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ティオム妻 第3話
とにかくしかし、そんな大笑いをして済まされる事件ではございませんでしたので、
私も考え、その世、お二人に向かって、それでは私が何とかしてこの後始末をすることに致しますから、
警察だたにするのはもう一日、お待ちになってくださいまし、明日そちらさまへ、私の方からお伺いいたします。」と申し上げまして、
その中野のお店の場所を詳しく聞き、無理にお二人にご承諾を願いまして、その夜はそのままでひとまず引き取っていただき、
それから寒い六畳間の真ん中に一人座って物案じいたしましたが、別段何の良い工夫も思い浮かびませんでしたので、
立って羽織を脱いで坊やの寝ている布団に潜り、坊やの頭を撫でながらいつまでも、いつまでたっても夜が明けなければいい、と思いました。
私の父は以前浅草公園の氷炭池のほとりにおでんの屋台を出していました。
母は早く亡くなり、父と私と二人きりで長屋住まいをしていて、屋台の方も父と二人でやっていましたのですが、
今のあの人が時々屋台に立ち寄って、私はそのうちに父を欺いて、あの人とよそで会うようになりまして、
坊やがお腹にできましたので、いろいろゴタゴタの末、どうやらあの人の女房というような形になったものの、もちろん席も何も入っておりませんし、
坊やはててなしごということになっていますし、あの人はうちを出ると二晩も四晩も、いいえ一月も帰らぬこともございまして、
どこで何をしていることやら、帰る時はいつも泥酔していて、真っ青な顔で、はぁ、はぁ、と苦しそうな呼吸をして、私の顔を黙って見て、ぽろぽろ涙を流すこともあり、
またいきなり私の寝ている布団に潜り込んできて、私の体を固く抱きしめて、ああ、いかん、こわいんだ、こわいんだよ、ぼくは、こわい、助けてくれ、
などと言いまして、がたがた震えていることもあり、眠ってからも上言を言うやら、うめくやら、そうしてあくる朝は、魂の抜けた人みたいにぼんやりして、そのうちにふっといなくなり、それっきりまた二晩も四晩も帰らず、
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古くからの夫の知り合いの出版の方のお方が二、三人、その人たちが私と坊やの身を案じてくださって、時たまお金を持ってきてくれますので、どうやら私たちも飢え死にせずに今日まで暮らして参りましたのです。
とろとろと眠りかけてふと目をあけると、雨戸の隙間から朝の光線が差し込んでいるのに気づいて、起きて身じたくをして坊やを背負い外に出ました。
もうとても黙って家の中におられない気持でした。
どこへ行こうというあてもなく駅の方に歩いて行って、駅の前の露店で飴を買い坊やにしゃぶらせて、それからふと思いついて七常時までの切符を買って電車に乗り、
つり革にぶら下がって何気なく電車の天井にぶら下がっているコスターを見ますと、夫の名が出ていました。
それは雑誌の広告で、夫はその雑誌にフランス・オア・ビヨンという代の長い論文を発表している様子でした。
私はそのフランス・オア・ビヨンという代と夫の名前を見つめているうちに、なぜだかわかりませんけれども、とてもつらい涙がわいて出て、
ポスターがかすんで見えなくなりまして、七常時で降りて、本当にもう何年ぶりかで井の頭公園に歩いて行ってみました。
池の旗の杉の木がすっかり切り払われて、何かこれから工事でも始められる土地みたいに、変にむき出しのさむざむした感じで、昔とすっかり変わっていました。
坊やを背中からおろして、池の旗の壊れかかったベンチに二人並んで腰をかけ、家から持ってきたお芋を坊やに食べさせました。
坊や、きれいなお池でしょ。
昔はね、このお池にコイトトやキントトがたくさんたくさんいたのだけれども、いまは何にもいないわね。
つまんないね。
坊やは何と思ったのか。
お芋を口の中にいっぱい頬張ったまま、けけ、と妙に笑いました。
若くながら、ほとんどアホの感じでした。
