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はい、こんにちは、カズです。今日は、タイトルのブレインキャンディっていう言葉について、あれこれ話していきたいなと思います。
このブレインキャンディっていうのは、シータの世界で言われる言葉なんですけど、直訳するとね、脳の飴玉、脳のキャンディみたいな意味になりますよね。
これだけでね、なんとなくわかるかもしれないんですけど、
どういう言葉かっていうと、知的好奇心、知的理解とかそういうものに端的して、そこにとらわれて本質を見失ってはいけないよっていう、そういう言葉だと思うんですよね、ブレインキャンディ。
知的好奇心を満たす、知的な理解や満足をするっていう、スピリチュアルな世界にもいろんな波動に、引き寄せの法則とか鏡の法則とかっていうのもそうですし、
チャクラについての知識とか、オーラがどうとか、シータヒーリングで言えば、存在の第7層っていう言葉があってね、世界の全ては1層か7層の層によって形作られているとか、そういったスピリチュアルな知識ですよね。
こういったものがあったりとか、そういうスピリチュアルな知識とか、知的好奇心、知的満足を満たす情報っていうものは学んでいくとすごく楽しいものなんですけど、
学べば学ぶほど、なかなか尽きることがないんで、どんどん学びたくなるものなんですけど、これの知的好奇心を満たすこととか、そういう情報を頭に入れ続けるってことは、こういうことは目覚めとは関係がないんですよね。
あえて僕的なわかりやすい表現をするのであれば、目覚めの加点ポイントにはならないっていうか、そういうことなんですよね。
せっかくスピリチュアルとか人生の意味は何なのかとか、目覚めとかに関する意識が向いた人でも、それらについていろいろ調べ始めても、そこにとらわれて本質を見失ってしまってはもったいないっていうことですよね。
これに関してブッダも同じようなことを言ってるんですよね。
ブッダの教えを体系化したというか、ブッダの教えをまとめたものが仏教っていうふうに言ってもいいと思うんですけど、
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ブッダが言った言葉は、私の教えは川を渡って対岸にたどり着くまでの筏であると。川を渡り終えたらそれはもう不要だから捨てろってこう言ってるんですよね。
ここでブッダが言う筏っていうのは仏教のことなんですよね。
仏教もただのツールというか手段なんですよね。仏教そのものが真理じゃないんですよ。
聖典もそうですよね。聖書とかも聖書そのものがありがたい価値あるものであるわけではないんですよ。
聖書が指し示す真実こそが本当の価値あるものですよね。
そこに到達するため、それをわかるためというかつかみ取るためというかのためのツールが聖書であるので、
聖書そのものに価値あるわけじゃないんですよ。
こういうことを奇跡講座的に言うと、奇跡講座は何て言ってるのかっていうと、
奇跡講座が一貫して主張していることは、神のみが唯一の現実であって、その他一切は幻想であり無である。
ということを奇跡講座はずっと言ってます。
神のみが唯一のリアルで、神の他は何もないんだよ、幻想だよということです。
この幻想の部分にいくら時間や労力を費やしたところで、それは幻想だから意味ないよっていう話なんですよね。
奇跡講座はこの辺の妥協がないっていう姿勢がすごい徹底的に貫かれているので、すごく学んでおいて僕は個人的に良かったなと思うんですよね。
この奇跡講座の考え方のエッセンスを自分で学べたことはすごくでかかったなと個人的に思ってます。
このブレインキャンディについての今しめの言葉というか、こういうことに関して個人的にぐさっときた注意喚起の言葉を2つ紹介したと思います。
どっちも奇跡講座由来の言葉なんですけど、紹介したと思いますね。
1つ目はテキストの14章か、奇跡の一様性という395ページのところに書いてある文言なんですけど、
自我についての研究は心についての研究ではない。実際自我は自分自身を研究することを楽しんでいる。
そして自我を分析しようとすることで自我の重要性を承認する研究者たちの取り組みには自我は手放しで賛同している。
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だが彼らは無意味な内容を持った形態を研究しているにすぎない。
というふうに書かれています。
言い方がちょっと奇跡講座は難しかったりするんですけど、
この世界は内容としてはすっからかんの無であるんですよ。
この世界は幻想であり夢っていうことなんですよね。
幻想であり夢っていうのは真実性が欠片もないからこそ幻想であり夢なんですよ。
ここら辺ちょっと難しいかもしれないですけど。
なので幻想っていうのは夢であり無なんですよね。
なのでこの世界を研究分析することは無の形態っていうものを研究分析することとイコールであって、
それには実は何の意味もないんですよ。
自我を研究しようとすることでそれを重要なものとしている研究者たちの取り組みに対して自我はどうやら諸手を挙げて喜んでいるらしいです。
この奇跡講座が言うことにはね。
そうなんですよね。
結局この世界のことをいくら調べても目覚めとは関係ないんですよね。
この世界は夢であって、その夢の中身をいくら丁寧調べたところで夢っていうところからは一生出られないんですよね。
僕らは目覚めようとするっていうのは、目覚めるっていうのは夢の外に出るっていうか、夢を覚ますってことなんですけど、
夢を覚ますには夢の中身をいくら分析したり研究したりしても意味ないですよね。
夢から覚めるってことはできそうにないですよね。
っていうようなことなんですよ。
もう一つぐさっとくる言葉、これは神の使者っていう書物の言葉なんですけどね。
議論は努力の先延ばしという形によって真実に抵抗することらしいですよ。
もう一回言いますね。議論は努力の先延ばしという形によって真実に抵抗すること。
すごいぐさっとくる。
