早速ですが、一つ質問から入ります。
ジェフ・ベゾスの実の父親が誰だったか、ご存知でしょうか。
ジェフ・ベゾス。
当然、父親はベゾスさんだろうと思いますよね。
実はこれ、養父の名字なんです。
彼の生物学上の父親は、全く別の名前を持つ、全く別の人生を歩んだ人でした。
ベゾスの老いた地を、詳しく見ていきましょう。
1964年1月12日、ニューメキシコ州アルバカーキ。
母親はジャッキーという、当時まだ17歳の高校生でした。
父親はテッド上限船、サーカス団で一輪車に乗る芸人です。
地元市に、多彩な一輪車乗りと紹介されるくらいには、腕の立つ人だったようです。
若すぎる結婚は、当然のように長く続きませんでした。
養育費も払わなくなり、最終的には実の子との関わりを完全に立つ養子園組に同意します。
数十年後、テッド自身がこう振り返っています。
あの子がどこにいるのかも忘れていた。
これ、なかなか重い言葉ですよね。
実の息子が、後に世界で指折りの不幸になるとは、夢にも思わずに生きていた。
この話には、実は後日談があります。
それは、第3回で詳しくお話しします。
今は、ジェフ・ベゾスには、全く別の人生を歩んだ実の父親がいた、という事実だけ、頭に置いておいてください。
そして、母ジャッキーが再婚した相手が、ミゲル・ベゾス。
この人の人生も、なかなかドラマチックです。
ミゲルは、キューバ出身です。
キューバ革命の混乱の最中、1962年、わずか16歳の時に、単身アメリカへ亡命しています。
これは、ピーターパン作戦と呼ばれる、歴史的な子ども難民救出プログラムによるものでした。
親元を離れ、一人でアメリカに渡り、カトリック教会が運営する施設で育つ。
そこから、ニューメキシコ大学へと進み、最終的に石油技術者になります。
つまり、ジェフ・ベゾスは、生物学上の父はサーカスの一輪車乗り、
育ての父は、10代で単身亡命したキューバ難民という、なかなか得意な家庭環境で育っているんですね。
4歳の時、ミゲルとジャッキーが結婚し、幼いジェフと弟マークは、ごく自然にミゲルをパパと呼ぶようになりました。
さて、ここから少年時代の話に入ります。
ここでちょっと立ち止まって考えたいエピソードがあります。
ベゾスが4歳から16歳まで、毎年夏を過ごしたテキサス州の祖父母の牧場での話です。
そこでの生活は、かなり自分で何とかすることが前提の暮らしでした。
壊れたブルドーザーがあれば、業者を呼ぶのではなく、自分たちで修理する。
犬が怪我をすれば、住居に頼らず自分たちで手当てする。
ガレージでどうにかできるという感覚が幼い頃から刷り込まれていったわけです。
続いて、少年ベゾスは学力判定テストで優秀な成績を収め、
バンガードプログラムという英才教育プログラムに選抜されます。
これはテキサス州ヒューストンで始まった当時としては珍しい教育プログラムで、
知識の詰め込みよりも子供の創造性と自主性を育てることを重視する設計思想を持っていました。
この辺りからすでに単に成績が良いだけの子供ではなかったことが伺えます。
野球ではピッチャーとしてコントロールはギリギリだったけれど、
全プレーヤーの配置パターンは完璧に記憶していた。
フットボールでは接触プレーが嫌いだと公言しながらも、
決勝で負けた時は大泣きするほど勝ち負けへのこだわりは一一倍強かった。
身体能力そのものよりもパターンを完璧に覚えることで不得意分野を補う、
この思考の癖、後のビジネスにも通じるものがあると思いませんか?
