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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしいでしょうか。志賀です。
この番組は志賀十五の壺っていうことでずっとやってて、
で、この僕のラジオネームもですね、志賀十五ってことでやってるんですけど、
なんか周りを見回してみたらですね、あんまりそういうセイ・メイみたいな、まさにフルネームって感じでやってらっしゃる方ばっかりでもないんですね。
もちろんそういう方もいらっしゃるんですけど、どっちかっていうと、
なんつーの、その元あだ名っぽいっていうか、ニックネームっぽいっていうか、一緒かっていう方も多いんですね。
なんかそうやった方が良かったのかなとか、最近ちょっとふと思いましたね。
なんかそういう方が親しみが湧くっていうかね。
まあ、いっか。でも、それはそれでね、この番組の特徴っていうことで、
まあこれからも継続していこうというか、そんな変える気はないんですけど。
っていうことは置いといて、今日のトークテーマはですね、
言語の本質っていうものをね、ちょっと考えていこうと思います。
この番組というかね、このトークが初めて聞く方っていう方もいらっしゃると思うんで、断っておくとですね、
よく言語学とか言葉の話をしているんですよ。
で、どうかな。普段は割と言語、特に日本語のある特定の形式っていうか表現について解説したりとか、
最近だとそのミタとかの動詞のタですね、だけにその焦点を当ててですね、解説してみたりっていうこともするんですけど、
まあ今日はその真逆で、極端ですよね、具体的な言語形式ではなく、もっと言語一般のお話をしたいと思います。
言葉って本当にいろんな面があるんで、だからこそ面白くて、僕自身明けがこないと思うし、いろんな人の興味を引き付けるんだと思うんですよね。
そもそもですね、人間が、今日のお話もですね、特に音声言語がメインになると思うんですけど、ちょっと手話言語は置いておいてですね、
そもそも人間が言語を話すっていうこと自体、冷静に考えると変わってるっていうか決対ななぁって感じなんですよね。
っていうのが、言語音っていうのは、過去のトークでその真の話も母音の話もしてるんですけど、
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その例えば、マミムメモとかいうときのマっていうこのMで書くような音っていうのは、両心音って言われるものなんですよ。両唇を使う音ってことで。
ただね、この唇っていうのはもともと音を作るための器官ではないんですよね。これ唇に限らず、例えばベロとかもそうだし、
あとは歯茎とか上あごとかっていうのも積極的に使ってですね、人間っていうのは言語を発声してるわけなんですけど、
あるいはその鼻に空気を通してそのマーとかナーって言う音を作ったりとかしてるわけなんですが、
そのほとんどが言語を発声するため専用の器官ではなくて、言ってみれば曲がりしてるようなもんなんですよね。
口の中の器官っていうのは、唇、ベロ、歯、歯茎とかっていうのは大抵飯食うための器官ですから、
それを言語音を発声するために貸してもらってるっていう形ですね。
唯一言語音を発声する器官があるとすれば生体でしょうね。
それ以外は何かしら別のものに使うはずの器官をお借りして言語音を発声してると。
ふと思い出しましたけど、口呼吸できるのは人間だけとか聞いたことありますね。
あれはどうなんでしょうね。どっちが先なのかな。
言語を発声するために口呼吸できるようになったのか、口呼吸できるようになった結果言語を使えるようになったのか、
鶏と卵みたいなところがあるんでしょうけど、そういうことで、
もともと人間は言語を発声するための専用の器官っていうのは非常に少ないっていうことですね。
これがまず面白いと。
では言語の特徴って何なんだろうっていうことですね。
人間が話す言語に何か共通した特徴はあるんだろうか。
これはいろんな人がいろんなことを言ってますから、
すべてをここでお話しすることはできませんが、
ここで一つだけ取り上げます。
それは二重分節と言われるものです。
なんじゃそりゃっていうことですよね。
これはアンドレ・マルティネっていう人が提唱した考え方で、
僕も日本語訳の本を読んだことがあるんですけど、
結構面白く読んだ記憶がございます。
二重分節ってどういうことかっていうことなんですが、
まず、発話っていうのは、文っていうと書かれたものをイメージしがちなので、
