって、
仕事の好きな人だなっていうのは印象がありましたね。
そっか、じゃあもうこの人とみたいな感じで。
だけど、もう中学しか出てないっていうことも全部言ったし、
おばあちゃん一緒だっていうことも言ったし。
だけど、それまで私そんなに、
ちょっといくつかは話はあったんですけど、まだ22だったので。
だけど、1月8日に読み合して、2月15日に読み合して、
4月に結婚して、すごいでしょ?
そうですね、すぐというかスピードで。
だけど、そんな大変なのは目に見えてるとこよく飛び込んだんですよ。
じゃあそれから結婚されて、お仕事は続けられながらですか?
もう辞めて旦那さんのサポートをするっていう形で。
もうあの、栃木に工場建てたんですよ、主人の勤めてる会社。
で、350人ぐらい人使ってたんですね。
そこのナンバー2かつ3ぐらいだったと思います。
あっ、そうなんですね。
夫はね。
だから、一応工場なんで、仕事大好きな人ですから、朝は一番早く行く。
夜は一番最後に帰って、みんな工場を見る。そういう人でしたね。
じゃあそこを一緒にサポートというか、旦那さんができるだけ。
だけどね、当初はやっぱりね、朝早く行って夜11時ごろ帰ってくるだけですから、暇ですよね。
そうですね。その間はお家のことをされたりとか。
そうですね、本当はお勤めしたかったですね。
ああ、そうか。
だけど、まあ夫が忙しかったので。
で、そのうちに滋賀工場、あの当時6工場ぐらいあったのかな。
で、滋賀工場がちょっと人の関係で問題が出まして、そこを建て直しに行ったんです。
で、その時はそこを栃木から離れて。で、私と夫と。
で、当時妊娠してたんですけど、それでもついてって。
で、それで向こうでちょっと早めに生まれちゃったんですけど、長女は滋賀生まれですね。
滋賀県で生まれました。
じゃあしばらくそっちに。
で、1年、2年ぐらいいたかな。工場が建て直しが終わって、また栃木に戻ってきて。
その時はおばあちゃんは栃木にいた。
ああ、そういうことか。
で、旦那さんはずっと勤め上げてみたいな感じで。
06:02
そうですね。で、それでそのうちおばあちゃんが亡くなったのが9年後かな。
亡くなって3ヶ月後にアメリカ行く話が出た。
ああ、そうだ。アメリカ行かれたっていうんですけど、それはお仕事の関係で旦那さんがアメリカ行くってことで、
一緒に。
一緒に。
だけど1年間は夫が先に。
先に行って、それ後から行って。
子供2人いました。女の子2人。
一緒に。
はい。
行きましたね。
じゃあアメリカでしばらく。
そうですね。
どうでした?
いい経験をさせていただきましたけど、だけど今自分があるのはやっぱりアメリカの生活があったからかなと思うんですね。
それはどういう感じで。
一番いじめるのは日本人ですね。
あ、向こうの方が。
いや、向こうに4家族行ったんですけど、うちはもう、だけど当初から社長に初代の工場長と社長やれって言われて行ったんですけど。
あ、旦那さんが。
はい。だけど3家族の人はやっぱり学歴ある。やっぱりね、気に入らないわけです。
あ、そうか。
だから本当に夫は大変だったと思うんですよ、その工場ね。
だけどアメリカ人を使ってたので。
あ、そうなんですね。
向こうではね、日本人は本当何人かしかいなかった。
そっかそっか。
で、現場に一緒に入ってましたから。
あ、そうなんですね。
技術者ですから。
で、何の工場かっていうと、あの当時もう40何年、私が1980年ぐらいに来ましたから、そうですね。
で、ペットボトルがまだ日本に来ない、コカ・コーラがやっとペットボトルを出したぐらいの時で、いずれペットボトルになるだろう。
で、ペットボトルを作る工場をアメリカに作って、一応その勉強をね、しようということで工場を作ったんです。
はいはいはい。
じゃあそこでお仕事されて、じゃあペットボトルがそこから入ってくるっていうところの足掛かりというか、そこから旦那さんのお仕事がそういうところにつながってきて。
