1. 研エンの仲
  2. #72 流し流されお正月
2022-01-15 48:49

#72 流し流されお正月

2022年のポッ活 (ポッドキャスト活動) 初めとして、年末年始に観た紅白と箱根駅伝をきっかけに、おもしろさの濁流がこわい、お正月に感じた葛藤、信条と受益の矛盾、一貫性という物差し、などについて話しました。


  • 選択的夫婦別姓… 夫婦が望む場合には、結婚後も夫婦がそれぞれ結婚前の氏を称することを認める制度。2022年1月時点では法制化されていない。
  • マグロとウナギの話… ニホンウナギ、ミナミマグロ、ヤンバルクイナは、いずれもIUCNのレッドリストに ENDANGERD (いわゆる絶滅危惧種) として掲載されているが、クロマグロは漁獲制限により個体数が回復し絶滅危惧種から外れた。

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「研エンの仲」は、神経科学の研究者AyakaとソフトウェアエンジニアRyoheiの2人によるPodcastです。科学やエンジニアリング、日常の話題についても話しています。

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00:01
みなさん、明けましておめでとうございます。
おめでとうございます。
2022年もポッカツやっていきましょうか。
ポッカツ?
ポッキャスト活動。
ポッカツ。
それなに、アイカツにかけてんの?
アイカツにかけてんの。
ポッカツってなんかあるじゃない?ポド、ポド、ポドカツ?
ポドカツ。
どうだろうな、ポッカツの方がなんかあったかそうだしおいしそうだね。
確かにポッカツあったかいな。
すごくあったかい。
あの、さっきまで2人で話してたんですけど、
これポッドキャストで撮ったほうがよくねってなったので、
あの、その様子をお届けする形で今回入ろうと思うんですけど、
はい。
なんか、どういう話だったっけ?
なんか紅白見た?
紅白見た、そうだね。
あの、Ryoheiさんがすごいおそれを罵いてたり。
おそれを罵いてて、紅白がですね、
あの、毎年毎年面白くなっていくんですよね。
Ayakaさん感じませんでした?
いや、まあ、やや感じる。やや感じるけど、
まあ、どうだろうな、私はそんなに。
いや、なんかそれがこう、NHKがこっちに寄ってきてるのか、
僕らがNHKの中心、オーディエンスに近づいてるのか、
どっちもあると思うんですけど、
まあ、でも後者のほうが大きいんだなっていうのが感じますね。
そうだね。
いや、私でもね、紅白はそんなに感じなかったんだけど、
あの、箱根きりんが面白くなってしまって。
あー、なるほどね。
そう、多分F1にはまった影響もあるんだと思うんだけど、
その競技とドラマ性みたいなのを好んで見るようになってしまった気がするね。
なるほどね、なるほどね。
そう。
じゃあ、今、高校野球とか見たらめっちゃ面白いんじゃないですか?
あー、やばい、それはちょっと避けようかな。
それはやばい。
それはでも、なんかこう、わかるような気もするけど、
でも、どういうことなんだろう?
でも、多分、私、ストップウォッチ系の競技好きなんだと思う、多分。
うん、なるほどね。
だから、多分、駅伝も好きだし、F1も好きなんだと思うな。
そのシンプルさと、その裏側にあるドラマみたいのがあるんですかね?
そうだね。
まあ、あとは、こう、ルールが面白いみたいなのもあるかもしれない。
その、なんか、箱根ってある種のドラマを作るために、
まあ、シード権争いっていうのもあるし、
あの、繰り上げで、こう、助けを渡せるか渡せないかみたいな、
こう、普通、最後の方の、なんか、18位とかって、
もう、見せ場があんまないですけど、
そうですね。
助け渡せるのか、渡せないのか、繰り上げなのか、どうなのかみたいな、
そういうドラマを作ってたりとかするじゃないですか。
だから、見せるための、なんだろう、こう、工夫みたいなのもあるんですよね。
その辺が、ちょっとF1に近いかな。
あやくさんが、その、はまるのが、というか、好きになるのが怖いって言ってるのは、その部分なんですか?