そして高校時代、家族はマイアミへ引っ越します。
当時のマイアミはマリエルボートリフトという大規模な移民危機の真っ只中でした。
1980年、キューバのカストロ政権が港を開放し、数ヶ月で10万人を超えるキューバ難民が押し寄せる。
治安も悪化し、殺人率は倍増していた時期です。
ただ、本人の身の回りは、そうした暴力や混乱からはほぼ切り離された世界だったようです。
マイアミパルメット高校で科学部とチェス部に所属し、教員から絶大な尊敬を集める優等生として過ごしていました。
そして高校の卒業式、卒業生壮大としてのスピーチで、
ベゾスは軌道上に移住用のコロニーを作り、地球全体を自然公園として守るという壮大な宇宙移住の夢を語っています。
よく知られている、宇宙に行きたいから金持ちになりたいという言葉、
実はスピーチそのものの文言ではなく、当時の恋人アーシュラ・バーナーが後年の証言の中で語った、いわば動機の解釈なんです。
とはいえ、冗談みたいな話ですよね。
マイアミ・ヘラルド氏が主催するシルバーナイト賞という、成績だけでなく地域社会への奉仕活動も重視される名誉ある賞も受賞しています。
さて、大学はプリンストン大学へ進学します。
当初は物理学を専攻していました。
ですが、ここで一つの挫折を味わいます。
物理学オタクたちに圧倒された、と本人が後に語っている通り、周りのあまりの物理への没入っぷりに、自分はこの道で一番になれないと悟るわけです。
ここが一つの分岐点です。
多くの人なら、そのまま無理して物理学を続けるか、あるいは全く違う道に逃げるか、という選択になりがちだと思うんですが、
ベゾスが選んだのは電気工学とコンピューターサイエンスの二重専攻でした。
物理という純粋科学の世界から、応用と実装の世界へ軸足を移したわけです。
第4回で、もう一度この話に戻ってきます。
DE
章へ退職を申し出た時、母親は当然反対します。
それでもベゾスは決意を曲げず、アマゾンの創業へと進みます。
そしてシアトルへ向かう車の中で、会社名を考え続けます。
最初の候補はカダブラ。
マジックの呪文アブラカダブラから取った名前です。
ですが、電話でこの名前を伝えると、死体カダバーと聞き間違えられるという致命的な問題が発覚し、
却下されます。
次にレレントレスドットコムも検討しました。
これはちなみに、今でも実際にこのURLはアマゾンが保有していて、
アクセスするとアマゾンのサイトに転送されます。
ただ、最終的に選ばれたのはアマゾンでした。
理由は2つ。
辞書順でAから始まるため、リストの上位に来やすいという実務的な利点、
そして、世界最大の川という言葉が、世界最大の店という野心と、そのまま意味的に重なるという利点、
この2つが同時に満たされたのがアマゾンだったわけです。
そして、シアトル郊外のガレージ、有名な木製ドアを机代わりにするというアマゾンの創業伝説は、まさにここから始まります。
この最初の一文がいかに象徴的だったかは、次回、詳しくお話しします。
今日お話ししたのは、ベゾスが生まれてからアマゾン創業までの、いわば助走期間でした。
ここはMBAのケースには絶対に出てこない部分です。
ケースなら、せいぜいDE・ショーを退職し、アマゾンを創業した野一行で済まされてしまう。
でも、その一行の裏には複雑な家庭環境、祖父母の牧場で培われた次女の精神、
賢さと親切さは別物だという10歳での通列な学び、大企業ではなく小さな組織を選び続けたキャリアが積み重なっていました。
一つだけ正直にお伝えしておきます。
これらの少年期のエピソードと後年の経営判断を、きれいな因果関係で結びつけることは、本来慎重であるべきです。
祖父母の牧場が後の奸役文化を生んだというような後付けの物語化はできてしまいますが、それが事実として証明されているわけではありません。
今日お話ししたのは、あくまでそういう出来事があったという事実の連なりです。
そこから何を読み取るかは、聞いてくださっている皆さん自身に委ねたいと思います。
そして最後に、後悔最小化フレームワークという、ベゾス固有の決め方の具体例に出会いました。
極めてシンプルだけれど、目先の分析だけでは決めきれない場面を決めきった方でした。
今日お話ししたことは、まだ週の入り口です。
この決め方が皆さんにとって参考にしたいと思えるものか、遠いと感じるものか、それを判断していただくところから、この番組は始まります。
今日の内容が皆さんにとって、この巨人の肩に立つための最初の一段になっていれば嬉しいです。
次回、第2回は、実際にAmazonという会社を軌道に乗せていく、1994年から2003年までの話をしていきます。
ガレージでの熱狂から、ドットコムバブル崩壊による瀕死の経験、
そして今も語り継がれる独特な社内文化がどう形作られていったのか、
ここまでお聞きいただきありがとうございました。
また次回のエピソードでお会いしましょう。