だけど最初、作るの方を一応研修してやって、日本人が作ったペットボトルはラインって流れるじゃないですか。
倒れないんですけど、向こうの人が作った、別会社のね、作った工場のペットボトルはパタパタ倒れます。
だから安定感が悪い。
ああ、そうかそうか。
で、それで夫は1年半で黒字にしたんですよ。
え、すごい。
あの当時、気候マンも資税堂も出てましたけど、みんな最初何年も赤字なんですよね。
09:01
だけど一応周りがすごいそういうので、結局4家族行って、3家族は日本人学校、みんな子供連れだったから、日本人学校みんなで行ったんですけど、
だけどうちだけのぞかれて。
え、そうなんですか。
そういう時代っていうか、そういうあれですよね。やっぱりほら、あるいは何かに勤まるわけないと。中学しか出てないのに。
ああ、そうなんだ。
で、私はもうよし、現地校で。
現地校。
だから日本人学校はいかないで、現地校だけでいい。
そうなんだ。
私は決断して。
はいはいはい。
それで隣のドイツ系のアメリカ人の奥さんと、フランス系のアメリカ人の旦那さん、その方とずっとお付き合いする。
英語とか言葉っていうのはどうだったんですか。
言葉、一応1年間やってきましたけど商業学校の英語ですから、そんなにね。だけど最初は分からなかったけど、だんだんと。
できるようになって。
できるようになったのかどうか分かりません。
コミュニケーション、日常生活は大丈夫みたいになって。
子供たちは翌日も遊んでましたから。
ああ、そっか。それはさすが。
まあ子供さんは徐々にというか、どんどんどんどん英語を。
で、隣の子が泊まりに来たりして、そういうことはやってません。だから恵まれましたね、隣の人もね。
ああ、そっかそっか。
で、日本人が集まっちゃうとアメリカ人に寄ってこないんですよ。
ああ、そういう感じなんですね。
だって来ないでしょ。
そっか。そこで固まってるっていうことで、周りの人は別に、まあじゃあそれはそれでってことで、別にお付き合いしなくてもいいわけだから。
そこで固まって、まあその人たちもそりゃそれでいいわけですよ。
で、うちは。
そうか。
そうですよね。
アメリカ人とね。
そうすると、いろいろ、奥さんだけのポーカーゲームをやるところがあるんですよ。
なるほど。
そういうのに、一品持ち寄りでいって呼んでくれたりして。
ああ、そっか。
じゃあそれでコミュニケーションしてたから。
そうですね、すごく。
ああ、いいですね。
で、あと車を、私の車も持って、夫も。
で、隣そのダイアンっていうんですけど、ダイアンの娘が、生後6ヶ月の女の子がいて。
で、あともう一人男の子が、5歳ぐらいの男。
で、その6ヶ月の女の子を私が抱っこして、ダイアンが運転して、一緒に買い物に来て。
ああ、なるほど、そっかそっか。
ああ、じゃあ結構本当にしっかりというか、深くお付き合いされて、その皆さんとは。
そうですね。他の、ほら、日本人は、日本人3家族。
そっか、固まってるから。
で、私はそこには入りたく、まあ、そうやって覗かれちゃったわけだからね。
まあまあまあ、そうかそうか。
だから別にそれは、だから、まあ日本人、学校行かなくてもいいと。
で、現地校でいいって言って、現地校で。
で、他の旦那さんは、多少英語ができたと思います。
ああ、はいはい。
うち昭和15年の中学で行って、ベティ&ジャックの時代ですから、本が。
12:07
ああ、はいはい。
ね、だから夫は小文字のBとDが分からないで行きます。
ああ、そうなんですね。
だから、多少私の方が。
そっかそっか。
だから、他の3家族はみんなご主人がね、英語が多少できて。
だから、家族が来たらみんなご主人が全部やってます。
うちは逆だから。
そうか。
お父さん、いいって。
私、うちのことは全部やるから、お父さん仕事だけやってればいいって言って。
で、まあ工場行っても、たぶんね、針のむしろのような生活してる。
何しろね、通訳つけてくれませんでした。
