先生のプロフィールとゼミについて
【敬和キャンパスレポ】
この番組は、新発田市富塚にある敬和学園大学の大学生が、
大学に関わるイベントや人、新発田のことなどをテーマにお届けします。
【敬和キャンパスレポ】は、実践するリベラルアーツ、
敬和学園大学の提供でお送りします。
皆さん、こんばんは。
この番組は、敬和学園大学から大学のことや新発田、新潟のことを伝える30分番組です。
今日の進行は、国際文化学科3年の土門海音と、

国際文化学科4年の神田智美です。どうぞよろしくお願いします。
さて今日は、久しぶりに大学の専任教員の先生に、研究のお話を伺います。
過去の放送会で、研究のお話を伺った回は、卒業した岸田さん、田村さん、
あるいはさらに、FM新発田のパーソナリティをされている有本蘭奈さんと、
番組のエース級の先輩たちが担当されてきて、
しかしその先輩たちも苦労したという話を伺っています。
そうですか。つまり私たちが今年のエース級ということで指名されたということなんでしょうか。
私はまだMC2回目の担当なので、今回のエースは神田さんなのだと思いますが、
私自身もできるだけ近づけるように頑張りたいと思います。
私の経験は浅いのですが、実は今日のゲストは、
昨年度私がゼミに参加していた先生なので、
そこは神田さんよりちょっとだけアドバンテージがあると思います。
今日のゲストを紹介します。国際文化学科の長坂康代先生です。
よろしくお願いします。

こちらこそよろしくお願いします。
今回、長坂先生はベトナムの首都ハノイの都市人類学という著書を出版されました。
おめでとうございます。
ありがとうございます。
ベトナム、ハノイといったキーワードに心躍らされつつ、
都市人類学という専門的なキーワードも入っているということで、
期待と不安が入り混じっていますが、
先生のプロフィールやドモンさんも参加したゼミのことを前半に、
後半でご研究のことも伺っていきたいと思います。
では私土門から長坂先生のプロフィールをご紹介します。
長坂康代先生は、1994年に大東文化大学文学部中国文学科をご卒業の後、
愛知教育大学大学院、名古屋大学大学院で学ばれ、
2018年より、敬和学園大学の国際文化学科の先生として勤務されました。
ご専門は、大学のウェブページでは文化人類学、都市人類学となっています。
敬和で担当されている授業は、文化人類学、地域学、地域文化論などとなっています。
まず先生のプロフィールでいきますと、
ベトナム・ハノイについて
学部が中国文学科、その後最初に学ばれた愛知教育大学では、
教育学、国語教育のご専攻のようですね。
その後、文化人類学、あるいはベトナムという国について
深く学ばれるようになったということかなと思いましたが、
何かきっかけがあったのでしょうか。
はい。愛知教育大学では漢文学専修に所属していました。
論文のテーマに悩んでいた時、当時の指導教員であった板村よしかつ先生から、
漢字文化研の中でベトナムか北朝鮮かどちらかをやってみたらどうかと言われたことがきっかけなんです。
板村先生ご自身、中国の漢文学を専門とされるだけでなく、
先日25年ぶりにお会いした時、今はユダヤの研究をされていると伺いました。
板村先生の枠にとらわれない、その発想力に私が素直に乗ったのが、
ベトナムとの最初の接点です。
その後も要所要所で多くの先生方に指南してもらって今に至ります。
私自身はベトナム漢文学科の専門とされるだけでなく、
ハノイで長期滞在する中でフィールドワークを主とする文化人類学に系統していきました。
MCの神田さんは、中国語を勉強しているそうですが、
ベトナム語も発音が似ているので、ベトナム語に入っていきやすいかもしれませんね。
実は留学していた際に、同じクラスに結構ベトナムの方がいらっしゃって、

漢字ではないんですよね、ベトナム語は。
そうなんですよね。
なんかアルファベットみたいな感じで、
発音の音声の目印がついたみたいな。
それだけでまず、なんか難しそう、大丈夫かな、みたいな感じなんですけれども。
これまでのご研究は、主としてベトナムを対象にしたものが多かったのかと思いますが、
文化人類学者としては、それ以外にも様々な国や地域に出かけていって学ぶ機会が多くあるのかと思います。

