みなさん、こんにちは。MBAでは教わらない、経営者人生ラジオパーソナリティのkentoです。
このラジオは、経営者の人生を振り返り、その人固有の意思決定のやり方を見つけ、届ける番組です。
前回は、ジェフベゾスの老いたちから、DE社長というウォール街の安定したキャリアを捨てる決断までをお話ししました。
今日は第2回、いよいよアマゾンという会社そのものの物語です。
1994年の創業から2003年頃まで、ガレージでの熱狂から、会社が本当に潰れかけたドットコムバブル崩壊、
そしてそこから這い上がるまでの、いわば死戦をくぐる10年間です。
まず、前回の最後を少しだけ振り返らせてください。
DE社長を辞め、まだ存在すらしない会社にかけるという決断をしたベゾス。
もう一つ、彼の覚悟を物語るエピソードがあります。
両親から出資を募った際、正直にこう告げていたそうです。
70%の確率でこのお金は返ってきません。
それでも両親は10万ドルを出資しました。
さて、会社の名前です。
最初の候補はカダブラ、魔法の呪文アブラカダブラから取った名前でした。
ですが、電話でこの名前を伝えると死体、カダバと聞き間違えられるという致命的な問題が発覚します。
次に浮上したのがMakeitso.com。
この候補も結局は採用されませんでした。
リレントレス.com、日本語にすると必要なという意味のこの候補も検討されましたが、
これは今でもAmazonが保有していて、アクセスすると本家のサイトに転送されます。
そして最終的に選ばれたのがAmazonでした。
理由は2つ。
辞書順でAから始まるためリストの上位に来やすいという実務的な利点、
そして世界最大の川という言葉が世界最大の店という野心とそのまま意味的に重なるという利点です。
11月1日、新しいURLが発表されました。
初期のメンバーとして参画したのがシェル・カファンというエンジニアです。
彼はサンフランシスコベイエリア出身で、対抗文化を象徴する雑誌ホールアースカタログに強く影響を受けた世代でした。
この雑誌の最終号の裏拍子にあったHungryであれ、愚かであれという言葉は、
後にスティーブ・ジョブズが2005年のスタンフォード大学卒業式スピーチで引用したことでも有名です。
カファンはこのホールアースカタログが体現していたビジョンをカダブラ社、後のアマゾンで実現しようとしたと自ら振り返っています。
そしてシアトル郊外のガレージ、木製のドアを机代わりにするというアマゾンの創業伝説はまさにここから始まりました。
さあ、1995年です。
4月3日、記念すべき初めての注文が入ります。
7月16日には正式にサイトがオープンしました。
この時掲げられた思想が、物を売るのではなく、買い物の判断を助けることで儲けているというものです。
象徴的なのが、否定的なレビューも検閲せずそのまま掲載するという方針でした。
自社の売り上げより顧客が正しい判断をできることを優先する。
この原則は後々までアマゾンの根っこに残り続けます。
例明記らしい逸話もたくさんあります。
当時の書籍取り継ぎ会社には、最低10冊からしか発注できないという条件がありました。
そこでアマゾンが使った裏技が、本命の1冊にあえて入手困難な本を9冊添えて発注するというもの。
取り継ぎからは在庫切れの連絡が来て、結局本命の1冊だけが届くという仕組みです。
注文の中身も面白いものでした。
南米チリの天文台からの注文。
リアルの書店なら絶対に相手にしないような遠方で、しかもごく少数の顧客からの注文です。
ヤフーのトップリストに掲載されたことで、トラフィックが急増し、徹夜作業が続く日々。
当時の仕入れ元はイングラムとベイカー&テイラーという2大取り継ぎ会社にほぼ全面的に頼っていました。
日本で言えば日販や東販のような存在です。
注文が殺到するたびに、この2社とのやり取りをさばききれず、社員総出で夜を明かすということが日常茶飯事だったようです。
採用の基準は頭がいい最高の人材だけを集める。
面接ではフェルミ推定型の質問を使った適正試験が課されました。
ただ当時のアマゾンで本当に色濃かったのは採用基準そのものよりも、そこで働く人たちの働き方だったようです。
週60時間労働が当然視され、ありえない目標という言葉がそのまま社内の合言葉になっていました。
先ほどの徹夜作業もまさにその一端です。
少人数のチームが再現なく押し寄せる仕事を寝るまま推しんでさばき続ける。