ああ、そうか。
自分で読めなきゃいけないですね。
あの、アメリカ人の秘書はつけてくれたので。
で、その人に、だから夫が聞いたものを言葉で言う。
そうすると単語に起こしてくれる。
で、それを辞書で引くっていう思いもありだったけど、確実に覚えてた。
へえ、そっか。
じゃあ、それで一つずつちょっと馴染みに。
で、すごい努力家の夫ですから。
だけど、一番心配したのはやっぱりこう、
あの当時ね、いった若い子なんかは十二市町会養になった子がいっぱいいたんですよ、精神的に。
やっぱりね。
だからそれはちょっと心配して、夜帰ってくると、
十二時とか一時くらいまでお酒を飲みながら二人で。
で、全部吐き出させて。
へえ、すごいですね。
で、全部聞いて。
で、翌日朝六時頃に、「大丈夫?」って言ってらっしゃいって。
そんな感じでした。
そっか。
でもそれがやっぱりあったからこそ、
春井さんがそうやってやられたからこそ、
旦那さんは仕事に専念できたっていうことでしょうね、きっと。
夫はね、もともととっても誠実な人で、
工場、350人くらい使ってる工場だったんですけど、
いろんな方が来るじゃないですか。
本当にお客様もいらっしゃるし、
あと納品してくださる方もいるし、
あとペットボトルを、あの頃、コカ・コーラが入ったかな。
そういうペットボトルはないけど、コカ・コーラが入ってて、
ベンディングマシーンが入ってるんです。
それを交換する人とか、いろんな人が来る。
だけど、夏は必ず冷たい水と冷たいおしぼり。
冬はあったかいお茶とあったかいおしぼりを必ず夫は出してくれる。
あ、なるほど。
お客様に。
そっかそっか。
で、ある日、コカ・コーラのお兄ちゃんが、
もうハリさん、今日で終わりだよ。
もうお世話になったねっていう話になって、
一緒にご飯食べようよって言って、誘われて行って、
お食事したそうなんですよ。
で、その人はそれでお別れだと。
で、得意先にうちはキッコーマンっていう、
キッコーマンのボトルも作ってたので、
15:02
あの頃ペットじゃない、その前身のボトル。
で、それもキッコーマンとかヤマサとか、
あと資生堂、カネボウ、
その容器、化粧水の容器とか、
あとクリームの容器とか、コンパクトとか、
そういうのを作ってた会社だったので。
で、キッコーマンも向こうに出て、
ちょうどお部屋空港、シカゴだったので、
シカゴのお部屋空港で、
カタヤ、ウィスコンシンにキッコーマンが。
で、その下にうちはイリノイシューだった。
で、同じ空港を使う。
で、そこに工場を最初置いたので、
で、そうですね、ご挨拶にして、
キッコーマンに近くだから。
で、そしたら、とても夫を気に入ってくれて、
ハリウッキみたいなのを一生懸命やる人がいないと、
工場は成り立たないと。
本当に直に地域出のお手紙をもらったりしたんですよ。
で、行くことになったからって言って、
ご挨拶に行ったら、
じゃあ息子を紹介するよって言って出てきたのが、
そのコカ・コーラを配達のお兄ちゃん。
そういう、だからわかんないですよね。
うちの夫はだから、
自分はいつも金太郎飴でいたい。
金太郎飴でいたい、はい。
金太郎飴って知ってます?
切って同じ。
切っても同じ。
だからどこ切ってもどこ切ってもハリウッコを打つ。
そういうことか。
私もそれは自分で見習ってますね。
そういうことか。
なんか変えたりとかじゃなくて、
自分自身はもう自分自身であって。
どんな人にも同じ姿。
そうかそうか。
フラットに接して自然な形で。
だって本当、まさかキコマンの温存したとは思わないじゃないですか。
そうですよね。
だけどそういう出会いがあって、
やっぱりそういうのが多分、
親友をすごく築いたんだと思います。
そうかそうか。
喜ぶですね。
だから今あるのは、
私もだからどこ切ってもハリウッコでいたい。
そっかそっかそっか。
それはやっぱりアメリカでその感受、感覚を自覚したというか。