これまでどんなところに行かれていたのかなど、ご紹介いただけますか?
人類学だと様々な国や地域に行くイメージがあるかもしれませんが、
私の10年パスポートを見返してみると、ベトナムとの往復のみでした。
先生の研究について
博士論文を執筆後は、ベトナムの国際移動を研究しています。
東アジアにも研究範囲を広げ、台湾、韓国には何度も行ってきました。
博士論文を執筆後は、ベトナムの国際移動を研究しています。
東アジアにも研究範囲を広げ、台湾、韓国には何度も調査で訪れています。
ただ、若い時は中国、台湾、香港、韓国、タイ、カンボジア、ラオス、ミャンマー、インド、エジプトなどを旅行してきました。
学生時代は片道航空券でタイのバンコクまで行き、
バンコクの旅行代理店で格安航空券を買っていたので、タイには何度も行っています。
当時は世界中から格安航空券を求めて若者が集まってきていました。
旅のバイブルを持って移動するあてのない旅は、時間も体力もいるので若かった頃こそできたのかなと思います。
今となっては懐かしい思い出ですね。

すごいですね。私たちコロナ禍世代の学生は、海外に片道切符で行って、その場で格安航空券を買って旅行するなんて、
どんどん想像つかないですよね。
交流活動と地域づくり

海外に行くだけで大きいハードルだから、何個も国が出てくるっていうことが自分たちは考えられない感じですね。
大学のゼミでは新潟県内のイスラム教徒、ムスリムに関する調査、あるいは茶道の祝寧儀での調査と、非常に活発な活動に学生たちを連れ出してくださっています。
大学でのゼミの運営の考え方や、これまでの成果についても改めて教えていただけますか?
はい。コロナで渡航制限される前は、学生をベトナムに連れて行って、日本語学校で交流したり、少数民族の家を訪問したこともありました。
近年は佐渡の祝寧儀集落での地域づくりが主たる活動になると思います。
これまでの研究を地域や教育に還元する形で、祝寧儀の雰囲気に見合うベトナム風路上茶屋を3年続けて開きました。
学生と地域の方、観光客が気軽にコミュニケーションを図ることができる緩やかな空間づくりを目指しています。
また、イスラムに関してはラマダンという断食漬けに、日没後の食事を作る手伝いをムスリムの礼拝所である、
宗教施設モスクに行くことが多いですね。
ゼミ活動はできる限り学生自ら考えて動くことができるように促しています。
今日のMCを務めているドモンさんも、他の学生とアイデアを出し合って、
モスクでムスリムの子どもたちと日本文化を通した交流をしたり、
新潟大学のマレーシア留学生と沢会をしたりしましたね。
アンヌルモスクでは、6月から月1回、日曜日にオープンマスジドと称して、
モスクを非ムスリムにも開放するということです。
関心のある方は、ぜひ西区にある新潟大学近くのアンヌルモスクに行ってみてください。
私もたくさん活動を参加させてもらって、どうしてもムスリムの方々と関わるというのは、

今までの自分だとちょっと怖いなって思います。
自分の中で潜在意識というかがあったんですけど、
長坂先生のお話を聞いて、実際に会ってみると、
みなさん本当に寛容的というか、よく来てくれたねみたいな感じで、
お食事も一緒に食べさせていただいて、いろんな交流をしたり、
自分たちとそれこそ新潟大学の留学生の方々とお話したときも、
同世代の子たちと、違う国だけど、
同じ共通点を見つけたり、すごく盛り上がって、
先生もびっくりするぐらい盛り上がっていたみたいで、
今思い出してもすごい楽しかったな、

もっとみんなに参加してもらいたいなって思うような活動だったなって思っています。
そうなんですね。確かモスクって近くにありましたよね?

