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2024-03-22 10:36

父の思い出

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そんなこんなでですね、私は父の思い出ってね、あんまりないんですよ。顔も覚えてるんだけど、ただ脳内の記憶というよりは、家であったりとか、後に写真を見てこういう人だったんだっていう記憶の方が多分強いんですよね。
今日の思い出っていくつかあって、あんまり僕の思い出じゃない場合もある。父の父はまずかなり早く死んでいて、私は幼稚園生だったと思います。5歳か6歳、6歳とかかな。
父が亡くなって、その記憶はあんまりないです。父の父の記憶ってあんまりあるんだけど、本当に薄いですね。
父の母がね、それで結構精神的にショックを受けちゃって、本当に父方の祖父祖母がどのような関係性なのか、よくわからない。優しいおばあちゃんだったっていうぐらいの印象しかなくて、だいたいおばあちゃんは優しいだろうって話しかないですよね。
ただ、そういうことを父あるいは母に聞いたところによると、すごくショックを受けて、若かったんでしょうね。祖父がたぶんまだね、60になる前ぐらいとかに死んでるんですよね。なんで死んだんですかね。そういや、俺死因知らないな。病死とも聞いてない。なんか入院したって話も聞いてないですけどね。
で、その後ちょっとなんかね、突然ボケちゃってっていう感じになって、言葉とかおかしくなっちゃったらしいんですよ。いわゆる認知症ですか、今でいうところの。
でね、やーるつ入らなかったのかな。様子がおかしくなってて。で、私の父を筆頭に3人男兄弟がいたんで、いろいろ見に行ったりしてたんですけども、ある日、当時ガス窯って今あんまないと思いますけど、電気ジャーじゃないですか、ご飯炊くのって。
ガスのね、ジャーってあったんですよね。今もありますけど、ガス窯で炊いた米うまいですよ。で、それが祖父、祖母の家にはあってですね。で、そのガス栓を抜いてね、自殺を図りました。それでいよいよ症状が重くなって、一面取り留めたんですよ。
で、異変に気づいた近所の方々から通報してくださってね。一面は取り留めたんですが、やっぱりちょっともう本当にいよいよ様子がおかしくなっちゃって、病院に入ったんですよ。厚木、神奈川県厚木市の病院でしたけれども、なんで厚木なんだろう。なかったのかな、世田谷に病院が。開いてなかったんですかね。
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で、もうね、お見舞いに行くんですよ。それは父が私と妹を連れて車に乗せて、車持ってましたね、前カーがあって。厚木までね、それこそ首都高3号線乗ってきゃ着きますから行くんですけど。
でね、お見舞いに行くんですけどね、もうね、わかってないんですよ、父のことが。自分の息子だっていうことをね。だから病室に入ったら、自分の夫が来たと。つまり私の祖父ですね、もう亡くなっていると勘違いして、なんかいろんなことを言ってみたり。
なんかまあ、来てくれたの?みたいな優しいことを言うこともあれば、なんか恨み言葉みたいなことを言うようなこともありましたけれども。
すごいね、衝撃というか、衝撃というのとも違う、なんかしみじみと深く感じるところがあるというか、人間というのはこのような認知ができなくなってしまうんだっていうのをまざまざと見てね。
で、リンゴ剥いて食べさせたりするんですよ、父親がね。果物ナイフとリンゴで持ってきてね。母はあんまり来なかったですね。だって行ったって、そもそもわかんないだろうし、嫁ですしね。
なんなのっていうふうに、最悪機害を加えられないとも限らないし、行ってもしょうがないですもんね。で、ただまあ父もやっぱり一人で行くのは気づかれなかったんでしょうね。あとそのたまの日曜日、休みの日にね、子供と触れ合いたいという気持ちはあったんでしょう。
だから母がだいたい弁当を押さえてくれてね、行くっていうことを繰り返してましたよね。ただまあ私はそれが結構嫌いじゃなかったですね。というのはですね、帰りに父が私と妹をロイヤルホスト、ファミレスの走りですよ。今でもありますよね。ちょっと高級なファミレスですよね。