それは夫の性格を前から。
だからアメリカ行くときにははっきりしたわけですよね。
そうですよね。
そうかそうか。
やっぱり今あるのはアメリカの。
そうですね。
あと娘たちによく言ってたのは、
ペットボトルって流れてきて充填するのに持ち上げるんですよ。
機械が。
それ1個取りとか何個取りとかあるんですけど、
夫はよく子供たちに1個取りの人間にはなるなよと。
だから1つしかできない人間にはなるなよと言ってましたね。
いくつか取れる。2つなり3つなりできるというか取れる人になれると。
だから意外と私も一度に2つ3つぐらいの仕事ができる。
18:04
同時にやれるような感じ。
娘さんたちもそういう感じですかね。
だと希望次第ですね。
そういうことですね。
それは言われてましたね。
私には言わなかったけど。
そっかそっか。
じゃあ旦那さんはそういう思いで持って。
そういう人間になれよって言ってましたね。
今の自分があるのはアメリカでの生活があったからとおっしゃる波竜さん。
金太郎雨のように、どこを切っても自分自身でいる。
旦那さんのその思いをご自身も見習い、
どこを切っても波竜さんご自身でいるという言葉が印象的です。
じゃあそれでアメリカでの生活の切りがというか、
帰ってくるという感じになって、
もう生活は風に向こうに移した状態ですから、
帰ってきたらまた一からでもないですけど、
会社はまた日本で。
1年半で黒字にして、すごく儲けが出たんです。
そうしたら今度は、
吉野アメリカ波竜にも乗っ取られるからもう戻れって言われて、
なんで帰ろうって言って帰ってきたんですけど。
乗っ取られるっていう。
全然そんなことはない。
そういうふうに言われて帰ってきたんですね。
それぐらい儲けが。
だからその儲けが出たっていうのは、
倒れるペットボトル屋さんにうちのペットボトルを売ったの。
そっかそっか、それによって。
自分のところで作ったより倒れないから。
苦情が来ないし、そうするとラインがどんどんスムーズになる。
それでちゃんとそうやって黒字化させて、
しっかり仕組みもちゃんとさせて。
今でもだから吉野アメリカありますね。
そういうことですね。
最初、初めてアメリカに海外に出した工場だった。
そっかそっか、でもそれから考えたらだいぶ年数としては経ってるわけですね。
今はベトナムとかいろんなところにあると思うんですけどね。
そっか。
帰ってきてからはまた会社は同じですね。
市川塩浜に帰ってきました。
栃木から行ったけど市川塩浜に社宅があったので。
市川塩浜駅のすぐ近くに工場があったので。
そこの向かい側に入った塩浜っていうところに社宅があったのでそこへ帰ってきました。
じゃあそこでまた新たに生活を始めて、旦那さんはお仕事をしながら。
だから通算すると10回以上引っ越ししてますね。
そっかそっか、お仕事関係で。
みんな私くっついていったんで。
もしかしたら選択肢としては一箇所に、
ハリウッドさんはいて旦那さんだけ行くってこともあったかもしれないですけど。
知らないけど。
でも全部行ったんですね。
私は行きました。
このお子さんもじゃあ一緒ですよね。
21:02
結構転校されたりとかそういう感じですか。
そうですね。
だけど戻ってきたときは中学に、小学校6年と3年だったかな。
そのときはまだ、だけどだから市川塩浜に来て家を建てて船橋に来て、
で船橋、そうですね、船橋にいて、
だから娘たちはそんなに行かせないかな、私が行ったり、
私が行ったりしたので。
アメリカでもちょっと2度ほど引っ越しました。
ああ、そうなんですね。
結局ね、黒人が増えるとちょっと危ないのでみんな逃げるんですよ。
そういうのもあるんですね。
やっぱり女の子うち2人だけなので、やっぱりちょっと危険だよって言われて、
それで2度ほどは引っ越しましたね。
一応今は、いきなり今の話ですけど、立山にいる、これ立山で聞いてるんですけど、
立山は元々縁があったりとかそういう感じなんですか?