北区と西区と新潟には2ヶ所あります。
実は姉が長坂先生のゼミに所属していたことがありまして、

そのときには確か食事を作って提供したりもしていたという話を聞いたことがあるんですけど。
そうです。断食好きにイフタールという日没後の食事を
ムスリムの方たちと一緒に作って、それをみんなで一緒に食べるということになりました。
何でしたっけ?確か頭に何かかぶってしていたみたいな。
そう。なんていうんですかね。
ヒジャブです。

私は当時ピンクのヒジャブを着て、たまたま服が緑色の服だったので、
桜だねって人の時期も時期だったので、
そこからピンクのヒジャブを着て、

そこからピンクのヒジャブを着て、
そこからピンクのヒジャブを着て、
桜だねって人の時期も時期だったので、
そこからピンクのヒジャブをずっと着けてましたね。

ヒジャブを一回着けてみたいんですよね。

私はおでこが広いので、それを隠すのすごい一生懸命なのに、
記憶のしかないんですけど、

周りの子たちみんな可愛く毛とか結んでて、
長坂先生どうしようなんて言ってたのが記憶に新しいです。
さて、ではここで1曲をお届けします。
今日の曲はこちら。
こいみー、ちゅえんこがいよう。
こいみーさんは1990年生まれのベトナムの女性歌手で、
各SNSでのフォロワー数も非常に多く、
Facebookページのフォロワーは1000万人を超えているそうです。
ちゅえんこがいようは少女夢というタイトルで、
中国語でも歌われています。
こいみー、ちゅえんこがいよう。

経話キャンパスレポ
お届けした曲は、こいみー、ちゅえんこがいようでした。

さて、今日の経話キャンパスレポは、
国際文化学科の長坂康代先生をお招きして、
お話を伺っています。
後半もよろしくお願いします。
後半は、私たちの力及ぶ限りでご研究、
とりわけ新しい御著書についてのお話を伺いたいと思います。
都市人類学とは

ベトナム首都、ハノイの都市人類学。
本のタイトルにも都市人類学という言葉が入っています。
文化人類学の一つのジャンルとして、
都市人類学があるのかなという印象を持ちました。
まず、この言葉の使い分け、
先生の意図されているところを教えていただけますか。
都市人類学は、都市を調査研究する文化人類学の一分野なんです。
都市には多様な人々が集まってきますが、
私はその都市性に着目しました。
文化人類学では、フィールドワークに基づいて、
断片的な質的記述ではなく、
エスノグラフィーといわれる全般的な民俗史が
描けなければならないと指導されてきました。
私は、ベトナムの首都ハノイで定点観測し、
都市の人々の生活史を描きました。
この本は学術書なので、内容は難しく感じると思うんですが、
都市に住む人々の生活の記録でもあります。
Kはキャンパスレポ。
都市人類学的な視点からのハノイ市の実態分析
Amazonなどに出ている書籍の概要を読みますと、
ベトナムの首都ハノイの民俗生活の生活動態とその文化をめぐり、
フィールドワークの現地調査で得た一時資料に基づいて、
宗教、文化、社会、経済、都市存在、
経済、都市存落関係の四次元を設定し、
都市人類学の方法で考察した。
ベトナム都市仮想を成す村からの移動の民を吸収して、
普通の都市庶民による都市コミュニティが生成されるという、
総合的、有機的な動態的人類学を書き出した、
といった記述が出ていました。
ハノイという都市に暮らす人々の実態を独自の視点で分析し、
分析されたということかと思いますが、
少しだけ踏み込みつつ、私たちにも分かるように教えていただくと、
どういう趣旨のご研究ということになりますか。
人類学のフィールドワークは長期間行うのが特徴です。
自らその土地の生活者となって、日々の生活を細かく記録します。
人類学はこのような質的調査を行うのですが、
それを分析することで、私は政治都市、
ハノイであっても決して抑圧されない、
人々の高知、たくましさ、息抜き戦略、
生き生きとした生活動態を明らかにしました。
都市人類学というとアフリカ研究は層が厚いのですが、
ベトナム・ハノイの都市生活を初めて解明したという点では、
意義のある研究だと思います。
このようなことが鏡となって、私たちも自分を見つめ直すことができるのは、
都市生活における実際の暮らしと研究の実態
研究の醍醐味だと思います。

ハノイに実際に定住して、毎日人々の記録をつけてということなんですか?
どのくらいいらっしゃったんですか?
最初、97年、98年くらいから滞在しまして、
その時は人類学をやっていたわけではないので、
記録が実はほとんどないんです。
2004年くらいから本格的に人類学調査を始めました。
そこから学生生活が長いので、
いわゆる春休みとか夏休みを使って、
1ヶ月とか1ヶ月半くらいのスパンで滞在をずっと続けてきました。

