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コントロールできることに集中しようっていうけど、そもそもコントロールできるものなんてあるのか? #51
2026-08-18 13:50

コントロールできることに集中しようっていうけど、そもそもコントロールできるものなんてあるのか? #51

#51 | 身体の教養ラヂオ

コントロールできることに集中しましょう。自己啓発の本でもSNSでもよく聞く言葉です。
でも身体の側から見ていくと、コントロールできるものが私たちにあったのかな、と思えてきます。
だからといって諦める話ではありません。コントロールではなく介入、という見方までをお話しします。

甲子園の優勝、人からの評価、来たボールをキャッチすること。だんだん自分の側に近づけていくと、最後は自分の身体だけが残ります。それならコントロールできるはずだ、と思えます。でもその中身を開くと、朝どうやって着替えたかを覚えていないのと同じ場所に行き着きます。

【目次】
コントロールできることに集中、という言葉
来たボールをキャッチするのは、自分で決めているのか
朝どうやって着替えたか、覚えていますか
川の流れは、せき止めようとすると決壊する
練習で育つのは、身体の側の応じられる幅

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サマリー

自己啓発などでよく聞く「コントロールできることに集中しよう」という言葉に対し、身体の教養という観点から疑問を投げかける。甲子園の優勝や他者からの評価など、一見コントロールできそうに見える事柄も、その内実を掘り下げると不確定要素が多く、完全にコントロールすることは難しい。ボールをキャッチするような個人の身体動作でさえ、無意識の動きや過去の経験など無数の変数が関わっており、意思だけで決定されるものではない。そのため、身体へのアプローチは「コントロール」ではなく「介入」と捉える方が適切であり、練習とは身体が応じられる幅を広げることだと結論づけている。