全然。
全然。
それが娘は三菱商事に勤めてたんですよ。
そうなんですね。
それで下の子は今板橋の、元は東京女子医団の999名にいたんですけど、15年くらい。
それからちょっと独立、先生たちと一緒に独立して板橋に在宅診療をやってるんですけど、
長女は結婚タイプだよなと思ったんだけど、なかなか縁がなくて、30過ぎて、
私は転勤する人は嫌だと。
ああ、なるほど。
そこで反動が出て。
なるほど、そっかそっか、はいはいはい。
それで小林さんって。
立山の方でお知り合いで。
それは夫が40年勤めた時に、来年定年、定年まだいられたけど、55で40年勤めてる、15歳から。
だから今独立したら自分仕事やっていけるっていうんで、
私その前の年に商業ですから、有限会社の作り方とか。
お勉強して。
有限会社2つ作りましたけど。
そうなんですね、旦那さんのやってることとして。
1年後、夫ができるように、最初は私が社長でやって、
社長だからハンコ持ってれば何でも変更できる。
そうなんですね、それ図体的に2つやったんですか。
2つ作って、1つを株式にして、1つは有限にした。
それは何でですか。
うちのペットボトルに精通してるので、結局材料の、今騒がれてますけどね。
材料の輸入から製造から販売までをずっと関わって。
24:03
その工場を作りたい。
工場じゃなく、工場は他が持ってるから、結局そのルートを使って仕事をする。
商売、仕事、事業をする。
今だったらできるっていうんで。
それを準備を一緒にして、それを実際始められて、どうなっていくんですか、そこは。
それでずっと夫の頭の中にありながら、
あの当時ね、まだペットボトルがそんなに、だけど、
洋華堂で、洋華堂ブランドっていうのを最初出しました。
あれに関わったはず。
日東宝石とちょっと関わりがあって、日東宝石が、
あそこに富山に工場、昔の女工さん、初期の折物の。
そうするとすっごい長い学校みたいなところが女工さんの住まいもあり、みんな工場もあり。
そこは採水圏がある。
折物って水が必要だから。
採水圏がある。
そこの工場が日東宝石、宝石をやってたけど、だんだん宝石もこうした。
そこでペットボトルを作って、充填する。お茶とか。
そこで初めてそこをやるのに、ちょうど新幹線でそこ工場あるときに、
日東宝の社長と一緒になって、
ハイルージさん手伝ってくれよって言われたのが縁で、
それで洋華堂をくっつけたんです。
だからもう最初から黒字ですよね。
そうか。
洋華堂ブランドが日東宝石の日東ビバレッツという会社があったんですけど、
そこにちょっと関わって。
だからちょっとあと韓国にも、韓国の会社をちょっと指導に行ったり。
だからあちこちの顧問をしてたのね。
実質私が一応社長になって、夫が出るという。
そういうことですね。
じゃあハイルージさん自身はいて、
長経理とか。
やることは当然いっぱいあるわけですから。
それ自体はもうそういうふうにしようとお相談されて、
何となくなっていったんですか?
そうですね、私はだから夫が仕事してる市川市山にいたときは、
私新宿に1本じゃないですか。
近いじゃないですか、東西線、南養徳の駅だったし。
新宿までちょっと学校に入ったと。
何の学校?
向こうでやっぱり日本の文化っていうのはすごいなと思って。
だから木付けの。
木付け?
木付け師なんですよ。
そうなんですね、そっかそっか。
27:02
学校に入って木付けの勉強をして。
興味があってというか、日本のというところで、
そういうことですね。
しっかり勉強されて。
それをやって、集会場でちょっと教えてたら、
その集会場のおじさんが、
私、やってみないって言われるのが多いんですけど。
そのおじさんが、ハリーさん、幕張プリンスで、
かいぞいさん探してるけどやってみないかいっていう。
花嫁さんのかいぞいさん。
それを6年半やって。
すごい。
その合間に、西船橋と船橋の駅前にある美容室の
木付けの担当に。
それもご縁があったという感じですか?