それが初期のアマゾンの日常だったのです。
1996年に入ると野心はさらに膨らみます。
目指すは当時世界最大級の小売り企業だったシアーズになること。
品揃えはかやく用品まで扱うほど実験的に拡大していきました。
倉庫では変人でも歓迎されました。
オペラを大声で歌う社員、腕に漢字の入れ墨を入れた社員もいたようです。
人手が急激に増えていく中で、そういう奔放さがむしろ許容されていた時期です。
さて、1997年です。
年始、ベゾスはハーバードビジネススクールで講演をしています。
学生たちの分析は的厳しいものでした。
既存の小売業者が次々とオンラインに参入してくるが、そのほとんどは乗り越えられないだろう、と。
ある学生はバーンズ&ノーブルは今すぐ事業を売却して撤退した方がいい、とまで言い切ります。
これに対してベゾスは、そうかもしれないね。
でも企業というのはそれぞれ手慣れたやり方にとらわれるもので、みんなそうなのかもしれない、と慎重に応じたそうです。
人材面でもこの時期らしい逸話があります。
空港への送迎中、社内での即興の面接で人材を採用する、そんな非公式な人材発掘のやり方がこの頃には定着していました。
ハーバード出身のアンディ・ジャシー、後の2代目シー・イガンもちょうどこの時期に参画しています。
そして資金調達です。
シリコンバレーで最も著名なベンチャーキャピタルの一つ、クライナー・パーキンスのジョン・ドアから評価額6,000万ドル、投資額800万ドルを調達します。
ドアといえば、ネットスケープやグーグルにも早くから投資していた人物です。
さらに、信用格付の低い企業が発行する氷回り祭で、3億2,600万ドルも調達しました。
IPOのわずか3日前には、まだ小さく目立たなかったはずのアマゾンを、バーンズ&ノーブルが提訴するというひと幕もありました。
アマゾンが名乗っていた地球最大の書店という宣伝文句が虚偽広告だというのです。
それでも5月15日、IPOは成功します。公開初日、株価は900%成長しました。
そして、この年最大の出来事、株主への手紙です。
ここでベゾスは、果敢であること、長期的な株主価値、フリーキャッシュフローを重視すること、という経営哲学を米文化しました。
この手紙は、毎年の年次報告書に再録され続け、後年経営の憲法とまで呼ばれるようになります。
後に広く知られることになる、Day1という哲学、その原点がここにありました。
AOL、Yahoo、MSNといった、当時インターネットの玄関口と呼ばれたポータルサイトとの独占的な露出契約にも、思い切って投資しました。
一方で、エコノミークラスでの出張や、木材のドアを机代わりにするという契約文化は、変わらず貫かれていきます。
稼ぐべきところには大胆に張り、削れるところは徹底的に削る、株主への手紙で米文化された経営哲学は、こうして実際の行動にもそのまま現れていました。
もう一つ、この年の重要な出来事が、人材の引き抜きです。
ウォルマート出身のリック・ダルゼルを食事に誘い、投資家ジョン・ドアからの説得も動員し、最後は妻にまで電話をかけるという、なりふり構わないアプローチで駆動機を落とします。
8月、ダルゼルは情報システム部門のトップとして正式に就任しました。
これ以降、ダルゼル自身が人材のハブとなり、1年ほどでウォルマートの幹部やエンジニア10人以上が次々とAmazonへ移籍していきます。
当然、ウォルマート側は企業秘密の流出を懸念してアーカン総集で提訴しますが、実害はなかったとして和解に至りました。
1998年に入ると、Amazonは大きく舵を切ります。
消費者は本ばかり買うわけではない、という調査結果をきっかけに、音楽、ビデオ、DVDへと事業を拡大したのです。
ミッションを語る言葉も、地球最大の書店から地球上で最大級の品揃えへと変わりました。
この拡大路線の中で、大型買収も相次ぎます。
IMDB、プラネットウォール、アレクサインターネット、IMDBは今も存続していますが、プラネットウォールは2000年に閉鎖、アレクサインターネットも2022年にサービスを終了しています。
全体としては、費用対効果の面で大失策と評価されることになる買収ラッシュでした。
拡大は、玩具・家電のカテゴリーにも及びます。
ここでつまづいたのが、玩具業界特有の召集官でした。
シーズンのおよそ1年近く前倒しで発注するという業界の慣行に従った結果、需要予測を大きく外し、過剰在庫を抱えてしまいます。