「コントロールできることに集中」という言葉への疑問
コントロールできることに集中しましょう。そういう言葉がありますね。
自己ケア付けの本だったりとかでも、SNSとかでも、そういう系統ではよく聞く言葉かなと思います。
他、他人の評価とか、過去の出来事のような、変えられないようなことに悩むのはやめて、
自分で変えられることに力を注ぎましょうというような教えですよね。 まあ、もっともなのかなというふうに聞こえると思います。
でもね、あの、 新体論っていう観点からこういろいろ見ていくと
あれ、コントロールできるものなんて果たして僕らにあったのかなっていうようなふうに思うことが増えてくるんですよね。
例えば、今甲子園やってますからね。甲子園を見てて優勝できるかどうかっていうのを考えてみたいと思います。
練習を積めば優勝に近づくって誰もが思っていますよね。 でも本当にその通りだと思います。優勝に近づくことができる。
でも確定はしません。これだけの量を練習したから勝てるかっていうとそういうわけでもない。
相手も同じように練習してくるからだったりとか、どれだけその能力の差というものがあるのか、生まれつきのものっていうのも関わってくるかもしれない。
その本番っていう一つの区切りのところで
どっちが上手か上手いかというものもあるし、野球みたいなものになってくると
たまたまそのタイミングでヒットを打つとかね、たまたまそのタイミングでエースがちょっと怪我をしたとかいろんな不確定要素っていうのが絡んできます。
だからこそ優勝というのはそれだけでも決まらなかったりしますよね。勝利というものはそれだけでも練習を積めば勝てるかっていうと
それだけでは決まってこない。人からどう評価されるかというものも同じです。
丁寧に仕事をすれば評価は良くなるかもしれないけど最後に決めるのは相手です。
何なら同じ行いをしてもどう受け取るかっていうのはその人によって全然違いますよね。
SNSとか見ててもまさにそうだよ。すごい良い行いをしてるなーって思ったら
全然自分では思ってもなかったようなところから
いわゆるクソリプって言われるようなもの、ちょっと汚い言葉だね、強い言葉だけど、なんか良くないところを見つけてそこに引っかかるっていう方もいるわけだ。
努力というのは結果に効いてきます。
でも努力というのは必要条件ではあっても結果を約束する絶対条件ではないんですよね。
優勝とか勝利とかどう評価されるかみたいなものは影響を与えることはできても
その結果を握るっていうところまではできないわけだ。
まあ言われてみれば当たり前のことですね。
ボールをキャッチする動作の考察
じゃあ例えばね、甲子園の話したから、来たボールをキャッチするっていうのはどうでしょうか。
こっちは相手がいませんね。
自分の体だけで完結しているように見えます。
投げたボールを自分で取るか取らないかっていうところ。
よくチャンスをつかむのはあなた次第だみたいなことを言ったりすることもあります。
それと似てるかもね。
自分の方だけでそれが完結するから評価とかされるわけでもないから
自分の方で完結するものだから自分でコントロールできるでしょうと。
それはできるんじゃないのっていうふうに答えたくなるそういう方も多いと思います。
練習すれば取れるようになるでしょうと。
でもそのできるの中身を見てみましょう。
キャッチの瞬間の動きっていうものを意識が全部が全部決めているわけではありません。
無意識の体の動きっていうのは無限にある変数の中で決まっているんですよ。
これまでの経験も生まれ持った身体的な資質もこれも変数です。
これまでに食べてきたものとか睡眠時間とか
これまでに人から投げかけられた言葉まで入ってくる。
もちろん生まれつきの資質もそうだし練習量っていうのもそこに入ってくるけどね。
だけど野球をいつから始めたのかとか
キャッチボールに対してすごく行為的な言葉を投げられていたのか
それともやんなきゃいけないものだぞみたいなちょっとマイナスな教え方をされていたのかとか
本当に無限に細かく見ればいろんな変数が関わってくる。
取るぞっていう意思っていうのはその無数の変数の一つでしかないわけです。
なんかそう考えるとなんか膨大ないろんなこう決められている
決定しているものの中の本当にちょっとしか
その意思の中で関与できないような感じがしますよね。
コントロールするって無理じゃねっていう感覚になってくるんじゃないかなと思います。
だからといって諦めるってわけではないんですよ。
身体の動きと無意識のシステム
これってボールに限った話ではないんです。キャッチボールとか野球に限った話ではありません。
運動っていうのはボールを投げることだけではないですよね。
人と話すこととか仕事をするっていうことも生きて呼吸することも同じです。
呼吸も運動だ。生活することっていうのは運動することなんですよ。
体を使って筋肉を使って感じ、動かしていくことだ。
この全部を僕らが思い通りに動かしているわけではないんですよね。
例えばね歯を磨くときはほぼ無意識じゃないですか。
朝どうやって着替えたかって覚えてますか。
極端に言ったらさ、ズボンを右手で出したのか左手で出したのか覚えてます?
どっちの足から吐いたか覚えてますか。
ズボンに体のどの部分が一番端に触れたか覚えてますか。