いや、それもあるし、なんか、ドラマ性を好んでいる気がして、
03:00
そこが怖いかな、なんだろう。
なんか、どこどこ出身の何々さんが、こう、故郷の思いを背負って、
まあ、別に、そんなんいらんやんとは思うんだけど、
でも、なんか、こう、けがからの復帰でどうの?とか、
なんか、やっぱ、逆転的なものを期待してしまったり、
実際、たぶん、その、実業団とかよりも、そういう、こう、調子を崩す選手とかも出やすいし、
なんか、その辺をやや楽しんでしまっている感じがあるんだよね。
だから、なんか、そこが、なんか、ちょっと、こう、怖いなっていう。
こう、F1に近い何かを感じる。
そうですね。
まあ、僕は、なんか、紅白座合戦が怖い。
まあ、こう、面白いのが怖いって言ってるのは、そうだな。
なんか、こう、なんだろう、こう、マス的な価値観に近づいてしまうことが、
全然、それ自体が、こう、本質的に悪いことだとは思わないんだけど、
なんか、こう、いいんだろうかっていう気もしますよね。
それは、なんか、箱根駅伝、なんか、みんな好きじゃないですか。
みんな好きなものを好きになっていく。
それが自分の、こう、なんだろう、こう、
まあ、今年ね、結婚もして、まあ、去年ですけど、
とか、こう、30代になりつつあって、みたいな、
そういう変化と同時に起こってるのが、余計怖くさせる。
わかる。めっちゃわかる。
そうだよね。
なんか、20代の前半に、箱根駅伝が好きになってても、その怖さは別に感じなかった。
だけど、なんか、その、いろんなことと同時に起こってるから、ちょっと、こう、怖く感じるってのはあるのかな。
たしかに。
なんか、紅白は、むしろ、なんか、ポイントポイント、
歌手レベルでは、たぶん20代前半とか大学生の時のほうが、なんか、おもしろかったと思うんだけど、
なんか、全体的な雰囲気とかに、こう、まあ、たぶん、今の歳になってからのほうがあっていて、
まあ、お正月感みたいな。
そうそうそう。
なんか、ね、それがさ、こう、わりとマス的に良いとされている。
結婚もめでたいことだとされているし、
なんか、そういう人生の変化を経ながら、こう、なんか、そういうことが、
そういう価値観にも共感していくっていうのが、なんか、怖い。
怖いっていうのも、なんか、変なんだけど、
なんか、大学生ぐらいの時って、こう、俺はマスとは違う価値観を持ってるぜ、みたいなことを思うじゃないですか。
で、どんどん抵抗しなくなっていくと思うんですよ。
あらさに近づくにつれてね。
で、みんなが楽しんでるもの、普通にやっぱり良いもの多いから、
なんか、みんなと同じように楽しんでいこうって思うんだけど、
あれ?なんか、自分が突っ跳ねていたものは何だったの?って。
うん。
まあ、あとなんか、そうだな、やっぱそれを、こう、好きって語ることによって、
なんだろう、こう、そこに振り落とされる、何か価値観がないだろうかっていうか。
06:01
うん、確かに。
そうだな。
そうね。
こう、昔の自分の一部みたいなのを、阻害しちゃってないかみたいなのも、
ちょっと思うところはあるかなとは思いますね。
そうだね、なんか…
紅白にそれがあるのかわからないですけど。
まあ、紅白にっていうのは、ちょっと変なのかもしれない。
紅白だからっていうわけじゃないけど、
なんだろう、マジョリティよりに自分の価値観がなってしまって、
より、なんか、なんだろう、自分はマイノリティよりに気持ち共感してたと思ってたんだけど、
そうじゃなかったんだな、みたいな感覚が、
別に、昔から本当に自分がマイノリティだったわけでは、たぶんないんだろうけど、
でも、なんか、より、なんだろう、自分が年々マジョリティ的になっているのが怖いんだよね。
別に、だからって言って、
なんだろう、マイノリティに対して、こう、差別をしたり、抑圧したいっていう気持ちがあるわけでは全然ないんだけど、
なんか、マジョリティ的な価値観をどんどん自分が支持することによって、
なんか、間接的に抑圧したりしていないかなっていうことを気にしてしまう。
その感覚は、どこまで一般的なのかわかんないけど、僕は結構共感するところはありますね。
そうだね。
なんか、別に、若い頃の感性をずっと守らなきゃいけないわけではないと思うんだけど、
でも、たくさん浴びるいろんな情報の中で、自分の感性をどう守るかって結構大事なことだと思っていて、
なんか、自分の感性がどんどん、いろんなものに許容的になってしまう、感動してしまう。
例えば、鬼滅も、なんだろう、ある種批判としてはめっちゃ課長不正だよね、長男だからとか言ってるよね、とか、
なんか、女性を過度に過程的な存在として書いてるような漫画とかアニメに関しても、
こういう批判があり得るっていうのは理解できても、気持ちの上で感動しちゃうのを止められないんだよね。
で、なんだろう、それは別にダメなわけじゃないんだけど、
なんか、これは自分の感性からして、アグリできないっていうものを、どんどん、
まあ、でも、いい話だし、いっかってなっちゃうんだよね。
なんか、それがちょっと怖い。
で、なんか、別にこれが、例えば独身だったから感性が守れるわけでもないと思うし、
なんか、年を重ねるごとに感性を守るのって難しくなってくと思うんだけど、
だから、結局は自分という人間の心の鍛え方の問題なんだろうなって思うよね、究極的には。
で、なんか、そこまで話して、カルチャー界のことをちょっと私は思い出しました。
09:04
人生にカルチャー必要か?という回ですね。
まあ、ちょっと半年ぐらい前かな、2021年の前回に撮った回なんですけど、
それを経てどういうふうに、なんか変化したんですか?