指揮をとっていたのは、スタンフォード大学でNBAを取得したハリソン・ミラー。
初年度に1億2千万ドル分を仕入れたものの、大量の売れ残りが発生し、ホリデーシーズン後にはメキシコで安値処分、あるいは事前団体へ寄付するという事態に追い込まれました。
家電も同様に苦戦します。
ソニーや東芝といった大手メーカーの正規代理店が、アマゾンを正規の取引先として認めなかったため、素情の怪しい仲介業者からの仕入れに頼らざるを得なかったのです。
一方で、軽眼と呼べる投資判断もこの年にありました。
元ジャングリーCEOのラム・シュリラムの紹介で、ベゾスは個人として25万ドルを、まだ無名だったグーグルに出資します。
ラリーページとセルゲイ・ブリンがトップページに広告を一切載せないという姿勢を貫いていたことに感心したのが決め手でした。
この25万ドルは、2004年のグーグルのIPO後、10億ドル以上の価値になります。
ちなみに、アマゾンは同じ1998年、シュリラムが創業したショッピング検索サイトジャングリーを買収していたのですが、
買収直後にシュリラムを含む創業メンバー全員が退社しており、こちらは失敗した買収と評価されています。
同じ人物との関わりの中で、個人としての投資は大成功し、会社としての買収は失敗する。
この対比も、なかなか興味深いところです。
組織の面でも波乱がありました。
ブラック&デッカー出身のジョン・ガリがSVPとして入社します。
彼は自分の側近チーム、社内でSチームと呼ばれるグループを引き連れ、
ワシントン湖東岸に1000万ドルの豪邸まで建てました。
社内の大人たちを監督するという立場を嗜好し、規律を重視する姿勢を持ち込みますが、
これがアマゾンの自由奔放な社風と激しく衝突します。
社内では、その混乱ぶりがパンプローナの牛追い祭りとまで評されました。
パンプローナの牛追い祭りとは、スペインで毎年行われる伝統行事で、
放たれた牛の群れの前を、人間が街中を全力で逃げ惑いながら走るという、
危険と熱狂が入り混じったお祭りです。
統制しようとする側と、自由に走り回る側がぶつかり合う、
当時の社内の混乱ぶりを言い表すのに、うってつけの比喩だったわけです。
そして、ホリデーシーズン、サンタを救え作戦、お合言葉に、
全社員が夜勤・週末勤務にあたり物流危機をなんとか乗り切ります。
1999年に入ると、ほころびが表に出てき始めます。
3月、独自のオークションサイトを立ち上げますが、
これはネットワーク効果の面で、EBAYに構造的に不利な、いわば決まった失敗に終わりました。
同じ頃、EBAYとの提携交渉も決裂しています。
秋には、1クリック特許を取得します。
これは、あらかじめ登録しておいた住所や支払い情報を使って、
カートに入れる確認画面に進む、注文を確定する、といった複数のステップを踏まずに、
ボタン一つで購入を完了できる仕組みです。
このたった1クリックで買える、という手軽さの部分を、独自の特許として押さえたわけです。
バンズ&ノーブルが類似のエクスプレスレーン機能を導入したことに対し、
特許侵害で逆提訴するという一幕もありました。
特許制度そのものへの批判が世間にある中でも、
ベゾス自身は、自分に有利である限りは制度を現実的に活用する、という態度を貫いています。
そして、この年最大の危機、物流危機です。
注文処理能力を超える注文が殺到し、
ポケモン関連商品や犬のおもちゃといった人気商品がのきなみひなぎれになります。
感謝祭の後、ウォルマートから移籍してきたバイヤーたちが、
コストコやトイザラスの実店舗を手分けして回り、在庫を買い占めるという対応まで取りました。
ライバル企業の配送料無料キャンペーンを逆手に取り、
買い占めた商品を自社倉庫へ転送させるという、
なりふり構わない手段も使われています。
倉庫の内部でも混乱は深刻でした。
稼働したばかりの巨大なフルフィルメントセンター内で、
商品そのものが物理的に見つからなくなるという事態です。
ある親切倉庫では、ポケモン商品の入ったパレットが行方不明になり、
担当者が3日間かけて倉庫内を捜索した末にようやく発見しました。
担当者自身が、「まるで映画レイダース・失われたアークの結末のようだった。」と振り返っているほどです。
この時期の混乱ぶりは、社内で無敵艦隊というあだ名までつけられていました。
かつてのスペインの無敵艦隊が壊滅した逸話にちなむ皮肉のこもった呼び名です。