学生から私が実際にゼミの時にお話を聞いた時に、
定住している時に、
食べ物はこういう感じで購入していたよとか、
寝泊まりはこうだったとか、
朝の様子はこうだったっていう、
生活のこの1日を考えながら、
自分たちの朝の習慣と全然違うし、
先生自身もそこはギャップを感じたんだと思うんですけど、

今の自分たちと当時の先生たちの学生時代って全然また違うと思うんですけど、
今の自分たちから見てみると、もっと想像できない感じ。

多分台湾に行かれたりとか、
先生がベトナムって言ってたんですけど、
朝をまずだって外で食べなくないですか、大学生。
朝の食事をそこら辺の家族と一緒に食べますって、
食べられないじゃないですか。
それをやっぱ、お茶はこうやって飲んでましたみたいな。
え、嘘でしょっていうのがやっぱ第一印象でした、私の中で。
今の日本の学生にとっては、
いや違うな文化がって思うわけじゃないですか。

でもそこにちょっと長く住んでしまうと、
それがなんか普通になってきませんか。
逆に日本に帰ってきて、
路上茶屋を通じたハノイ市民と日本人との交流

え、なんか違くないっていう、
逆になるんですか、自分の感性としては。
向こうにいるときは、もう本当にどっぷり生活に使っていますね。
そうですよね。
で、むしろ1ヶ月か2ヶ月くらいで滞在して戻ってきてから、
分析するっていうその繰り返しをずっとしてきたんですね。
一番大変だった生活は、
出稼ぎ労働者と一緒に住むということです。
そうすると村から出てきた人たちは、
都市の外れに、
自分の家族と一緒に住むということです。
そうすると村から出てきた人たちは、
都市の外れに住んでるんですけど、
屋根裏部屋みたいなところで、
女性5人で寝泊まりするところに、
雑魚寝で寝させてもらうんです。
蚊が入ってくるので、
夏は蚊帳をつるんですけども、
暑くて寝られないんですね。
狭いところでもう5人くっついて寝るんですが、
そこにネズミが、

ドモさんって話したことないんですけどね、
想像しがたいような生活だと思います。
トイレもないので、
それは聞いてない部分だから、
聞いてた一部がかわいく思えてるんですよね。
そんな過酷な環境で研究されて、

掻き上げられて、
著書ですけど、
目次を拝見しますと、
羽美亭道教会、

それに路上茶屋といったキーワードが出てきます。
路上茶屋といいますと、
前半にお話しした、
佐渡宿根木で、
ゼミ生たちと路上茶屋を開かれていた、
ということなんですけれども、
佐渡に路上茶屋はあいましたか?
ということで、
宿根木集落の雰囲気と、
ベトナムの路上茶屋というのが、
大変開放的な雰囲気がマッチしていまして、
一つの交流の場所になったのではないかな、
というふうに思っています。
路上に開かれたベトナム風茶屋がある、
という認識でまして、
そうですよね。

そうですよね。
路上に開かれたベトナム風茶屋がある、
という認識でまして、
そうなんです。
屋根がない、壁がないところで、
オープンなスペースで、
お店を開くという形ですね。
ベトナム・ハノイの人々とその暮らし

提供しているお茶だったりとかは、
それはベトナムのものなんですか?
最初の2年は、
ベトナムのお茶ではなくて、
サドワン茶を佐渡では提供しました。
3年目は、
ベトナムのお茶とサドワン茶と両方提供しました。