そうですね、お願いされて。
三店舗、釜ヶ谷にもあったので、
三店舗を受け持ってました。
そうすると前もってこの日にやると。
仕事前に私はそれをやって、
それで幕張プリンスに行って。
そんなことやってましたね。
結構忙しくそこが。
そうですね。
そうですよね。
だから私も一個取りじゃないなと思いますけど。
そうですよね、いくつもやられてっていう感じで。
それは全然行くじゃなかったです。
そうなんですね。
結婚式場って土日が多いです。
そうですね。
夫は土日休みなので。
そうかそうか。
だから夫にちょっと家のこと託して。
楽しかったです。
楽しかったですか。
いろんな方が来ますし、
ああいうのってすごく晴れというか。
ごしゅうたくさんもらえるし。
そうなんだ。
あの当時、今はね。
今はね、そうなんですね。
それでほら、今度は会社を立ち上げるってことになって、
私6年半でそこをなくなく辞めた。
会社があるからそこはやりたかったけど入るから。
もう本当にね、楽しい仕事だったけどそれは辞めよう。
だけどいつも行く途中で公民館があるんですよ。
どこに行く途中ですか。
仕事行く途中。
仕事行く途中、はい。
地元にある公民館。
はい。
そこでビン型染めって。
ビン型染め、あ、わかりました。
紅。
あの沖縄のビン型染めって言うんですけど、
それいいな、いつも習いたいなと思ってたんです。
だけどやった、今度辞めたらそれが習える。
ああ、そうかそうか。
で、それを。
今度行って。
はい、公民館で。
で、振袖も染めたし、私の着物もほとんど染めたし。
へえ、そうか。
やっぱり時々でやりたいことっていうのは出会っていくというか。
そうですね。
そうですよね。
で、そこにちゃんと入ってって。
で、結構、全部結構物にして。
ああ、そういうことか。
やっぱり当然ね、学んでいく過程とかはいろいろ勉強しなきゃいけないけど、
30:03
それぞれマスターしていって。
そうですね。
自分の物にして。
で、やっぱり着付けも学校行っただけじゃ全然ダメなの。
実践していかないと。
もちろん。
ああ、そりゃそうですよね。
先生についてただ働きをして、それで技術を。
そっかそっか。
それらが、例えば社長業やったらまた。
全然社長ではないんですけど。
いやいやいや。
みんな、頭の中にみんな、夫の頭の中に仕事は全部あったんで。
はいはいはい。
私はもう名ばかりの社長で。
へえ。
でもそれはそれで、なかなか社長業って教えてくれないじゃないですか、誰かが。
それは自分で学んでいって。
そうですね。
社長がこういうことをしますっていうのは。
それはちょっと商業でのがちょっと役に立ったかも。
そっかそっか。
その頃のがあるから。
ねえ。
会社を運営するっていう、経営するっていうところは。
ほとんどね、夫がやってましたね。
夫は欲のない人で、自分は水道の水、蛇口を細く捻って、
これだけずっと出てる、それでいいんだ、みたいな人だったんで。
そっかそっか。
そんなに儲かんなかったですよ。
ああ、まあでもそれをやられてっていう感じ。
だけど一応ね、それをやってたので。
人柄のいい人だったので、あちこちの工場をちょっと傾いたの立て直したり、そういうことはよくやってましたね。
ああ、そっかそっか。
だから本当に、頼まれると嫌だって言えない人だったので。
ああ、そっかそっか。
だから体に来ちゃったのかもしれないですね。
ああ、そうなんですね。そっか。
それは立山に来る前ですもんね。立山に来るっていうのは。
だから娘が、私は婦人部会で法人会とかそういうのに入ってたんですね。
そこで女性部会っていうのがあって、女性部会でちょっと食事に。
そうすると立山の人と一緒になった。
立山の小林さんじゃなかったけど。
ある方が。
ある方と一緒になって、いい人いるんだけどっていうか、うちに娘がいるのよみたいな話になって。
それでじゃあ一回会わせてみようかということで。
じゃあお見合い的な。
そうです。
ああ、そうなんですね。お見合いして。
私は一発で決めたけど、娘はなかなか決まんない。
ああ、そうだったんですね。
もういい加減にしなさいっていう感じで。
縁があったので、向こうは小林、健康の子の安男。
うちはハリウ、健康の子に子供の子。
だから縁があるからね。
性格的にもとっても優しい方だったので、いいんじゃないっていう感じで。
じゃあそれで立山にご縁という。
33:00
そうですね。
できたってことは今認識になる?
そうです。娘が結婚してなかったら立山に来なかったし、
夫が生きてたら多分来なかった。
ああ、そっかそっか。
で、夫がその後ちょっと胃がんになったんです。
やっぱりストレスが多かったんだと思うんですよね。
それでもう19年経つんですけどね、亡くなって。
ああ、そうですね。
で、娘が東京女子医大にいたので、女子医大にお世話になったんですけど。
だけど、もう検査とかないときはもう家へ、新宿に入院してたけど、
家へ船橋まで連れて帰ってきて。
だからベッドは置いてあったけど。
帰国後は着付けのお仕事や花嫁の買い添えのお仕事、
旦那さんとの会社の社長としての仕事も担い、
一個取りじゃないと笑う波竜さん。
そして現在は様々な巡り合わせで千葉県立山市にお住まいでいらっしゃいます。
そんな立山でのお話はまた次回に伺っていきます。
34:26
コメント
スクロール