コントロールできることに集中しましょう。そういう言葉がありますね。
自己ケア付けの本だったりとかでも、SNSとかでも、そういう系統ではよく聞く言葉かなと思います。
他、他人の評価とか、過去の出来事のような、変えられないようなことに悩むのはやめて、
自分で変えられることに力を注ぎましょうというような教えですよね。 まあ、もっともなのかなというふうに聞こえると思います。
でもね、あの、 新体論っていう観点からこういろいろ見ていくと
あれ、コントロールできるものなんて果たして僕らにあったのかなっていうようなふうに思うことが増えてくるんですよね。
例えば、今甲子園やってますからね。甲子園を見てて優勝できるかどうかっていうのを考えてみたいと思います。
練習を積めば優勝に近づくって誰もが思っていますよね。 でも本当にその通りだと思います。優勝に近づくことができる。
でも確定はしません。これだけの量を練習したから勝てるかっていうとそういうわけでもない。
相手も同じように練習してくるからだったりとか、どれだけその能力の差というものがあるのか、生まれつきのものっていうのも関わってくるかもしれない。
その本番っていう一つの区切りのところで
どっちが上手か上手いかというものもあるし、野球みたいなものになってくると
たまたまそのタイミングでヒットを打つとかね、たまたまそのタイミングでエースがちょっと怪我をしたとかいろんな不確定要素っていうのが絡んできます。
だからこそ優勝というのはそれだけでも決まらなかったりしますよね。勝利というものはそれだけでも練習を積めば勝てるかっていうと
それだけでは決まってこない。人からどう評価されるかというものも同じです。
丁寧に仕事をすれば評価は良くなるかもしれないけど最後に決めるのは相手です。
何なら同じ行いをしてもどう受け取るかっていうのはその人によって全然違いますよね。
SNSとか見ててもまさにそうだよ。すごい良い行いをしてるなーって思ったら
全然自分では思ってもなかったようなところから
いわゆるクソリプって言われるようなもの、ちょっと汚い言葉だね、強い言葉だけど、なんか良くないところを見つけてそこに引っかかるっていう方もいるわけだ。
努力というのは結果に効いてきます。
でも努力というのは必要条件ではあっても結果を約束する絶対条件ではないんですよね。
優勝とか勝利とかどう評価されるかみたいなものは影響を与えることはできても
その結果を握るっていうところまではできないわけだ。
まあ言われてみれば当たり前のことですね。
これってボールに限った話ではないんです。キャッチボールとか野球に限った話ではありません。
運動っていうのはボールを投げることだけではないですよね。
人と話すこととか仕事をするっていうことも生きて呼吸することも同じです。
呼吸も運動だ。生活することっていうのは運動することなんですよ。
体を使って筋肉を使って感じ、動かしていくことだ。
この全部を僕らが思い通りに動かしているわけではないんですよね。
例えばね歯を磨くときはほぼ無意識じゃないですか。
朝どうやって着替えたかって覚えてますか。
極端に言ったらさ、ズボンを右手で出したのか左手で出したのか覚えてます?
どっちの足から吐いたか覚えてますか。
ズボンに体のどの部分が一番端に触れたか覚えてますか。
右足で吐いたとしたら左足のどの辺に荷重をしたのか。
その時前ももの方に力が入ってたのか。
後ろ裏ももの方に力が入ってたのか。
その時目線はどこにあったか。
本当に細かいけど、
ほぼ自動的に僕らは動くようにシステムされているんですよね。
もちろん意識して変えることもできるけれども、
ほとんどが自動で何となく動かせるようにというふうに僕らはできているわけです。
歯を磨くときもほぼ無意識です。
自然とそういう動きをしている。
つまりキャッチボールをする時も
ほとんどがこの無意識の中で僕らは動いているわけです。
これを意識的に変えていくことが練習・稽古でもあるわけなんだけど、
あまりにも意識で握ろうとすると、つまりコントロールしすぎようとすると
これが崩れてしまうということがあるんですね。
これ結構昔、1923年の心理学者のチョージ・ハンフリーという方が
ハンフリーの法則という名前でまとめています。
そこの引用で古い空話があって、ムカデがいたそうなんですよ。
ムカデって足いっぱいあるでしょ。ニョロニョロニョロニョロって。
そのムカデを見た他の当事者人物がね、
あらムカデさん、そんなにいっぱい足を器用にスムーズに動かして、
これどうやって歩いているの?というふうにムカデに聞いたそうなんですよ。
そしたらムカデが、いやどうやってって言われても
なんとなく歩いているんだけど、確かにどうやって歩いているんだろうね、俺は。
というふうに自分の足の運びの方に意識を向けたそうなんですね。
そしたら考え込んじゃって、どうやって自分が歩いているかわからなくなっちゃって、
歩けなくなっちゃったという古い空話があったそうなんです。
つまり日常の動きのほとんどは、
無限の変数を抱えたその体、つまり私、僕というのが
意識の外で組み立てているわけなんですよ。
結果を直接握るという意味でのコントロールは、
自分の体の中でさえできないわけなんです。
だから僕らが体にしているということは、