に連れてってくれるわけですよ、帰りに。これがね、楽しいというか、食べたことないよ。まだ食べられて、ビーム臭いですけど。だからシャーベットとか初めてそこで食べましたし、ご飯は家に帰ってから食べますから、デザート的なものを食べるんですけれども、それが楽しみだった。
それと、やっぱり世田谷に比べると厚木って田舎なんですよね。今でこそというか、中心部は厚木も大都会ですよ。だけど、ちょっと郊外の方に行くと、全然まだ自然が残っていて、何か忘れちゃいましたけど川が流れててね、それ正確に厚木市だったのかどうかわからないですけど、厚木の近辺。
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で、春の時期につくしがいっぱい生えてて、そこ行って、もうビニール袋いっぱいにつくしを積んで行ってね、持って帰って、これ食べられるんだぞと言ってね。
で、妹と私は夢中になってつくしを摂って、バケツ3倍分くらいになってね、母に怒られてね。大変なんですよね、あれ。摂らなきゃいけないじゃないですか。つくしに生えてるやつ、葉っぱみたいなの。
あれ摂るのすごい大変で、でもそれもみんなでやったりしてね、なんかそういう楽しい家族の思い出ですよね。で、それを卵をとじにしたりとかね、天ぷらにしたりとかして食べましたね。そんなにさほどめちゃくちゃうまいってもんじゃないんだけど、ただ、あのほろ苦いね、つくしの味って、あれ以降もう食べてないですね。
生えてないんだもん、東京、名古屋にも。あとは、小学1年生の時に都心、東京都心でですね、なんだろう、上野の方とかだったと思いますけれども、2階建てのバスが運行するっていうのがあって、僕乗り物好きだったんで、で、父がね、その、乗せてやろうって言うんで、珍しく私と父と2人っきりでね、
2階建てのバスに乗りに行ったんですよ。そしたらね、そういう時に限って僕はうんこ漏らしてね、ごめんなさいね、なんか、微老な話で申し訳ないんですけど、あの、やっぱね、嬉しくてしょうがないんです。
で、しかも、バスって運行の時間も決まってるんですよ。おそらくそういう特別なバスだから、そんなね、5分に1本とか走ってるもんじゃないんですよ。時間決まってるんですよね。なおかつ父親と一緒に都会に来る機会ってあんまりないじゃないですか。だからまあ、なんでしょうね、嬉しくてお腹痛くなっちゃったんですよね。
で、しかもトイレなんかないでしょ。で、漏らしちゃって。で、異変に気づいた父親がどうしたかと。で、デパートに入って、とりあえずなんかトイレで処理をし、私のパンツをデパートで買ってくるっていうね。まあ、軍勢とかそういうメーカー品でいいやつはデパートに売ってるでしょうね。
父親もね、おそらく当時のことですし、仕事の内容的にも育児なんて全然やってない人だと思いますね。
なんだけど、育児とか家事を全然やってなかったエピソードとしては、カップラーメン一つ作れなかったってよく母が言ってたんですよ。父が生きてる頃にね。よくいじってたんですけれども、これは他母が何か用事があって外に出ると、休みの日にね。
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で、じゃあ晩飯ちょっと申し訳ないけどカップヌードルでも食べといてみたいなことでね、それを置いといたんですね。カップヌードルじゃなくて、なんかもうちょいちゃんとしたカップラーメンなんですよ。そしたらね、お湯を入れて、で、味がないっつって帰ってきたら言ってると。
見たらですね、なんかスープ、粉末のスープが入ってるでしょ。あれって、カップ麺の中に袋に入ってますよね。あれ取り出して、粉を出して、そこにお湯を注ぐことによって味が生まれるわけじゃないですか。それをやってなかったんですよね。だから味のしない麺をひたすら食べてたっていう。
なんじゃそらと思いますけれども、そういうことなんですよね。家事のできない人っていうのはね。っていう人がですね、私のおむつ買いもやってたんじゃないですか。初めてそういうようなことをし、で、デパートでパンツとズボンも買ったんですかね。
で、なんとか買えて、で、こう家に帰ってきてね、ひと盛り上がりというね、ことがありました。あったそうです。私はあんま覚えてないんですけど、間違いなくあったと思いますね。なんせ2階建てバスの写真とか残ってましたもんね。
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