右足で吐いたとしたら左足のどの辺に荷重をしたのか。
その時前ももの方に力が入ってたのか。
後ろ裏ももの方に力が入ってたのか。
その時目線はどこにあったか。
本当に細かいけど、
ほぼ自動的に僕らは動くようにシステムされているんですよね。
もちろん意識して変えることもできるけれども、
ほとんどが自動で何となく動かせるようにというふうに僕らはできているわけです。
歯を磨くときもほぼ無意識です。
自然とそういう動きをしている。
つまりキャッチボールをする時も
ほとんどがこの無意識の中で僕らは動いているわけです。
これを意識的に変えていくことが練習・稽古でもあるわけなんだけど、
あまりにも意識で握ろうとすると、つまりコントロールしすぎようとすると
これが崩れてしまうということがあるんですね。
これ結構昔、1923年の心理学者のチョージ・ハンフリーという方が
ハンフリーの法則という名前でまとめています。
そこの引用で古い空話があって、ムカデがいたそうなんですよ。
ムカデって足いっぱいあるでしょ。ニョロニョロニョロニョロって。
そのムカデを見た他の当事者人物がね、
あらムカデさん、そんなにいっぱい足を器用にスムーズに動かして、
これどうやって歩いているの?というふうにムカデに聞いたそうなんですよ。
そしたらムカデが、いやどうやってって言われても
なんとなく歩いているんだけど、確かにどうやって歩いているんだろうね、俺は。
というふうに自分の足の運びの方に意識を向けたそうなんですね。
そしたら考え込んじゃって、どうやって自分が歩いているかわからなくなっちゃって、
歩けなくなっちゃったという古い空話があったそうなんです。
つまり日常の動きのほとんどは、
無限の変数を抱えたその体、つまり私、僕というのが
意識の外で組み立てているわけなんですよ。
結果を直接握るという意味でのコントロールは、
自分の体の中でさえできないわけなんです。
だから僕らが体にしているということは、
「コントロール」から「介入」への視点の転換
コントロールというよりも介入と呼ぶ方が正確なのかなと思うんですね。
川の流れとかと同じです。流れそのものは思い通りにできません。
川というのはここでせき止めて、こっちに流してやろうとか言うと
膨大なコストがかかるでしょう。
自然のことって僕らは分かっているようで分かっていませんから、
コントロールできると思い込んでいても、
それにまたやられちゃったり、川が決壊しちゃったりするわけだ。
そこで川はこういうふうに動きたいわけね。
水はこういうふうに流れたいわけねというのを感じて知って、
じゃあ僕らは僕らでこういうふうに川に動いてほしいから
というふうに介入していくわけですよね。
これをコントロールという言葉を使うと、
何だかちょっと強すぎる印象が出てきてしまうのかなという感じがするんです。
現代に生きている僕らにとってのコントロールという意味は、
ちょっと自己中心的すぎるような感覚が僕の中ではあるんですよね。
だからこそ、介入というイメージを持ってみてほしいんです。
練習とは身体の応じられる幅を広げること
キャッチボールをしていて取ろうという動きも
取ろうと働きかけることはできる。
ただそれにどう応じるかというのは
体が今までのいろんな因果の中で、演技の中で決まっています。
練習で調達するというのも命令がうまくなるわけではなくて、
体がコントロールするのがうまくなるわけではなくて、
体の側の応じられる幅というのが育つんだというふうに
僕は考えているんですね。
体をうまくコントロールできるようになったから
うまくなるわけではなくて、
体がうまく応じられる幅というのを増やしていくのが
練習だと思っています。
これは高いレベルのアスリートであればあるほど
こういう話をよく聞きますね。
残念ながら僕自身は高いレベルで活躍するようなアスリートじゃないので
実際にはわからないけれども
彼らの話を聞くと何となく
自分の中でもそれってあるなって思うんです。
高いレベルになればなるほど
考えていたら打ち返せないよと
考えていたらプレーができないよと
そのために練習をするんだというふうに彼らは言うわけですね。
プロレベルでなくても
多くの場合
僕らはあると思います。
そういうのが歯磨きするとかでもそうですよ。
歯磨きするのにいちいちこうかなあかなって考えていたら
歯磨くのも日が暮れちゃいます。
これ赤ん坊がそれをやっているんですよね。
赤ん坊は歯を磨くとき
子供と言ってもいいか
子供は歯を磨くとき
初めて磨くのであれば
それが一体どういう形しているのか
そのブラシの先についているブラシの感じはどうなのか
歯の裏側
噛み合わせの部分
外側
そこが
この感覚かという感じさえわからないわけです。
シャカシャカの感じさえわからないわけです。
それを一つ一つ感じながら
動かしていきながら
また感じながらというのを繰り返して
稽古しているんですよね。
練習をしているわけです。
だからなかなか最初からできるものではないでしょう。
少しずつ身につけていくんですよね。
身体の側の応じられる幅というのを増やして
いくのが練習, 稽古なわけです。
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