最終的に、正社員450人の開庫とフルフィルメントセンターの一部閉鎖という厳しい構造改革に踏み切ることになります。
それでも12月には、大武士のことしの人に選出されるという栄光もあり、
混乱と栄光が同居するなんとも奇妙な一年でした。
この経営の混乱に対処するため、コロンビア大学のフットボールコーチ出身で、
COウィスパラーの異名を持つビル・キャンベルが外部コンサルタントとして招かれます。
ウィスパラーとは、暴れ馬を無知ではなく静かな対話で落ち着かせる長教師、
ホースウィスパラーに由来する言い回しです。
そこから転じて、気難しい経営者たちの相談役として特別な信頼を得る人物を指す、
非公式なニックネームになっていました。
CFOも、ジョイ・コービーからデルタ航空出身のウォーレン・ジェンソンへと交代しました。
さて、2000年です。
前年の需要予測の失敗を引きずり、玩具在庫3900万ドルの消却からこの年は始まります。
そこへ、いよいよドットコムバブルの崩壊が本格化します。
株価は1年のうちに大きく高騰した後、100ドル前後まで急落したとされ、
バブル期に発行していた22億ドルもの謝罪が経営を圧迫し、
10億ドル以上の負債と絡み合う悪循環を生み出していきます。
7月には、あのパンプローナの牛追祭りと評された混乱の超本人、ジョン・ガリが退社しました。
転じた先のパーティークルネットという会社は、まもなく倒産しています。
後任には、ニューウェルラバーメイド出身のジェフ・ウェルキーが就任し、
以後6年にわたってAmazonの成長を支えることになります。
ウェルキーは、プリンストン大学を1989年に主席で卒業し、
大学院はMITで工学修士とMBAを同時に取得できるデュアルディグリープログラムを修了した人物でした。
カリスマ的なコミュニケーターというイメージではないが、とても頭がいいと評されています。
人材の引き抜き劇も続きます。
アップルからは、欧州事業を統括していたディエゴ・ピアチェンティーニを国際事業のトップとして引き抜き、
スティーブ・ジョブズを激怒させました。
eBayからも中核幹部を引き抜き、
マーケットプレイス事業、いわゆるZショップスの本格展開が始まります。
ちなみに、eBay側のCEO、
メグ・ホイットマンとジェフ・ジョーダンから、逆に提携や買収の可能性が打診されたこともあったそうですが、
こちらは交渉がまとまりませんでした。
派手な話題作りもありました。
2000年7月に発売されたハリーポッターの新刊、炎のゴブレットでは、
発売当日配送にこだわり、再三度買いして25万5千部を売り上げています。
大きな話題作りには成功しました。
玩具事業は、この年の在庫消極を経て、トイザラス.コムとの提携交渉に進みます。
トイザラス側は、あらゆる玩具を並べたいと主張しましたが、
ベゾスは、非現実的で費用ばかりかかると押し戻し、
8月に10年間の提携契約を結びました。
人気玩具の独占販売権はトイザラスに、サイト運営と物流はアマゾンが担当するという座組みです。
これは後に、ボーダーズやサーキットシティとも結ばれるホスト型ストアモデルの原型になっていきます。
一方、ソニーとの家電提携交渉は最終的にまとまりませんでしたった。
11月には、新刊と中古品を同じページに並べて掲載するという方針をめぐり、出版社や作家協会から猛反発を受けます。
それでもベゾスは、「顧客がより安く買えるなら、自由にやらせるべきだ。」という原則を譲りませんでした。
そして2001年、資銭という言葉がふさわしい年が始まります。
リーマンブラザーズのアナリスト、ラビ・スリアとの対立が激化します。
スリアが、アマゾンの財務状況に強い疑念を投げかける悲観的な内容のレポートを発表し続けていたことが、対立の発端でした。
2月、そのスリアの悲観的な内容のレポートをきっかけに株価が急落します。
同じ頃、1300人規模、全社員のおよそ15%に当たる人員削減を発表し、
インサイダー取引の疑いでSEC、証券取引委員会の調査も受けることになりました。
ドットコムバブル崩壊という外部環境の悪化、社債の利払い負担、
そして人員削減の発表そのものが市場への悪いシグナルになったことが、すべて重なった結果でした。
スリアの分析の確信は、
アマゾンの手元資金は、抱えている負債を賄うには不十分で、
このままではキャッシュが尽きる、という資金繰り破綻のシナリオです。