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その池の旗のベンチにいつまで至って、何の拉致のあくことではなし、
私はまた坊やを背負って、ぶらぶら吉祥寺の駅の方へ引き返し、
にぎやかな露天街を見て回って、それから駅で中野行きの切符を買い、
何の資料も計画もなく、いわば恐ろしい間の縁にスルスルと吸い寄せられるように、
電車に乗って中野で降りて、昨日教えられた通りの道筋を歩いて行って、
あの人たちの小料理屋の前にたどり着きました。
表の戸は開きませんでしたので、裏へ回って勝手口から入りました。
御邸主さんはいなくて、おかみさん一人、お店の掃除をしていました。
おかみさんと顔があった途端に、私は自分でも思いがけなかった嘘をスラスラと言いました。
「あの、おばさん、お金は、私がきれいにお返しできそうですの。
今晩か、出なければ、明日。とにかくはっきり見込みがついたのですから、もうご心配なさらないで。」
「おや、まあ、それはどうも。」
と言って、おかみさんはちょっとうれしそうな顔をしましたが、
それでも何かふに落ちないような不安な影が、その顔のどこやらに残っていました。
「おばさん、本当よ。確実にここへ持って来てくれる人があるのよ。
それまで私は人質になって、ここにずっといることになっていますの。それなら安心でしょう。
お金が来るまで、私はお店のお手伝いでもさせていただくわ。」
私は坊やを背中から下ろし、奥の六畳間に一人で遊ばせておいて、くるくると立ち働いてみせました。
坊やはもともと一人遊びには慣れておりますので、少しも邪魔になりません。
また頭が悪いせいか、人見知りをしない立ちなので、おかみさんにも笑いかけたりして、
私がおかみさんの代わりに、おかみさんの家の廃棄物を取りに行ってあげている留守にも、
おかみさんからアメリカの缶詰の殻を、おもちゃ代わりにもらって、それを叩いたり転がしたりして、
おとなしく六畳間の隅で遊んでいたようでした。
お昼ごろ、御殿主がお魚や野菜の仕入れをして帰ってきました。
私は御殿主の顔を見るなり、また早口に、おかみさんに言ったのと同様の嘘を申しました。
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御殿主はきょとんとした顔になって、
「へえ、しかし奥さん、お金ってものは、自分の手に握ってみないうちは、あてにならないものですよ。」
と、案外静かな、教えさとすような口調で言いました。
「いいえ、それがね、ほんとうにたしかなのよ。だから、私を信用して。
おもてざたにするのは、きょう一日待ってくださいな。
それまで私はこのお店でお手伝いしていますから。」
「お金が帰ってくれば、そりゃもう何も。」
と御殿主はひとりごとのように言い、
「なんにせ今年もあと五六日なのですからね。」
「ええ、だから、それだから、あの私は、おや、お客さんですわよ。いらっしゃいましい。」
と私は店へ入ってきた三人連れの職人風のお客に向かって笑いかけ、
それから小声で、
「おばさん、すみません、エプロンをお貸してくださいな。」
「ええ、美人を雇いやがった。かいつはすごい。」
と客のひとりが言いました。
「誘惑しないでくださいよ。」
と御殿主はまんざら冗談でもないような口調で言い、
「お金のかかっているからだですから。」
「百万ドルの銘馬か。」
ともうひとりの客はげびたしゃれを言いました。
「銘馬も、メスは半値だそうです。」
と私はお酒のお缶をつけながら負けずにげびた受け答えをいたしますと、
「けんそんするなよ。
これから日本は馬でも犬でも男女同犬だってさ。」
と一番若いお客がどなるように言いまして、
「ねえさん、俺は惚れた。ひと目惚れた。
がしかし、お前は子持ちだな。」
「いいえ。」
と奥から、おかみさんは坊やを抱いて出てきて、
「これは、今度私どもが親戚からもらってきた子ですの。
これでもうやっと私どもにも後継ぎができたというわけですわ。」
「金もできたし。」
と客のひとりがからかえますと、