どっちも楽しめたほうがいいですよね。
それでは、ハビ邸なんですけれども、
ハビ邸について、
以前に大学の広報誌、
カレッジレポートでも長坂先生が書かれていました。
ここまでのご研究の話に、
どのように関わるもの、ことなのか、
少しご紹介いただけますか?
ハビ邸は、
建てたハンホム通りにある宗教施設の名前なんです。
ハンホム通りは、
ハビ村出身者によって作られた通りなんですが、
ハビ邸はハビ村出身者のための集会所でした。
それに多くの神様を置き、宗教を強化しています。
私はハビ邸が時々開くのが気になり、
漢文で書かれた歴史文献を探し、
そこから研究に入っていきました。
出入りする過程で、
ハビ邸を中心として、
ハビ村同協会、
日本で言えば県人会があることも分かりました。
私もその同協会の会員として認めてもらい、
一緒にハビ邸で活動したり、
ハビ村の祭りに参加したりしました。
ハンホム通りには、
外に路上茶屋がたくさんあるんですが、
ハビ邸の中では、
ハビ村出身者、ハビ村関係者や
ハンホム通りで店を開く店主らが
お参りに来るだけではなく、
お茶を飲んでコミュニケーションを図る
茶屋のような空間もあります。
このハビ邸を巡る同協会組織とその運営は、
地域社会の核になっています。
宗教を強化するっていうのは、

具体的に、
神様をいっぱい置くっていうのは分かるんですが、
強化っていうとどういう形?
神様をたくさん置いて、

取られないようにする。
自分たちのものとして、
そこを確立するということですね。
実は、経済発展していく中で、
政府が観光化をしていったんですね。
こういった施設を、
一旦全部取り壊しをして、
新しくする。
ただその時に、
今まで民衆が主体となって
運営してきたものを、
行政が主体とするという風に
変えていくわけですよ。
そうならないように、

浴び村出身者の人たちが、
この浴びてを自分たちで守っていくと。
そのために時間をかけて、
神様をどんどん増やしていって、
中も神にしていって、
自分たちのアイデンティティを
残していこうとしました。
こうした都市住民の人たちの中に入って、
経済発展による変化と人々とのつながり
深く付き合いながら研究していく中で、
ベトナムやアメリカ、
ハノイのことはどんどん好きになっていったり、
気合になっていったり、
いろんな思いがあると思いますが、
今はどんな感情をお持ちですか?
都市部を中心に経済発展していって、
現地に行くたびに、
新しく道ができていたり、
大きな建物が建っていたりと
変化しているので、
ついていくのが本当に大変です。
ただ、ハノイで出会った人々には
本当によくしてもらえましたし、
今も変わらず、
地域住民や大学の先生とは
付き合いをさせてもらっています。
私たちの関係は変わらないのですが、
知り合った時は小学生だった子が結婚し、
子供が生まれ、
私はおばさんからおばあちゃんと
呼ばれるようになり、
月日が経ったことを実感しています。
この数年で長年お世話になってきた
地域住民のおばあちゃんたちが
亡くなって世代交代していますが、
これからも有効的な付き合いを
続けていきたいと思っています。
エピローグ

おばあちゃんはまだ早いです。

私もそう思うんですよ。

先生とおばあちゃんだったらもう。

私もそう思ってるんですけど。
まだ全然20年くらい全然

大丈夫だと思います。

さてエンディングです。

前半に先生は片道切符で
タイに行ってっていう話を
されたんですけど、
片道切符って帰ってくるのは
どうやって帰ってくるんですか?
最初は日本からタイまで
片道切符買うんですね。
で、タイで
オープンのオープン切符を買います。
だからタイ発着という形になります。
それはどうしてタイで?
タイで航空券買ったほうが

安いんですね。
日本で買うよりも。
学生はお金がないので
そうやって少しでも切り詰めようと
工夫をするんです。
オープン切符っていうのは
いつでも?
はい。

日本に帰ってきました。

1年くらい。
1年くらいだったら
どこの日付でも

行けますよってことです。

今そんなのあるんですか?

売ってるんですかね。
どうなんでしょうね。

現地で買うってちょっと
勇気いりませんか?

現地で当時からタイ語みたいの
話せたってことですか?
いえいえ。タイ語は話せないんですけども
片言のタイ語と英語で。
すごい。
必死ですね。それこそ。
やっぱり生きていくための
言語は手段だというふうに思います。
エピソードタイトル未定
では、今日の放送はこの辺で。
ケイワキャンパスレポは
ツイッター、ノート、インスタグラムなどで
番組情報を発信しています。
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今日のケイワキャンパスレポ

これにて終了です。
皆さん、おやすみなさい。
ケイワキャンパスレポ
は、実践するリベラルアーツ
ケイワ学園大学の提供でお送りしました。