僕は結構議論好きで、本当にそれは正しいと言えるのかとか、こっちはどうなんだみたいなことをつい言いたくなるんですけど、
でもそうやって、ああでもない、こうでもない、これが真実か、いや、そんなことはこっちが真実だみたいな。
議論しようと思えば、こういうスピリチュアルな世界のことって答えがなかなかないと言えばないというか、そういうもんなんで。
議論しようと思えばですね、人間の頭にかかればですね、いくらでも無限に議論し続けることができるんですよ。
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なんですけど、議論している間に人生終わりよっていうことなんですよね。
生きている間しか目覚めるっていうことはできないですよね。
せっかくカルマを消化したりとか、目覚めポイントを得るためにっていう表現でいいのかわからないですけど、
目覚めの方向へ行くために、この波動の重たい地球にわざわざ転生して、人生をね、三次元体験のゲームをプレイしに来てるのに、
それをせずに議論ばかりしているのは本末転倒ですよっていうことですね。
ここで僕が思い出すのはですね、仏教のムキっていう言葉があります。
ムキって、無を記すっていう漢字で書くんですけどね。
仏陀は弟子からの、あの世はあるのかとか、世界は永遠なのかとか、神はいるのかとか、
そういう確かめようのない啓示浄学的な質問には一貫して明確に答えなかったらしいです。
この態度のことを仏教ではムキって言うんですけども、
ここで仏陀はですね、こういうことを言ってきた弟子に対して毒矢のたとえっていうのを出すんですよね。
毒矢のたとえっていうのは、毒の矢がどっからかやってきて、自分が射られてしまったと。
その時にいられた人がですね、この毒矢はどっから飛んできたのか、
このやつがどういう弓の角度で、どういう動機でその毒矢を放って、
この毒の成分は何で、どういう治療法があって、っていう一切を明らかにしなければならない。
そうじゃないとこの毒矢を抜いてはならないってそいつが言ったとしたら、
それが全部自分で理解できるまではこの毒矢を抜かないぞって言ったとしたら、
そのいられた人は直死んでしまうでしょうと。
だから議論であれこれ、収集つかない議論もあれこれとこの人生で展開してるのはそういうことだよっていうのを言ったたとえ話ですね。
だからそういうことをうだうだ言ってないでさっさと矢を抜けっていうそういう話なんですよ。
だから本質的にそういうことですよね。
僕がこのブレインキャンディに対してすごく思うのは、
知的理解っていう領域と霊的な目覚めっていう領域、これが全く別物なんだよなっていうことなんですよ。
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なんかね、エリアが違うっていうか、次元の違う領域の話っていう感覚があります。
全く別物なんで、その知的理解と霊的目覚めっていうこれらが全く違うものなんで、
だからなんか頭のめっちゃいいお坊さんが全然いくら勉強しても悟れなかったのに、
外でただ説法を聞いてただけの雑用係のお坊さんが先に誘っちゃったりとかね、そういうことが起こってくるんだと。
頭の良さっていうのは目覚めとは関係がないからですね。
例えばその本質を外しているっていう感覚について、
僕がなんとなく例え話をするとすると、
バスケットボールで何回ゴールに向けてシュートしたとしても、
ボールがゴールリングをくぐらなければ、それはもうどんなにいいシュートをしても、何回シュートしようともいくら経っても0点ですよね。
っていうことなんですよ。目覚めの領域と知的理解の領域が別っていうのはそういうことだと思ってます。
いくらそれについて学んでも、いくらその聖書について勉強しても、仏教の経典について研究しても、
実践して自分で目を覚ましていくっていうことをしなければ0点なんですよ。
霊的目覚めっていうことに関して言えば。
ていうことです。
それによって、聖書の研究者とか仏教の研究者にはなれるかもしれないですけど、
霊的な進歩っていう面では全然進んでないっていうことですね。
自分でやっぱり実践して、実践というか、それを自分の人生に本当の意味で活かしていかない限りは、
いくらそれを頭で取り上げて研究したとしても、それはもう別の次元、別のエリアのことなんで関係ないっていうことですね。
奇跡講座が言う通りですね、この世の一切はバーチャルで幻想なんですよ。
幻想っていうのは、そこに真実性の欠片がもう一欠片もないからこそ幻想であり、夢なんですよ。
つまりこの形の世界を、この形の世界、三次元世界、幻想っていうものをいかに引っ掻き回そうと、分析しようと、研究しようと、
最終的には何の意味もないんですよね。っていうのが、奇跡講座のびっくりなところなんですけど。
なぜこういうことが言えるのかって言ったら、神のみがあって、その他一切は幻想だからです。
では、こういう状況下で霊的な加点となる、霊的なポイントとなる要素とは何なのか。
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霊的にボールがゴールリングをくぐるっていうのは何なのかっていうことなんですけど、
それはどんだけ本質の自分を思い出すか、つまり目覚めたかっていうことですけど、
それはつまりどんだけ思い込みを外して本質の自分に近づいたかっていうことです。
あえて言葉にするならば。だからもうこれだけの勝負って言っていいと思いますね。
これだけが霊的なバスケットの加点となる行為なので、
だからブリーンチャンディにはまって時間を無駄にしてはいけないよっていう、そういう話です。
はい、ちょっとなんかね、久しぶりの、なんか今ちょっと下ペラに口内ができて、
すごい喋りにくいんで、たどたどしい喋りになってしまいましたが、
それでもね、なんとなく僕の言わんとしている感覚とかも込みで伝わってくれたら嬉しいなと思います。
今回はこのくらいで失礼したいと思います。
どうもキクザサリありがとうございました。