この予測を信じたヘッジファンドが、空売りで1200万ドルもの損失を被ったとされています。
もっとも、この前提そのものは、翌2002年1月にアマゾンが黒字化したことで崩れ去ることになります。
スリア自身は後年、当時を振り返って、首にすることで自分を葬り去りたがっていた、証言しています。
単に移動させるということではなく、
アナリストとしてのキャリアそのものを終わらせたいという悪意を、周囲から向けられていたということです。
それほどまでに対立は激しいものでした。
彼は後にリーマンブラザーズを離れ、ヘッジファンドのデュケインキャピタルへ移籍しました。
そんな中、ベゾスはコストコの創業者、ジムシネガルとコーヒーを飲みながら対話をする機会を持ちます。
ここで学んだのが、
荒利率を一律14%に抑えるという規律と、
お宝探し戦略、
品揃えをあえて絞り、頻繁に入れ替えることで、
訪れる度に新しい発見がある状態を作り、
来店を習慣化させるという考え方です。
この交流はその後も続き、2008年にKindleを発売した際には、
ベゾスがシネガルへ感謝のメールを送っています。
さらに、経営学者ジム・コリンズを招いた社外研修会で、
フライホイールのモデルが策定されました。
コスト構造を下げれば価格を下げられる。価格を下げれば顧客が増える。
顧客が増えれば出品者が集まる。
出品者が集まれば品揃えが充実する。
品揃えが充実すれば顧客体験が向上する。
そして、さらに顧客が増える。
この自己強化ループこそが、
後々までAmazonの経営を支える基本モデルになっていきます。
このシネガルとの対話とフライホイール理論、
その両方を背景に、書籍、音楽、DVDの価格が20から30%引き下げられました。
9月11日、ミネアポリスでターゲット社との提携発表を予定していた朝、
同時多発テロが発生します。
同席していたターゲットの幹部たちと同じように、
2期目の旅客機が世界貿易センタービルに突っ込む瞬間をテレビで見て、
ただ呆然とするしかなかったようです。
ベゾス個人がその瞬間どう感じたかについて、詳しい情報は特にありません。
72時間の航空停止措置により、レンタカーでの陸路機関を強いられ、
インターステート90号線を東から西へ横断し、
道中ではサウスダコタ州のマウントラシュモアにも立ち寄っています。
この出来事がベゾス自身の経営判断や考え方に何か大きな影響を与えたという情報も、
特にありませんでん。
この年、テレビ広告の効果を測定したところ、その効果は限定的だと判明します。
当時のマーケティング予算は、売上高費でわずか0.4%程度という極めて低い水準に抑えられていました。
それでもテレビCMには予算が割かれていたのですが、
効果測定の結果を受けて、テレビ広告部門はわずか1年で解体されることになります。
そして浮いた予算は、フライホイルをより効果的に回せる送料無料キャンペーンへと明確に再配分されました。
これが後のアマゾンプライムの起源になっていきます。
そこへ追い打ちをかけるように、幹部の離職が相次ぎます。
株価下落でストックオプションが無価値になったこと、勤務環境への疲労、
すでに資産を築いた人たちが生活を変えたいと考え始めたこと、理由は様々でしたが、
デイビッド・リッシャー、ジョイ・コービー、ジョエル・スピーゲル、マーク・ブリッド、CFOのウォーレン・ジェンソンなど、
名立たる幹部が次々と会社を去っていきました。
おまけに、eBayからは、幹部の引き抜き禁止契約に違反したとして提訴まで受けます。
この対立をめぐる利益三本理由に、
イントゥイット創業者でアマゾンの取締役を務めていたスコット・クックも、取締役を辞任することになりました。
さらに、社内でも静かな対立が決着を迎えます。
人力でおすすめ商品を選んでいた編集部門と、
統計的アルゴリズムによるパーソナライゼーション部門。
この対立の末、編集部は解体され、自動生成のアマボットに置き換えられていきました。
編集部を率いていた編集者ジョン・ヘンリーの死去も、この解体の背景の一つだったとされています。
この変化を心よく思わなかった利用者からは、
アマボット殿、我々の憎しみを届けられる心があなたにあればいいのに、という皮肉のこもった投稿が寄せられたそうです。
そして、2002年。ここから、アマゾンはようやく視線を抜け出していきます。
満期まで5年ある転換社債を、満額支払条件で早期召喚すると発表し、