ここでは発話と言ってきますけど、
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発話っていうのは、まず分けていくと意味を持つ最小の単位、
つまり形態層に分解できると。
これが第一次分節と言われます。
これね、単語と考えても、言語によってはいいんですけど、
形態層と言ったほうがいいと思います。
例えば、私が食べたっていうこんな簡単な発話でも、
私が食べたとこういうふうに分けることができるということですね。
ここ単語と言わなかったのは、
例えば、食べたっていうのは、
食べとたに分けたほうが都合がいいんですね。
っていうのは、食べるっていうふうに、
その食べの部分は同じで、たとるで対立があるので、
こういう場合はやっぱり形態層っていうのを考えたほうが都合がいいです。
このように、私が食べたっていうふうに、
第一次分節で形態層に分けることができるんですね。
発話っていうのは。
当たり前じゃねえかよってことなんですが、
これはどういうことかっていうと、
私が食べたっていうのを分けられない一つの単位で発話することは、
普通は考えられないっていうことですね。
例えば、あーっていう発話が、私が食べたっていう意味を表すっていう、
そういう言語は考えられないということです。
言語の例で言うと、例えば、
この形態層っていうのをさまざまに組み合わせることで、
いろんな意味を表せるっていうことですね。
つまり、私のところを彼に変えれば、彼が食べたで、
全然違う意味を表すことができるし、
あるいは、がををに変えれば、私を食べたんで、
怪物かなんかが食べたんでしょうけど、
全然違う意味になりますし、
先ほどもちょっと言いましたけど、たをるに変えれば、
私が食べるっていうふうに、これまた違う意味に変えられるっていうことで、
この形態層を組み合わせることで、
いろんな意味を、さらには無限の意味を表すことができるということなんですね。
もっと言うと、有限の形態層で無限のことを表現することができると。
考えてみれば当たり前で、
一つの辞書に対して一つの単位しかないんだったら、
いくらその単位があっても足りないので、
限られた単位を組み合わせることによって、
さまざまな無限の辞書に対応することができる。
なんかかっこいいですね。
っていうのが第一次分説です。
では第二次分説っていうのは何かっていうことですけど、
二重分説ですからね、2回あるわけなんですが、
これは形態層っていうのは、さらに音素に分けられるということなんですね。
これ音声ではなく音素ってちょっとここでは言っておきますね。
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ちょっと詳しい議論は置いておきますけど、
音の単位に分けられると。
簡単に言えば、死音と母音の組み合わせっていうことですね。
日本語でしたら、食べただったら、
文字で言いますけど、
TABETAですね。
これもまた限られた音素で、
いろんなさまざまな形態層を作り上げているということなんですね。
ここでポイントなのは、音素それ自体に意味はないっていうことなんですよ。
例えば、あっていう母音に、
もしね、頭っていう意味があったとしたら、
これ大変なことになるのがわかりますかね。
つまりそれぞれの音素に対して何かしら意味があるんだったら、
いくら音素があっても追いつかないんですよ。
人間が発声できる言語音っていうのは限りがあるので、
どんな言語でも大抵数十個しか音素っていうのは持っていません。
なので音素自体に意味がない、
そのことによってさまざまな組み合わせで、
いろんな形態層、意味を持つ形態層を作り出すことができる。
これが二重分節なんですよ。
もう一回言っておくと、音素自体に意味はなくて、
しかも限られた音素が組み合わさることによって、
いろんな形態層を作り出すことができて、
意味を持つ形態層を作り出すことができて、
その限られた形態層がまたさまざまに組み合わさることによって、
無限の事象に人間は対応することができる。
こういうことなんですね。
めちゃくちゃでかい話になっちゃいました。
このアンドレ・マルチネの本は手に入るかどうかわからないんですけど、
図書館とかに行けばもしかしたらあるかもしれません。
気力のある方はぜひ読んでみてください。
というわけで今回はここまでということで、
よろしかったら番組クリップお願いいたします。
ではまた次回お会いしましょう。
ごきげんよう。