いやいや、っていうわけじゃなくて、その時は、なんか私はその文化は別に人生においてはスパイスのようなもので、
なくても生きていけるしっていう感じで話したと思うんですけど、
りゅうさんは筋トレみたいなもんだって結構言ってましたよね。
定期的に新しい、自分が普段摂取しない、まずはなんか理解できないみたいなものも入れていかないと、そういう筋肉が衰えちゃうから、
なんかいざ本当に文化に魂が救われるみたいな瞬間が、おっとずれなくなってしまうというか、
感動できなくなるっていうか、救われることができなくなってしまうみたいな、そういう趣旨のことを言ってたような記憶がありますね。
そう、いやなんかそれにつながってきて、確かにって思ったんですよね。
なんか逆にそうやって鍛えていかないと、これが一番感動するでしょとか、これはみんな共感するでしょとか、面白いでしょっていう、
マスメディアによる、わかりやすい感動パッケージみたいなのに、しか自分が逆に受け付けなくなっていくのが怖い。
マスメディアって言ってるけど、マスメディアである必要があるのか、僕はちょっと疑念はある。
今の時代ね、例えばYouTubeとかで、マスじゃないメディアでもあり得ると思うし、それこそTwitterとかでもそういう、なんだろうな、
ウェルメイトとは言わないけど、そういう性質に近いものも結構流れてくるような気もするし、
自分の中でFacebookがよりそれに近いんだけど、Facebookに最近オススメコンテンツとかって出てくる。そんなに僕は真面目に見てないですけど、多くなってきたなって。
オススメコンテンツにどういうのが出てくる?
なんかね、いい話だみたいな。うまく言いづらいし、あんまり名指しで言いたくないから、あれなんですけど、結構興味深いですよ。
Facebookのフィードじゃなくて、最近何が起こってるかみたいなタブがあって、動画とかそういうのがあって、なるほどってなるやつは多いんですけど。
あんまりそういうの見たことないかも。
それは置いといて、マスメディアって限定しなくてもいいんじゃないかなって1点だけで、ただ言ってることはわかります。
いろんなメディアから割と感動させようという意図を持って、割と多くの人が感動できるようなフォーマットで提供されるものにしか咀嚼できない自分になりたくないから、
12:13
顎は弱くなっていく。
そう、顎は弱くなってるんじゃないかなと思って、最近ちょっと怖いんでね、それが。
なるほどね。
いや、別になんか、こう、液伝が顎が弱くなっているってのはまたちょっと違う気がするんだけど、
でもまあ、これだけいろんな人が見て、面白がれる、やっぱりあれは面白いコンテンツだと思うんですよ。
その、まあ、面白くしているから、面白いと感じられるけど、より一方、難しいものを自分が摂取できるか、し続けてるかっていうとどうなんだろうと思って、
なんか、年々こう、まあ、面白いし、一家みたいな感じになったり、
まあ、だから、これ問題が2つあって、面白いから、例えば価値観的にあいれないものがあっても、受容してしまう、許してしまうっていうのが1つと、
まあ、面白い、その、なんだろう、咀嚼が必要な面白いものの面白さを味わえないっていう2つ問題があって、
まあ、その両方を気にしてるって感じが。
2つ目もっかいいいですか?
いや、なんか、面白さ、本当はよく咀嚼すれば面白いんだけど、一口目では面白くないものを面白いと思えない。
なるほどね。
そうですね。まあ、僕はその両方とも賛同できるし、
まあ、そういう意味でのその咀嚼力と、なんか若かった頃の感性を守りたいっていうステートメントは同意できるんだけど、
守りたいって言ってる時に、それはなんか守るっていうものなのかなっていうか、
まあまあ、守るっていう表現が正しいか分からない。
まあ、育てるの方が適切かもしれない。
育て続けるのかな、どうなんだろう。
でも、なんか感性が変化すること自体は、そのものが悪いことじゃないわけじゃないですか。
その過程でマスによっていくのも、なんか直ちに悪いことは言えないけど、
いや、悪いことじゃないんですよね。
と考えると、我々何を大切にしてるのかっていうのも、もうちょっと言語化できるような気がしてきますね。
いや、究極的にはじゃあ、例えば家族がいる幸せみたいなところって、かなりマス的に幸せだと思われてることだと思うんだけど、
実際それにすごいアグリする一方で、でもなんかその価値観にどっぷりはまりたくないみたいなのがあって、
じゃあ私はどうなりたいのっていう、結局そこに戻ってくるんだよね。
何を幸せだと思っていて、どういう価値観を大事にしたいと思っているんだろうっていうのが、なんかわかんない。
15:04
なんか結局は自分に帰ってくるじゃないけど。
それはじゃあ、例えばですけど、独身の、例えば家族をどのぐらい持つ、結婚するしないとかに対してコミットメントしなくてよかった20代前半の頃には、
例えば家族っていう形だけが幸せじゃない、家族がいる、いないとかだけで幸せは決まらないっていうふうに思っていたけれども、
例えば家族を持って子供が生まれてってなった時に、なんかそういう価値観を信奉するというか、支持していた自分を裏切ることにならないかみたいなちょっと心配もあるみたいな。
そうかもね。
じゃあ、より具体的な話として、お正月に偽実家のほうに、そこで過ごさせてもらったんですけど、なんかすごい歓迎してもらったんですよね。