御邸主はまじめに、
「色もでき、借金もでき。」
とつぶやき、それからふいと御調を変えて、
「何にしますか。よそ鍋でも作りましょうか。」
と客に尋ねます。
私にはその時、あることがひとつわかりました。
やはりそうか、と自分ひとりでうなずき、
上部は何気なくお客に御調子を運びました。
その日はクリスマスの前夜祭とかいうのにあたっていたようで、
そのせいか、お客がたえることなく次々と参りまして、
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私は朝からほとんど何ひとついただいておらなかったのでございますが、
胸に思いがいっぱいこもっているためか、
御神さんから何かおあがりと勧められても、
「いいえ、たくさん。」と申しまして、
そうしてただもうくるくると羽衣一枚をまとって待っているように、
目軽く立ち働き、
うぬぼれかもしれませんけれども、
その日のお店は異様に活気づいていたようで、
私の名前を尋ねたり、また握手などを求めたりするお客さんが二人三人どころではございませんでした。
けれども、こうしてどうなるのでしょう。
私には何もひとつも見当がついていないのでした。
ただ笑って、お客のみだらな冗談にこちらも調子を合わせて、
さらにもっと下品な冗談を言い返し、
客から客へ滑り歩いてお釈して回って、
そうしてそのうちに、
自分のこの体がアイスクリームのように溶けて流れてしまえばいい、
などと考えるだけでございました。
奇跡はやはり、この世の中にも時たま現れるものらしいございます。
九時少し過ぎくらいの頃でございましたでしょうか。
クリスマスのお祭りの紙の三角帽をかぶり、
ルパンのように顔の上半分を覆い隠している黒の仮面を着けた男と、
それから三十四五の痩せ方のきれいな奥さんと二人連れのお客が見えまして、
男の人は私どもには後ろ向きにドマの隅の椅子に腰を下しましたが、
私はその人がお店に入ってくるとすぐに誰だかわかりました。
泥棒の夫です。
向うでは私のことに何も気づかぬようでしたので、
私も知らぬふりをして他のお客とふざけ合い、
そうしてその奥さんが夫と向かい合って腰かけて、
「姉さん、ちょっと。」
と呼びましたので、「へえ。」と返事して、
お二人のテーブルの方に参りまして、
「いらっしゃいまし。お酒でございますか。」と申しました時に、
ちらと夫は仮面の底から私を見てさすがに驚いた様子でしたが、
私はその肩を軽く撫でて、
「クリスマスおめでとうっていうの?なんていうの?もう一生くらいは飲めそうね。」と申しました。
奥さんはそれには取り合わず、改まった顔つきをして、
「あの、姉さん、すみませんがね、
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ここのご主人にないないお話もしたいことがございますのですけど、
ちょっとここへご主人を。」と言いました。
私は奥で揚げ物をしている御邸主のところへ行き、
「大谷が帰って参りました。会ってやって下さいまし。
でも、連れの女の方に私のことは黙っていて下さいね。
大谷が恥ずかしい思いをするといけませんから。」
「いよいよ、来ましたね。」
御邸主は私のあの嘘を半ばは危ぶみながらも、それでもかなり信用していてくれたもののようで、
夫が帰って来たことも、それも私の何か差し金によってのことと、
単純に我転している様子でした。
私のことは黙っててね、と重ねて申しますと、
「その方がよろしいのでしたら、そうします。」
と気さくに承知して土間に出て行きました。
御邸主は土間のお客を一渡りざっと見回し、
それからまっすぐに夫のいるテーブルに歩み寄って、
その綺麗な奥さんと何か二言見事話を交わして、
それから三人揃って店から出て行きました。
「もういいのだ。万事が解決してしまったのだと、なぜだかそう信じられて、さすがに嬉しく、
金がすりの着物を着たまだ二十歳くらいの若いお客さんの手首を出し抜きに強く掴んで、
飲みましょうわよ。ね、飲みましょう。クリスマスですもの。」