財務不安をまず払拭します。
一月にはフリースーパーセイバーシッピング、
100ドル以上購入で送料無料という施策を正式導入。
同じ一月、市販機決算で初めての黒字化を達成し、
株価は25%上昇しました。
組織の在り方についても、次々と新しい仕組みが試されていきます。
まず社内競争の仕組みとして、適応度関数というダーウィン的な制度を導入しますが、
これはうまくいきませんでした。
これは元々進化的計算やアルゴリズムで使われる、
ある会がどれだけ優れているかを数値で評価する関数です。
各チームが自分たちの成果を測る数式を自ら考案して提出し、
それに基づいて評価するという構想でした。
ですが、あまりにも抽象的で、多くの社員が理解できず失敗に終わります。
子産幹部の一人は、有罪判決を受けた人間が、
自分で自分の死刑執行方法を選べるわけがない、
通列に評したそうです。
次に持ち込まれたのが、経営小説ザ・ゴールで知られるエリアフ・ゴールドラットのボトルネック理論でした。
全体の処理能力を制約している最も遅い工程を特定し、
そこを優先的に改善すれば、全体のスループットが向上する。
もともとは製造業向けの理論でしたが、これを物流に応用します。
注文受付からピッキング、棚出し、梱包、出荷までの工程を分析し、
制約となっている工程を優先的に改善していきました。
物流を外部委託すべきかどうかをめぐる社内会議では、
マクドナルドのハンバーガーとフライドポテトを例えに使った議論もあったそうです。
パンやお肉のような、どこにでもある汎用品は外部化できる。
でも、マクドナルド独自のシークレットソースに相当する部分、
つまり物流の差別化能力そのものは外部化してはいけない。
この結論の下、物流ネットワークの中核部分は、自社で作り込む方針が固まりました。
そして、パワーポイント禁止令です。
過剰書きのスライドは論理の飛躍や欠陥を隠しやすい。
そんな問題意識からスライドでの投影を一切排除し、
3文形式で6ページ以内にまとめた意見書を事前に提出させ、
会議の冒頭15分から30分間、全員でそれを目読することから始める、という運用に切り替えます。
会議室のテレビも撤去されました。
ちなみに、社内の契約アイデアを表彰するドア机賞は、
この撤去されたテレビの副産物として生まれています。
最初は、外したテレビそのものを商品にしていたそうですが、
後に、創業時の木製ドアを机代わりにする伝説にちなんだ、
ドア机をかたどった置物が商品になりました。
そして年末、もう一つの型が発表されます。
ピザ2枚チーム構想です。
チーム全員がピザ2枚で足りる人数、
おおむね一桁人数に全社を再編するというものでした。
大人数チームはコミュニケーションコストの増大で意思決定が遅くなる。
だから、小人数チームごとに自律的に意思決定できる体制へ切り替えていく。
この構想の裏付けとして、フレッドブルックスの著書、人月の心は、
開発者を増やしても生産性が比例して上がるわけではないという指摘や、
IBM、マイクロソフト、グーグルといった他社の小人数チーム編成の事例も参考にされました。
一方で混乱もありました。
在庫の評価方法を、先に仕入れた在庫から売れたと仮定するFIFOから、
後から仕入れた在庫から売れたと仮定するLIFOへと変更します。
自社所有の在庫と取り継ぎから預かっている在庫を区別しやすくするのが目的でしたが、
移行作業でソフトウェアに多数のバグが発生し、
数日間、システムが売上を正しく認識できなくなる混乱が起きました。
ベゾスが担当者をどうしようもないバカ野郎罵倒したことで知られるエピソードです。
配送業者との交渉でも、下高さが発揮されます。
UPSとの契約公開交渉では、あえて競合のフェデックスとの関係構築を進め、
米国郵便公社への発注量も増やすことで、
UPSに頼らなくても他に選択肢があるという状況を可視化し、
交渉を有利に進めました。
こうして2002年は黒字化という財務的な区切りを迎えると同時に、
適応度関数のような失敗を重ねながらも、ボトルネック理論、パワーポキン司令、
ピザ2枚チームといったアマゾン独自のやり方を次々と生み出していった1年になりました。
規制の仕組みをそのまま輸入するのではなく、
合わなければ自分たちで作り直す、
この姿勢が後々までアマゾンのやり方として定着していきます。
そして7月にはバーンズ&ノーブルとの1クリック特許訴訟が和解という形で決着しています。