すごいあったかくて、いわゆるそういう家族の、なんだろうな、同調圧力だったりとか、家族のために自分を犠牲にするみたいな価値観に対して疑問を持ってたんだけれども、
でもやっぱり、そういうふうに迎え入れてもらえると、よかったなとか嬉しいなと思うし、あとは、これもお正月なんですけど、私、結婚式の写真をフェイスブックにあげたんですよ。
そうすると、いろんな人に祝ってもらえて、やっぱりそういうのは嬉しいですよね。
自分が完全に結婚制度、例えば同性婚ができなかったりとか、片方が強制的に改正しなければならなかったりとか、いろいろ制度としての改善点ってあると思ってるんですけど、
やっぱり友達が幸せそうなら、めでたいし、自分の結婚生活としては幸せだなって思うときもあるし、こう思うっていう制度に対する心情とか、自分の価値観と、こういう行動したとか、感情としてあったかいなとか、幸せだなとか、
そういうのが、別に食い違ってるって言ったら変なんだけど、自分の中で、同じ人物の中に両方共存しているっていう感覚があって、お正月ってそれを、いいよね、あったかいし、幸せだし、みたいな感じで。
そういう雰囲気のある時期ですよね。
なっちゃう。
テレビとかはもうそういう感じ多いですね。家族愛とかもあるし、なんか1個たまに思うのはお正月に帰るたびに、アカシアサンマーの番組を結構お正月に流してることが多いんですよね。
18:05
基本的には、最近有名になったスポーツ選手とかゲストを呼んできて、最近彼女おらんのか、みたいな、親戚のおじちゃんを見るんですよね。それは自分の身近に直接的にそういう人はいないので、サンマーを通して、こういうことがたくさん起こっているんだろうなっていうことを見るっていうだけで、個人名をあげたかったわけではないんですけど、
なんかそういうのとかも含めて、お正月っていう、あったかさとかで流してくる感じ、濁流を感じる。
だから、たぶんそれが私が紅白とか、箱根駅伝に感じたものに近いと思うんだよね。
物量で押してくる感じのイベント。
物量というか、あったかいし、家族っていいよね、みたいな感じで。
実際にいいんですね。
でも、自分も自分自身の選択とか行動について感じるのは、
例えば、自分は同性婚はもっと法律でちゃんと権利を守られてほしいし、
夫婦別姓が導入されるまでは、そもそもそんなに意味を感じないから、結婚、法律婚はしなくていいんじゃないかって思ってたけど、
実際にはいろいろな考えの変化を経て、実際に僕たちはしたわけですね、法律婚をして。
その後、いろんな人に祝ってもらった。
それは別に法律婚したことに対しておめでとうって言われてるわけではないんだけど、
社会的に続いてきたことを踏襲することから、それの後に起こったいろんなイベントだったりに関して、おめでとうって言ってもらえることが嬉しかったりするわけですね。
そこに、過去にそう思っていた自分を裏切ってしまうんじゃないかとか、
そのことを知っている、例えば、友人とか聞いてくれている人とかに申し訳なく思ってしまうような気持ちもあったりして、そういう葛藤ってのは結構ありますよね。
どっちかを変えなきゃいけないんじゃないかっていうこともある、そう思うこともあると思います。
それこそ、自分が利益不利益って言いますけど、ここで言うと、あったかさとか幸せ、自分の幸せを追求する行動と、こうあるべきだよねっていうべき論、心情を天秤にかけて、
どっちかを選ぶ、行動する上ではどっちか選ばなきゃいけないと思うんですけど、やっぱりみんな基本的には幸せを追求する方に行く人が多いんじゃないかなと思っていて、
そういう種利益を取るような行動をしたことで、自分とか周りが幸せになることに疑問を抱いてしまったり、それはより心情を大事にしたわけですね。
21:13
逆に今まで自分の心情に基づいて感じていた、こういう和感があるなみたいなものに目をつぶってしまって、どんどん鈍くなっている。
それがお正月効果って呼んでたものですけど、それが怖いと感じるっていうのもあって、どっちの自分もいるんですよね。
人間って二つの側面があるとしたら、一つは社会だったりのシステムからの中でそれを受け入れて生きて、色んな利益を得たりしている人としての一面と、
その社会を変えることもできるというか、政治的にもそうだし、自分が行動してそれを人に伝えることで他の人の意見をインフルエンスするっていう意味でも変えられる。
ある種政治的って言っていいのか分からないけど、社会を変え得る存在でもあるわけですね。
その中で前者の自分が行動をしたりしてるし、色んな感情を持ったりもしてるし、後者の自分が心情を持ったり、それを発信したりもしていて、
その二が基本的にはそんなに食い違ってないかったりするわけですけど、他の価値観を持ってる人と深く関わったりする場面で、そういう二つの自分の違いだったりが出てこざるを得ない時は多いのかなと思っていて、
その一つ典型例がお正月だったり、結婚式とかもしかしたらそうかもしれないし、そういうやっぱライフイベントで家族とも今まで以上に深く関わることになるし、どう関わるのかのコミットメントすることになるし、
また違う面で言うと、やっぱギジカっていう、違う家族と一体になるっていうことも起こるわけだし、そうですね、なんかそういうのを感じる1年でしたね。
お正月だけじゃなくて、やっぱ僕たちが結婚した年、結婚したのは一昨年であるんだけど。
結婚以外にもいろいろなんか感じることは増えてきた気がする。
なんかこう、わりと今までちょっと抽象的な話をしちゃったんで、具体的な話をすると、うなぎって美味しいじゃないですか、でもこうなんか絶滅しちゃうから食べてはいけないみたいな、
あるいは、例えばふるさと納税に問題があるけど、減れ費は欲しいみたいな、さっき話していた主張、問題提起して社会を変えようとする自分と、社会の中で利益を受ける自分っていうのが、どっちを取るのかってすごい難しいですよね。
24:05
たぶん、基本的にはそんなに矛盾していることを感じなくていいというか、なんかそれを推し進めると、例えば政府を批判している人は、じゃあ医療保険とかいろいろ、政府から提供されているものを使っちゃいけませんっていうことにはならないわけじゃないですか。
それは極端に進めるとおかしなことが起こっちゃう。
そうですね、過度に一貫性を求めてはいけないというか、あとは私が思うのは、自分の中でといえば、どれぐらい強く、例えばこの制度を批判したいみたいなのがあったとして、でも利益もすごい大きいときは、利益を取っちゃうこともあるじゃないですか、だからといって別に、もともと持っていた心情の強さっていうのを低く見積もる必要はないのかなと思っていて、
それって外から見えないから、自分の中で大きさを測るしかないし、少なくとも私はそれを、人の心情の強さを外から押し測ったりはしないようにしたいなっていうふうには思いますね。
うなぎの話でたまに出るのは、僕はあんまりうなぎは、そもそもあんまりもともから食べなかったっていうのがあって、うなぎは確かに絶滅危惧種だし、食べないようにしようっていうのは、わりとスッと受け入れられたというか、行動としても矛盾してない状態なんですけど、それを言うならマグロもそうでしょっていうことはできる。
実際そう言ってる人はいて、マグロもいろんな種類があるんで、すべての種類ではないですけど、同じぐらい絶滅危惧種だとヤンバルクイナと同じぐらい絶滅の危機に迫っているのに、なぜマグロは食べて、うなぎは食べる人を批判できるのかみたいなことも言えるし、実際にそういう意見も耳にしたりするわけですよね。
なんかやっぱそれは、千引きは、いろんな人がいろんな情報をもとにしているなって思う事例ですよね。それはやっぱマグロは食べているっていうことから、いろんなことを押しはかりすぎるのは良くない。
そうですね。SNSってそういうのめっちゃ加速しちゃうと思うんですよね。
そしてなんかいろんなチェックが簡単にできちゃうじゃないですか、他の行動だったり。
一貫性チェックみたいな。
そう、一貫性チェックみたいなのがすごくできちゃったりするんですよね。
確かにね。やっぱりなんかこう、あることを批判するならこれも批判すべきとか、批判するなら受益はしたらいけないみたいなのって、やっぱ人が見て判断できることではなかなかないですよね。
そうですね。
僕はそうだな、これを意識し始めたのは結構最近なんですけど、割とアンチ一貫性みたいなのがあって、
それは時間軸的にも昔の自分が言ったことに押しはかりすぎると、自分の考えが狭まってしまったり、受け入れられる価値観の幅が狭くなっちゃったりするだろうなってのもあるし、
27:12
他の人にも自分はそうしないようにしようっていうのもあるし、その人の中での一貫性みたいな、これはこうだけどあっちはこうみたいな、心情はこうだけど行動はこうみたいなのも、
あんまりそうだな、それを求めたり、それを用いて他の人を批判するっていうのは自分ではしないようにしようって思ってるんですね。
そうですね、私もそれはすごくSNSとか見ててそう思うし、私自身他人にはできるだけ言わないんですけど、結構私一貫性警察を内面化してるところがあって、自分の中では結構気になっちゃうかな。
求めすぎるとかえって嘘になるんですよね、一貫性って。でもこれでこうだったってことは、これもこうしないといけないんじゃないかみたいなセリフくそりつぶしちゃうんですよね。
だからあんまり、実際私がそういうのを人に言われたからってわけじゃないんだけど、やっぱりなんかそういうのは批判されてる人を見て内面化しちゃってて、それはなんかこうやりすぎるとよくないなっていうことは思うんですよ。
でも一方で、こうあんまりなんか全然気にしないと、なんか利益、行動によってもたらせる利益の方に流されすぎてしまって、なんか心情がどうでもよくなっちゃうのが怖いというか。
なんかある程度の一貫性があるから人は一体としてまとまれてるわけで、なんかバラバラのなんだろう、骨のないふにゃふにゃ人間になっちゃわないかっていうのはありますね。
いや、骨がないとまでは言わないけど、でもなんかちょっと怖いというか、私自身結構なんだろう、まぁいっかってなっちゃうと、どこまでもなっちゃいそうで、なんかだからこそ怖いんだよね。
だからなんかこのなんだろう、このなんか怖さみたいなのは、F1回の時になんかお母さんがめちゃめちゃしてて、その時全然わかんなかったの。
なんか何をこの人は怖がってるんだろうみたいな、例えばそのF1をドラマ化してみることへの恐怖みたいな、めちゃめちゃ語ってたと思うんだけど、何が怖いのかあんまりよくわからなくて、
ただなんか自分の中で線引きを決めないとズルズル言ってしまうっていうことをすごい言ってて、あぁまぁ確かになって、今はなんかF1に関わらず、その広い文脈でなんか今はちょっとわかる気がしてきましたね。
F1回で言ってた葛藤っていうのは、そのなんだろう、レースじゃない部分で、例えばそのドライバーを見てしまったり好きになったりするってことは、まあ否定されるべきものじゃないけど、でもなんかそれをこう無制限にしてしまうと、
30:00
なんかアイドル的商品に、本当はドライバーとしてプロとして走っている人たちを、なんかそういうふうに別の望まれてないやり方で、こうなんだろう、こう支持してしまわないかっていう、そういうことですかね。
そうですね。
まぁ確かにね、それはなんか僕らもう半分のまれかけているとかないしね、難しい。
いや、なんていうか、こう悪いって言い切れることじゃないんじゃないですか、ただその自分の中でこれを望ましい行動だと思っているかっていう批判と一致してるかっていうと、どうだろうねっていう、自分は何が望ましいと思ってるんだろうねっていうところに結局戻ってくるんですけど。
あとは微妙に違うのは、実際に見るっていう行動と、なんか例えばこういうドライバーはこういう人だから、こういう見方をしないほうがいいかもしれないっていう心情と、また別になんか発信するっていうのもあって、そのこれ面白いよってシェアするとかもあるし、なんだろう、間接的にそういう他の人に影響を与えるっていう、なんだろう、力を持ってるわけですね、僕たちは。
なんかそれをどっちに寄せるか、どっちに一貫させるかっていうのは、確かにね。
人によって結構ポリシー違いますよね。
違いますよね、確かに。
Twitterで、例えばとかSNS、Facebookとかで、行動側に寄せてる人と心情側に寄せてる人がいて、
確かに確かに確かに。
心情各プラットフォームだと思ってる人が、行動を書いてる人に攻撃してる人もいるし、なんかそこは別に。
確かにね。
なんだろう、それはみんなが一緒であるっていうか、心情を書くべきとか行動を書くべきっていうわけではないけど、
人によって結構違いますね、それをどっちに寄せるかとか。
確かに、そうだね、なんか前、そうやって発信に関して言ってたのは、自分が一つ一つ選択することが小さな投票行動となるから、
そういう意味で自分の中の心情っていうのを大事にしていこうっていう、
あとは行動で心情が表現できるときは、そうしたらいいよねっていうのはあるんだけど、
対立するときに葛藤って生まれるじゃないですか、
心情も強いけど利益とか不利益も大きいみたいな、
で、どうしようみたいなときの葛藤があって、
それって外から見えないし、そういう状況でSNSでどっちかだけをメンションして、
わーってなるの避けたいみたいなのもありますね。
それは人生の決断だったり、結婚とかも一つの例かもしれないし、投票行動とかもそうかもしれないですね。
ある政党を支持しているってことが、その政党が支持している価値観すべてをっていうわけではないけど、
その人の内的にこういうことを応援したいから見れるっていうのもあるかもしれないし、
無意識にいろいろバンドルして結構考えがちだけど、
そこは、その後ろにきっとあったであろう葛藤とかをリスペクトしたいっていうのは確かにそうだなと思う。
33:07
でもやっぱりそれってなんか見えないんですよね、人からはね。
人からは結局発信している心情か実際の行動かしか見えないじゃないですか。
だからそれがその人だと思ってしまうし、でもまぁ実際のところはわかんないですよね。
いやー、なんかこれはほんといろいろ例が上がる気がするな。
なんかその投票行動っていう意味だと、例えばFacebookに結婚式の写真をあげるっていうのが、
なんか私がすごい結婚に対して肯定してるみたいなメッセージになったら嫌だなみたいなことを思ってた。
でもこうおめでとうって言われるのは嬉しいし、実際写真のこういうところが良かったねって言ってもらえるのはものすごい嬉しいから、
なんか私は一体何を求めているんだろうみたいな。
どうありたいんだろうみたいな。
深夜を覗いてしまったような気持ちでね。
確かに自分もなんかそういうことをアピールしたりとかして、祝ってもらいたいって気持ちもあるし、
でもやっぱ、例えば結婚式をしないことを選んだ人もいっぱいいるし、
なんか結婚が、結婚自体はしない人、できない人ってのも、したいけどできない人ってのもたくさんいるし、
っていうことを考えたときに、自分はどっちを優先すべきなんだろう、どっちにあるべきなんだろうってのは思うけど、
でも別にそこを全部Facebookのポストに書くわけじゃなくて。
そうそうそうそう。
これはって言って。
外から見ればね、わかんないですよね。
やっぱりなんかこう受益しながら批判するみたいなことをやると、
実際誰かに言われたわけではないけど、嫌ならやめればいいじゃんっていうのって、すっごい多い批判だと思っていて、
嫌ならやめればいいって、すごい悲しいなと思うんですよね。
例で言うと、例えば環境問題に取り組んでるんだったら、
マイバッグを持ち歩く、飛行機に乗るのをやめればいいとかかな、もうちょっと言うと。
それができないんだったら、その批判をやめろとかね。
それって結構一貫性によって、心情側を抑えろという主張だよね。
逆にその心情を持っている人が、私は心情を実現できているので、
あなたはそういう行動をしてるってことは、この心情大事じゃないんですねみたいな、
倫理観で利益のほうにマウンティングするっていう方向もあって、
わりとそういう戦いありますよね。
そういうことを見たときに、結構その一貫性あるかどうか物差しっていうのは、
適応することは比較的簡単だから、そっちに利を感じてしまうというか、確かにみたいな。
36:07
線を引いて、そこからずれていることをビジュアライズするのはすごく簡単なわけですね。
でも、よくよく考えると、それってまず自分たちが見えている情報だけしか見えてないわけだし、
その線の物差しの大きさをどのぐらい取るかとか、過去にどのぐらい広げるかって、
別にいろんなやり方があるわけだし、かなり知的なことなわけですよね。
そうですね。
だから、行動の上ではやっぱり、誰もが個人の幸せを追求していいと思うんですよね。
その上で、自由に意見を持っていいと思うし、
そこに何か矛盾があったがるって誰か困らせてるのかっていうと、困らせることもあるのかもしれないけど、
でも、全部が一貫してなくてもいいよなっていうふうには、最近思うようになりましたね。
そうですね。
どっちも大事なんですよ。
自分の中の一貫性警察を黙らせるってことは結構大事で、
だけど、でも、一貫性じゃなくてもいいんだけど、自分の中での心情を育てる、
お正月に流されすぎるなみたいなことですけど、
私はこういうふうな世界が理想だと思うし、こういうふうになっていったらいいなっていう、
それを育てていくっていうのも大事だから、
そうですね、そんな感じですかね。
あとはやっぱり、行動とか人生とか人の具体例よりは、制度とか仕組みに対して声を上げられるようになりたいっていうのもあるかな。
人とそういう仕組みだったり、自分が変えられる、例えば政治だったりっていうのを分けて考えるというのもあるし、
他の人がそう主張してる時にも、自分が攻撃されてるかのように過剰に感じすぎないっていうのもあるかもしれない。
でも、そう思えないこともありますね、自分が。
きつい言い方されちゃうと、自分に言ってなくてもある意見に反対してるってだけで、自分も攻撃されてるように感じちゃうことはあるな、やっぱり。
それはやっぱり自分の中の一貫性なんだよな、本当にそういうことばっかりというか、しかも一番傷ついたじゃないけど、自分の行動否定された意見を覚えているというか、その人をイメージして、セレクティブエネミー的な話なのかもしれないけど。
だから、反対意見を持ってる人の中で、一番声が大きいというか、きついことを言った人を代表意見だと思ってしまうっていうのは、すごく自分の中でもあるな。
39:02
それはお互いにあるのかもしれないですよね。
だから、敵側って言ったらあれだけど、自分と反対意見を持ってる側も、自分と同じ意見を持ってる人の中の一番きつい人に言われたことに反論してるのかもしれなくて、だから、あんまりそれを過度に受け取らないっていうのは確かに大事なのかもしれない。
あと、自分たちがそういう葛藤を経験して思うのは、ほぼ大多数の人は同じような葛藤を少しずつは持ってるわけで、そこを想像というか、考えるのをやめないっていうのは大事なことだなって、改めて難しいけど思うかな。
やっぱり、自分とか他人の葛藤を尊重できるようになりたいっていうのは、お正月を通して思ったこと、なんかちょっと違う気がするけど、年始の温かさとか、いい楽しさと自分の価値観のバランスをどう取ろうかなってことをすごく考えたから、
なんか、それで、自分の中では葛藤がないことに関して葛藤してる人が世の中にいるんだなって想像ができた。
例えば、私はうなぎに関しては葛藤せずに住んでるけど、うなぎを食べることについて葛藤してる人、たぶんいると思うんだよね。
たしかに。
まあ、マグロについてもそうかもしれないし。
マグロに関してもそうだと思うし、私はそこに、例えば利益が大きくないから、信条がそこまで強くなくても、別にいいやって思うこと。
でも、その人にとっては利益も信条もすごい強いけど、なんか利益を取らざるを得ないみたいな状況って、すごいグラデーションだよね。
だから、それになんか気づいたかな。
そうですね。僕は、それって思うのは、例えば、うなぎに関しては、結構、批判することが比較的安全というか、じゃないですか。
僕はマスクに関しては、日本ではすごくもうタブーというか、マスクをつけたくないとかつけることによる不利益がある人に関して、ほぼ配慮はない。
それは公衆衛生の意識が高いって言い換えられるとは思うんですけど、僕はそこまでではないんですけど、結構肌荒れが強いほうなんですね。
で、不織布、実際結構、たぶん5、6時間とかつけてると、次の日必ず肌荒れをしてしまうので、かなり気を使ってつけざるを得なくて。
で、なんか不織布だっけ?あ、ウレタンマスクか。ウレタンマスクね、かなり肌に、僕にとっては優しいですね。
42:02
まあ、これ人によって違うと思うんですけど、で、何だろう。それで実際、効果とかの話を聞くまで使ってた時期もあったんで、
その後にウレタンマスク警察みたいなのやってて、これは何パーセント効果が低いから絶対ダメだみたいな。
電車でご注意しましょうみたいなことを言ってる人もいて、やっぱみんなはそう言ってるわけじゃないんですよ。
ウレタンマスクを批判してる人はそうじゃないんだけど、やっぱ一番強い意見を見てしまって、
それを自分みたいなこの人、特にQOLに関係する病気ってすごく軽んじられがちなところだと思うんですね。
僕はアトピー性皮膚炎なんですけど、なんかそういうものと自分を重ねてしまって、なんかすごい悲しい気持ちに、自分否定されたような気持ちになるわけなんですよね。
まあ、でもやっぱり自分はそれよりも、マスクをつける効果はやっぱ大きいと思うからするんだけど、なんかそういう葛藤があったりもするわけ。
だし、街でやっぱマスクしない人を見て、なんかいろんなことを思いますよね。
そうだね。私もなんか、マスクこっちの方がいいんじゃないとか言ったことあるわ。
それはあんま覚えてないし、それで傷ついたりっていうことはなかったんですけど、そういう人はもっといるんだろうなって。
まあ、知っている人の中にも知ってない人の中にもいるんだろうなって思うし、
海外とかは、マスクしないことのメリットっていうか、ハグする、キスするっていうことが家族にとっては絶対大事でしょって思う人もいると思うし、
なんかそれが確かに公衆衛生的には不利な側面だと思うけど、まあそうだな、なんかそういう葛藤もきっとあるんだろうなって。
そうですね、いや、コロナは本当に何だろう、あらゆる葛藤を炙り出している感じがしますよね。
なんかこう、こういう行動をとるってことは、軽んじてるってことだっていうふうに結構言われやすかったり、
例えば、対面で何かすることがすごく大事っていうことと、あとはコロナ対策をしっかりしなきゃいけないっていうのの間で、
みんなすごく揺れ動いたと思うし、本当になんか、こう、全員がずっと天秤をゆらゆらしてるような感じだったと思うんですけど、
いや、難しいですよね、それは本当にね、だからなんか、世の中あらゆる葛藤があって、みんなそれぞれ自分の中で、
少しでもいいようにして、あとは葛藤を作り出してる制度っていう、制度側に葛藤を作り出す理由があるとき、コロナみたいに、もう、なんていうか状況が葛藤を作ってしまうっていうのとはまた別で、
制度を良くすれば葛藤が減るかもっていうことがあったときは、よりそういうものに対してアクションしていくっていうことは大事だし、
45:04
一方で、みんな仕方なく葛藤を抱えているときに、それをこう、なんだろうな、外から見てジャッジしないっていうのは大事なのかもしれないですね。
確かに、確かに。
なんか、お正月の話からえらいスケールが大きくなって。
そうですね、スケールが重めの話、2つ目からありましたけど、これが僕たちなりのお正月会なのかな。
いやいや、いいんじゃないですか。
もっと平和な話もいっぱいしたいですけど、またそれは別の機会に。
はい、そうですね。
じゃあ、そんな感じでしょうか。
はい、そんなところでしょうか。
はい、じゃあ、どうだろう、ここまで、最後まで聞いてくれた人はいるのか、どうか怪しいですけど、
僕たちの中でも、僕たちの中でも落としどころはまだついていない話なんですけどね。
いや、ほんとそう、でもやっぱり、なんだろう、なんか漠然と怖かったんですよ、最初は。
その、なんだろう、お正月に流されるじゃないけど、お正月に流されるじゃないけどね、
その、なんだろう、心情と利益が食い違った時に利益に流されることが怖かったり、利益をエンジョイできない自分っていうのが両方いて、
でもなんかこう、なんだろうな、やっぱり言語化することで、
こう、あ、私どっちの自分も私なんだなって感じたというか、それは結構、なんだろう、大きかったですね、自分にとっては。
確かに。
いや、でもこれ結構ポートキャストで収録するのすごく勇気のいる話題だったので、
そうですね。
はい、まあ、県の中っていう名前だし、もっとね、利系なコンテンツを増やした方がいいんじゃないかって。
まあ、それはね、ずっと、ずっとある。
パッと終わったりもするわけですけど。
まあ、でもやっぱ、こう、このタイミングで2人がこう、考えてたっていうこともあるし、
まあ、こういう場所じゃないと伝えられない、話せないっていうか、
そうですね。
そういう話でもあるので。
まあ、なんか、こう、わかんないな、例えばTwitterとかで、こう、ワンポスト、ツーポストぐらいした感じでは多分伝わらない。
そうだね。
けど、まあ、これだけ長く、もし聞いてくださった方がいたら、なんか、どういうことを感じているのか、きっと伝わったんじゃないかなという気がします。
なので、まあ、はい、僕の中では結構話せてよかったかなと思います。
そうですね、いや、私もなんか話すことでだいぶ整理された感じがあって、
なんか、こう、なんだろ、もやもやと多分ちょっと前からずっとしてたんだけど、なんか形を持ってなかったんだよね。
だからよかったです。
はい。
いや、でも今年もですね、まあ、こんな感じで、まあ、僕たちが興味あること、話したいことについて、こう話して楽しんでもらえる番組していきたいと思いますので、どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
えー、というところですね、実は告知というか、次回予告がありまして、
次回予告とかあんの?珍しいね。
珍しく次回予告がありまして、実はですね、次はゲスト回なんですけども、なんと3番組が一同に開始するというか、他のポッドキャストをされている方をお招きしてゲスト回を収録しましたので、それが出ると思います。
48:17
はい。
名前言いますか、どうします?
まあ、ちょっと次回のお楽しみ。
次回のお楽しみということで、今回は結構ね、理系な、まあエンジニアリングの話もあるし、割と権限的要素が強い話になるかな、お楽しみに。
はい。
ということでまた次回も来てください。さよなら。
さよなら。
48:49

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